第38話 規定通りの男
泉を清めてから、八十五日。初雪から二か月あまりが経っていた。
雪はまだあった。
ただ、昼になると屋根の端から滴が落ちるようになった。窯小屋の軒の氷柱が、朝は長く、夕方は短い。マーサが「雪解け前の匂いだ」と言った。
その昼、カーラが壁の上から叫んだ。
「北から、人!」
◇
北壁の上から見ると、泉の方角から人影が一つ、水路沿いを歩いてきていた。
一人。馬はいない。背中に四角い荷。
膝までの雪の道を一歩ずつ。何度か転んだ。転んで、起きて、また歩いた。
「北の岩場からじゃない。泉のほうからだ」
ピムが目を細めた。
「水路沿いを南へ。……どこから来た。北には泉しかない」
門を開けた。
人影は門の前まで来て、俺を見て、口を開いて、何か言いかけて、膝から崩れた。
灰色の外套。擦り切れた王都風の長靴。
見覚えのある、几帳面な顔だった。
「……ヴァンスさん?」
◇
窯小屋で粥を三杯飲んでから、ヴァンスは背筋を伸ばした。
「王立付与術師ギルド所属、ヴァンス。アレン・グレイ殿に、ギルド長オズワルド様の書状を届けに参りました」
懐から油紙に包んだ手紙を出した。油紙は規定通りに三重だった。中の手紙は濡れていなかった。
俺は読んだ。
短かった。
『測定させてほしい。弟子にしてくれんのなら、せめてそれだけは。──追伸、ヴァンスは規定通りの男だ。規定にないことに会わせてやってくれ』
「……王都から、どうやって」
「線を引いた日に志願しました。ただ、ギルドの規定で、冬の間は術師を遠方に出せません。オズワルド様が規定の例外を取るのにひと月半かかりました。……王都を出たのは二十日前。乗合馬車で十日、ラッセルまで。ラッセルで雪の切れ間を五日待つ間に、鷲の巣亭の井戸を測定しました」
ヴァンスは淡々と言った。
「端がありませんでした。……それから辺境伯の街道を鷲の道の口まで。工事の頭に、荒野は雪で通れないと言われました」
「それで」
「雪の薄い筋がありました。口から北西へ。腰までの雪の中で、そこだけ膝まででした。他に道がなかったので辿りました。三日」
窯小屋が静かになった。
俺は壁際のヨナスを見た。老人は椀を持ったまま目を見開いていた。
「……口から北西へ。泉まで」
「はい。泉に出ました。澄んだ泉でした。そこから水路沿いに南へ半日」
東の一本。
雪の下で何が起きたか、春まで分からないはずだった。
でも、地脈の水は地面の下から来る。地面の下は冬を知らない。清めた筋の上だけ雪が薄くなる。
届いていた。
鷲の道の口まで。
「……規定の携行食は三日分でした」
ヴァンスは空の椀を見た。
「半日、足りませんでした」
◇
「測定をさせてください」
粥の後で、ヴァンスは井戸の前に立った。
背中の四角い荷を下ろした。砂時計が三つ。羊皮紙の束。ペン。全部、規定の位置に収まっていた。
「規定では、付与の持続は最長で一日。私は五年間、毎朝、自分の付与を測って記録しました。二千回あまり。……全部、一日以内に端がありました」
ヴァンスは井戸の縁に手を置いた。
付与術師の確かめ方だ。掛けるのではなく、触れる。
長いこと動かなかった。
「……端がない」
声が少しだけ揺れた。
「ラッセルでもありませんでした。でも、あれは二か月前のものです。これは」
「九か月前です。来た日の夕方に」
「九か月」
ヴァンスは手を離さなかった。
「測定不能、と書きます。……規定にない言葉です」
「たぶん、ずっと切れません」
「『たぶん』は規定にありません」
「俺にもありません。……でも、そうとしか言えなくて」
ヴァンスは手を離した。
羊皮紙に几帳面な字で何か書いた。覗くと「対象:ノルドの井戸。術式:清浄。持続:端なし」とあった。「たぶん」とは書いてなかった。
◇
「三百人の話をしに来ました」
夕方、炉の横の部屋でヴァンスは言った。
「オズワルド様が教本の一行に線を引いた日。廊下に三十人いました。私は机の中にいました。……王都の城壁の掛け直しで、三百人が食べています。毎朝、毎晩。五年間、私もその一人でした」
俺は黙って聞いた。
「春にあなたが王都に来て、城壁に掛ければ。その区画の掛け直しは二度と要らなくなります。一区画ごとに何人かの仕事が消えます。……それを、あなたは知っていますか」
「……知っています」
モーリッツ親方の顔が浮かんだ。残った指で鍬を叩く音。
「ラッセルで鍛冶の親方に同じことを言われました。切れない付与は、直す仕事を二度と戻さないと」
「それでも掛けますか」
「……掛けます。王との約束なので」
俺は炉の火を見た。
「困る人のことは後で考えます。……俺が考えます。親方には鍬の打ち方で答えました。王都には、まだ答えがありません。春までに考えます」
ヴァンスはしばらく黙っていた。
「……私も消される側でした。だから見に来ました。消される側が何を消されるのか。消す人が、どんな顔をしているのか」
「どんな顔でしたか」
「困った顔です。……王都で見ていたのと同じ顔でした」
◇
日が落ちて、広場に世話役の列ができた。
二か月で二人来ていた。雪の切れ間に鷲の道を歩いてきた人たちだ。ベルタが名前を言い、本人が役割を言い、俺が額に手を当てる。
二人。掛かった。百十八人。
ヴァンスは列の横に立って見ていた。
それから羊皮紙を出して書き始めた。
「規定では、付与の記録は対象、術式、時刻、持続。……ここでは名前と役割と世話役の名前。別の規定ですね」
「規定じゃなくて、ベルタさんの帳面です」
「同じことです」
ベルタが横から覗き込んだ。
「あら。字がきれい」
「規定の字です」
「手伝うなら歓迎。春までに五冊目が要るから」
ヴァンスはペンを止めて、ベルタを見て、俺を見た。
「……春まで、いても?」
「鷲の道は雪解けまで馬車が通りません。歩いて戻るなら、来た道をもう一度、三日半。一人で。……携行食が半日足りなかった人には勧めません」
「規定上、帰れないなら滞在します」
◇
その夜、マーサが白パンを焼いた。
冬の麦の最後の一袋だ。春の便まで持つ計算がリーゼの帳面で立ったから。
石臼の粉。甘水の酵母。窯の均熱。二か月ぶりの白いパン。
ヴァンスは一口食べて、動かなくなった。
「……王都のパンより」
「言わないでください」
「なぜ」
「王都に行ったとき、同じことを言わされそうなので」
ヴァンスは二口目を食べた。
三口目で、ようやく少しだけ笑った。五年間、一度も見たことのない顔だった。
「規定通りの仕事がしたかっただけでした。……五年間」
パンを見ながら言った。
「あなたの後任で入って、規定通りに掛けて、規定通りに切れて。それでいいと思っていました。……ここには規定がない」
「名前と役割です。それだけで」
「書きます。それを規定にします。……ベルタさんの帳面の写しから」
◇
夜半、カーラが俺を壁に呼んだ。
月の下で北を指した。泉の方角。ヴァンスが歩いてきた水路沿いの道。
「あいつの足跡の上に足跡がある」
「……ヴァンスさんの?」
「違う。後ろから踏んでる。五つ。……ヴァンスの跡を辿って、同じ道を来てる」
雪の道に、月の影が五つ、ゆっくりと南へ動いていた。




