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第37話 二本目の線

 泉を清めてから、ひと月と二十日。初雪からはひと月。ピムが岩場から戻って七日が経っていた。


 雪が止んだ。

 四日続いた雪が夜のうちに止んで、朝、空が白から薄い青に変わった。ピムが「三日は持つ」と言った。


 その朝、俺は村長の家でリーゼに言った。


「泉に行きます」


 ◇


「東の一本ですって。この雪の中を」


 リーゼは帳面を開いていなかった。腕を組んでいた。


「ひと月間を空けなさいとは言った。……でも、春まで待てとも言ったはずよ。言ってないなら今言う」

「春では遅いんです」


 壁際でヨナスが頷いた。老人は朝から村長の家に来ていた。俺が呼んだのではない。自分で来た。


「地脈は冬でも動く。雪の下で春の支度をしとる。……春に掛けたのでは、土が戻るのが夏になる。夏に戻った土には麦は撒けん」

「……春に東の線に畑を開くなら、今」

「今だ。わしが番人だった頃は、冬の間に水を乞うた。春に乞うのは怠け者の番人だった」


 リーゼはヨナスを見て、俺を見て、長い息を吐いた。


「ニコとゲルトを連れていく。私も行く。……倒れたらニコが背負う。それでいいなら」

「はい」

「はい、じゃなくて」

「……お願いします」


 ◇


 五人で北へ出た。


 道はあった。

 凍らない水路の両脇だけ雪が薄い。水路から立つ湯気が雪を溶かすのだという。腰まである雪の荒野に一本だけ、膝までの道が泉まで続いていた。

 去年の秋に俺が引いた線が、冬の俺を泉へ連れていく。


 ゲルトは縄と長い棒を担いでいた。水路を掘った男だ。雪の下の石を棒で突いて確かめながら歩く。


「水路の石が雪の下で崩れてたら戻れんからな。……帰り道はわしが作る」


 ニコは北を見ていた。

 泉の向こう、半日の先に黒い岩場がある。雪の中でも黒かった。


「……新しい足跡はない」


 ニコが低く言った。


「岩場に残ってたのは初雪の日に凍ったやつだ。あれから誰もどこも歩いてない。……この道も、わしらが最初だ」


 ◇


 泉は澄んでいた。


 秋の終わりに見た底の白さが、冬の光の中でもっと白かった。周りの雪より白い。水面から薄く湯気が立っている。

 泉の縁の雪だけが溶けて、黒い土が見えていた。


 俺は縁に膝をついた。


 底を見た。

 十二本の筋が泉から四方へ走っている。南の一本だけが白い。残りの十一本は泉を出た先で黒くなって、雪の下の荒野へ消えていた。


 東の一本。

 他の筋より太い。長い。


「東の筋は十二本で一番長い」


 ヨナスが隣に膝をついた。


「昔は東の村を四つ通って、街道の手前まで行っとった。どこで終わるのかは知らん。番人も終わりまでは見に行かんかった」

「……端が分からないと、範囲が決められません」

「あんたが決めろ。番人は乞うだけだ。どこまで水を配るかは、昔から領主が決めた」


 俺は東を見た。

 白い荒野のずっと先。三日の先に、石の並びが終わる場所がある。


 鷲の道の口。

 秋に手を置いた石だ。辺境伯の道の、荒野側の端。人夫たちが付けた名前。

 俺が覚えた名前。


「……ありがとうございます。端はあります」


 ◇


 黒くない水に両手を入れた。


 温かった。秋とは違う。雪の中で泉だけが冬を知らなかった。


 ヨナスが泉の縁に立った。

 番人として。腰を伸ばして、水に向かって、一度だけ呼んだ。


「グレイスの泉」


 老人の声は白い息になって、泉の上に消えた。


 俺は続けた。


 グレイスの泉。役割は、グレイスの土地に水を配ること。

 範囲は──ここから東へ。十二本のうちの東の一本。雪の下を通って、鷲の道の口まで。

 その一本だけ。


 声に出して決めた。

 リーゼが東を指した。見えない端を指で決めるように。


「清浄」


 光は出ない。音もしない。

 手のひらから、何かが水の中へ染みていく。秋と同じだ。でも、秋よりずっと遠かった。


 南の一本は半日の長さだった。

 東の一本は三日の長さだ。


 染みていくものが戻ってこない。手のひらから出ていったまま、東へ、東へ、雪の下を走っていって、どこにも届かない。届くまで出ていき続ける。

 膝が笑う前に腕が重くなった。腕の次に肩。肩の次に背中。

 範囲は決めてある。だから外には漏れない。全部、東の一本に注がれる。注がれて、足りない。


 誰かが俺の名前を呼んだ。

 リーゼの声だった。遠かった。


 底の筋が動いた。

 東の一本の根元。墨を洗い流すように、白が泉から東へ走り出す。秋は、南へ走る白が半刻で見えなくなった。今日は、白が泉の底を出て雪の下へ消えるまでに──


 分からなかった。

 そこで目の前が白くなった。雪の白ではなかった。


 ◇


 目が覚めると、窯小屋の天井だった。


 石の熱と脂の匂い。マーサの鍋の音。

 体が動かなかった。指の先まで全部重かった。


「……一日半、寝てたわよ」


 リーゼの声が横から言った。

 帳面を膝に置いて、火のそばに座っていた。目の下が黒かった。


「泉で倒れて、ニコが背負って、水路沿いを半日。……あんた、見た目より重いって、ニコが初めて文句を言った」

「……一日半」

「丸一日と半分。南の一本のときは一日。東は半日長かった。帳面に書いた」


 俺は天井を見たまま聞いた。


「……白は届きましたか」

「知らない」


 リーゼは帳面を閉じた。


「泉の底はヨナスが見てた。東の筋が見えるところまでは白くなったって。その先は雪の下。……雪が解けるまで、何が起きたかは誰にも分からない。春まで」

「……そうですね」

「見えないものにひと月分の力を使って、一日半寝たのね。あんたは」


 俺は少し考えた。


「切れないので」

「……は?」

「見えなくても切れません。春に見えるまで、雪の下で掛かったままです。……だから、今使っても無駄になりません」


 リーゼは俺を見下ろして、何か言いかけて、やめた。

 代わりに俺の額に手を当てた。確かめるように。


「……熱はない。頑健のせいね。疲れだけ」

「疲れは守りません」

「知ってる。……粥、食べなさい。マーサが、起きたら食わせろって三回温め直した」


 ◇


 その夜、俺はようやく壁に登った。

 ニコが梯子の下で待っていた。何も言わずに。


 北の空に月があった。

 雪の荒野は青白く、どこまでも平らだった。泉の方角に、水路の湯気が細い線で立っている。南の一本。見える線だ。


 東には何もなかった。

 白い雪だけが三日の先まで続いていた。


 その雪の下に、二本目の線がある。

 たぶん。春まで分からない。でも、切れていない。それだけは分かる。


「……北の岩場も静かだ」


 ニコが言った。


「火はない。足跡もない。……静かすぎる」


 ◇


 ──同じ頃。王国の東の国境。

 これは、俺の知らないところで起きていた話だ。


 前線に黒い霧が出ていた。

 魔王軍の呪詛が霧の形をして、国境の砦に流れ込んでくる。触れた木が腐り、触れた兵が病む。五年前、ガルドのローブが弾いていたものだ。


 レオンは砦の壁の上に立っていた。

 銀の鎧。腰に古い剣。


 霧が剣に触れた。

 触れて、流れた。水が油を避けるように。剣の周りだけ霧が割れた。


 五年前と同じだった。


 霧の向こうから声がした。低く湿った、人の声ではない声が。


「──その剣」


 レオンは剣の柄に手を置いた。


「五年前、わしの呪いを弾いた剣だ。……覚えておる。同輩を斬った剣だ」


 霧がわずかに退いた。


「持ち主は変わっておらんのか。……掛けた者は変わっておらんのか」



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