第36話 雪の町
初雪から、二十日が経った。
雪は三日降って、二日止む。それを四度繰り返した。
北壁の外はどこまでも白い。壁の上に立つと、泉から町までの緑の線だけが、雪の下でうっすらと色を残していた。凍らない水路の両脇だけ雪が薄い。
町は二つの形になっていた。
昼の形と、夜の形だ。
◇
昼は、窯小屋と炉の横の部屋。
ゲルトが三日で建て増した窯小屋は六十人が座れる。年寄りと子どもと、手の空いた女たちが、朝の火が入ると集まってくる。マーサの窯は、朝にパンを焼き、昼に脂で団子を揚げ、夕方に粥を煮る。火は一度も落ちていない。
炉の横の部屋には男たちが集まる。バルドの炉の熱が壁一枚を通して伝わってくる。槍の柄を削り、縄をない、鍬の柄に「ノルド」と彫る。
退屈だった。
二十年間、この村はこうやって冬を越してきたのだという。
「退屈なのはいいことよ」
リーゼが帳面を膝に置いて言った。
「退屈じゃない冬は、誰かが死ぬ冬。……二十年前はそうだった」
◇
子どもたちは退屈していなかった。
雪は、荒野の子どもにとって年に一度の玩具だった。双子のトムとテオが窯小屋の軒から氷柱を折ってきて、炉の脇の鉄塊を叩いていた。
不壊の鉄塊。俺が、鉄が鍬になる前に付与を掛けてしまった、あの塊だ。打てないので炉の脇に置いてある。
「折れないんだって」
「氷柱のほうが折れた」
氷柱が三本、鉄塊の足元で砕けていた。
ゲルトが縄をないながら、顔を上げずに言った。
「そいつはな、鉄のまま何にもなれなかった鉄だ。領主様が順番を間違えた」
「順番?」
「役割が先だ。付与は後。……先に『壊れない』にしちまったら、鍬にも鎌にもなれん。壊れないだけの、ただの鉄だ」
トムが鉄塊を撫でた。
「かわいそう」
「かわいそうじゃねえ。戒めだ。領主様が毎日それを見て、順番を間違えないようにしてる」
俺は何も言わなかった。
モーリッツ親方の言葉を思い出していた。鍛冶の仕事の半分は直すこと。この鉄塊は直せない。打てないから、直す仕事もない。
壊れないものは、誰の仕事にもならない。
◇
バルドの炉は冬でも鍬を打っていた。
「二十本だ。春までに」
バルドはギルドとの取引を俺から聞いていた。モーリッツの炉で百本。柄に「ノルド」。
聞いたとき、バルドはしばらく金槌を置いた。
「……親方の鉄はいい。悔しいが、俺よりいい」
それだけ言って、金槌を取った。
それから二十日、休まず打っている。
「ギルドの百本はラッセルで売る分だ。俺の二十本はこっちの分。……春に、東の線に沿って畑を開くんだろう。鍬が要る」
「東の線」
「泉から東に、もう一本引くんだろう。領主様。ひと月間を空けろって、リーゼに言われてるそうだが」
俺は炉の火を見た。
泉を清めてから、ひと月と十日。約束のひと月は過ぎている。
「……雪が止んだら」
「雪は止まんぞ。春まで」
バルドは打った鍬を水に入れた。音と、湯気。
「止むのを待つな。切れ間に行け。……俺の二十本に仕事をくれ」
◇
村長の家に戻ると、ハンスが寝ていた。
昼間に。
この二十日、ハンスは昼にもよく眠るようになっていた。窯小屋に行かず、家の火のそばで毛布にくるまって。
リーゼが帳面を開いたまま、父親を見ていた。
何も書いていなかった。
「……咳はしていません?」
「してない。あの咳は井戸の水で止まった。……そうじゃないの」
俺はハンスのそばに膝をついた。
肩に手を置いた。
付与の確かめ方がある。掛けるのではなく、触れる。レオンの剣に触れたときと同じだ。
ハンスの体には、俺が来て四日目に掛けた「頑健」がある。三十人のうちの一人目だった。
端はなかった。ほつれもない。あの日と同じ濃さだった。
「……掛かってます。切れていません。でも」
「でも?」
「頑健は病を押し返します。骨を守ります。……老いは病じゃない」
リーゼは長いこと黙っていた。
俺の付与は切れない。
でも、人は切れないものではない。井戸の水が体力を戻さなかったように、壁が暖かさを作れなかったように。無いものは作れない。
若さは、ハンスの中にもう無いものだった。
「……分かってる」
リーゼが帳面を閉じた。
「二十年、村長だった人よ。三十人を冬ごとに数えて。……今年は百十六人をあんたが数える。父さんは寝てていい」
ハンスが目を開けた。
寝ていなかったのかもしれない。
「領主殿」
「はい」
「わしは二十の冬を越した。……あと何回かは越す。一回ずつだ。一回ずつ数える。あんたの付与と同じで、先のことは分からん」
老人は毛布を引き上げた。
「分からんが、切れとらん。今年は」
◇
夜は二家族で一軒。
村長の家にはベルタと、ハンナとルカとエマが来ていた。火は一つ。炉の火ではなく、荒野草と麦わらの小さな火だ。
子どもたちが寝て、ハンスが寝て、ベルタが寝て、火のそばには俺とリーゼだけが残った。
声を低くして話す。
「北の火。……消えたわよ」
「……いつ」
「三日前から。毎晩見てた。初雪の夜から十七日、あそこに火があった。……三日前の夜から、ない」
リーゼは火を見ていた。
「ピムが明日行くって。雪の切れ間に。……半日の道が、この雪だと往復で二日。無理はしないって」
「俺も」
「駄目」
即答だった。
「あんたが雪の中で倒れたら、誰が百十六人を数えるの。……ピムは斥候よ。それが役割」
俺は黙った。
リーゼは火に荒野草を一束足した。
「それと、父さんのこと。……ありがとう。触って確かめてくれて」
「……切れていないと言っただけです」
「それでいい。今はそれで」
◇
ピムが戻ったのは二日後の夕方だった。
雪まみれで門をくぐって、窯小屋の火のそばに座って、粥を一杯飲み干してから話した。
「火の跡はあった。岩場の中腹。岩の窪みに炭と灰。……燃やしてたのは荒野草と、狼の骨だ」
「狼の骨」
「狼を食ってた。生でじゃない。焼いて。……骨に歯の跡がある。人の歯だ」
カーラが腕を組んだ。
「人なら、あの雪であそこまで行けない。何度も言うけど」
「行けた奴がいた。……それから、足跡だ」
ピムは椀を置いた。
「岩場の中腹は風で雪が飛ぶ。岩の間に古い雪が凍って残ってて、その上に跡が凍りついてた。初雪の日に踏まれて、そのまま固まったやつだ。……新しい雪は風が持っていく。だから読めた」
「読めたのは」
「岩場の周りは魔物の足跡だらけだった。狼。熊。それと、見たことのない大きいのが一つ。全部、北から来て北へ帰ってる。……岩場で何かを待ってたみたいに、ぐるぐる回って帰ってる」
「人の足跡は」
「一つだけあった。南から。……鷲の道の方角から、まっすぐ岩場へ」
ピムは俺を見た。
「岩場で終わってる。……戻った跡がない。北へ行った跡もない。岩場の上にもない。あそこで消えてる」
窯小屋が静かになった。
マーサだけが鍋を回していた。
人の足跡が、魔物の足跡の真ん中で終わっている。
二十日前、研ぎ屋に「剣にも掛かるのか」と訊いた男の足跡が。
「……人なら」
リーゼが小さく言った。
その先は言わなかった。




