第35話 初雪
ラッセルを出て、二日目の夕方。鷲の道の口に着いたとき、空が落ちてきた。
雪だった。
最初は灰色の空から、ぽつりぽつりと。鷲の道の最後の石を馬が踏んだときには、もう前が白かった。
「……早い」
ニコが手綱を引いた。
工事の人夫はいなかった。ブルーノたちの天幕は畳まれて、石の山に布が掛けてあった。冬の間、道はここで止まる。
「荒野は道が消える。……今夜はここで」
「町まで一日です」
「雪の一日は二日だ。暗くなったら方角も消える」
ニコは石の山の陰に馬を寄せた。
人夫の置いていった薪の切れ端が布の下にあった。ブルーノがわざと残していったのかもしれない。
火を起こした。
荒野の口で、雪を見ながら、マーサの揚げ団子の最後の一つを二人で割った。冷えて固かった。それでも脂の味がした。
「……十日目です」
「数えてたのか」
「リーゼが数えてます」
ニコが鼻を鳴らした。
◇
夜明け、雪は止んでいなかった。
荒野は白かった。
赤茶けた地面も、ひび割れも、枯れ草も、全部白の下だった。東も西も同じ白。鷲の道の最後の石だけが黒く顔を出していた。
「方角は」
「分かる。石の並びが西を向いてる。……だが、半日歩けば石は見えなくなる」
ニコは馬に乗らなかった。手綱を引いて歩いた。
雪の下の地面が見えないから、馬の足を折らないために。
俺も降りて歩いた。
◇
昼まで歩いた。
石はとっくに見えなくなっていた。北壁も見えない。雪が降り続いていた。
足跡だけが後ろに続いていた。それもすぐに白く埋まった。
「……ニコ」
「黙って歩け」
ニコは立ち止まって、空を見上げていた。
西の空。雪雲の低いところ。
「煙だ」
雪が一時、弱まっていた。白い雲の下に黒い筋が一本。
風に流されて、斜めに。
黒いのは脂を燃やしているからだ。熊の脂は燃えるし、食える。マーサがそう言っていた。
「マーサの窯か。……バルドの炉か。どっちでもいい。火のある場所が町だ」
ニコが歩き出した。
俺はその煙を見た。
マーサが、窯の火を落とさないと言った。熊の脂で団子を揚げて、火を絶やさない、と。
その煙が荒野の口から見えていた。
俺は何も掛けていない。
窯に掛けたのは均熱だ。煙を高く上げる付与ではない。
ただ、火を絶やさないと決めた人がいただけだ。
◇
北壁が見えたのは、日が傾きかけた頃だった。
雪の中に黒い線。
線の上に人影が一つ。槍を持っている。
人影がこちらを見て、動かなくなった。
それから壁の内側に向かって何か叫んだ。
門が開いた。
門の前に、肩掛けを巻いた女が腕を組んで立っていた。
鷲の旗の隣の、空いた柱の前で。
「……十日って言ったでしょ」
「十一日です」
「数えてたわよ」
リーゼはそれだけ言って、俺の外套の雪を乱暴に払った。
それからニコの外套の雪も同じように払った。ニコが少しだけたじろいだ。
「ニコも粥を食べていきなさい」
「……ああ」
「ばあちゃんの井戸は」
「甘くなりました」
「鍛冶ギルドは」
「一年やってみることに」
「……北の男は」
俺は答えなかった。
リーゼは俺の顔を見て、それ以上聞かなかった。
「中で話して。粥ができてる」
◇
雪の夜の広場で、世話役の列ができた。
十一日の間に四人来ていた。雪の前に鷲の道を歩いてきた人たちだ。
ベルタの帳面には、名前と役割と世話役の名がもう書いてあった。十一日、俺がいなくても列は列のままだった。俺は額に手を当てるだけだ。
四人。掛かった。
雪の中で「頑健」を四度唱えた。いつもの感触だった。手のひらが少しだけ温かかった。
「百十六人」
リーゼが帳面を閉じた。
「春まで百十六人。麦はドルフが倍積んできた。脂もある。……羊毛もある」
◇
窯小屋は暖かかった。
石が昼の火を溜めていた。年寄りと子どもが壁際に座っていた。マーサが鍋を回していた。
麦の粥に、熊の脂と塩。それだけだ。
俺は一杯もらった。
熱かった。脂が浮いて、麦が膨らんで、塩が甘かった。ラッセルの黒パンより、ずっとうまかった。
「水路が凍ってないんですね」
窯小屋に来る途中、井戸の横の水路に水が流れているのを見た。雪の中で湯気を立てていた。
「泉の水は冬でも温い」
壁際からヨナスが言った。
「昔からだ。地脈の水は地面の下から来る。地面の下は冬を知らん。夏に触れば冷たいが、冬の荒野の風よりはずっと温い。だから湯気が立つ。……二十年前の冬も、黒い水は凍らんかった。それだけが、この荒野で凍らんものだった」
老人は椀を両手で持っていた。
「今年は温くて、甘い」
◇
粥の後で、俺はリーゼにラッセルの話をした。
ばあちゃんの井戸。親方の言葉。クルトという水売り。鍬の取引。一年。それから、顔の思い出せない男。
リーゼは帳面に書きながら聞いた。
「鍬一本の値の半分を鍛冶屋に」
「……四割でしょ」
「言うと思いました」
書く手が止まったのは一度だけだった。
「……『剣にも掛かるのか』」
「はい」
「で、歩いて荒野に入った。雪の前に」
「はい。俺たちより先に」
リーゼは帳面を閉じた。
「この雪で荒野を歩いて。……人なら死んでるわよ」
「人なら」
リーゼが俺を見た。
俺は自分の手を見た。王都で五年、荒野で半年あまり、付与を掛けてきた手を。
切れない付与は、誰かを助けると誰かが困る。
親方はそう言った。
困るのが人だけとは限らない。
◇
夜半、窯小屋を出ると雪が止んでいた。
北壁の上にカーラが立っていた。
夜の見張りの長。俺を見て、槍の先で北を指した。
「領主。……北の岩場に火が見える」
俺は壁に登った。梯子が凍っていた。
雪の荒野の、はるか北。黒い岩場の、その中腹に。
小さな赤い点が一つ。
「熊は火を使わない」
カーラが言った。
「狼も。……人なら、この雪であそこまで行けない」




