第34話 研がない鍬
ラッセル、三日目の朝。
ギルドの会館に行く前に、俺は市場に寄った。
ドルフが「あの男が朝の市場に出ることがある」と言ったからだ。
市場は冬の支度で混んでいた。塩、干し肉、羊毛。通りの角に、ノルドの甘水の樽と折れぬ鍬の札。
「……いた」
ドルフが顎で示した。
樽の向こう、研ぎ屋の屋台の前に背の高い男が立っていた。外套のフードを被って、研ぎ屋と何か話している。
俺は人の間を抜けて近づいた。
五歩。三歩。
男が振り返った。
──顔を見たはずだった。
目が合うと、男は少し笑ったように見えた。それから横を向いて、人混みに入った。
追う。
市場の角を曲がったところで見失った。朝の市場で、背の高い男を見失った。
「……ドルフさん。今の人の顔」
「見たか」
「見ました。……思い出せません」
ドルフが煙草に火をつけた。手が少しだけ、いつもより遅かった。
「わしも三度見て、三度忘れた」
俺は人混みを見た。
背の高い男は市場に何人もいた。でも、どの背中を見ても「あの男だ」と思えなかった。顔だけじゃない。背の形も、外套の色も、思い出せない。見た、ということだけが手に残っていた。
人混みに紛れたのではない。頭の中から紛れた。
◇
研ぎ屋はガイルという、腰の曲がった男だった。
砥石を三つ駄目にしたのが、この人だという。
「北の男か。さっきのは鍬のことじゃなかった。……妙なことを訊いていった」
「何を」
「『作った男は荒野にいるんだな』と。……それから『この付与は、剣にも掛かるのか』と」
ガイルは砥石の欠けた縁を撫でた。
「わしは知らんと答えた。鍬しか見たことがないからな。……そしたら『なら荒野で訊く』と言って、北の門から出ていった。今見たのが最後だ」
「北の門」
「ノルドの方角だ。鷲の道を歩きでな。この季節に歩きで荒野に入る奴はいない」
ドルフが煙を吐いた。
「……やっぱり北だったな」
◇
ギルドの会館で、モーリッツ親方は昨日と同じ椅子に座っていた。
机の上に同じ鍬。
「返事を聞こう」
俺は座った。
一晩考えたことを順に言った。帳面はない。数字もない。あるのは名前と役割だけだ。
「鍛冶屋の役割は、打つことと直すこと。直す仕事を、俺の付与は消します。それは戻りません。……でも、打つ仕事は消しません」
「……」
「ノルドの鍬を、ラッセルの鍛冶が打ってください。バルドさん一人では百本は打てません。ギルドの炉で打った鍬をドルフさんがノルドに運ぶ。俺が付与を掛ける。ドルフさんがラッセルに持ち帰って売る。……鍬一本の値の半分は、打った鍛冶屋に」
「半分」
「打つのが半分、掛けるのが半分です。ドルフさんの運び賃はノルドの半分から出します。……リーゼがいたら四割と言うと思いますが」
モーリッツが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
「研ぎ屋はどうなる」
「……すぐには消えません。ラッセルの農夫の鍬は、まだほとんどが古い鍬です。研ぎに来ます。五年、十年。その間に、研ぎ屋の子どもは打つほうを覚えられます」
「十年後は」
「分かりません」
正直に言った。
「折れない鍬を買った農夫は、研ぎに払っていた銅貨で別のものを買います。鎌とか、鍋とか、蹄鉄とか。……鉄の仕事は鍬だけじゃないと、バルドさんが言っていました。それがどれくらいの慰めになるのかは、俺には分かりません」
親方は長いこと鍬を叩いていた。
こつ、こつ、と。残った指で。
「……たぶん、とは言わんのだな」
「言いたいです。でも、親方には言わないほうがいいと思いました」
「変な奴だ」
モーリッツは鍬を持ち上げた。
「一年だ。一年やってみる。ギルドの炉で百本打つ。鍬の刃にはギルドの金槌の印を打つ。……あんたの付与の印はどうする」
「俺の付与に印はありません。光らないし、音もしないので」
「なら柄に彫れ。『ノルド』と。鍛冶の印と、ノルドの名前。二つが並んだ鍬だ。……それで、わしの顔は立つ」
親方は立ち上がって、欠けた手を差し出した。
俺は握った。硬い手だった。
「検めはやらん。一年は」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。一年後にわしの炉が七本に減ってたら、あんたのせいだ」
「……はい」
◇
会館を出たところで、ニコが足を止めた。
通りの向こうから、男が一人こちらを見ていた。
兵の格好ではない。荷運びの粗い服。でも、立ち方がニコと同じだった。
「……お前」
男が言った。
「第二国境隊のニコか」
ニコは答えなかった。
フードの下で、顔が動かなかった。
「生きてたのか。……村を焼いた夜に消えたと聞いた」
男はそれ以上近づかなかった。
ニコも動かなかった。
長い沈黙の後、男は首を振って、荷車のほうへ戻っていった。
「……行くぞ」
ニコが歩き出した。
俺は横に並んだ。何も聞かなかった。
鷲の巣亭の角まで来たとき、ニコが前を向いたまま言った。
「東の国境の話は、いつかする」
「……はい」
「あんたが聞きたいなら。……今はまだだ」
「聞きたいときに聞きます。ニコが話したいときに」
ニコは何も言わなかった。
フードを少しだけ上げた。
◇
宿の裏庭には、今日も列ができていた。
ヘルガが桶を回しながら空を見た。
東の空が鈍い灰色だった。
「……雪の匂いだ」
「雪?」
「この匂いがしたら三日で降る。荒野はもっと早い。……領主様、帰るなら今日だよ」
俺は空を見た。
リーゼの「十日」が頭の中で数えられていた。今日で九日目だ。鷲の道の口まで一日半、荒野を一日。……十日には間に合わない。十一日。
約束は破る。
でも、雪に閉じ込められて春まで帰らないよりは、一日遅れて謝るほうがまだいい。リーゼなら、たぶんそう言う。言ってから、鍬で殴る。
「馬を二頭」
「うちの馬を貸す。鷲の道の口まで馬で一日半。荒野を一日。……ドルフの爺さんは置いていきな。荷馬車じゃ雪に追いつかれる」
ドルフは裏庭の隅で煙草をふかしていた。
「春に行く。塩と油と、鍬百本を積んでな」
「はい」
「……アレンさんよ。北の男、気をつけろ。あいつは荒野に向かった。歩きで。あんたより先に着く」
◇
ヤンが井戸の縁で俺の袖を引いた。
「また来る?」
「春に。……ドルフさんの便で鍬が百本来るので。掛けたら、また持ってきます」
「うん」
ヤンは桶から一杯すくって、俺に差し出した。
ばあちゃんの井戸の、甘い水だった。
俺は飲んだ。
ノルドの井戸と同じ味がした。




