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第32話 鷲の道

 町を出て、三日目の昼だった。


 荒野が終わった。

 正確には、赤茶けた地面の上に石が並び始めた。拳ほどの石を二列、荷馬車二台分の幅で東へ向かって敷いてある。その先で人夫が三十人ほど、土を掘り、石を運んでいた。


「辺境伯の街道だ」


 ドルフが手綱を緩めた。


「ラッセルからここまで。冬の前に荒野の口まで通すと言っとった。……間に合わなかったな」


 人夫の頭らしい男が荷馬車に気づいて手を上げた。日に焼けた、首の太い男だった。


「ドルフの爺さんか。今日が最後の便だろう」

「ああ。……ブルーノ、こっちはノルドの領主殿だ」


 ブルーノと呼ばれた男は、俺を見て、それから荷台のニコを見て、もう一度俺を見た。


「……あんたが」

「アレン・グレイです」

「若いな」


 それだけ言って、ブルーノは道を指した。


「石は荒野の口まで敷いた。雪が解けたら残りを締める。春には馬車が二台並んで通れる。……人夫の連中はこの道を『鷲の道』と呼んでる。辺境伯の旗の鷲だ。閣下は『グレイス街道』にしたいらしいが、誰もそう呼ばん」


 鷲の道。

 俺はその名前を覚えた。癖だ。名前を聞くと覚えてしまう。


「この道の、荒野側の端は」

「ここだ。石が終わるところ。……『鷲の道の口』と連中は呼んでる」


 石の最後の一列に、俺は手を置いた。

 掛けはしなかった。この道は辺境伯のものだ。俺が名前と役割を知っても、俺の決めることではない。


 ただ、覚えた。

 鷲の道の口。荒野の東の端。泉から東へ走る黒い筋がどこまで続いているのかは、まだ知らない。でも、端に名前があるなら、いつか使える。


 ◇


 鷲の道は途中から本当の道になった。

 荷馬車が揺れなくなった。


「道があると、こうも違うか」


「七日の道のりが五日になる。春になりゃ四日だ。……そうなると、荒野は遠くなくなる。いいことばかりじゃないぞ、アレンさん」

「……はい」

「道は、こっちから向こうへも通じるが、向こうからこっちへも通じる」


 ◇


 五日目の夜、街道脇で野営した。

 焚き火は人夫たちが置いていった薪の切れ端だ。荒野を出て初めての、木の火だった。


 ニコは火から少し離れて、槍を抱えて座っていた。


「ニコ」

「……ああ」

「ラッセルに行ったことは」

「ある。あの町からノルドに来た」


 七人の流民の最後の一人。名前だけを答えて、何も話さなかった男。


「知った顔がいるかもしれん」


 ニコは火を見ないで言った。


「東の国境から逃げた兵はラッセルを通る。他に道がない。二年前、俺もそうだった。……俺を覚えてる奴がいても、おかしくない」

「会いたくない人ですか」

「会いたい奴はいない」


 俺はそれ以上聞かなかった。聞けば、この人はまた槍を抱えて黙ってしまう気がした。


「……フードを被っておきます?」

「被る」


 ニコが少しだけ笑った気がした。


 ◇


 七日目の昼、ラッセルに着いた。


 町だった。

 二十年、村だった場所から来ると、何もかもが多かった。家が多い。人が多い。音が多い。


 石の壁の中に市場があって、宿があって、鍛冶屋の煙突が並んでいる。通りの端に樽が積んであった。炭で「ノルドの甘水」と書いてある。隣に鍬が五本、立てかけてあった。「ノルド 折れぬ鍬 銀五」の札。


「……売ってますね」

「売っとる。あんたの町の名前で」


 荷台で、ニコがフードを深く下ろした。町に入ってから一度も顔を上げていなかった。


 ドルフが通りの角の、二階建ての建物の前で荷馬車を止めた。

 看板に鷲の巣の絵。


「宿屋、鷲の巣亭。……女将、連れてきたぞ」


 ◇


 女将は太い腕の、四十がらみの女だった。

 戸口に立って、腰に手を当てて、俺を頭のてっぺんから爪先まで見た。リーゼと同じ見方だった。


「……本当に来たのかい」

「約束でしたので」

「痩せてるね。領主ってのは、もっと太ってるもんだと思ってた」


 女将はヘルガと名乗った。

 その後ろから十歳くらいの男の子が顔を出した。ヘルガがその頭を押さえた。


「ヤン。この人だよ。あんたが腹を壊してたとき飲んだ水の」

「……水を作った人?」

「作ってはいません。井戸に掛けただけで。……腹を治したのも、水じゃなくてヤンの体です」


 ヤンは俺の手を見た。油と砥石で黒ずんだ手を。それから自分の腹を見た。


「じゃあ、うちの井戸にも」

「そのつもりで来ました」


 ◇


 井戸は宿の裏庭にあった。


 石を積んだ古い井戸だ。ノルドの井戸より少し小さい。桶を引き上げると、水は薄く濁って鉄の匂いがした。苦くはない。でも、うまくもない。


「町の井戸はどこもこうだよ。革なめしの水と鍛冶の水が地面に染みてる。甘水が来るまでは、みんなこれを飲んでた」


 俺は井戸の縁に手を置いた。


 付与の条件は名前と役割。

 これは井戸。役割は、宿の人と客に水を届けること。


「この井戸に名前はありますか」

「名前? 井戸は井戸だよ」


 ヘルガが眉をひそめた。

 俺は少し困った。「井戸」で掛かるかもしれない。ノルドの井戸は「井戸」で掛かった。でも、あれは村に一つしかない井戸だった。この町には井戸が何十もある。「井戸」と呼んだだけでは、この井戸にならない気がした。


「ばあちゃんの井戸」


 ヤンが言った。


「父ちゃんがそう呼んでた。ばあちゃんが掘ったから、ばあちゃんの井戸」


 ヘルガが口を閉じた。

 それから小さく息を吐いた。


「……死んだ亭主の母親だよ。この宿を建てたとき、自分で掘った。亭主は『ばあちゃんの井戸の水は町で一番うまい』って、子どもの頃の話をいつもしてた。……あたしが嫁に来た頃には、もうこんな水だったけど」


 ばあちゃんの井戸。

 この宿を建てた人が自分で掘った井戸。役割は、宿の人と客に飲める水を届けること。

 「町で一番うまい」はヘルガの亭主の記憶だ。俺が作るものじゃない。清浄は染みたものを消すだけだ。その先に何が残るかは井戸が決める。


 ──よし。


「清浄」


 光は出ない。音もしない。

 手のひらから、薄い何かが石の中に染みていく。ノルドの井戸と同じ感触だった。来た日の夕方と同じ。


 ヘルガが桶を引き上げた。

 覗き込んで、固まった。


「……透明だ」


 ヤンが手ですくって飲んだ。

 一拍。二拍。


「……甘い」


 ヘルガも飲んだ。

 何も言わなかった。もう一度すくって飲んだ。三度目。


「……亭主が言ってたのは、これか」


 それだけ言って、桶を抱えたまま裏庭にしゃがみ込んだ。


 ◇


 夕方には、宿の裏庭に町の人が並んでいた。


 噂は井戸の水より速かった。桶が何度も上がった。並んだ人は一杯ずつ飲んで、黙って、列の後ろにもう一度並んだ。

 一杯だけ。ヘルガが桶の前でそう決めた。「井戸は一つだ。町中の瓶を満たす分はない」。

 ヘルガは誰からも金を取らなかった。「うちの井戸だ。あたしが決める」とドルフに言った。ドルフは「商売になるのに」と言って笑った。


 俺は裏庭の隅で揚げ団子を食べていた。マーサの言った通り、ラッセルの飯はまずい。黒パンが固く、甘水で煮た豆のスープだけはうまかった。


 日が落ちかけた頃、裏庭の戸口に人影が三つ立った。

 革の前掛けに、腕に、金槌の形の焼き印。

 壁際のニコがフードの奥から三人を見た。槍は手の届くところに立ててあった。


「……ノルドの領主殿だな」


 先頭の男が言った。


「鍛冶ギルドのモーリッツ親方がお呼びだ。……井戸は終わったんだろう。次は鍬の話をしてもらう」


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