第31話 初霜
泉を清めてから、十日目の朝だった。
目を覚ますと、窓の外が白かった。
雪ではない。霜だ。
村長の家の戸を開けると、広場の土が白く固まって、踏むとぱりぱりと音を立てた。井戸の縁に細かい氷の粒がついている。息が白い。
「来たわね」
リーゼが肩掛けを巻き直しながら北を見た。
泉から町まで一本の線で続いている緑が、今朝は端から端まで白くかぶっていた。草は枯れてはいない。ただ、霜をかぶって朝日に光っている。
「冬よ。荒野の冬は早くて、長い」
◇
冬の問題は一つだった。
燃やすものがない。
「薪がないんです」
村長の家で、俺は帳面を前に言った。帳面はリーゼのものだ。俺は数字を書く役ではない。読む役だ。
「荒野に木はない。二十年、この村は何で暖を取ってたんですか」
「荒野草よ。秋のうちに刈って、束ねて、干して。あとは狼の糞と熊の脂」
リーゼが淡々と言った。
「三十人ならそれで足りた。足りないときは一軒に全員が集まって寝た」
「……百十二人分は」
「ない」
北の畑と新畑の麦わらはある。緑の線の草も刈った。それでも、百十二人が三か月燃やす量には遠い。
「じゃあ、どうすれば」
「あんたに聞いてるの」
◇
試してみた、と言うほうが正しい。
ゲルトの家の壁に手を当てた。石と泥で積んだ壁だ。隙間から朝の冷気が細く入ってくる。
これは、ゲルトの家の壁。役割は、風と寒さを防ぐこと。
「保温」
光は出ない。音もしない。手のひらから、薄い何かが泥の中に染みていく。
隙間風が止まった。
泥の隙間が塞がったわけではない。覗けば、まだ向こうが見える。壁は直っていない。ただ、壁を通る風だけが通らなくなった。
「……止まったな」
ゲルトが壁の前で手をかざして言った。
「で、暖かくはならんのか」
「……ならないみたいです」
部屋は寒いままだった。
壁の役割は、寒さを「防ぐ」ことだ。暖かさを「作る」ことではない。暖かさを作るのは火だ。
付与は役割を強くする。無いものは作れない。
井戸の水は毒を消したが、体力は戻さなかった。それと同じだ。壁は風を止める。火は壁の中にはない。
「無いものは作れません。……たぶん、どの壁でも」
「そうか」
ゲルトはがっかりした顔をしなかった。
「なら、火のある場所に人を集めるしかねえな」
◇
決まったのは昼までだった。
火のある場所は二つ。マーサの窯小屋と、バルドの炉だ。
パン窯は、朝に火を入れれば夕方まで石が温かい。炉は鍬を打つ間ずっと燃えている。
「窯小屋を広げる。炉の横にも部屋を一つ」
ゲルトが泥のついた手で広場に線を引いた。
「昼は年寄りと子どもを窯と炉の部屋に。夜は二家族で一軒。火は一つの家に一つ。燃やす量は半分で済む」
「二家族で一軒」
「二十年前はそうやって越した。みんな覚えてる。……増築は三日でやる」
リーゼが帳面をめくった。
「屋根が九十四。二家族で一軒なら、夜の火は四十七。草と麦わらと糞で四十七の火なら……ぎりぎり届く。脂は食べるほうに回せる」
「ぎりぎり、ですか」
「ぎりぎりよ。春が遅れたら知らない」
ベルタが帳面を開き、世話役ごとに「冬の組」を書き始めた。マーサは窯の火を落とさない方法を考え始めた。パンを焼かない時間は、熊の脂で麦の団子を揚げるという。
「脂は燃えるし、食える。無駄がない」
俺は何もしていない。壁に一つ掛けて、暖かくはできなかっただけだ。
それでも、昼には百十二人の冬の過ごし方が決まっていた。
夕方、窯小屋で最初の揚げ団子が揚がった。
麦の粉を甘水で練って、熊の脂で揚げただけのものだ。外が固くて、中が白くて、噛むと脂が熱い。
子どもたちが口を押さえながら食べた。ミナがロッテの分を吹いて冷ましていた。
「……冬は、これで越せる気がしてきた」
リーゼが二つ目を口に入れて言った。
◇
ドルフの荷馬車が来たのは、その翌日だった。
三台。ロバの息が白い。
「冬前の最後の便だ」
ドルフは荷台から降りるなり空を見た。
「次に来るのは雪が解けてからになる。荒野は雪が降ると道が消える。馬車は通れん」
「……春まで」
「春までだ。塩と油と麦はいつもの倍積んできた。屑鉄も。それから、これは辺境伯からだ」
荷台から羊毛の束が下ろされた。大きな袋が十。
「『鷲の道の工事で世話になるから、先に』だそうだ。……あの爺さん、商人の顔になってきたな」
羊毛はその日のうちに、ベルタが夜の組に配った。一軒に一袋。毛布にするのだという。
◇
「で、悪い知らせが二つと、約束の話が一つ」
ドルフは煙草に火をつけた。
「一つ目。ラッセルの鍛冶ギルドが、ノルドの鍬を市場から締め出すと言っとる。『付与の掛かった農具は、鍛冶ギルドの検めを通さなければ売らせない』。年が明けたらそうなる」
「……検め」
「検めという名の通行料だ。まあ、それはまだいい。問題は二つ目だ」
ドルフは煙を吐いた。
「ラッセルで鍬を買い占めてる男がいる。この三月で二十本。農夫じゃない。買った鍬を一本も使わず、全部研ぎ屋に持ち込んで刃を削らせようとした」
「削れない、ですよね」
「削れん。研ぎ屋が三人、砥石を駄目にした。……それが分かってから、男は鍬を買うのをやめた。今度は『作った男はどこにいる』と聞いて回ってる」
俺は黙った。
「どんな人ですか」
「分からん。わしも見たが、顔が思い出せん。背は高かった。北の訛りだった。……北と言っても、荒野の北には何もないはずなんだがな」
荒野の北には岩場がある。
その向こうは魔王領だ。
「で、三つ目。女将が待ってる」
「ラッセルの宿のヘルガだ。『ひと月後に来ると領主様が言った』と町中に言って回っとる。……雪が降れば春まで誰も来られん。あんたが来なけりゃ、嘘つきになるのは女将だぞ」
◇
その夜、村長の家でリーゼと向かい合った。
「行きます。ドルフさんの帰りの便で」
「……今?」
「約束はひと月後です。まだ半月あります。……でも、雪が降ったら春まで守れません。早いほうが遅いよりいい」
リーゼは腕を組んだ。
「鍛冶ギルドは」
「会います。鍬を締め出すなら理由を聞きます。……鍬を買い占めている男のことも」
「それ、嫌な話よ。顔が思い出せない男って」
「はい。……でも、ラッセルで聞けることはここでは聞けません」
リーゼは長いこと黙っていた。
「ニコを連れて行きなさい。カーラが夜の長になったから、壁は任せられる」
「はい」
「馬を借りて十日で戻ること。十日よ。雪が来る前に」
「十日」
「はい、じゃなくて」
「……約束します」
リーゼは帳面を閉じた。
「ドルフの馬車で七日、馬で三日。十日。用事は馬車の上で考えて、着いたら済ませなさい」
「……ラッセルで一日も泊まらずに?」
「十日。それ以上は数えないから」
数えるつもりだ、と顔に書いてあった。
◇
翌朝、霜の広場に荷馬車が三台並んだ。
ニコが槍を担いで荷台の端に座った。
マーサが揚げ団子を布に包んで、俺の懐に押し込んだ。「ラッセルの飯はまずい」と、二十年前の記憶で言った。
門の横で、リーゼが腕を組んで立っていた。鷲の旗の隣の、空いた柱の前で。
「十日」
「十日」
荷馬車が東へ動き出した。
振り返ると、リーゼはまだ門の前に立っていた。
──ドルフが手綱を握ったまま、低い声で言った。
「アレンさんよ。一つ言い忘れてた」
「はい」
「鍬を買い占めてた男な。最後に研ぎ屋にこう訊いていったそうだ。……『この付与は、剣にも掛かるのか』と」




