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第30話 金色の波

 翌日、夜明け前に町を出た。


 俺とリーゼとヨナスとニコ。それにゲルトとバルドと、水路を掘った男たち。

 水路に沿って北へ半日。二十年分の砂を掻き出した石の溝が荒野を一本の線で切っていた。


 黒い泉は変わらずそこにあった。

 音がなく、風がなく、何も映さない水面。


 俺は泉の縁に膝をついた。


 ◇


「……最初に来たときは水面だけ掛けて、下から戻られました」


 誰にともなく言った。


「範囲を決めないと倒れます。決めても広すぎると薄くなります。役割の外には効きません。……でも掛かった分は切れません。二度と」


 四つ覚えた。

 井戸で、畑で、壁で、泉で。全部この町で覚えたことだ。


「だから今日は荒野全部には掛けません」


 俺は水路を振り返った。

 石の溝が南へ、町まで続いている。


「泉からノルドの町まで。この水路の下を流れる地脈だけ。……それなら薄くならない。倒れない。たぶん」

「たぶん」


 リーゼが腕を組んだ。


「はい。……でも切れません。それはたぶんじゃない」


 ◇


「領主殿」


 ヨナスが泉の縁に俺と並んで膝をついた。


「一つ、教えておく。……泉の番人は水を乞うとき、泉の名を呼んだ。『地脈の泉』は後からついた呼び名だ。わしらが呼んでいたのは違う」

「……本当の名前があるんですか」

「グレイスの泉」


 老人は黒い水を見た。


「この荒野が荒野になる前、ここはグレイスと呼ばれる土地だった。泉の名が土地の名だ。……二十年、誰も呼ばなかった。呼ぶ者がわししか残らなかったからな」


 俺は泉を見た。


 名前。

 井戸は「井戸」で掛かった。北壁は「北壁」で掛かった。でもこの泉には、二十年呼ばれなかった本当の名前がある。


 ヨナスが泉の番人だった頃に呼んでいた名前が。


「……ありがとうございます」


 ◇


 黒い水に両手を入れた。


 冷たい。重い。二十年分の魔物の血の重さだ。


 グレイスの泉。

 役割は、グレイスの土地に水を配ること。

 範囲は──ここから、水路の下を通って、ノルドの町の井戸まで。その一本だけ。


 声に出して決めた。

 リーゼが水路の脇に立って南を指した。「あそこまで」と言うように。


「清浄」


 ──重かった。


 新畑のときとは比べものにならなかった。手のひらから何かが根こそぎ持っていかれる。膝が笑った。

 それでも倒れなかった。範囲を決めてあったからだ。力は泉から町までの一本に全部注がれて、そこで止まった。外には漏れなかった。


 長かった。

 日がずいぶん動いた。誰も声を出さなかった。


 黒い水の中で何かが動いた。


 底の筋。泉から四方へ走っている十二本の地脈のうちの一本。南へ向かう、水路の真下の一本だけが、墨を洗い流すように白くなっていった。

 白い筋が泉の底から南へ。水路の下へ。見えなくなるまで半刻かかった。

 そして泉そのものの底が白くなった。残りの十一本は泉から出ていった先でまだ黒い。でも泉に戻ってはこない。地脈は泉から出ていく流れだからだ。


 泉の水面が──一尺ではなく底まで──澄んだ。


 黒は戻ってこなかった。


 手を水から抜いた。

 気がつくと俺は泉の縁に両膝をついていた。立てなかった。頑健は骨を守る。疲れは守らない。

 リーゼが黙って肩を支えた。


 ◇


「……来た」


 水路の脇でゲルトが叫んだ。


 石の溝に水が流れ込んでいた。

 黒くない。澄んだ冷たい水が、二十年ぶりの溝を南へ走っていく。


 男たちが水路に沿って走った。水と競争するように。

 バルドが途中で転んで、ゲルトに引き起こされた。


 ヨナスは走らなかった。

 泉の縁に膝をついたまま、澄んだ水面に映った自分の顔を見ていた。


「……二十年。番人が守れなかった泉だ」


 かすれた声だった。


「ヨナスさん」

「……ああ」

「役割は生きていることだと前に言いました。……今日から、泉の番人、でもいいですか」


 老人は長いこと答えなかった。

 やがて澄んだ水を両手ですくって飲んだ。


「……甘い」


 それだけ言って顔を覆った。


 ◇


 町に戻ると、井戸の横の水路に水が溜まっていた。


 子どもたちが裸足で水に入っていた。ミナがロッテとエマを両脇に抱えて一番深いところに立っていた。

 マーサが桶で水を汲んで窯小屋に運んでいた。「井戸に並ばなくていい」と何度も言いながら。


 三日後、水路の両脇に草が生えた。

 荒野の赤茶けた地面に、細い緑の線が泉から町まで一本引かれていた。


 七日後、その線は腰の高さの草原になっていた。


「地脈は水だけを運ぶんじゃない」


 ヨナスが水路の脇にしゃがんで土を握った。


「土の力も運ぶ。二十年止まっていたものが動き出しただけだ。……昔はこの荒野全部がこうだった」


「……線だけね」


 リーゼが北壁の上から緑の線を眺めて言った。


「荒野はまだ荒野。黒い筋はあと何本あるの?」

「十一本。ヨナスさんはそう言っています」

「一本に何日倒れそうになった?」

「倒れてません」

「なりそうに、って聞いてるの」

「……一日、寝ました」


 リーゼはため息をついた。


「次はラッセルへの街道沿い。辺境伯との約束もあるし。……でも、ひと月、間を空けなさい」

「はい」

「はい、じゃなくて。約束」

「約束します」


 ◇


 正式な辞令は村長の家の壁に掛けてある。


 王の手で押された印。『グレイス領主、アレン・グレイ』。

 届いた日に癖で不壊を掛けた。リーゼに「また!?」と叫ばれた。


 グレイス領。

 王が帰ってからも人は来た。十二人。屋根は七つ増えた。

 人口、百十二人。屋根は九十四。全部、名前を知っている。

 冬の麦は、北の畑と新畑の両半分と、鍬の銀貨でドルフから買った分で、百十二人分。リーゼの帳面がそう言っている。


 ドルフの荷馬車は三台になって、月に二度、鷲の旗の立つ門をくぐる。

 カーラは夜の見張りの長になり、ニコは槍に戻って、壁の上で何も言わずに荒野を見ている。

 ベルタの帳面は四冊目になった。マーサの窯は二つになって、朝の広場はパンの匂いがする。

 ラッセルの宿屋の女将の井戸には、ひと月後に行くと約束した。鍛冶ギルドからはまだ何も言ってこない。


 俺は毎日の夕方、広場に立つ。

 世話役が名前を言い、新しい人が役割を言い、俺が額に手を当てる。


 一人ずつ。

 近道はない。それでいい。


 ◇


 その夕方、列が終わった後で、リーゼが帳面を閉じて言った。


「ねえ」

「はい」

「あんた、領主なんでしょ」

「そうらしいです」

「私、帳面係なんだけど」

「はい」

「いい加減、名前くらい呼び捨てにしなさいよ。……『リーゼさん』じゃなくて」


 俺は少し考えた。

 二十二年、人の名前を呼び捨てにしたことが、たぶんなかった。


「……リーゼ」

「何」

「……ありがとう」

「それは聞いてない」


 リーゼは帳面で俺の肩を叩いた。

 叩いてから少しだけ笑った。


「でも、いい。……それでいい」


 ◇


 俺の付与は切れない。


 井戸も、畑も、壁も、門も、屋根も。

 百十二人も。

 泉から町までの一本の線も。


 王都で五年、「地味だ」と言われ続けた付与だ。光らない。音もしない。手のひらから何かが染みていくだけの。


 でも、切れない。


 この町も、たぶん──


 いや。

 たぶん、じゃなく。


 切れない。


                                  (第一部 完)

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 第一部(全三十話)はこれで完結です。

 第二部は10月28日(水)7:10から、1日3話で更新します。

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