第27話 王、頭を下げる
王が来るまで二十日かかった。
その間に新畑の東半分が実った。北の畑と同じ金色の波だった。西半分はまばらなまま刈った。それでも百人の冬は越せる量になった。
ゲルトとバルドが泉から町までの古い水路を掘り返し始めた。二十年分の砂を掻き出し、崩れた石を積み直す。水はまだ黒い。流す日は決まっていない。でも流す日のために掘った。
ミリアは帰らなかった。
「王が来るまでは」と言って、マーサの窯で粉をこね、怪我人の手当てをした。聖女が火傷に軟膏を塗る町はたぶんここだけだ。
レオンも帰らなかった。
壁の上に立ち、ニコと並んで夜を見た。剣は三本目のままだった。
◇
二十日目の昼、東の街道に金の獅子の旗が見えた。
近衛が五十騎。馬車が三台。
先頭の馬車から降りたのは白髪の老人──ギルド長オズワルド。次が軍務卿バルテン。
最後の馬車から降りた男は鎧を着ていなかった。
旅装の五十代の男。腰に剣。頭に何も載せていなかった。
それでも全員が分かった。
百人が広場で膝をつきかけた。
「立て」
国王アルベルトは短く言った。
「余は頭を下げに来た。先に下げられては話にならん」
◇
王は村長の家に入らなかった。
「全員の前で話す。……管理官殿の町だ。管理官殿の流儀で」
広場の井戸端に王が立った。
百人がその周りに立った。誰も座らなかった。
王はまず井戸の桶から水を一杯飲んだ。
「……王城の水よりうまい」
それから俺を見た。
「アレン・グレイ」
「はい」
「余はお前を知らなかった。五年間、余の勇者を支えていた男の名を知らなかった。知らぬまま、体裁のために余の名で辞令が出され、お前は流刑先に送られた。そして余の名を騙った偽の命令で、余の兵がこの町に矢を向けた」
王は一歩前に出た。
「全て余の名で行われた。余が知らなかったことは言い訳にならん。……王国を代表して詫びる」
王が頭を下げた。
荒野の井戸端で。百人の前で。
膝はつかなかった。でも首は深く曲がっていた。
誰も声を出さなかった。
リーゼが俺の袖を小さく引いた。
「……頭を上げてください」
俺は言った。
ミリアのときと同じ言葉だった。
「水が冷めます」
王は顔を上げて少しだけ笑った。
「冷めぬ水だと聞いている」
◇
「本題だ」
王は桶を置いた。
「王国に戻ってほしい。王立付与術師ギルド長として。城壁、砦、軍の装備。全部、掛け直しが前提で組まれている。お前が一人いれば、それが全部変わる。……ギルド長殿がそう言った」
「言いました」
オズワルドが頷いた。
「アレン・グレイ。わしは六十年間違っていた。教本を書き直す。その前に、お前の付与をもう一度触らせてほしい。お前の付与には端がない。なぜ端がないのか。糸がどこで結ばれているのか。……わしは死ぬ前にそれを知りたい。弟子にしてくれ、と言っておる。八十の爺が二十二の若造に」
百人が少しざわめいた。
俺は王を見た。
「お断りします」
王は驚かなかった。
レオンから伝言を聞いていたのだろう。
「理由は」
「ここが家です」
俺は井戸に手を置いた。
「この井戸に、来た日に掛けました。畑に、壁に、門に、八十七の屋根に、百人に。全部、一つずつ、名前と役割を知って掛けました。……王都の城壁は名前を知りません。王都の兵の顔も」
「知れば掛けられるのか」
「はい。一つずつなら」
王はしばらく黙っていた。
「……では取引だ。辺境伯から聞いた。管理官殿は税は断るが取引はすると」
「はい」
「聞こう」
◇
リーゼが帳面を開いた。
王の前で。
「一つ。グレイス荒野を正式に『グレイス領』とし、アレン・グレイを領主とする。王国直轄地ではなく、王国に属する領地として。王国に納める税は領の収穫の一割。ただし最初の三年は免除」
「……一割か」
「三年後に払えるだけ稼ぐ」
王がバルテンを見た。バルテンは何も言わなかった。
「二つ。アレンは年に一度、ひと月だけ王都へ行く。往復を含めてひと月。王が決めた順に一つずつ掛ける。城壁でも砦でも兵でも。……ただし武器は王国軍の正規のものだけ。売り物にはしない」
「ひと月でいくつ掛かる」
「一日に、名前と役割を知れる数だけ。急がせれば薄くなります」
俺が答えた。
王はオズワルドを見た。オズワルドは「その通りです」と頷いた。
「使いの方には十日離れられないと言いました」
俺は付け加えた。
「あれはいつ戻れるか分からない召喚だったからです。年に一度、日が決まっていれば備えられます。出る前に世話役が新しい人の名前と役割を揃えておく。戻ったらまとめて掛ける。……ひと月なら町は持ちます。リーゼがそう言うので」
「言った」
「三つ。ガルドを王の手で裁くこと。ノルドの手ではなく」
「……それは取引ではない。余の義務だ」
「四つ。この町に来た人を誰一人、元の領地に送り返さないこと。流民も、逃げてきた兵も」
王は壁の上を見た。
ニコが立っていた。腰に飾り気のない剣を差して。
「……あれは」
「夜の見張りです。元は兵でした」
「逃げた兵は本来なら」
「この町では見張りです。名前はニコ。役割は夜に壁の上に立つこと。……それ以外のことは俺は知りません。知らなくていいことです」
王は長いことニコを見ていた。
ニコは目を逸らさなかった。
「……よかろう」
王は言った。
「四つ、全部飲む。グレイス領。年に一度のひと月。ガルドは余が裁く。送り返しはせん。……この場で合意する。正式な辞令は王都に戻り次第、余の手で押す。官房ではなく余が。……他にあるか」
「あります」
俺は言った。
「王都の付与術師ギルドの教本。『付与は必ず切れる』の一行を消してください。……五年前に俺の評価を『測定不能』と書いた部下の方を叱らないでください。あの人は教本通りに書いただけです」
オズワルドが目を閉じた。
王は何も言わずに頷いた。
◇
その夜、王は村長の家で眠った。
藁の上で。
「陛下。寝台を」
「藁でよい。……管理官殿が最初の夜に寝た場所だと聞いた」
王は天井を見上げた。
「余は謁見の間で言った。『体面のために勇者を養っているのではない』と。……余自身が体面のために付与術師を一人失っていた。五年間」
王は目を閉じた。
「ガルドは王都で待っている。……裁きは余が」




