第26話 辺境伯の寝返り
ハルトマン辺境伯は翌日の昼に来た。
黒地に銀の鷲の旗が二十本。
先頭の馬に五十がらみのがっしりした男。その後ろに見覚えのある痩せた男。徴税官ローデンだった。
門の前で辺境伯は馬を降りた。
焦げた門を見上げ、刺さったままの矢を見て、それから壁の下に転がっている割れた破城槌を見た。
「……街道で第三隊とすれ違った」
それが第一声だった。
「ヴォルフが言っておった。『百人で攻めて、怪我人は向こうの一人だけ。こちらは剣が十二本折れた』と。……わしは二十年、辺境で兵を見てきた。そんな話は聞いたことがない」
◇
村長の家の机に辺境伯は帽子を置いた。
向かいに俺。隣にリーゼ。壁際にニコとレオン。
ローデンは辺境伯の後ろに立っていた。俺と目が合うと少しだけ視線を逸らした。
「管理官殿。先に言っておく」
辺境伯は机に両手を置いた。
「徴税の件は取り下げる。あれはローデンの勇み足だ」
「閣下」
「黙っておれ」
ローデンが口を閉じた。
「もっとも、わしも知っていて行かせた。甘水の噂を聞いて金になると思った。……二十年、荒野に目を向けなかった辺境伯が、水が甘くなった途端に鷲の旗を四本。小娘にそう言われたとローデンから聞いた」
辺境伯はリーゼを見た。
「その通りだ。言い返せん」
リーゼは腕を組んだまま何も言わなかった。
でも少しだけ顎を引いた。
◇
「では、何をしに」
俺が聞くと、辺境伯は懐から一枚の紙を出した。
「わしの領地のこの半年の人口だ。ラッセルで八十人減った。他の町で百人余り。……どこへ行ったと思う」
「……」
「ここだ。『荒野の町では水が甘くて、鍬が折れなくて、管理官が名前を覚えてくれる』。そう言って出ていく。止めても止まらん。……全部がここに来たとは言わん。途中の町に留まった者もおる。だが出ていく理由は全部ここだ」
辺境伯は紙を机に置いた。
「王都に照会状を出したのはお前を潰すためだった。正直に言う。偽の管理官なら兵を出して町を接収するつもりだった。……ところが王は召喚と言った。本物だと認めた。そして今、百人の兵が剣を折って帰っていった」
辺境伯は俺をまっすぐに見た。
「わしは現実主義者だ。潰せんものは潰さん。潰せんものとは手を組む」
◇
「取引だ、と言ったそうだな。ローデンに」
「はい」
「聞こう」
俺はリーゼを見た。
リーゼが帳面を開いた。
「一つ。辺境伯領としてノルドに税を課さない。今もこれからも」
「よかろう」
「二つ。甘水と折れない農具はラッセルの市場に優先して卸す。値はこちらが決める。ドルフが運ぶ」
「……農具の値は相談させろ」
「相談には乗る。決めるのはこちら」
辺境伯が少し笑った。
「三つ。王都からノルドへの街道を、閣下の領地の分は閣下が整備する。ラッセルから荒野の入り口まで。馬車が二台並んで通れる幅で」
「金が掛かるぞ」
「人が出ていく町に金を掛けるよりは安いはずよ」
辺境伯はローデンを振り返った。
「……この小娘は何者だ」
「村長の娘だそうです」
「村長の娘」
辺境伯は天井を仰いだ。
ドルフが四割で負けたときと同じ顔だった。
「四つ目は」
俺が言った。
「閣下に、王に証言していただきたい。ノルドの管理官は王国直轄地の正当な管理官で、辞令は本物だったこと。徴税を拒まれた経緯。この町が武装蜂起などしていないこと。……それと、もう一つ」
俺はヴォルフの巻物の写しを机に置いた。
「偽の討伐命令は『辺境伯領との紛争』の体で辺境警備隊を動かしました。その辺境伯閣下ご自身が『紛争などない』と王の前で言えば、命令の根拠が消えます。……ハウザーの証言と鞍の獅子は王都の近衛が持ち帰りました。でもそれだけでは足りないかもしれない」
「紛争などない、とわしが言えば、ガルドとやらの命令は嘘の上に立っていたことになる、と」
「はい」
「……軍務卿と、ギルド長と、勇者と、聖女と、辺境伯。五人か」
辺境伯は長いこと黙っていた。
「……わしが何を得る」
「閣下の領地の人がノルドに逃げなくて済む理由を」
俺は立ち上がった。
「俺の付与は名前と役割を知ったものにしか掛かりません。一度に一つずつ。……ラッセルの全部の井戸は無理です。でも一つなら」
「一つ」
「ラッセルの宿屋の女将の井戸。息子が腹を壊していた、あの宿の。……最初に甘水を町の人に飲ませてくれた人です。女将が望むなら俺がラッセルへ行って掛けます。馬を借りれば五日で戻れます」
辺境伯は俺を見た。
それからローデンを見た。
「……お前が『止めれば女将があんたの名を覚える』と脅された、あの宿か」
「はい、閣下」
「そこの井戸を甘くする、と」
「はい」
辺境伯は帽子を取って立ち上がった。
「よかろう。四つ、全部飲む。……わしの旗をこの門に掛けさせてくれ。『ハルトマンがこの町と手を組んだ』と誰にでも分かるように」
「門は町のものです」
俺は首を振った。
「旗は門の横の柱に。鷲の旗の隣に、王の旗が来る場所を空けておいてください」
◇
辺境伯は門の横に鷲の旗を一本立てて帰っていった。
ローデンは去り際に一度だけ振り返った。
「……管理官殿」
「はい」
「あの辞令。まだ破れんのか」
「はい」
「そうか」
それだけ言って馬に乗った。
リーゼが帳面を閉じた。
「四つ、全部通ったわよ」
「リーゼのおかげです」
「分かってるならいい」
門の横で鷲の旗が荒野の風にはためいていた。
その隣の柱は空いていた。
レオンがその柱を見て言った。
「王は来る。……来なければ俺が引きずってくる」




