第18話 辺境に名が広まる
熊の夜から三日後、広場で鍋が煮えていた。
荒野熊の肉だ。三頭分。
マーサとベルタが、塩と甘水と新畑の麦を粒のまま入れて煮込んだ。脂が浮いて、麦が膨らんで、湯気が甘かった。
「熊って食えるのね」
「食えるぞ。昔は冬の前に一頭仕留めるのがこの村の祭りだった」
ハンスが椀を抱えて言った。
「二十年ぶりだ。熊鍋は」
百人分には足りなかった。
でも誰も文句を言わなかった。怪我人が先に食べて、次に子どもたちが食べて、壁に立った三十人が食べて、残りを全員で分けた。
リーゼが俺の椀に大きな肉を一切れ落とした。
「あんた、壁の下で一晩中走り回ってたでしょ。食べなさい」
「俺は戦ってないので」
「食べなさい」
◇
熊の皮はドルフが運んでいった。
そしてひと月もしないうちに戻ってきた。
荷馬車が二台になっていた。鍬の代金と熊の皮で麦と屑鉄を買ってきたのだという。
「噂が走ってる」
ドルフは荷台から降りるなり言った。
「『荒野のノルドの町が熊の群れを一人も死なずに退けた』。『折れない鍬で』。『勇者の剣を持った見張りがいる』。……ラッセルの市場で三日でそれだ。今はもうハルトマン領の端から端まで」
「尾ひれがついてますね」
「ついてない。全部本当だろうが」
ドルフは煙草に火をつけた。
「折れない鍬は、持っていった十本が半日で売れた。銀貨五枚で。次は五十本頼むと言われた。……それと、あれだ」
門の外を顎で示した。
人がいた。
これまでとは少し違う人たちだった。
◇
三人は冒険者だった。
槍を背負った女と、弓を持った痩せた男と、小柄な年齢の分からない斥候。
女が前に出た。
「カーラ。ラッセルの冒険者ギルド、銅級。槍だ」
「ルッツ。弓」
「……ピム。斥候」
カーラが前に出た。
「噂を聞いた。この町の管理官に頼めば武器が折れなくなる。熊の首を一太刀で落とせる剣になる」
俺は首を振った。
「売るための武器には掛けません。……町を守る役割を自分で引き受けた住人の武器なら別です」
「じゃあ、住む」
カーラは槍を地面に突き立てた。
「この町を守る。それが役割なら掛けてくれるんだろ。……見張りが一人しかいないと聞いた」
俺は北壁の上を見た。
ニコがこちらを見下ろしていた。何も言わなかった。でも首を横には振らなかった。
「……役割は本人が決めることです。三日、ここで暮らしてみてください。それでも守ると言うなら」
「三日か」
「三日です」
カーラは笑った。
「安いもんだ」
◇
三日の間にさらに人が来た。
大工が二人。織物の職人が一組。石工が一人。それに家族連れが四組。
これまでの流民と違って荷物を持っていた。道具を持っていた。「仕事がある町」を探して来た人たちだった。
三日目の夜、北壁の上にカーラとルッツが立った。
ニコは何も言わずに壁を降りて空き家で眠った。
朝まで起きなかった。三か月で初めてのことだった。
ピムは誰にも言わずに荒野を半日歩いて戻ってきて、「北の岩場に熊はもういない。狼の足跡は東に五頭分」とだけ報告した。
夕方の広場の列は長くなった。
世話役が名前を言い、新しい人が役割を言い、俺が額に手を当てる。ベルタの帳面が二冊目になった。
「百人」
リーゼが帳面を閉じて言った。
「今朝でちょうど百人よ。三十人の村が四か月で百人の町」
「……名前、覚えきれてません」
「覚えなくていいって言ったでしょ。世話役が覚えてる。あんたは額に手を当てる」
リーゼは帳面を開き直して別の頁を叩いた。
「麦は北の畑と新畑の西半分で五十人分。東半分が北の畑並みに実れば、合わせて百人で冬を越せる。それまでは鍬の銀貨でドルフから買う。……足りるわ。ぎりぎりだけど」
◇
四日目の朝、カーラたちが広場に来た。
「三日、暮らした。決めた」
槍と弓と矢筒と短剣が俺の前に並べられた。
「役割はこの町を守ること。……住人として。私は夜の見張り、ルッツは壁の上、ピムは荒野の見回り」
俺は一つずつ手を当てた。
カーラの槍。役割は夜の北壁で町を守ること。「不壊。鋭利」。
ルッツの弓。役割は矢を放つこと。弓に鋭さは要らない。「不壊」。矢筒の矢尻には「鋭利」。
ピムの短剣。役割は荒野を見回ること。「不壊。鋭利」。
売り物ではない。町を守る分だ。
俺が決めた線を俺は越えていない。たぶん。
カーラは槍を持ち上げ、不壊の鉄塊に突いた。火花が散った。穂先は欠けていなかった。
「……噂より本物のほうが上だ」
◇
もう一つ、俺には試したいことがあった。
新畑の東半分。
前回、範囲を決めずに掛けて倒れた畑だ。芽はまばらで、収穫は北の畑と同じ量しかなかった。
「今度はちゃんと決めます。東半分だけ。ここからあの杭まで」
リーゼが杭のところに立って手を振った。
新畑の東半分。役割は麦を育てること。範囲はここからあの杭まで。
前に掛けた薄い付与の上に重ねるように。杭の内側だけに。
「豊穣」
手のひらから重い何かが染みていく。
重い。でも止まった。杭のところでぴたりと。
膝は笑わなかった。
「……倒れなかった」
「当たり前でしょ。決めたんだから」
三日後、東半分だけが北の畑と同じ濃さの緑になった。西半分との境が、杭のところで線を引いたようにくっきりと分かれていた。
範囲を決めれば濃く掛かる。倒れもしない。
なら次はもう少し広く。少しずつ。
──地脈の泉まで、あとどれくらいだろう。
◇
その夜、ドルフが俺を広場の隅に呼んだ。
珍しく煙草を持っていなかった。
「アレンさん。一つ、言っておく」
「はい」
「王都であんたの名前を聞いた」
ドルフは声を落とした。
「酒場でだ。『アレン・グレイという付与術師を知らないか』と聞いて回ってる男がいた。ギルドの紋の入った外套を着てな。……王立付与術師ギルドの使いだそうだ」




