第17話 荒野熊
バルドの炉が火を入れて半月ほどが経った頃だった。
熊が来る、と最初に言ったのはヨナスだった。
「麦の匂いだ。二十年、この荒野に麦の匂いはなかった。……熊は鼻がいい」
荒野熊。狼の三倍の体躯で、普段は荒野の北の岩場にいる。餌が乏しいから数は少ない。
少ないはずだった。
ニコが北壁の上から数えた。
「……十四頭。群れだ。岩場の熊が全部降りてきてる」
◇
狼のときとは違った。
「熊は壁を登る」
ニコが広場に集めた男たちに言った。
声は低く、短く、迷いがなかった。
「北壁は破れない。だが乗り越えられる。壁の上で叩き落とす。落ちたらまた登る。それを朝まで」
「……朝まで持つのか」
「持つかどうかじゃない。持たせる」
「三人一組だ」
ニコは地面に棒で線を引いた。
「一人が鎌で前足を払う。前足が外れたら二人が鍬で頭を叩く。それで落ちる。落ちた熊が登り直すまでに組ごとに交代して水を飲め。朝までそれだけを繰り返す」
七十二人。
今朝リーゼが数え直した人数だ。そのうち壁の上に立てる者は三十人。
俺は三十人の顔を見た。
二十六人は名前を知っていて、頑健を掛けてある。
残りの四人は三日前に来たばかりで、まだ役割が決まっていなかった。
「……俺たちの役割、今夜は壁を守ることでいいか」
四人のうちの一人が言った。
俺は頷いて、四人の額に順に手を当てた。掛かった。
でも頑健は強くなる付与ではない。
病気になりにくい。骨が折れにくい。それだけだ。熊を倒す力をくれるわけではない。
「アレン」
ニコが俺を見た。
「あんたは壁の上に来るな。下にいろ。……鍬と鎌にやってほしいことがある」
◇
バルドが炉から運んできたのは、鍬が十二本と鎌が十八本。
売り物にするはずだったノルドの農具だ。
俺は一本ずつ手に取った。
これは鍬。役割は畑を耕すこと。
──いや。今夜だけは違う。
「今夜の役割は壁を守ることです。いいですか」
誰に言ったのか自分でも分からなかった。鍬にか、バルドにか。
バルドが黙って頷いた。
付与は切れない。不壊も鋭利も明日からは畑で役に立つ。変わるのは今夜の使い道だけだ。
「不壊。鋭利」
三十本。
一本ずつ。近道はない。
◇
月が昇った頃、地鳴りがした。
狼のときの乾いた軽い音ではなかった。重く、遅く、地面そのものが揺れる音。
北壁に黒い巨体が次々と体当たりした。
壁は揺れもしなかった。
熊が吠えた。
そして前足を壁に掛けた。
「来るぞ!」
一頭目の頭が壁の上に出た。
ゲルトが鍬を振り下ろした。鈍い音がして熊が落ちた。
二頭目。三頭目。
壁の上の三十人が鍬と鎌を振るった。落とす。落とす。落とす。
四頭目が落ちなかった。
ゲルトの鍬を前足で弾き、壁の上に這い上がり、ゲルトの背中に爪を立てた。
「ゲルト!!」
ゲルトが壁の内側に転がり落ちた。
俺は走った。
背中が裂けていた。血が出ている。
でもゲルトは自分の足で立った。
「……折れてねえ」
背中を押さえて驚いた顔で言った。
「爪は入った。だが骨が折れてねえ。前なら腰が砕けてた」
歯を食いしばっていた。爪の傷は深い。マーサが走ってきて布をきつく巻いた。ゲルトは一度うめいて、それから鍬を拾い直した。
頑健。
骨が折れにくい。それだけの付与。痛みは消えない。
ゲルトは壁を登っていった。
◇
壁の上でニコが剣を抜いていた。
レオンの剣だ。
飾り気のないただの鋼の剣。五年間、俺が毎晩磨いた剣。
四頭目の熊が壁の上でニコに向かって立ち上がった。
ニコは一歩も引かなかった。
剣が一度だけ閃いた。
熊の首が落ちた。
俺は息を呑んだ。
荒野熊の首の骨は鉄のように硬い。王都の騎士が三人がかりでようやく斬れると聞いたことがある。
一太刀だった。
ニコは剣を見た。
それから俺を見た。
「……いい剣だ」
それだけ言って次の熊に向き直った。
◇
夜は長かった。
熊は登り、村人は落とし、また登った。
リーゼは鍬で三頭を落とした。「鍬で殴るって言ったでしょ」と誰にともなく言いながら。
マーサは壁の下で傷ついた者に甘水を飲ませ、布を巻いた。
ミナは子どもたちを村長の家に集め、一人も外に出さなかった。
俺は壁の下にいた。
落ちてくる村人を受け止め、傷を見て、立てる者を送り返した。
できることはそれだけだった。
──俺一人で戦ったわけじゃない。
壁が持ったのは壁に掛けたからだ。村人が折れなかったのは村人に掛けたからだ。鍬が熊を落としたのは鍬に掛けたからだ。
でも壁の上に立ったのは俺ではない。みんなが自分の足で立った。
夜明け前、ニコが群れの長を斬った。
一番大きな熊だった。それが倒れると、残りの熊は岩場のほうへ引いていった。
◇
死者はいなかった。
怪我人は十一人。全員、骨は折れていなかった。爪の傷と打ち身と擦り傷。
マーサが「頑健さまさまだね」と言いながら布を巻いて回った。
壁の上の三十人は立ったまま眠りそうだった。
壁の上でニコが剣の血を拭いていた。
「管理官」
「はい」
「あんたがいなけりゃ全滅だった。壁も人も鍬も」
「……違います」
俺は首を振った。
「俺が強いんじゃない。みんなが強くなるんです。俺はそれを少し手伝っただけで」
ニコはしばらく俺を見ていた。
「……そういう奴だから追放されたんだな」
「え」
「褒めてる」
ニコは剣を鞘に納めた。
「この剣の持ち主は馬鹿だな。こんな剣を手放すなんて」
朝日が北壁を照らした。
十四頭いた熊のうち三頭が壁の下に横たわっていた。
「……熊の皮、売れるぞ」
バルドが誰にともなく言った。




