第16話 聖女の疑念
──これも俺の知らないところで起きていた話だ。俺が荒野に来てふた月半ほどが経った頃の。
◇
聖女ミリアは冒険者ギルドの会計室にいた。
「勇者パーティの帳簿を見せていただけますか。……三か月前の遠征の分を」
会計係の老人は眼鏡を押し上げた。
「聖女様が帳簿を? 珍しい」
「除名の理由になった帳簿です。私はその場にいながら、一度も自分の目で見ていません」
老人は何も言わずに棚から一冊を下ろした。
◇
帳簿はアレンの字だった。
几帳面で、小さくて、少し右に傾いた字。五年間、毎晩見てきた字だ。
宿代。食費。矢の補充。回復薬、三十本。
「……三十本」
ミリアは指で辿った。
あの遠征で回復薬を使ったのは五本だ。聖女である自分が治癒を担っている以上、薬に頼る場面はほとんどない。三十本など持ち歩いた記憶すらない。
ただ、記憶はある。
遠征の前夜、ガルドが帳簿を手にアレンに言っていた。
──回復薬は三十本で記録しておけ。五本は今日、残りは後日届く。受領はわしがやる。
アレンは言われた通りに書いた。
納品の確認はガルドの仕事だった。アレンは帳簿に数字を書くだけで、薬が何本届いたかを見る立場になかった。
それだけだった。
◇
神殿の薬局は、ミリアの顔を見るなり奥から薬師長が出てきた。
聖女の求めに神殿が断ることはない。
「勇者パーティへの納品記録を」
「三か月前ですね。……回復薬、五本。受領印はガルド様」
「三十本ではなく?」
「五本です。三十本など神殿の在庫でも一度には出せません」
薬師長は記録の次の行を指した。
「ただ、同じ日にもう一件。『回復薬二十五本分、代金のみ前納。品は後日』。これもガルド様の印です。……品はまだ引き取りに来られていません」
「代金は」
「ギルドの会計から三十本分が薬局に。そのうち二十五本分はガルド様のご指示で別の口座に戻しました。『勇者パーティの予備費』と仰せでしたが」
薬師長は少し言いにくそうに付け加えた。
「……口座の名義はガルド様ご個人です」
ミリアは杖を強く握った。
帳簿に三十本と書かせたのはガルド。
実際に納められたのは五本。
二十五本分の銀貨はガルドの指示でガルド個人の口座へ。
そして水増しの責任を負わされて追放されたのは、言われた通りに書いただけのアレン。
「……写しをいただけますか」
「聖女様のご所望であれば」
薬局を出たとき、通りの向かいにヴァンスが立っていた。
目が合った。ヴァンスは慌てて顔を逸らし、人混みに消えた。
◇
帳簿を返しに戻ったとき、ミリアは最後の頁を開いた。
収支の下に小さな書き込みがあった。帳簿の記録ではない。アレンが自分のために書いていたものだ。
『レオン 剣 掛け直し 異常なし』
『ガルド ローブ 掛け直し 呪詛痕なし』
『ミリア 杖 掛け直し 問題なし』
毎日、同じ三行。
日付だけが変わって五年分。
ミリアは頁を閉じられなかった。
誰も見ていない帳簿の端に、彼は毎晩、全員の装備を確かめた記録を残していた。
「問題なし」と書くために、毎晩。
◇
「レオン」
その夜、ミリアは宿の食堂でレオンに写しを見せた。
レオンは長いこと黙って読んだ。
「……ガルドが?」
「薬局の記録です。納品は五本。差額はガルドの口座に。アレンは言われた通りに書いただけ」
「……」
「レオン。私たちは無実の人を追放したんです」
レオンは写しを机に置いた。
手が少し震えていた。
「五年、一緒にやってきた。ガルドとはアレンより長い」
「ええ」
「……ガルド本人に聞く。俺の口から。それまで少し時間をくれ」
それだけ言ってレオンは立ち上がった。
三本目の剣が椅子に当たって鈍い音を立てた。
ミリアは彼を止めなかった。
時間はない、と言いたかった。でも言えなかった。
◇
部屋に戻ると、戸口にガルドが立っていた。
「聖女様。今日、神殿の薬局にいらしたそうで」
穏やかな声だった。
「……ええ。薬の補充を」
「それは結構。……ただ、聖女様。余計なことはなさらないほうがいい」
ガルドは笑っていた。
「勇者パーティは今、苦しい時期です。内輪の帳簿など穿り返しても誰も救われない。……アレンも含めてね」
最後の一言だけ声が低かった。
ガルドは廊下の奥へ消えた。
ミリアは扉を閉めて鍵を掛けた。
杖を抱えて床に座り込んだ。
──アレンも含めて。
あれは脅しだ。
ガルドはアレンをどこへ送ったか知っている。辞令を用意したのはガルド自身なのだから。荒野のどこにいるかまでは知らなくても、探す気になれば探せる。
そしてヴァンスはガルドに見張りを頼まれていた。今日の自分の足取りは全部ガルドに届いている。
ミリアは杖に額を押し当てた。
「……アレン。ごめんなさい」
五年前、「切れないようにしておきました」と照れたように言った男の顔を思い出した。
誰も動かないなら。
私が行く。




