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第13話 地脈の泉

 ──荒野に戻る。ドルフの荷馬車が着いた、その日の昼のことだ。


 レオンの剣を俺は両手で受け取った。


 重さも柄の革の擦れ具合も覚えている通りだった。

 刀身に触れると懐かしい感触があった。俺の付与だ。まだ残っている。


「……まだ掛かってますね」

「だろうな。王都の武具屋が『研いでないのに新品より鋭い』と首を傾げとった」

「追放されたのが二か月前で、最後に掛け直したのがその前の晩ですから。……二か月ならまだ持つんでしょう」


 ドルフが妙な顔で俺を見た。


「二か月持つのが普通なのか」

「俺の付与は持続だけが取り柄なので」

「……まあ、いい。それでどうする、その剣」


 どうするか。

 レオンに返す理由はない。向こうが手放したのだ。でも俺が持っていても使えない。


 俺は北壁の上を見た。

 古い槍を持った無口な男が立っている。


「ニコ」


 呼ぶとニコが降りてきた。

 俺は剣を差し出した。


「使ってください。槍よりこっちのほうが」

「……これは」

「元の持ち主はもう要らないそうです。剣は使う人のところにあるべきだと思うので」


 ニコは長いこと剣を見ていた。

 それから何も言わずに受け取って腰に差した。

 差し方が槍の持ち方と同じくらい様になっていた。


 ◇


 水が足りなくなり始めていた。


 五十八人の飲み水と炊事と洗濯。それにドルフが半月ごとに二十樽ずつ運ぶようになって、樽詰めが月に四十。

 井戸は枯れない。水も甘いままだ。でも桶を引き上げる速さには限りがある。朝の井戸端には列ができるようになっていた。


「二つ目の井戸を掘る?」

「掘っても桶で汲むのは同じ。列が二つになるだけよ」


 リーゼが帳面を閉じた。


「欲しいのは汲まなくても流れてくる水。……ヨナス爺さんが変なことを言ってた。荒野の奥に泉があるって。昔はそこから村まで水路があったって」

「泉?」

「黒い泉。誰も近づかない場所だって」


 ◇


 翌朝、四人で荒野に出た。

 俺とリーゼとニコと、道案内のヨナス。


 北壁から北へ半日。

 ひび割れた地面は歩くほどに深くなった。枯れ草さえ生えなくなり、やがて地面は黒ずんで石のように硬くなった。


「ここだ」


 ヨナスが足を止めた。


 窪地だった。

 荒野中のひび割れが、まるで川のようにここに向かって集まっている。その底に黒い水を湛えた泉があった。


 音がしなかった。風も鳥も虫も。

 水面は鏡のように動かず、覗き込むと何も映さなかった。


「大侵攻のとき、魔物の大群がここで死んだ」


 ヨナスが泉を見下ろして言った。


「数千の魔物の血がこの泉に流れ込んだ。……ここは地脈の泉だ。荒野中の地下水がここから広がっとる。昔はこの泉のおかげで、ここは荒野じゃなかった」

「……村の井戸も」

「同じ水だ。だから苦い。二十年ずっと」


 俺は泉の縁に膝をついた。


 村の井戸が今も甘いのは、井戸という「器」に掛けたからだ。通り抜ける水を井戸が全部清めている。

 でもここは器ではない。水源そのものだ。役割は荒野全体に水を配ること。

 泉に掛ければ、付与はその役割の通りに荒野全体へ広がろうとする。──新畑の五倍で倒れた俺が、荒野全体に。


「爺さん、詳しいのね」

「……わしはこの泉の番人だった。大侵攻の前は」


 リーゼが口を開きかけて、ヨナスの横顔を見て閉じた。

 ニコは最初から何も聞かなかった。


 ◇


 黒い水に手を伸ばした。

 触れる直前で止める。


 半月前の失敗を忘れてはいなかった。範囲を決めずに掛ければ、力が尽きるまで広がって、薄くなって、倒れる。

 この泉は荒野全体につながっている。「泉に」と掛ければどこまで広がるか分からない。


「……水面だけ。この泉の、水面から一尺の水だけ」


 範囲を声に出して決めた。

 地脈の泉。役割は荒野に水を配ること。その、いちばん上の層だけに。


「清浄」


 手のひらから重い何かが沈んでいく。


 黒い水面が手の周りからゆっくりと透き通った。

 手の周りから泉の端まで、水面から一尺ほどの層だけが硝子のように澄んだ。その下は黒いままだ。


 澄んだ層越しに黒い水の底がかすかに透けて見えた。

 白い石の底に、さらに濃い黒の筋が何本も走っている。地脈だ。


 リーゼが息を呑んだ。


 ──そして、黒が上がってきた。


 底の筋から墨を垂らしたように黒い水が湧き、澄んだ層を下から塗り潰していく。

 十も数えないうちに水面は元の黒に戻った。


「……戻った」

「はい」


 俺は濡れた手を見た。


 水面はきれいになった。付与は掛かった。

 でも毒は水面にあるのではない。底の筋──地脈そのものに染みている。水面を清めても下から汚れが上がってくる。


 この泉を本当に清めるには地脈に掛けなければならない。

 荒野全体に広がる地下の流れすべてに。


 新畑の五倍で俺は一日倒れた。

 荒野全体はその何百倍だ。


「……今は無理です」


 声に出して言った。


「今は、ですか」


 ニコが珍しく聞き返した。


「今は。……どこまでなら掛けられるのか、一つずつ試して少しずつ広げていきます。井戸、畑、壁、新畑。次はもっと広く。もっと深く。いつかここに届くまで」


 リーゼが俺の隣にしゃがんだ。


「届いたらどうなるの」

「分かりません。でもヨナスさんの言う通りなら」


 俺は窪地を見渡した。石のように硬い黒い地面を。


「ここは荒野じゃなくなります」


 ヨナスが泉を見たまま何か小さく呟いた。

 聞き取れなかった。聞かないほうがいい気がした。


 ◇


 帰り道、日が傾いた頃。


 先頭を歩いていたニコが足を止めた。

 東の地平線をじっと見ている。


「……馬だ」


 俺には何も見えなかった。

 ニコは腰の剣に手を置いた。


「五騎。旗を立ててる。黒地に銀の鷲。……あれは辺境伯の旗だ」

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