第11話 名前を知らない人には掛からない
新畑の芽は出た。
ただし半分だけ。
「北の畑は三日で膝まで伸びた。こっちは三日で指の長さ」
リーゼが帳面に何か書きつけた。
新畑の土はまばらに緑が点在しているだけだった。芽が出た列と出ない列が交互に並んでいる。
「収穫まで二十日。量はたぶん北の畑と同じくらい。五倍の広さで同じ量」
「……薄く掛けた分、ちょうど薄くなったんですね」
「ないよりまし。でも次はちゃんと決めて」
「はい」
町にする、と宣言してから十日が経っていた。
◇
人は来続けた。
宣言の翌日に二人。三日後に五人。その後も二日に一度は門の外に誰かが立っている。
リーゼの帳面によれば今日で五十八人。
俺の一日はこうだ。
朝、新しく来た人の名前を聞く。空き家に案内する。
昼、役割が決まった人を探して額に手を当てる。
夕方、屋根を直したゲルトの家に新しい梁の付与を頼まれる。窯が増えたので二つ目の窯に均熱を掛ける。井戸の桶が割れたので新しい桶に。
夜、名前を忘れていないか帳面を見返す。
「アレン、ベルタのところの新しい子、まだ掛けてないって」
「あ、……ええと、昨日来た」
「三日前よ」
リーゼの声が少し低かった。
「その子、昨夜から熱を出してる」
◇
ベルタの家に走った。
藁の上で知らない女の子が浅い息をしていた。
三日前に来た一家の末の子。名前は聞いたはずだ。聞いたはずなのに出てこない。
「……名前は」
「ロッテです」
母親が涙声で答えた。
ロッテ。三日前に来て、まだ役割のない子。
いや、違う。
何かを成し遂げる役割でなくていい。ヨナスのときと同じだ。この町で母やきょうだいと暮らして生きていくこと。それがこの子の役割だ。最初からあった。
──俺がこの子の名前を忘れていただけだ。
「ロッテ。この町で母さんと兄さんと暮らして、育っていく子」
額に手を当てた。
「頑健」
掛かった。
頑健は病を消さない。体が自分で押し返すのを少し助けるだけだ。
それでも、その夜のうちにロッテの熱は峠を越えた。
母親に何度も頭を下げられて、俺は何も言えなかった。
三日間この子の名前を思い出せなかった男が、感謝される資格はない。
◇
その夜、俺は広場に立った。
三十人のときは全員の顔と名前が頭に入っていた。
五十八人。あと十日で七十人になるかもしれない。百人になったら俺は何人の名前を忘れるのだろう。
何か近道はないのか。
一つ目。
三十人のときは「ノルド村の皆さん」で空振りした。でも北壁は何十本の丸太でも一つの壁として掛かった。村人がそう呼ぶ名前があったからだ。
なら、「町」になった今なら。みんなが「ノルドの町」と呼び始めた今なら、一つの対象になるかもしれない。
広場に向かって手をかざした。
「ノルドの町の住人全員に。頑健」
──掛からない。
壁は一つの物だ。人は五十八人の別々の人だ。名前でひとまとめにはならない。
二つ目。
人に直接でなくても、人が必ず通る物に掛けて、そこから渡せないか。
門に手を当てた。門の役割は、人を通し、狼を止めること。
「この門をくぐった人を頑健に」
──掛からない。
門の役割は「通す」ことだ。「くぐった人を守る」ことではない。役割の外には効かない。
三つ目。
通るだけでなく、体の中に入る物なら。
井戸に手を当てた。
「この水を飲んだ人を頑健に」
──掛からない。
井戸の役割は水を届けること。飲んだ人を守ることではない。
俺は井戸の縁に座り込んだ。
三つ試して分かった。
物を介しても、人の名前と役割を飛ばすことはできない。人への付与はその人を知ってからしか掛からない。
近道はない。
人には人として向き合うしかない。名前を聞いて、何をする人なのかを知って、額に手を当てる。一人ずつ。それ以外に方法がない。
──それが俺の付与だ。
地味で、遅くて、一人ずつしか掛けられない。王都で五年、言われ続けた通りの。
「何やってんの、こんな時間に」
リーゼだった。
返事を待たずに隣に座った。
「近道を探してました。見つかりませんでした」
「でしょうね」
「……すみません。ロッテのこと」
「謝るのは私にじゃないでしょ」
リーゼは膝を抱えた。
「ねえ。あんた一人で全部覚えようとしてるでしょ」
「それが俺の役割なので」
「違うわよ」
リーゼは帳面を開いた。
そこには俺の知らない字で名前が並んでいた。
「ベルタが書いたの。宿で帳場をやってたから、人の名前を覚えるのは得意だって。……新しく来た人には古い村人を一人ずつ世話役につける。世話役が名前と何をしたいかを聞いて、夕方、広場であんたに引き合わせる」
「……」
「あんたは夕方だけ広場にいればいい。名前は世話役が覚える。あんたは額に手を当てる」
俺は帳面を見た。
ロッテの名前の横に、ベルタの字で「世話役:マーサ」と書いてあった。
「……いつの間に」
「あんたが井戸に向かって独り言を言ってる間に」
◇
翌日の夕方、広場に列ができた。
新しく来た人と、その横に古い村人。世話役が名前を言い、新しい人が自分の役割を言い、俺が額に手を当てる。
「ヨナス爺さんの世話役は俺な」
列の後ろでゲルトが言った。隣でヨナスが黙って頷いた。
一人ずつ。
一人ずつしか掛けられない。でも名前を覚える人が五十人いる。
──それなら百人でもいけるかもしれない。
◇
列の最後にニコがいた。
世話役ではない。自分の番でもない。
「……一つ、言っておきたいことが」
「はい」
「人が増えれば悪い奴も来る。噂を聞いて来るのは腹を空かせた奴だけじゃない。見張りを増やしたほうがいい。……今は夜、俺と交代でゲルトだけだ」
俺はニコを見た。
「兵隊だったんですか」
「……昔」
それだけ言って、ニコは北壁に戻っていった。
◇
その三日後、南の荒野に砂煙が上がった。
ドルフの荷馬車だった。ロバが三頭に増えていた。
荷台から降りたドルフは、いつもの塩と油の前に、布で巻いた細長いものを俺に差し出した。
「王都で妙なものを見つけてな」
布を解くと、飾り気のないただの鋼の剣が出てきた。
刀身には傷一つ、曇り一つなかった。
「研いでないのに新品より鋭い。……あんたの仕事だろう、これ」
俺はその剣を知っていた。
五年間、毎晩磨いた剣だ。




