2章
結局何も得られず、意気消沈していた僕は帰りのバスの中で、一人の女性と目が合った。
彼女はちらりと僕を見て、すぐ目を伏せた。僕が彼女を見たので僕を見たのかもしれなかった。が、その視線は僕の胸中に深く突き刺ささり、その女性の視線に僕の男は耐えられなくなってしまった。
僕はその日、以前使ったデリヘリなるところに電話をした。金はまだ残っていた通帳から引き落とし、部屋で女が来るのを僕は待った。1時間で女が来るとのことだった。
来るまでの間に僕は部屋を片付けた。
流し台の皿とコップを洗い、ベッドの布団をそろえ、消臭剤をかけた。
衣類を箪笥にしまい、部屋の中に掃除機をかけた。
連絡してから1時間かからずに、女がやってきた。
紅色のウールのコートを着た若い女。女の子だった。
長いつややかな長い黒髪で、白い顔に真っ赤な口紅が艶めかしく輝いていた。その女は深く吸い込まれそうな栗色の眼をしていた。
僕はタバコを咥え、火をつけようとしたが、指先が震えつけられなかった。
女は何も言わずに部屋に上がり込むと、ベッドへ向かい、紅色のウールのコートを脱ぎ、続けざまに着ていたピンクのワンピースと黒の下着を脱ぎ捨てた。すると神々しいまでの真っ白な女の肌が現れた。僕はドキリとしてしまった。
そんな女を見た瞬間に僕の男としての欲求は、ろうそくの火が消えるように、消えていった。
僕は中央にすえた炬燵の上に震える手で二つのコップをおいて、それに安物のインスタントコーヒーを入れるとベッドに座っている女に進めた。
「飲まないかい?」
「どうしたの?」女が不思議そうに僕に言った。
ベッドに腰を掛けた女は誘うような妖しい目つきで僕を見つめ、
「40分よ」
「いいんだ」
「こっちに来て坐って」僕は少しひきつった笑みを浮かべてた。
「ならいいけど」女は少し不思議そうに、素っ裸のまま炬燵にするりと入ってきた。
「…………」しかし若い女とまともに向かい合ったことがここ最近、全くなかった僕は言葉を失ってしまっていた。
「出身はどこだい?」僕は苦し紛れに女に何とか尋ねた。
「あんたに関係ないでしょ」女は怒った様に僕を睨みつけた。
僕は女を見つめて、震える手でもってコーヒーを口にしていた。
「気持ち悪いわね。どうせならビールでも無いの?」女は言った。
女はやっぱり不思議そうに僕を見つめていた。
「酒は飲まないんだ」僕は答えた。
僕が酒を飲まないのは事実だった。
「こんな安物のコーヒー何て飲めないわよ」彼女はコーヒーには手を付けなかった。
女はあきれたような表情を浮かべていた。
「料金は安くならないわよ。金はあるんでしょうね?」
「大丈夫」僕は頷いた。
そして何もない40分が経つと素っ裸の女は立ち上がり、僕に向かって右手を突き出した。
「時間よ」女が言うと、僕はいつものリュックに手を掛け、黒い財布を取り出した。そしてATMから引き出したばかりの新品の1万円札を女に渡した。
すると女は投げ捨ててあった紅色のコートに手を掛け、ポケットからしわくちゃの札を取り出し、投げつけるように千円札2枚を僕に差し出した。
僕は「おつりはいらない」、そう言いかけたがさすがに言葉にはならなかった。
そしてそのしわくちゃの札を素直に受け取った。
女は部屋に投げ捨ててあった下着をつけ、ワンピースを着て、紅色のウールのコートに身を包むと
「私はサチコ。またよろしくね」
「次があるから」そう言うと玄関に出て靴を履き、まるで真っ赤な猫のように素早く部屋を出て行った。
その日、まるで雪が降る様に雪虫が跳ねていた。
思わず空を見上げると、灰色の雲がそらいっぱい満ちていた。
次の日も、その次の日も、金もなく、あてもなく、目的もなく、僕は街を彷徨った。
何もなかった。そんな僕の前を、一匹の美しい猫が横切った。追いかけようとしたが駄目だった。
帰ると飯も食わずに、いや、食えずに僕はベッドに横になった。
目を覚まし、起き上がると、日は大きく傾いていて、もう暗くなりかけていた。
ここ二、三日何も食えずにいた僕は、最後の札2枚を強く握りしめた。
財布に突っ込むと、タバコ臭いコートを引っ掛け、「あの店」に向かった。
長い道だった。ようやく店に着くと、赤黒い古びた暖簾をくぐり、扉にギシギシと力を込めて開いた。
コートを着たままカウンターに座り、ぼんやりと前を向き、しけかけたタバコを咥えた。
すると小汚くシミのついた前掛けをして、つまらなそうに焼き鳥を焼いてた店の親父が、僕の前にビールを置きながら言った。
「何か食うか?」
僕は咥えてたタバコに緑の100円ライターで面倒くさそうに火をつけ、口を開かず、黙ってた。そして、なんとなく僕の前に置かれたカウンターの生ぬるいビールのジョッキに手をかけた。
「どうした。飯はまだなんだろう?」
焼き鳥を焼いてた手を止め、親父がしつこく僕に絡んで来た。
それでも黙ったまま、僕が口を閉ざしていると、親父は軽く舌打ちし、
「つまんねえ、奴だな」、そう言うと、焼き鳥を焼いてた手を動かした。再び店内に焼き鳥の焼ける音が響いた。いつもは親父が何か言うと、やりあう僕だったが、その日の僕は口を閉ざしたまま酒を飲み続けてた。
この店の親父は、話しが好きな親父だった。店の中はいつも無口な酒飲み達で占められているのだが、時折り、酔っ払いが店に入ってきて話が盛り上がると、平気でビールの中ジョッキをサービスする始末だった。
しかし、今しばらくは、店内には静かに無口な淋しい時間が流れていた。
そして顔を赤くした酒飲み達がポツリポツリと口を開き始めた頃だった。
僕に向かって親父がつまらないことを問いかけて来た。
「お前、今日は嫌におとなしいな、えっ、女に振られたか?」
僕は話したくなかったので、なおも黙っていた。すると、何時もは口を閉ざす親父だが、その日の親父はなぜか黙らなかった。
「そうだな、お前に女がいるわけなかったか。どうした、会社をクビになったか?」
「えっ?どうなんだ?」
無口だった酒飲み達のニヤニヤ笑いながら絡みつく視線がうるさかった。
そんな時、僕に、ざわついた店の厨房の奥からいつもの援軍が現れた。
「親爺さん、うるさいのよ。他のお客さんに迷惑でしょ」
すず子だった。彼女は3年前からこの店を手伝いに来てる女だったが、彼女の過去は誰も知らなかった。彼女は、親父と僕がやりあうのをいつも笑顔で聞きながら、必ず僕に助け舟を出してくれた。彼女がいつも帰り際に小さな公園のベンチに座って、一人で缶コーヒーを飲んでいることを僕は知っていた。
僕は何度となく彼女を誘ったが彼女は落ちなかった。
親父はまた、すず子に頭が上がらないのだ。なぜなら数学を知らない親父は店の経営全般をすず子に全て任せていた(数学というか数字を親父は知らないのだった)
僕はしばらく、ただ酒を飲み続けていた。
その日、いつもと違って、黙ったまま静かに酒を飲んでいる僕に、今度は親父が心配そうに言いだした。
「お前、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないのか? そろそろ給料日前だろ?」
「うちじゃカードもツケもきかさねえぞ」
僕はその時、初めて自覚した。そうだった、最後の給料は出るのだ。しかし言われるまま、立ち上がるとすず子を見た。
「1500円よ」、そう言いながらカウンターの向こうから、すず子が無造作に僕に手を差し出した。飲んだ割に安かった。馴染みの割引だろう、心中でそんなこと思いながら、僕は財布から皺の寄った最後の札2枚を抜き取って、彼女の手に乗せた。
俯いたまま立ち上がり、扉に手を掛けるとすず子が僕に言った。
「まっすぐ帰りなさいよ。約束よ」
そして僕は振り向きながら、薄く微笑んでいる彼女を見つめ、その日、店ではじめて口を開いた。
「ごちそうさん」
僕は、わざわざ回り道をして時間を潰し、すず子が帰りに通る小さな公園で、ゆっくりと足を止めた。
終電はとっくに出ていた。
誰もいないベンチに静かに座り、風に揺れるブランコを見つめながら、冷たく重いコートのポケットに手を突っ込み、タバコの箱を取り出した。最後の1本に、緑のライターでそっと火をつけると、火はすぐついた。
そろそろ……、そんなことを思いながら僕は待っていた。
紫の夜空を見上げ、タバコを一息吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。
夜空を斜めに小さな星が走った様に見えた、その時、
「こら、公園でタバコを吸うな」
突然、聴きなれた女の声が聞こえた。振り向くとそこに、公園の街灯の灯を纏い、白い雪の上に薄く影を落とし、すず子が立っていた。
僕はそ知らぬふりで、尋ねた。
「どうしたんだ?」
「どうしたって……。今、帰るところよ。あなたこそ、こんなところで何してるの?
まっすぐ帰りなさいって言ったでしょ」、笑みを浮かべながら彼女はそう言うと、手にした缶コーヒーを僕に差し出した。受け取ると、缶コーヒーは暖かかった。彼女は黙っている僕を見つめながら、そっと僕の横に座った。特別美人な女ではなかったが、彼女からは素敵な匂いがした。
座ると空を見上げながら彼女が言った。
「あなた、また首になったんでしょ?」、すず子が薄く嘲笑するように微笑んだ。
「…………」
「解るわよ、長い付き合いだもの」
風に静かに揺れている公園の古いブランコが心に揺れ、小さなコオロギの鳴き声が心に響くようだった。僕はそんな2つのアートに酔っていた。
「これからどうするつもり?」
そんな僕を現実に引きずり込むように彼女が言った。
「…………」、僕は何も言えずにいた。
「あきれたわね」
「ハローワークには行ったんだ」、僕は慌てて弁解し、俯いた。
「それより、もう、とっくに終電は行ってるわよ。どうするつもり?」
僕は俯いてた顔を上げ、思いっきりの視線で、彼女を見つめた。
二人の視線が合った。
彼女はちょっと俯くと、しばらく何かを深く考えこんでいた。言葉の無い時間が静かに流れた。それでも僕は彼女を強く見つめ続けていた。再び二人の視線が合った。
「…………」
言葉の無い時間がながれ、お店でのすず子との、この3年間が僕の中で懐古していた。
すると彼女は、
「よし」と力強く言い、紫色の空を高く見上げ、僕の手を取り、何も言わずに立ち上がった。
次の日の朝だった。僕は目を覚まし、ベッドの横の緑のカーテンを開けた。するとそこに薄く真っ白な銀世界が広がっていた。
彼女はすでに起きて朝食の準備をしていた。女性的な香りのする部屋だった。
僕は起き上がり、ベッドに腰を掛け、テーブルの上にあった昨日のタバコの箱を取り出したが、中は空だった。
すず子が朝食を持って部屋に入ってきた。
僕の前にコーヒーとバターを塗った少し焦げたパンを差し出し、彼女が言った。
「この部屋も悪くないでしょ?あなたの部屋より少し安いわよ」
僕はコーヒカップに手を掛け一口、口にすると、いい香りが口いっぱいに広がった。




