1章
1章
「いつも通り」の朝だったが、目を覚ました僕は、少し疲れていた。
その日、ベッドを出ると、何も考えずに「いつも通り」出勤の準備を始めようとしていた僕には、すべてが「いつも通り」のはずだった。
時刻は6時30分。
晩秋のこの季節、夜が明けるにはまだ少しの時間があり、会社の同僚から比べると出勤準備を始めるにはやや早めの時間だった。
ゆらりと立ち上がった僕はだらしなく衣服の散らばった煙草臭い部屋の電気をつけ、取り敢えず顔を洗うために、何気なく洗面所に向かった。
そうして、洗面所に入った僕は、入った瞬間、突然、何をしたらいいのか分からなくなってしまった。
何をしに来たのだろうか?僕は自分に問いかけたが自分は答えてくれなかった。
仕方なく洗面所を出た僕はキッチンに戻って、安物のソファーに腰をかけた。
部屋は去年に引っ越してきた2K、家賃は僕の給料ではぎりぎりのものだったので、僕はいまだに母に縋って生きている。そんな僕に母は、ぶつぶつ言いながらも金を貸してくれる。
部屋は電車の駅もコンビニも近い。
ようやく顔を洗って、僕が朝食を取っている時、今度は、昨日の課長の一言が僕の耳にカミナリのように響き渡って来た。
あらゆる過去が僕の内から吐き出るようだった。叩き潰そうと僕は躍起になったが、叩き潰せない。
昨日、課長の席に呼ばれて告げられた「契約解除」。そうなのだ、僕は会社をクビになったのだ。課長は、僕にクビとまで強い言葉を使わなかった。
それは課長の最後の僕に対する思いやりだったのかもしれない。
正直なところそろそろ覚悟はしていたのだが、僕は唖然としてしまった。
ハローワークという言葉が脳裏に浮かんだ。
僕は部屋を出る準備を始めた。僕は何日も寝間着にしていた汗臭いトレーナーを脱ぎ捨てると、2、3日履いたままのパンツも脱ぎ捨て、ベッドの上に放り投げた。
晩秋の夜明け、素っ裸の僕に部屋の中の空気はいつもより冷たく重かった。
耳に届く市電の警笛は、いつもより寂しく悲しく、そしてはるか遠かった。
僕は通勤用に使っていた、古臭いチノパンと、1週間続けているタバコ臭いセーターに着替え、時刻表を見た。
しかし、街までの市電の時刻は、まだ1時間以上あった。
少し、拍子抜けした僕は、先月中古の家具屋から手にした、座り心地のいい木製の椅子に腰を掛けながら、これも中古の電気屋から買ったTVにスイッチをつけた。
出勤、いや、出かけるまでに、まだ時間があったので、ニュースを見ながら待った。
交通事故に殺人事件、おまけに戦争ときたが、ニュースの中の出来事は、僕にとっては、すべてただの他人ごとだった。総理大臣がアメリカに出かけたらしいが、今の総理大臣は誰なのだ?誰でもよかった。誰がなっても、僕の生活はたいした変わらない。
ようやく時間がきたので、僕は立ち上がり、セーターの上にコートを少しだらしなく引っ掛け、テーブルの上に置いたタバコとライターを無造作につかんだ。
部屋のドアを開け、外に出ようとしたとき、石油ストーブの火を消すのを忘れて、中へ戻った。
階段を降りて歩道を見渡した僕は、ふと足を止めた。何かを忘れてないか?何かを忘れてるんじゃないか?ストーブは消した、財布は持った。それでも僕はまだ少し納得できない気持ちが胸に残っていた。
しかしその気持ちを抱えたまま、僕はアパートの階段を下りた。
そして暗い道路をまるで悪事を企むように、素早く左右を見渡し道路を横切り、うつむいて、僕は市電の駅へ向かって足早に歩き始めた。
コートのポケットに手を突っ込み、瘦せたカラスの鳴き声が妙に冷たく響く裏通りをしばらく歩き続けた。
あちこち一人で街を歩き回っていた。人気の無い、時間の止まった街かど、腐った臭いのする街かど、悪の染みつく、うろつく街かど。
数人の若者がタバコを吸いながら面白そうに僕を見ていた。
この時間、風もなく、まっすぐな歩道には、人一人歩いていなかった。所々で赤黒いカラスがカアカア鳴きながら、捨てられたゴミを奪い合うようにつついていた。
道路は時々、空車のタクシーが走っているだけだった。
僕はコートのポケットに無造作に手を突っ込むとタバコを取り出し、火をつけた。雪がまるで、ガラスの様に輝きながらチラチラ降って来た。
以前この辺で吸いながら歩いていた時に、近所の親父に睨まれた事があった。立ち止まった僕は大きくタバコを吸い込むと空を見上げた。
灰色の雲のかかった空。雲しか見えなかった。空を見上げている僕は、雲の厚みに押し潰されていきそうだった。僕は咥えていたタバコを路上に投げ捨てて踏みつけると、駅に向かった。
ハローワークでは、仕事は便所掃除くらいだった。結局、僕は母に電話をし、実家へ向かうために、久しぶりにバスに乗った。僕が乗り込むと、席は何時もの様に空いていた。途中の停留所も乗客もなく通過し、まるでタクシーに乗っている様だった。僕は一番後ろの窓際の席に深々と腰を掛け、窓から外を見つめると、冬は来ていた。
着くとすべて知っているように僕を見つめ、母は言った。
「何があったんだい」
僕は懇願するように泣きついた、しかし、昔の母の優しさはそこにはなかった。
あれでも僕の小さい頃は自慢の母だった。幼い頃の母は美しかった。
「まったく、弟の結婚式にも顔をださんで絵ばっかりかいて……」
僕には双子の弟、健二がいたが、健二は優秀だった。僕は何時も健二と比較された。
母は顔を顰めて僕を見ていた。僕は小さな頃から絵を描くのが好きだった。だが、大学受験の中で、僕は夢を捨てた。捨てたつもりだった。




