9.
(どうして、彼がここに……?)
エメリーネの心が大きく震えた。
一度目の人生では、オディロンはエメリーネの誕生日パーティーに出席しなかった。
国境のリマンドの街に蛮族が押し寄せ、田畑を荒らし、店を襲い、子どもや若い女性たちを連れ去ろうとしたのだ。その蛮族退治のために派遣されたのが、オディロン・ベルジュ公爵率いる国軍の第一師団だった。ガレッティ国では各公爵が国軍の師団を統率しており、私兵を持つことは許されていない。
国の命令により師団を動かす際、ほとんどの公爵は代理の師団長を任命し、自らは安全な城に留まる。しかし、オディロンだけは違った。彼は常に戦場の最前線に立ち、剣を握り、血と汗にまみれた。
だからあのときも、彼が反乱軍を率いて先頭に立つことを望んだのだが――。
「オディロン・ベルジュ公爵……あなた、リマンドの街に行っていたはずでは……」
エメリーネの声は驚きと疑念によって微かに震えていた。
「えぇ。ですが、そちらはすでに解決してあります。他の者はこれから帰還いたしますが、私だけ、このパーティーに間に合うように先に戻ってまいりました」
彼の声は低く、非常に落ち着いていた。
手を取られたまま、エメリーネは彼を見下ろす。軍服に身を包んだ彼は、絹や金糸で飾られた正装の貴族たちとは異なり、戦塵にまみれた雰囲気を漂わせていた。
「ベルジュ公爵。そのような出で立ちで王女様のパーティーに出席するなど、不敬では?」
鋭い声が割り込んだ。アルマスだ。彼はまるで獲物を狙う肉食獣のように、隙あらばオディロンを貶めようとしている。
会場に集う貴族たちの視線が一斉にこちらに集まり、空気がぴんと張り詰めた。
エメリーネの胸に、苛立ちと同時に不安がよぎったが、きゅっと表情を引き締める。
「おやめなさい、アルマス」
エメリーネの凛とした声色が響いた。
「彼はこの国のために軍を率いて戦ってくれたのです。それなのに、わたくしのパーティーに間に合うようにと、国境から馬を飛ばしてきたのでしょう? 臣下の鑑ではありませんか?」
エメリーネは絹のハンカチで、オディロンの耳元の血痕をそっと拭い、優雅にしまう。群衆が息をのむ中、艶やかに微笑んだ。
「喜んで、あなたの誘いをお受けいたします」
オディロンはエメリーネの手の甲に軽く唇を寄せ、立ち上がった。
二人が並んで進む先では、人がさっと避けて道を作る。シャンデリアの光によって会場は黄金にきらめき、まるでこの世界が二人のためにあるかのよう。
二人は三拍子の音楽に合わせ、ステップを踏み始めた。エメリーネのドレスが華やかに広がる。
「悪かったな、このような格好で。だが、上着だけは着替えてきたんだがな」
オディロンの声は、先ほどまでの硬い口調から一転、くだけたものに変わっていた。彼の唇に浮かぶわずかな笑みが、エメリーネの心を一瞬かき乱す。
「いいえ。こうして駆けつけてくださったことに心から感謝いたします。ですが、リマンドの街は落ち着いたのでしょうか」
その問いに、彼は怪訝そうに眉を寄せた。まるで言葉の裏を探るように。
「先ほども思ったのだが。世間知らずだと思っていた王女様は、意外と国内の情勢に通じているのだな」
エメリーネは微笑み、軽やかに足をさばきながら答えた。
「えぇ。愚かな王女を演じていれば、周りが勝手に動くでしょう?」
「ほう? それで裏切り者でもあぶり出すと?」
そこでエメリーネはくるりと回され、ドレスの裾が花びらのように広がる。会場からは感嘆の声がもれる。
だが、一瞬、エメリーネの心はざわついた。
一度目の人生で、彼の腕の中で息絶えた記憶が、脳裏をよぎったのだ。燃え盛る王城、血と煙の匂い。
それはアルマスに見えたオーラとは異なるものだった。
(どうしてオディロンのオーラが見えないの?)
オディロンからは、色のついた空気が見えない。
「それにはお答えいたしかねます。だって、あなたが敵か味方かわかりませんもの」
エメリーネはふふっと小悪魔的な微笑を浮かべ、動揺を隠す。
「なるほど。王女様の敵が何を指すかわからないが……」
彼の赤褐色の目が、鋭くエメリーネを射貫く。
瞬間、彼の後ろに焼け落ちる王城の幻影が浮かんだ。一度目の人生、エメリーネはこの場所で、彼の腕の中で死んだ。
音楽に身を任せているエメリーネの背筋に、冷たい汗が流れる。
「どうした? 考え事か?」
オディロンが耳元でささやいた。
エメリーネは一瞬、言葉に詰まったが、すぐに笑顔を取り戻した。
「えぇ、ごめんなさい。どうしても踊りたくない相手がいて……。でもその人は絶対に誘ってきます。それをどうやって断ろうかと、ずっと考えておりましたの。ベルトルトにも相談したのですが、大司教と踊ればいいと提案してくれたのですが……」
「なるほど。大司教デオバルトと踊ろうとしていたところを、俺が声をかけたわけか……。踊りたかったのか?」
「え?」
「大司教と」
そう言ったオディロンは、エメリーネの身体を軽々と抱き上げる。エメリーネは小さく悲鳴を上げる。
「きゃっ。違います。踊りたくない人から逃げるために、大司教に助けを求めようとしただけです。大司教は、わたくしの二人目の父親のような存在ですから」
「なるほど。では、俺と踊り終えたらどうするつもりなんだ?」
「ですから、それを今、考えておりましたの」
「俺とのダンス中に考え事をされるとはな。気に食わないな」
今度はぎゅっと身体を抱き寄せた。その力強さに、エメリーネの心が一瞬高鳴ったものの、彼の軍服からほのかに漂う革と土の匂いが、現実へと引き戻す。
「王女様が踊りたくない相手とは誰だ? 助けてやる」
エメリーネは驚き、ぱちぱちと目を瞬いた。
「あなたが?」
「ああ。王女様が言ったんだろ? 愚かな者を演じれば、周囲が勝手に動くと。俺も愚か者を演じてみようかと思ったのだよ。どうする? 俺の話に乗るか、乗らないか。どっちだ?」
その真剣な眼差しに、エメリーネの心臓がドキリと跳ねた。赤褐色の瞳はまるで燃える炎のようにエメリーネの心を捕らえ、視線をそらすことができない。
「わかりました。あなたの話に乗ります」
エメリーネが動くたびに、ティアラの紅玉がシャンデリアの光を反射させ、眩しくきらめく。
「それで、相手は誰だ?」
「アルマスよ。今夜のパーティーでは、できるだけあの人に近づきたくないの」
「なるほどな……承知した」
オディロンの口元に、ふっと危険な笑みが浮かんだ。その瞬間、エメリーネの身体が大きく傾き、小さく悲鳴を上げる。
「きゃあっ」
エメリーネの声と同時に、会場にいた他の貴婦人たちからも甲高い叫び声が上がった。音楽はなおも続き、シャンデリアの光が二人の影を床に長く伸ばす。
遠くでアルマスの黒いオーラが揺らめくのを感じた。




