50.
(なんてことだ……)
握りしめたペン先が書類に沈み、インクの染みを作っている。
(なぜ、エメリーネ王女の婚約者にオディロン・ベルジュの名があがったのだ……)
執務席でペンを握りながら身体を震わすアルマスに、誰も声をかけられない。
(そろそろ、陛下にも消えてもらおうか……)
ペンを置き、インクが滲んだ紙をくしゃっと丸めて床に落とす。
「コンスト」
名を呼ばれただけだというのに、低く響くアルマスの声に、コンストは大きく身体を揺らした。
「は、はい」
「お茶を淹れろ」
お茶を用意するのは秘書官の仕事ではない。ましてコンストは王女付きの補佐官であって、アルマスの直接の部下ではないというのに、そんなことはお構いなし。
「はい。お茶はいつものでよろしいですか?」
「そうだ」
コンストも慣れたもので、それだけでエメリーネが定期的に届けてくれるシナモンティーだとわかる。
お茶の用意をし終えたコンストは、黙ってアルマスの机の上にカップを置いた。香辛料と甘さが混じった独特の香りが、室内に漂う。
(エメリーネ王女にふさわしいのはこの私……あの野蛮な男ではない……)
だからエメリーネだって、定期的に茶葉を届けてくれるのだ。
――アルマスには健康でいてほしいもの。
恥ずかしそうにはにかんだエメリーネだからこそ、補佐官を使ってお茶を贈ってくれるのだろう。
(エメリーネ王女は、控えめなところもあるからな……)
だからエメリーネは人前に出ることは滅多になかった。むしろ他人との接触させないようにしてきたのだから仕方あるまい。
アルマスは、微かに震える手でカップを持ち、口に近づけた。刺激のある味が、口の中に広がっていく。
(まずは、私とエメリーネ王女の仲を周知させる必要がある)
エメリーネと最も近しい立場にあると、アルマスは自負している。エメリーネのなつきようを見れば、誰だってそう思うだろう。
それなのに、なぜ国王はオディロンをエメリーネの婚約者として名をあげたのか。
怒りによって満たされる胸も、エメリーネのお茶を飲めば、それもすっと消えていく。
(陛下は、エメリーネ王女の相手にふさわしいと思う者は名乗りをあげろと言っていたが……)
そこでアルマスが名乗りをあげれば、わざとらしいだろう。
これは駆け引きなのだ。
(となれば……エメリーネ王女ができるだけ他の男性とも交流を持てるようなパーティーを開けば……)
考え事をすると口寂しくなり、ついついお茶を飲んでしまう。しかもこのお茶は、他のお茶と違って甘ったるくなく、刺激的な味。
「コンスト、おかわりを淹れろ」
コンストは黙ってアルマスの指示に従い、もう一杯、お茶を淹れる。
腹立たしさに満ちているアルマスと同じ空間にいるコンストとヨハンは、近くに控えているだけ。
コンコンコンコン――。
「宰相閣下、エメリーネ王女の補佐官をお貸しいただけますか?」
ゆっくり茶を味わっていたアルマスの至福の時間を邪魔しに来たのは、エメリーネの補佐官。女性補佐官を望んでいたエメリーネは、たまたま軍を辞めた小娘に声をかけたらしい。きっと、手の空いている女性はいないかと、聞いて回ったにちがいない。そしてそこにたまたまいたのが、あのエリナという小娘なのだ。
「エメリーネ様がお呼びでございます」
一瞬、エリナの視線はアルマスの手元に向いたが、すぐに補佐官の二人と向き直った。
アルマスは小さく舌打ちをしてから「行ってこい」と二人に命じる。何か言いたげなエリナだが、コンストとヨハンを連れて、部屋を出ていった。
一人残されたアルマスはカップの残りを一気に飲み干し、空になったカップを勢いよくソーサーの上に戻したが、その手は小さく震えていた。
近頃、なぜか疲れやすい。いや、イライラするからだ。
国王も思い通りに動かない。オディロンが邪魔をする。そしてエメリーネ王女は……小悪魔のようにアルマスを翻弄するのだ。
コツ、コツ、コツ、コツ。
扉をゆっくり叩かれ、エメリーネは「どうぞ」と答える。
執務室にやってきたのはエリナとコンストとヨハンの三人だ。
エメリーネは、彼らのオーラを確認するためにさっと視線を向ける。
「ごめんなさい、忙しいところ呼び立ててしまって」
「いいえ。エメリーネ王女の頼みとあれば、最優先で対応させていただきますよ」
穏やかな口調のコンストのオーラの色は変わっていた。それはヨハンも同じである。
今までは、たまに見せる緑や黄色のオーラもどこかくすんだ色だったが、今は鮮やかさが増している。純粋な緑とは言えないものの、それでも以前よりは明るい色になっていた。
彼らは次第にアルマスを見限っている。いや、アルマスにつくよりも他の人間についたほうが得策だと判断したのだろう。
もちろんその相手はオディロンなのだが。
エメリーネとオディロンは、告解室で互いに情報のやりとりを行っている。そしてつい先日、オディロンがオウネル侯爵家とコンストに接触していたことを教えてもらった。
――オウネル侯爵領の生花だが、ジオグ国への輸出を始めた。
もともとオウネル侯爵家の生花なら、ジオグ国で好まれるだろうと言ったのもオディロンである。国内では愛でるしかなかった生花だが、ジオグ国では加工して利用されているらしい。しかもジオグ国でその花を詳しく調べたところ、食用としても利用できることがわかった。だから、焼き菓子の香り付けやお茶にも利用され始め、一気に需要が跳ね上がったとも聞いている。
(だから、オウネル侯爵家もアルマスから借りたお金については、返済の目途も立ち始めた……)
それでもオディロンは、オウネル侯爵にはまだアルマスに従順な振りをしろとも言ったらしい。いきなり距離を取ると、アルマス本人も疑い出すからというのが理由である。
だがヨハンも家に余裕が出てきたことに気づいているのだろう。それが彼のオーラに表れていた。もしかしたら、そのうちヨハンのオーラも見えなくなるのだろうか。
――コンスト・イングリスは、宝物庫から盗みを働いて、国内で売りさばいていた。
国内で売ったらバレるだろうにと、オディロンは小さな窓の向こうで笑いをかみ殺していた。
――少々脅しておいたからな。コンストのほうで盗んだ宝飾類は、俺のほうでできるだけ回収しておいた。今頃、宝物庫に戻っているだろう。
オディロンがまとめる第一師団には、どうやら優秀な軍人が多いらしい。いや、エリナの言葉を借りれば、オディロンは人を使うのがうまい。つまり、相手の能力を最大に引き出すことに長けている。だから、売られた宝飾類がどこにあるのかを調べ、買い戻したらしい。
(でも、宝物庫にあるべきもののいくつかは、なくなったままだわ……)
その一つがジオグ国から贈られた、例の首飾りである。
「お母様の宝飾類を確認したいの。宝物庫へ行くので、手伝ってもらえないかしら?」
コンストは、小さく身体を震わせた。




