41.
グシャッと書類の上にインクが飛び散った。どうやら知らぬうちにペン先に力を入れていたらしい。
「宰相閣下……」
秘書官がやってきては、アルマスの手からインクを拭き取り始める。
(オディロン・ベルジュ公爵……目障りなやつだ……)
エメリーネの誕生日パーティーに、オディロンが出席してからすべての歯車が狂い始めた。
オディロンはエメリーネの婚約者候補として名を連ねており、候補者の中でも、見目、身分、年齢と、すべてにおいて他の者より突出していた。いや、アルマスだって年齢さえ除けば、オディロンと大差ない。
たまたまエメリーネより二十年早く生を受けただけ。二十の年の差など、大した障害にはならないだろう。見目だって、社交の場では「宰相閣下、お話を」と、女性が次から次へと声をかけてくるくらいだから悪くはないはずだ。むしろ、整っているほうだと自負している。
それなりの地位にいるのだから見た目に金と気を使うのは当然である。身分だって、代々、宰相を輩出してきた公爵家であり、この家門と同等以上なのがベルジュ公爵家くらいなのだ。だからオディロンが目障りでしかない。
「いたっ。何をする」
手についたインクを拭いていた秘書官だが、指と指の間に入り込んだインクを拭き取ろうとして力を込めてきたところ、その爪が引っかかってしまった。
「も、申し訳ありません」
アルマスは忌々しく舌打ちをすると、空いている手で机の上をトントントンと叩き始めた。
何もかもうまくいかないのはオディロンのせいである。あのままリマンドの街にいればよかったものの、蛮族を捕まえた彼は、部下たちよりも一足先に王都へと戻ってきて、エメリーネの誕生日パーティーに姿を現した。そしてアルマスより先に、エメリーネにダンスを申し込んだ。
今、思い出しても腹立たしい。なんとかしてオディロンをこの舞台から引きずり下ろしたい。そうしなければ、エメリーネは彼から悪知恵を吹き込まれてしまう。
彼女がアルマスに意見を言うようになったのも、オディロンが背後で操っているからだ。
(だから、お礼状を書くと言い出したり、茶会を開いたり……)
だがそれくらいならまだ問題はない。所詮、女性の集まりで女性同士の繋がりだからだ。男性が爵位を継ぐこの国では、女性の地位は男性と比較して低い。とはいえ、王族だけは別とされ、女王も認められている。
(女が王になるなど……)
許されるわけがない。
(王にふさわしいのは、この私……)
ぎりりと奥歯を噛みしめたとき、「終わりました」と秘書官が汚れた手巾を畳んだ。
アルマスはふん、と鼻息荒く答えてから、新しいペンを手にして書類にペン先を走らせる。
(とにかく、ベルジュ公爵の監視は強めたほうがいいだろう。またエメリーネ王女の周囲をうろつかれても困るしな)
アルマスは、にたりと不気味に口角をあげる。
近頃のオディロンは、朝議の場に顔を出すものの、あとは軍事施設のほうに入り浸っているのは、何ごとも力業で解決するような男だからだ。
だが、彼がそちらに行っている間は、エメリーネとの接触も避けられるはず。誕生日パーティーの直後は、何かとエメリーネと顔を合わせていたようだが、近頃はおとなしい。
(剣を振るうしか脳のない人間が……)
危うく新しいペンにも力を込めそうになったため、アルマスはいったん、ペンを置いた。
お茶を淹れるようにと、部下に命じようとしたそのとき。
「宰相閣下、エメリーネ王女が、亡き王妃殿下の宝飾類を確認したいと……」
ノックもそこそこにコンストが執務室に飛び込んできた。彼にはエメリーネの補佐官として、王女の資産管理を補佐している。
「なんだと……? いったい、何があったんだ?」
「理由はわかりません。もしかしたら、母親との思い出の品をと思っているだけかもしれません」
「なるほど。まだ幼いエメリーネ王女らしい」
そう答えてみたものの、どうやってその話を断ろうかとアルマスは頭の中で考えを展開させる。
――トントントン……。
扉の叩く音でアルマスは息を詰める。
「アルマス、わたくしよ? 今、お時間、大丈夫かしら?」
ここで断っても変に思われるだろう。それに、エメリーネのほうからアルマスを頼ってきているのだ。
「どうされました? エメリーネ様」
エメリーネに警戒心を与えぬよう、笑顔で応じれば彼女も安心したのか、はにかんだように微笑み返す。一時期は反抗的な姿を見せるようになったが、今では子猫のようになついてくるではないか。
(補佐官をつけたのがよかったのかもしれない……)
チラリとコンストを横目で見て、内心ほくそ笑む。
名ばかり補佐官ではあるが、それがいるのといないのとでは周囲からの印象も異なるものだ。それに、オディロンが軍事施設に入り浸るようになったのは、彼らをエメリーネの近くにおいてからだから、どうやら名ばかり補佐官はオディロン避けにもなっているらしい。




