32.
テレジア神と話をし、オディロンの申し出を受け入れると決めたはずなのに、エメリーネの心の奥では何かがくすぶっていた。
オディロンは、エメリーネも気を許せる人間の一人である。顔や人となりも知らないような他国からの王族、貴族と結婚するわけでもないのに、なんとも表現しがたいもやもやした気持ちが、胸の奥を支配しているのだ。
それでも受けると決めたからには、オディロンにはきちんと返事をしなければならない。
それに五日後、どちらの答えにしろ、彼の屋敷を訪れる約束をしたのだ。
アルマスなんかは王城に住んでいるのに、オディロンは所有する屋敷から通っている。オディロンだって望めば王城で暮らせるのに、それを指摘すれば「宰相閣下が嫌がるだろう?」と冗談とも本気ともとれるような答えが返ってきた。
とにかく五日後、約束通り今日と同じ時間に彼の屋敷を訪れるが、アルマスに見つからないのを祈るだけ。
たった五日、されど五日。
いてもたってもいられず、シーラには幾度も相談したが「とてもよいお話だと思います」と、彼女は喜びの色をその顔に浮かべていた。
この五日間は一年のように長く感じたし、ほんの数秒のようにあっという間にも思えた。
また、ベルジュ公爵の屋敷を訪れた後に聖堂へ足を伸ばせば、たとえアルマスに見つかったとしても言い訳はなんとでもなる。彼の前では無知で無邪気で素直なエメリーネを演じていればいい。
エメリーネの十七歳の誕生日パーティーでは、少し反抗的な様子にアルマスは怒りに満ちていたようだが、それ以降、彼の言葉に従うようにすれば、そのオーラも真っ黒いものから灰色、そしてくすんだ緑や黄色といったように変化していった。それを見れば、彼の感情とオーラは連動しているものと推測された。
わかりやすい。
考えは読めなくても、感情は見える。これはエメリーネにとって、最大の武器になる。
「ようこそいらっしゃいました、エメリーネ王女」
五日前と同じ時間にベルジュ公爵邸に足を運べば、エントランスで出迎えてくれたのはオディロンその人であった。
「突然の訪問にもかかわらず、受け入れてくださったことに感謝いたします」
先触れを出さずに訪れたため、形式にのっとった挨拶をするが、そもそも先触れ不要と言ったのはオディロンである。だからこれは周囲にいる使用人たちに悟られないようにするための演技なのだ。
オディロンはエメリーネをエスコートしたまま、外に出た。案内された場所は、先日も足を運んだ東屋である。
だが、彼は人払いをしていたのだろう。テーブルにお茶やお菓子が用意されていたが、他には誰もいなかった。
「……オディロン」
彼の申し出に答えようとその名を唇にのせるが、肝心のオディロンは「これは君の好きなお茶だ」と、先にお茶を飲むようにすすめてきた。
「この焼き菓子も好きだったよな?」
星形やハート型に形取られたクッキーだが、その真ん中にはジャムがのせられているもの。
「そういえば……宝石みたいだと言って、両手にもって食べていたな」
「なっ……だから、どうして、あなたは……」
エメリーネの恥ずかしい話ばかり覚えているのだろうか。
赤くなっただろう頬を隠すかのように、白磁のカップに手を伸ばす。ふわっと芳しい香りによって鼻腔を刺激され、エメリーネはコクリと一口だけお茶を口に含んだ。
「……美味しい」
「そうか。気に入ってもらえてよかったよ」
オディロンの口元がふっとゆるんだ。
「約束しただろ? 次はここにお菓子を用意すると」
どうやらあれは冗談ではなかったらしい。ほんの些細なことなのに、こうやってきっちり守ってくれるのがオディロンなのだ。
しかし今日は、ここにお茶をしに来たわけではない。
「オディロン。わたくしは、先日の返事をしに来ました」
カップをテーブルの上に戻し、エメリーネはすっと姿勢を整えた。両手は膝の上にのせて、軽く握る。
「そうだな。それが俺との約束だったはず」
「はい……」
返事をしつつもゆっくり頷いたエメリーネは、深く息を吐いた。
「それで、エメリーネ王女の返事は? 俺と結婚するのか?」
どこか軽い口調だったが、彼の赤褐色の眼差しは真剣そのものである。
「……はい。あなたとの縁談、お受けします」
受けると決めたときから、頭の中で何度もどうやって返事をするかを考えていたが、その考えなどすべてが吹っ飛んだ。ただ、心臓だけは荒波のように激しく動いている。
「そうか……」
緊張をまとわせていたオディロンの表情が、一気にゆるんだ。
「エメリーネ。俺はあらためて君に求婚する」
いきなり立ち上がったオディロンは跪いた。いったい何が起こったのかと、エメリーネが目を丸くしている間に、彼がそっと左手に触れる。
「エメリーネ王女、どうか俺と結婚してほしい……本当は指輪を用意したかったのだが、アルマスに見つかっては厄介だろう?」
彼はエメリーネの左手を取ると、そこに小さな宝石がいくつかちりばめられた腕輪をはめる。
「これくらいであれば、目立たないだろうから」
お礼を言わなくはと思うのに、言葉と一緒に心臓が口から飛び出そうで、唇をはくはくと開け閉めするだけ。
オディロンは何も言わず、エメリーネの言葉を待っている。
「……ありがとう、ございます」
瞳を潤ませて、なんとかエメリーネはそれだけ告げた。
「拒まれたらどうしようかと思ったよ」
オディロンの指がエメリーネの目元に触れ、少しだけこぼれた涙をぬぐう。
「だが、君と結婚するには議会の承認を得る必要がある」
「はい……その件については、テレジア神にも伝えました」
オディロンのこめかみがひくりと動く。
「それで、テレジア神はなんと?」
「わたくしの幸せを願ってくれました」
「……そうか、あいつも諦めたのか?」
ぼそりと呟くオディロンの言葉に、エメリーネはまったく心当たりはなく、それを聞き流す。
「ですから、何がなんでも、あなたとの関係を議会に認めてもらいます」
「それは心強いな。だがな」
そこで立ち上がったオディロンは、エメリーネの隣に腰を下ろした。
「なんでも一人でやろうとするのが君の悪い癖だ。俺と一緒になると決めたのなら、もっと俺を頼れ。いいな?」
そんなことを考えたことはなかった。一度目の人生も、オディロンの正義を利用したのだ。そして今世も、彼の知識と人脈を借りようとした。その結果、彼から求婚されるとは思ってもいなかったのだが。
とはいえ、アルマスとの縁談を避けるためには確実な方法に間違いはないし、そのアルマスがこの縁談を素直に認めるはずがない。
「はい……ですが、議会の承認を得る前に、わたくしとあなたの関係が外に漏れてはいけないような気がするのです」
オディロンは「ほぅ?」と、片眉をあげる。
「だって、間違いなくアルマスが邪魔をしてくるでしょう?」
公爵を始めとし、侯爵や伯爵も、アルマスの息がかかったものがほとんどだと記憶している。
「だから、わたくしがここを訪れるのも今日でおしまいにします」
「俺が君と話をしたいときは、どうするつもりだ?」
面白くないのか、彼の声には不機嫌の色がまとわりついていた。
「聖堂の告解室を使います。夕方は王族のための祈りの時間です。継承権が残っているあなたにも、その権利があるでしょう?」
「なるほど……つまり、エメリーネ王女は、俺に神になれと言っているのだな?」
その問いに答える代わりに、エメリーネは清冽な笑みを浮かべた。




