17.
アルマスは苛立っていた。執務室に響くペンの音が止まり、苔色の瞳が怒りに揺れる。
その理由ははっきりしている。お飾りのエメリーネ王女が、自分の望むように動いてくれないからだ。
公爵位を持つアルマスは、王族とまったく無縁というわけではない。何代かさかのぼれば王家の血筋に連なるが、アルマス自身は王族ではない。何より、その血筋があまりにも遠すぎるのだ。
それでもタルボット公爵家は代々宰相を務めてきた由緒ある名家である。薄いながらも王家の血が混じっていることが、その立場を支えていた。
そんなアルマスが確実に王族の一員になるためには、女王となる者と結婚するのがもっとも確実である。
幸い、現国王には子が一人しかいない。だから次期国王となるのはその娘、エメリーネだ。ならば、彼女と結婚すればいい。
そして彼女を傀儡の女王とし、実権をすべて自分の手に収める。
それがアルマスの目論見だった。
その計画の最大の障害となったのが、聡明な王妃である。彼女は勘が鋭く、もしかするとアルマスの狙いすら見抜いていたのかもしれない。
王妃はエメリーネをアルマスから遠ざけ、自ら娘に必要な教育を施そうとしていた。
――女は少し愚かなほうが扱いやすい。
アルマスは常々そう考えていた。だからこそ王妃の存在は、彼にとって厄介極まりないもの。
王妃は国王を超えるほどの知性を持っていたが、決しておごり昂ぶることなく、相手に気づかせぬようそっと助言し、手柄は相手に譲る。
これは本当に才気あふれるものだけができる芸当だった。
そのため排除するしかなかった。
アルマスは、二年前から少しずつ王妃の飲食物に毒を盛っていた。それも並みの毒ではない。自ら所有する鉱山で採れた鉱物に、珍しい金属が含まれていることがわかった。その成分を分析させたところ、人体に悪影響を及ぼす物質が含まれていることまで。
彼女の飲む紅茶にほんのわずかずつ、粉を落とし続けた。じわじわと身体を蝕み、自由を奪っていくように。
ゆっくりと衰弱していった王妃は、昨年ついに力尽き、静かに命の灯を消した。
王妃を深く愛していた国王は、彼女の死をきっかけに気力を失い、政務のすべてをアルマスに預けるようになった。
何もかもがアルマスの思惑どおりだった。
アルマスにとって必要なのは、ただの飾りにすぎない王。自分で何も判断できない、間抜けな王。
表面上は国王を支える側近として振る舞いながら、徐々に国王の精神を蝕み、思考を操るようになった。そして、エメリーネ王女の婚約者としてアルマスを選ぶよう王に働きかけてきたのである。
だが国王はただ一つ、エメリーネの結婚相手だけは慎重に選ぼうとした。
その様子が、いっそうアルマスの苛立ちを募らせていた。
エメリーネの十七歳の誕生日パーティーは、社交デビューも兼ねていた。本来なら昨年行われるはずだったそのデビューは、王妃の突然の逝去によって延期となった。
この一年間、エメリーネに余計な知恵と力を与える者を遠ざけ、従順な王女を作り上げたと、アルマスはそう思っていた。
パーティーでエメリーネには、自分の瞳の色と同じ宝石をつけてもらうつもりで贈り物を準備し、事前に手渡そうとした。
しかし、それを受け取ったのは彼女ではなく、彼女付きの侍女だった。力のないラモン伯爵の娘に過ぎないと考え、側に置くことを許していたが、それは誤算だったのかもしれない。
そう思っていたが、娘に贈り物を受け取るよう命じたのは、エメリーネ本人だった。
どこかあどけなさの残る唇から発せられた拒絶の言葉は、アルマスの心に鋭く突き刺さる。
――彼女を屈服させたい。
そんな衝動が、心の奥底からふつふつと湧き上がる。
彼女はどんな声で懇願するのか。どんな声で啼き、どんな声で求めるのか。
それを想像するたび、下腹部が熱く滾るのを抑えきれなくなる。
まずは人前で、エメリーネとの関係を見せつける必要があった。贈り物作戦は失敗したが、せめて彼女とダンスを踊り、伴侶としてふさわしいのは自分であると知らしめなければならない。
アルマスは、ファーストダンスを踊り終えたエメリーネを狙っていた。ここで彼女を捕まえて、続けて二曲、三曲と踊ればいい。世間知らずのエメリーネは、きっと素直に従うはずだ。
そう踏んでいたのに「宰相閣下、お話を」とうるさい夫人たちが次々とまとわりついてくる。
それを振り切って急いだものの、エメリーネはすでに聖職者ベルトルトの手を取っていた。
もっとも彼ならまだよかった。エメリーネと兄妹のように仲が良いことは関係者の間でも有名であるし、司教である以上、彼がエメリーネの結婚相手に名乗りを上げることはできない。
ベルトルトは敵ではない。むしろ味方に引き入れる価値があるだろう。
そう考えながら、仲睦まじく踊る二人から視線を離せなかった。
今度こそアルマスがエメリーネの手を取ろうと意気込んでいたそのとき。
突然現れたのが、忌まわしきオディロン・ベルジュ公爵だった。
いや、アルマスが本当に憎いと思っているのはオディロン自身ではない。むしろその家、ベルジュ公爵家のほうだ。同じ公爵家でありながら、あちらには今も王位継承権が残っている。というのも、先代の王の妹がオディロンの祖母にあたるからだ。アルマスの家系が代々遡らねば王族に繋がらないのとはまったく違う。
そんな彼が、よりによってエメリーネに手を差し伸べるとは。
アルマスが鋭い視線を送っても、オディロンが怯むことはなかった。エメリーネにもたしなめられ、渋々引き下がった。
こうなることがわかっていたから国境のリマンドの街に蛮族を手引きし、その対応にベルジュ公爵率いる国軍第一師団を指名したというのに。彼は軍神と呼ばれる男。自ら最前線に立つのはわかっていた。
ギリギリと唇を噛みしめたアルマスは、次こそは、次こそはとタイミングを狙い続けたが、その順番が永遠に巡ってくることはなかった。
募るのはオディロンへの憎悪と、エメリーネへの執着にも似た劣情。
――どんな手を使ってでも、必ずエメリーネを自分のものにしてみせる。
オディロンに抱きかかえられ、会場を退出していくエメリーネ。その後ろ姿を、見続けることしかできなかった。
きっとそのとき、オディロンがエメリーネに吹き込んだに違いない。贈り物への礼状を送ることを。
社交界デビューを果たしたエメリーネにとって、初めての執務となるはずだったそれを、彼女に教える者は誰もいなかったはずだ。
アルマスは時期を見計らい、彼女に代わって「遅れたお詫び」と共にお礼状を送る計画だった。
だからエメリーネが自ら宝物庫に赴き、贈り物の目録を求めたのは完全に想定外だった。
こんな知恵をつけたのは、間違いなくオディロンだ。
ラモン伯爵の娘が仕組んだとは思えない。彼女は自分の立場をわきまえているはずだし、少し脅しておいたから問題ない。
そのため、アルマスの怒りは、ますますオディロンに向けられた。
「閣下」
突然、執務室の扉が勢いよく開き、秘書官が慌てた様子で駆け込んできた。
「なんだ、騒々しい」
「ベルジュ公爵が……」
アルマスの苛立ちは頂点に達した。
バキッ――!
秘書官からの報告を聞いたアルマスだが、腹立たしさのあまり握りしめていたペンが折れた。真っ黒なインクが指を汚し、書類の上に滴り落ちる。




