第9回:不確実性の排除、および財務戦略の策定
「――結論から言おう。現在の我が軍の防衛線は、あまりに『情』に流されている。これは戦略ではなく、ただの慈善事業だ」
ダンジョンの深層、急造された司令部の壁一面に、青白く光る魔法の数式がびっしりと書き込まれていた。 昨夜から一睡もせずモニターを操作し続けているのは、新たに「最高財務責任者(CFO)」の座に就いた赤髪の数学者、ロレッタ・バルザックである。 彼は、テオが生成した魔法のポインターを指揮棒のように振り回し、レティシアが構築した防衛マップの各所に、冷徹な「改善点」を突きつけていた。
「ロレッタ殿、言葉を選びなさい。私は常に、最小の損害で最大の戦果を挙げる兵站思想に基づき運用している」
レティシア・フォン・ベルシュタイン少佐は、愛用の魔導ライフルの整備をしながら、碧眼を細めて応じた。 彼女にとって、合理性こそが美徳であり、それを否定されることは軍人としての根幹を問われるに等しい。
「『損害』の定義が甘いんだよ、少佐」 ロレッタは鼻で笑い、ふと自らの赤い髪をかき上げた。 その仕草には、かつて王立アカデミーの異端児として、数字ですべてをねじ伏せてきた傲慢さと、それゆえに味わった深い孤独が滲んでいた。
ロレッタ・バルザックには、忘れられない数式がある。 かつて王宮の財務官として、彼が算出した「国家予算の終焉」を告げる解だ。 彼は、腐敗した貴族たちの遊興費や不透明な軍事費をすべて変数として組み込み、この国が数年以内に債務超過で崩壊することを証明してみせた。 「数字は嘘をつかない。嘘をつくのは常に、その数字を直視できない人間だ」 ――そう断言した彼は、真実を恐れた王家によって「反逆者」の烙印を押された。 彼が愛した数学は、彼を栄光の座から地下の泥沼へと突き落としたのである。
「……君は敵を殺さず、行動不能にして放置することで、ダンジョンへの滞在時間を延ばし、魔力供給を安定させている。だが、その維持コストを計算に入れているか?」 ロレッタの言葉は、かつての自分を裏切った無能な国家への怒りを、目の前の現実にぶつけているようでもあった。 「捕虜となった彼らが消費する空気、スペース、そして彼らを監視するために割かれるセアラの稼働時間……これらすべてを時価換算すれば、今の運営は赤字だ。僕がいたあの腐った国と同じ道を辿らせるつもりか?」
「……っ」
「ボクたちのやってること、間違ってたのかな……?」
二人の鋭い視線が交差する中、テオが不安げに口を開いた。 レティシアはすぐさまテオの傍らに膝をつき、その小さな手を握る。
「いいえ、閣下。これは間違いではなく、最適化の過程です。バルザック殿は、我々が気づかなかった『目に見えない損失』を数値化してくれているに過ぎません」
レティシアのフォローに、ロレッタは少しだけ表情を和らげた。 彼はテオの純粋な瞳を見つめ、かつて自分が救おうとして拒絶された「国民」という概念を、この小さな少年の姿に重ねたのかもしれない。
「閣下、善意は素晴らしい。だが、善意だけではパンは焼けないし、要塞も築けない。僕がやるのは、あなたの『優しさ』を、世界で最も強固な『通貨』へと変換する作業だ」
ロレッタは、空中を浮遊する膨大なデータを一瞬で並べ替えた。 それは、レティシアが構想していた「10年ロードマップ」のフェーズ2、すなわち「ダンジョン都市化」に向けた具体的な財務戦略の雛形だった。
「いいかい。これまでの略奪経済――迷い込んだ者を剥ぎ取るだけのモデルは、今日限りで廃棄する。これからは『循環経済』への移行だ。地上に、我が軍の管理下にある『安全地帯』……宿泊施設、武器の修繕屋、さらには酒場を建設する。そこに人を招き入れ、金を落とさせ、その富を罠の維持費と閣下の食事に回す。敵を殺すのではなく、顧客として『生かし、搾り取る』。これが僕の数式が導き出した、唯一の正解だ」
「……商業拠点を前線基地として偽装し、敵対勢力を経済的に依存させる。なるほど、兵站の極致とも言える発想ですね」
レティシアの瞳に、同類を見つけた時のような冷徹な光が宿る。 二人の天才の思考が、今この瞬間、完全に同期した。 だが、その計画には、今まさに接近しつつある『不確実性』の除去が不可欠だ。
影の中から滲み出たセアラが、無機質な声で報告する。 「……報告。地上、ダンジョンから数キロ離れた森に、領主の私兵集団が野営を開始。規模は小隊クラス。前回の斥候隊の未帰還を受け、本格的な『清掃』を意図した動きと推測されます」
「……やれやれ、これだから無能な既得権益者は困る。せっかくの投資計画を、武力という低知能な手段で台無しにしようとするんだから」 ロレッタは心底嫌そうに首を振ったが、その瞳の奥には、かつて自分を追放した「力に頼るだけの愚者」を蹂躙してやりたいという、暗い情熱が燃えていた。
「少佐、そして閣下。僕が作った『最も効率的な殲滅の方程式』を試させてもらおう。セアラ、君は影から逃げ道を限定しろ。少佐、君は正面から彼らの『士気』という名の数値をへし折る。閣下は、僕が指示するポイントに魔力を集中させてください。……無能な連中に、数学という名の絶望を叩きつけてやる」
「了解しました。これより我が軍は、不確実性の強制執行による排除を開始します」
レティシアが魔導ライフルの銃身を撫でる。 テオが不安を押し殺し、コアに手を添えて魔力を高める。 セアラが静かに、死を告げる刃を研ぎ澄ます。
かつて、王立アカデミーで真実を語り、追放された数学者。 北方軍で「兵站の鬼」と恐れられ、裏切りによって処刑台に立った少佐。 暗殺教団の「13番」として捨てられ、光を奪われた少女。 そして、誰よりも優しい心を持った、最弱のダンジョンコアの少年。
バラバラだった四人の歯車が、初めて「組織」として激しく噛み合った。 地上の森に潜む私兵たちが、自分たちがこれから「何」に挑もうとしているのか、その絶望を理解するまでに、あと数分もかからなかった。
「閣下、これが兵站による勝利の第一段階です。よく見ていなさい。不条理な世界を、我々の合理性で塗り替えるのです」
レティシアの声が、冷たい風のように地下を吹き抜けた。 要塞都市テオドールの「創業初日」は、侵入者たちの断末魔と、冷徹な計算機が刻むカウントダウンと共に幕を開けたのである。




