第7回:赤髪の数学者と、地下賭場の確率論
要塞都市への第一歩として、レティシアが定めた次なる目標は「頭脳」の確保だった。 フェーズ2「ダンジョン都市化」において、流通、徴税、魔力配分、そして住民の行動予測といった膨大な変数を一手に引き受ける演算能力。それは、前世の軍隊においても最も希少なリソースの一つであった「兵站将校」の極致とも言える才能を必要としていた。
「閣下、これより向かうのは、この国でも指折りの無法地帯、地下都市『ギルガ』の最深部です。くれぐれも私の背後から離れぬよう」
レティシアは、テオの歩幅に合わせて歩調を緩めながらも、碧眼には鋭い警戒の色を宿していた。 彼女たちが今歩いているのは、華やかな王都の影に潜む、迷宮のような地下街だ。そこには、国家の法が届かぬ代わり、金と欲望、そして「勝負」がすべてを支配する歪な理が存在していた。
テオは、レティシアが用意した子供用の外套に身を包み、緊張した面持ちで周囲を見渡す。 「……うん。でも、レティシア。本当にここに、ボクたちの街を助けてくれる人がいるの?」
「ええ。その男……ロレッタ・バルザックは、かつて王立アカデミーを最年少で卒業し、国家予算の策定に関わったほどの天才数学者です。ですが、彼は自らの理論で『国家の破綻』を証明してしまい、反逆罪に問われました。今はその並外れた演算能力を、地下賭場の勝率操作に費やしているという報告が入っています」
「数学で国を壊しちゃったの……?」 テオが驚きに目を見開く。
「壊したのではなく、終わりを見せたに過ぎません。……セアラ」
レティシアが虚空に呼びかけると、壁の影からセアラの静かな声が返ってきた。 「……標的を確認。最深部の特別室(VIPルーム)にて、大公派の商人たちを相手に、連続勝利記録を更新中です。周囲の護衛は六。排除しますか?」
「いえ。まずは私が『盤外』から揺さぶりをかけます。閣下、参りましょう」
地下賭場の重厚な扉が開くと、熱気と煙草の煙、そして敗者たちの悲鳴が混ざり合った喧騒が押し寄せてきた。 その中心。緑色のラシャが敷かれたテーブルを囲み、平然とした顔でチップを積み上げている赤髪の青年がいた。
ロレッタ・バルザック。 整った顔立ちには隠しきれない退屈が滲み、指先で弄ぶコインの動きは機械のように正確だ。
「……つまらないな。配られたカードの時点で、君たちが破産する確率は98.4%。残りの1.6%も、君たちがイカサマに成功するという極めて低い期待値に基づいている。勝負ですらない、ただの集金作業だ」
「な、なんだと……! この、数学崩れの無職が!」
商人が激昂してテーブルを叩くが、ロレッタは一瞥もくれない。彼にとって、この世のすべては数式で解体可能な事象に過ぎなかった。
「その計算式に、一つ『未知の変数』を加えてはいかがですか?」
凛とした声が、賭場の喧騒を切り裂いた。 ロレッタが初めて顔を上げ、声の主――銀髪の軍服姿の女性を凝視する。
「……面白い。軍服か。しかも、この国の騎士団が着るような玩具じゃない。実戦の血と硝煙が染み付いた、本物の『プロ』だ」
ロレッタは口角を吊り上げ、積んでいたチップを無造作に中央へ押し出した。 「いいだろう。で、その『未知の変数』とやらは、僕に何を賭けろと言っているんだ?」
「貴公の知性、そのすべてです。バルザック殿。貴公を、我が主、テオ・フォン・ダンジョン閣下の最高財務責任者(CFO)として徴用しに来ました」
レティシアはテオを促し、ロレッタの正面に立たせた。 ロレッタはテオを冷徹な目で見定める。 「……ダンジョンコアのガキか。なるほど、面白いリソースだ。だが、断る。僕はね、答えが分かっている退屈な仕事には興味がないんだよ。ダンジョンの運営なんて、侵入者を殺してDPを稼ぐだけの、単調なルーチンワークだろう?」
「いいえ。私が描くのは、ダンジョンの概念を書き換える『要塞都市計画』です」 レティシアは懐から、一通の書類を取り出し、テーブルに叩きつけた。
そこには、フェーズ2からフェーズ10に至るまでの、緻密かつ狂気的なまでの国家規模の兵站ロードマップが記されていた。
ロレッタがその書類を手に取った瞬間、彼の瞳に宿っていた「退屈」が、凄まじいまでの「狂熱」に上書きされた。 「……っ!? なんだ、この物流網の設計は……。ダンジョンの地下空間を、異次元のハブとして利用する? しかも、外部の市場経済と魔力供給を完全に同期させ、一つの巨大な『自己増殖型経済圏』を作るというのか……?」
彼の指が震える。 「……これを実行に移すための計算量は、今の僕でも一生かかる。……いや、不可能だ。既存の数学体系では、この動的な変数をすべて処理しきれない」
「だからこそ、貴公が必要なのです」 レティシアは、勝利を確信した笑みを浮かべた。 「既存の法、既存の経済、既存の王家。それらが10年以内に崩壊する未来を、貴公は既に予測しているはずだ。ならば、その後の『新しい理』を、我々と共に作りたくはないですか?」
ロレッタは、しばらくの間、書類を食い入るように見つめていた。 そして、彼は突如として大笑いした。
「はははは! 傑作だ! ここまでの狂気に満ちた数式を突きつけられて、乗らない手はない!」
彼は椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、テオの前で跪いた。 「……陛下。いえ、閣下とお呼びすべきかな。どうやら僕は、計算不可能な『奇跡』の共犯者に選ばれたようだ」
「……ロレッタさん?」 テオが不安げに尋ねると、ロレッタは不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ああ。僕は今日、破産したよ。……僕の『退屈』という名の資産がね。今日から、僕の全頭脳は、あなたの街を世界で最も効率的で、最も豊かな場所にすることに捧げよう」
「確保、完了ですね」 レティシアは満足げに頷いた。
こうして、要塞都市計画の「心臓」となる知能が、ついにメンバーに加わった。 だが、その背後では、地下都市の調和を乱されたことに憤る闇の勢力と、レティシアたちの不穏な動きを察知し始めた「近隣領主」の影が、着実に迫っていた。
「閣下、急ぎましょう。新任のCFOには、さっそく山積みの課題に取り組んでいただかねばなりません」
「……さっそくだね、少佐。でも、嫌いじゃないよ。……ああ、脳が焼けるようなこの感覚。最高だ」
赤髪の数学者は、テオが生成した転移門をくぐり、未知の数式が待つ「我が家」へと足を踏み出した。 それは、ダンジョンが「迷宮」から「国家」へと進化を始める、決定的瞬間の幕開けであった。




