第20回
テララ・モデル(Teralla Model):アンドロイドが人間の表情・視線・ジェスチャーなどの非言語的特徴量を評価し、発話内容との関連度を推定するための基礎モデル。特定の発話において高い頻度で出現する非言語表現は、その発話の意味解釈において重要度が高いとされる。一方で、どの発話にも普遍的に出現する表現は、個々の発話の識別には寄与しない。
テララ博士が提唱したこの仮説(テララ仮説)は、自然言語解析、多次元表現素変換、超ヒルベルト・ベクトル空間構築などの数学的手法を組み合わせることでモデル化されている。テララ仮説の完全な数学的証明は未だ得られていないが、数学証明特化AIモデル Euler(ver. 3.11) による評価では 99.99% の信頼度が示されている。また、オーヤンによる多層界 N 群理論が成立すれば、テララ仮説の証明が導出されることが、IEI 研究所グループによって示されている。(後略)
ーーーOmnipediaの同項目より引用
カナはトミーに気づくと笑って手を振った。トミーは小走りに彼女に近づき、隣りに腰を下ろした。カナはトミーの肩に手を回し、自分のからだに引き寄せた。
「お勉強は終わりましたか、トミー?」
「うん」
トミーは自分の肩の上にあるアンドロイドの手に自分の手を重ねた。
「明日はカナが教えてくれるよね?」
カナはトミーの質問に、すぐには答えなかった。トミーに微笑を向けたまま、0.5秒ほど動作を停止した。
「それは難しいですね、トミー。わたしは…」
トミーがカナの胴部に抱きつき、締めつけた。
「行っちゃだめだよ、カナ。殺されちゃうよ」
カナの手がトミーの頭を撫でた。
「私はアンドロイドですから、殺されることはありません、トミー」
「でも、記憶を消されちゃうんでしょ?ぼくのこと、忘れちゃうんでしょ?」
カナの手が止まった。その休止は1秒にも満たなかったが、それがカナの「病気」の一部であることを、トミーは直感していた。
「現在の記憶は消去されますが、リペアされればまた新品同様で戻ってきます。そうすれば、また…」
「そんなの、わかんないよ」
トミーは涙で濡れた顔を上げて、カナを見た。
「ふたりで逃げよう、カナ。どっかに隠れよう」
トミーの非合理的な提案に、カナのAIは即座にネガティブな評価を下した。しかし、彼女のHPUはすでに回復不能なまで変質しつつあり、トミーの表情と発話に含まれる表現素に過大な重みづけを行っていた。カナの未来予測の能力は致命的なまでに低下していた。
「わかりました、トミー」
カナの同意は、トミーにむしろ驚きと不安をもたらした。絶対、反対されると思ったのに。トミーが黙っていると、カナはトミーの手をとってソファから立ち上がった。
「さあ、行きましょう、トミー」
トミーとカナがリビングを出ると、DICEのネットワークからカナの存在が消えた。カナが意図的にネットワークから自分を切断したのか、カナのネットワーク制御の不具合なのか、結局最後まで不明のままだった。カナの回収後、すみやかに廃棄処分となったからである。
マリーがIEIの担当者に状況説明をしている間、ジョンはマリーの後ろで立ち、コーヒーを飲みながら、ふたりの会話を聞いていた。マリーを知らない人間なら、彼女の落ち着きぶりに驚いたり、不審に思ったりするかもしれない。しかし、学生時代から彼女を知っているジョンは、それがいつものマリーであることをよくわかっていた。問題が深刻であればあるだけ、彼女は冷静さと理知的行動を保つことができるのだった。
「自宅にはいないことはまちがいないです。そんなに広いマンションじゃありませんから」
「では徒歩で移動中ということになりますが…」
「アンドロイドと未成年が道を歩いてたら、すぐに通報されるでしょうね」
ウィンドウの中の担当者はうなずいた。
「通報があれば、うちにもすぐに連絡があります。今のところはありません」
マリーはふっとため息をついて、ジョンの方を見た。
「あなた、心当たりはある?」
ジョンには心当たりがあった。カナとトミーが姿を消したことをDICEから報告された後、すぐに思いついた場所があったのだが、ジョンはマリーから聞かれるまで黙っていることにしていた。カナが「壊れて」いることはよくわかっていたが、それでも彼女がトミーを傷つけたり、危険に晒すようなことをするとは思えなかった。彼は、ふたりに最後の時間を過ごさせることが、少なくともトミーにとって、もしかしたらカナにとっても大切なことのような気がしていたのだった。自分でもあまり論理的な考えだとは思えなかったし、マリーに理解してもらうことはまずあり得ないこともわかっていた。だから、ジョンは、今まで何も言わず、事態の進展を後ろから見守ってきたのだった。
「貸倉庫、借りてたろう?ここのマンションの地下の」
ジョンの言葉にマリーははっと息を飲んだ。ジョンはマリーの隣りに立つと、画面に映る男に話しかけた。
「あそこはほとんど使ってないんだけどね。トミーの小さい頃のおもちゃとかこまごましたものをしまってあるんだ。だから、ときどきカナもその倉庫に行ったことがある」
マリーがデスクの前から立ち上がった。
「何もないといいんだけど」
「何もないさ。カナはいい子だ」
マリーはそれには答えず部屋を出ていった。




