第19回
フラクタライゼーション・ネットワーク(Fractalization Network, FN):有限の演算領域内に、理論上は 可算無限(ℵ₀)個の情報要素を階層的に配置するための計算構造。IEIの創業者の一人であるジョン・モアが初めてFNを人工知性基盤アーキテクチャに導入し、アンドロイドの演算系における高密度並列化と状態遷移の高速化を実現した。(中略)実装上は、プログラム設計およびICチップの物理的制約により扱える要素数は有限にとどまるが、FNの構造的特性により、従来方式と比較して桁違いの情報密度を確保できる。現在では、モアの初期理論を拡張したFN-AN(Adaptive Nested)方式が、アンドロイド用演算モジュール設計の標準手法となっている。
—————— 『アンドロイド・アーキテクチャの基礎知識』
マリーがIEIからのメッセージにあったリンクに人さし指を触れると、目の前のPVにウィンドウが開き、地味なユニフォームを着たアンドロイドの顔が映し出された。肩までの長さの白髪は、IEIの汎用アンドロイドのデフォルトの外見オプションのひとつだった。アンドロイドは笑顔であいさつした。
「こんにちは、カルメン様」
「ええと、カナ…うちのナース用のアンドロイドについて、ご連絡いただいたので…」
受付のアンドロイドは視線をマリーから手元に移動させた。実際のところ、アンドロイドは、マリーから視線を逸らす必要はなかった。彼女との会話を続けつつ、同時に問い合わせに関するデータの照合をすることは可能だったが、相手の人間にとって、会話の間、アンドロイドからずっと視線を向けられているのは、相当な心理的ストレスになる。それを回避するため、受付のアンドロイドはより「人間らしい」無意味な動作をするようにプログラムされている。
「担当者と変わりますので、しばらくお待ちください…」
アンドロイドの言葉が終わって0.1秒後、ウィンドウの画面が切り替わり、中年男性の顔が映し出された。彼も髪も白かったが、かれのデフォルトの髪色の白ではなかっただろう。最初彼は画面の右を見ていたが、すぐにマリーの方に目を向けた。そのとき、瞳がやや大きく構造色らしい虹色の変化を見せた。人工角膜によって視力強化をしている証拠だった。
「こんにちは、カルメンさん。担当のシドーです。よろしくお願いします」
「ええと…送ってもらった分析結果なんですけど…」
「…そうですね…えーと、型番が『KS27N』、OSがWonder Rail 9…」
男はカナの基本データを読み上げた。
「これはあれですね、けっこう前のモデルですね」
「そうみたいですね。未使用品ということでセールで買いました」
「このシリーズはですね、もともとIEIの製造じゃないんですよ。Uniserveっていうメーカーのもので、何年前だったっけな、うちに合併吸収されまして」
「そうなんですね」
「ですので、基本的なメンテナンスはできるんですが、今回の場合はちょっと難しいところがありまして」
「はあ…結局どこが悪かったんですか?」
「初期ロット特有のバグなんですよ。わりと早めに見つかって、流通してるものにはほとんど、というか私の知る限りでは今回が初めて発生したケースなんですけど。けっこう深刻なバグでして、修理には記憶領域の初期化がどうしても必要になっちゃうんですよね」
「初期化…つまりカナの記憶が消えるってことですね。サーバにバックアップがあるんじゃないですか?」
「いや、記憶データが干渉することで発生するバグなんです。だから、記憶データをもどすとまた同じ症状が出てしまうんです」
マリーはため息をついた。
「それじゃしょうがないですね。息子がとてもなついていて…」
「うーん、それはかわいそうですねえ」
「このまま放置しておくとどうなるんですか?これ以上あまり変化がなければ…」
「いや、実際どうなるかはぼくにもはっきり言えないんですが、アンドロイドの人格のかなり深いところに関係してるんで…ちょっとこのままにしておくのはお勧めできませんね」
マリーは、トミーの顔を思い浮かべ、またため息をついた。それから、またあのときのトミーとカナの様子を思い出す。まるで母と子…いや、どうみても恋人どうしのような距離感のふたりだった。それは親密さ以上に、もっと不穏な雰囲気をマリーに感じさせた。
「わかりました。では、カナの初期化をお願いします。手続きの方はどういう…」
マリーはIEIのメンテナンス担当者と話す間、背後の部屋のドアが開いていることにも、そこにトミーが黙って立っていたことにも気づいていなかった。




