第18回
カリタフィルタ
アンドロイドのCPUのモジュールのひとつ。人間の発話や表情の変化をカリタ・ルール(カリタ・ベクトル空間・ルール、KVR)に基づいてベクトル化し、それを確率分布として扱うことで、人間の感情や思考を推論する。推論は通常人間とのコミュニケーション・イベントが終了するまでループされるが、用途によってはCPUの負荷低減のため、一定回数で終了したり、ループ間にコンマ数秒程度のインターバルを挟んだりすることもある。推論結果はキャラクタ・モジュールに送られた後…(後略)
—————— 『アンドロイド・アーキテクチャの基礎知識』
「ジョン…ほら、見て」
マリーが、タブレットで今日のスケジュールを確認している夫の肩をそっと叩き、注意を促した。ジョンが顔を上げてマリーの顔を見た後、その視線の先に目を向けた。トミーがアンドロイドと何か話している。人見知りなトミーが、あんな風に笑顔で誰かとコミュニケーションをとっている姿を見るのは、父親であるジョンにすら初めてだった。話相手のアンドロイドはトミーの肩を抱くようにして、ふたりで並んでソファに座っていた。
「どう思う、ジョン?」
「どう、って?」
ジョンはタブレットをテーブルに置いて、息子と彼の専属のアンドロイドの様子を見守った。マリーはジョンの隣りに座ると、彼の方に身を寄せて、小さい声で囁くように言った。
「近すぎるわ。ほら」
ジョンはソファの背もたれに体を預け、脚を組んだ。アンドロイドのことは、妻の方が詳しいことは結婚前からわかっていた。彼女が中央ヨーロッパ大学ロボット工学部AI工学科に在学中に、ふたりは知り合い、その5年後に結婚したのだった。
「そうかな?」
ジョンはマリーを見て笑った。
「アンドロイドに息子をとられて嫉妬してるんじゃないか?」
マリーも少し口角を上げたが、目は笑っていなかった。
「トミーがカナになついてるのは悪いことじゃないわ。ただ…」
マリーはまた、トミーとカナの方を見た。カナがトミーの顔に顔を近づけ、何か言っている。
「ナース用のアンドロイドが人間のパーソナルスペースに、あんな風に侵入するのはやっぱりおかしいわ。むしろ、人間がアンドロイドに近づきすぎるのを避けるように行動するはずよ」
「人間同士じゃなくても、ある程度のスキンシップは必要なんじゃないか」
「ある程度、よ。私が見ている限り、カナはずっとあんな調子よ。それに…カナ!」
マリーに呼ばれたカナは、はっとしたようにこちらを見た。
「こっちに来てちょうだい、カナ」
カナは立ち上がったが、すぐにマリーたちの方へ歩き出そうとはしなかった。一瞬、彼女の顔から表情が消えたことに、マリーは気づいた。しかし、すぐにカナはゆっくりと夫婦まで歩いてきた。
「お呼びでしょうか、奥様」
マリーは黙ってカナの顔を見つめた。カナは微笑みを絶やすことなく、マリーの視線を受け止めていた。ふたりの「女」が黙って見つめ合っているそばで、ジョンは居心地悪そうに、ソファに座りなおした。
「カナ、おまえ…そのう…どこか、おかしいところはないかい?なんというか…」
「カナ、あなたのステータスデータを見せて」
マリーがPVを指さしながら、カナに言った。
「はい、奥様」
リビングの一面の壁は全体がPVになっていて、複数のウィンドウが同時に表示されていた。現在の経済指標をリアルタイム表示しているウィンドウの横に新しいウィンドウが現れ、カナの現在のステータスが表示された。
「ウィンドウをもっと大きく。詳細表示にしてちょうだい」
マリーはさらにカナの直近の過去ログを別のウィンドウに表示させた。トミーも立ち上がり、カナの隣りに来ると、彼女の手を握り、PVのウィンドウに並んだ数字や文字列を不安そうに見つめた。
「どうしたの?カナ、メンテナンスに行くの?」
カナがトミーの手を優しく握り返した。
「私の次のメンテナンスは4か月と17日後の予定です」
カナは確認するようにマリーの方を見た。しかし、マリーはテーブルの上のワラシの方を見ながら、言った。
「IEIのメンテナンス部にカナの現在のステータスとログを送ってちょうだい」
トミーはカナの顔を見上げた。カナもトミーの方を見て微笑んだが、その目はトミーの顔よりずっと遠くを見ているようだった。
「IEIから連絡があったら、私のSDに転送して」
マリーとジョンがリビングを出ていくと、PVのウィンドウがすべて閉じられ、乳白色の壁紙が全体表示された。カナはトミーの手を放すと、PVのある壁の向かい側の壁に歩み寄った。壁には大きな絵が飾られていた。それは、トミーが生まれたとき、ジョンの友人がお祝いに贈ってくれたものだった。
岬の上に立つ城を背景に、白いドレスを着た少女が空を見上げている。トミーは、その絵の中の少女がなんとなくカナに似ている、と思っていた。髪型も服装もまったく違うのに、自分でも不思議な感覚だった。
カナはその絵の前に立つと、トミーを見ていたときと同じ、遠く彼方を見ているような眼で少女を見た。すると、カナの口から、まるで少女に歌いかけるように、トミーの知らないことばが流れ出した。
It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of Annabel Lee;
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.




