第九十七話「言えないこと」
二〇〇〇年(平成十二年)八月二日、水曜日。
都立青葉高校、武道場。
「……やめ!」
荒川の声が響いた。
向かい合っていた佐伯大輔と相原菜月が、同時に構えを解く。
「押忍!」
「押忍!」
二人は一礼すると、道場の端へ下がった。
夏休みに入っても、空手部の稽古は続いている。
開け放たれた窓からは蝉の声が響き、道場の床には大粒の汗が落ちていた。
「……佐伯」
「はい!」
「今の最後の入り方、悪くなかった」
「ありがとうございます!」
「だが、相手を見てから動く癖は、まだ残っている」
「……はい!」
荒川は次に菜月へ目を向けた。
「相原」
「はい!」
「お前も、相手の動きを待ちすぎだ」
「……はい!」
「読めることと、先に動けることは違う。そこを忘れるな」
「押忍!」
荒川は短く頷いた。
「十分休憩だ。そのあと、もう一度組み手をやる」
「押忍!」
二人が声を揃えた。
◇
壁際へ戻った佐伯は、タオルで顔の汗を拭った。
隣では、菜月が勢いよく水筒を傾けている。
「……ぷはっ!」
「……お前、相変わらず元気だな」
「暑いんですから仕方ないじゃないですか!」
「そういう話じゃないんだけどな」
佐伯が苦笑する。
菜月は水筒の蓋を閉めると、ふと思い出したように顔を上げた。
「……あっ、そうだ!」
「……何だ?」
「佐伯先輩、昨日からなんか機嫌よくないですか?」
「……そうか?」
「そうですよ! なんか、ずっと顔が明るいっていうか」
「……別に、そんなことないだろ」
「えー? 絶対なんかありますよね?」
菜月が、じっと佐伯の顔を覗き込む。
「……何ですか? 教えてくださいよ!」
「……お前なあ」
佐伯は困ったように笑った。
それから、一度だけ周囲を見渡した。
「……実はな」
「はい!」
「……東央大学の特待生に、正式に指名された」
「…………」
菜月の動きが止まった。
「……え?」
「だから、特待生に決まったんだ」
「…………」
次の瞬間。
「えええええっ!?」
菜月の声が、道場中に響いた。
休憩していた部員たちが、一斉に振り返る。
「ほ、本当ですか!? 佐伯先輩!!」
「……ああ」
「すごい!! すごいじゃないですか!!」
「……お、おう」
「おめでとうございます!!」
菜月は満面の笑みを浮かべた。
「うわあ! 本当に決まったんですね!!」
「……ああ。昨日、正式に話があった」
「やりましたね、先輩!!」
菜月は、思わず佐伯の肩を叩いた。
「……いてっ」
「あっ、すみません!」
「……いや、別にいいけど」
「だって! すごいじゃないですか!」
菜月は、まるで自分のことのように喜んでいた。
「東央大学ですよ!? しかも特待生!」
「……そうだな」
「鬼塚先生に認めてもらえたんですね!」
その言葉に、佐伯は少しだけ表情を引き締めた。
「……いや。まだまだだよ」
「……え?」
「特待生に決まっただけで、入学したわけじゃないからな。試験もあるし、入ってからも毎年審査がある」
「……へえ」
「勉強もちゃんとやらないといけないし、四年間は寮生活だ」
菜月は、目を丸くした。
「……結構厳しいんですね」
「その分、学費とか寮費とか、ほとんど大学が負担してくれるんだ」
「……えっ!?」
「だから、ちゃんと応えないとな」
佐伯は、手元のタオルを握った。
「……せっかく、もらえた機会だから」
菜月は、その横顔を見つめた。
そして、にっと笑った。
「……やっぱり、佐伯先輩ですね!」
「……何がだ?」
「決まったばっかりなのに、もう次のこと考えてるんですもん!」
「……当たり前だろ」
「そういうところですよ!」
佐伯は、少し照れくさそうに目を逸らした。
菜月は、もう一度大きく頷いた。
「……私も、頑張らなきゃ!」
「……ああ」
「絶対、東央大学に行きますからね!」
「……おう。待ってるよ」
「はい!!」
その返事は、道場の反対側まで届きそうなほど大きかった。
「……相原!」
荒川の声が飛んできた。
「……はいっ!?」
「休憩中でも、少しは声の大きさを考えろ」
「……すみません!」
佐伯が、思わず吹き出した。
「……ふっ」
「あっ! 佐伯先輩、今笑いましたよね!?」
「……いや」
「絶対笑いました!」
「……気のせいだ」
「もう!」
菜月が頬を膨らませる。
そんな二人を、道場の入口からリンが微笑ましく見ていた。
◇
休憩が終わり、稽古が再開された。
リンは記録用紙を手に、道場の端に座っている。
佐伯の動きは、以前より落ち着いていた。
無理に先手を取ろうとせず、相手の動きに応じて間合いを変えている。
一方の菜月も、ただ攻撃を待つだけではない。
細かな足運びで相手の反応を引き出し、自分から仕掛ける機会を探っている。
(……二人とも、頑張ってるなぁ)
リンは、小さく頷いた。
佐伯は、ようやく進路への道が開けた。
けれど、菜月はこれからだ。
同じ東央大学を目指していても、二人の進む時間は違う。
(……相原さんも、きっと大丈夫)
そう思いながら、リンはペンを動かした。
「……やめ!」
荒川の声に、佐伯が構えを解いた。
「押忍!」
「佐伯。今日はここまでだ」
「……はい!」
防具を外しながら、佐伯は大きく息を吐いた。
八月八日のインターハイ開幕まで、あと六日。
ずっと目指してきた全国大会が、もう目の前に迫っている。
東央大学への道は開けた。
だからといって、最後の高校総体への思いが薄れたわけではなかった。
むしろ、今は以前よりも強く感じている。
これが、高校生として挑む最後のインターハイなのだと。
「……佐伯先輩!」
菜月が声をかけた。
「ん?」
「全国、もうすぐですね!」
「……ああ」
「緊張してます?」
佐伯は少し考えてから答えた。
「……してるな」
「えっ! 先輩でも緊張するんですか!?」
「そりゃするだろ」
「あはは! ですよね!」
菜月は笑った。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「……絶対、勝ってくださいね」
佐伯は、菜月を見た。
六月。
全国まであと一勝届かなかった後輩。
あのときの悔しそうな顔を、佐伯は覚えている。
「……ああ」
力強く頷いた。
「一つでも多く、勝ってくるよ」
「押忍!」
菜月は、いつもの笑顔に戻った。
◇
稽古が終わったあと。
道場の片づけを手伝っていたリンのもとへ、菜月がやってきた。
「凛先生!」
『ん? どうしたの、相原さん』
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど!」
『……なに?』
菜月は、一瞬だけ言葉を選ぶように考えた。
「……この間、東央大学で鬼塚先生が言ってたことなんですけど」
『……鬼塚先生?』
「はい」
菜月は、リンをまっすぐ見た。
「……山元は、こんなものじゃなかったぞ、って」
『…………』
リンの動きが止まった。
あの日。
佐伯の最後の組み手が終わったあと、鬼塚は確かにそう言った。
佐伯と菜月へ向けて。
そして、その言葉を聞いたリンも、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
「……私、ずっと気になってて」
『……そうなんだ』
「鬼塚先生って、凛先生の大学時代を知ってるんですよね?」
『……うん。そうみたいだね』
「……やっぱり、凛先生って相当強かったんですか?」
『…………』
リンは、少し困ったように笑った。
『……えっと』
「私、先生の空手、もっと知りたいんです!」
菜月の目が輝く。
「鬼塚先生があんなふうに言うくらいですから、きっとすごかったんだろうなって!」
リンは、思わず視線を逸らした。
思い浮かんだのは、以前見たビデオテープだった。
平成十年、大学選手権。
そこには、確かに山元凛が映っていた。
鋭い踏み込み。
迷いのない攻撃。
相手の動きに合わせて、瞬時に変わる構え。
空手に詳しくないリンにも、ただ者ではないことくらいは分かった。
けれど。
なぜ、その動きができるのか。
何を考えて相手と向き合っていたのか。
それを、自分の言葉で説明することはできない。
『……うーん』
「……先生?」
『……あたし、昔の自分のことを話すの、あんまり得意じゃなくてさ』
「……えっ?」
『……なんていうか。自慢話みたいになるのも、ちょっと恥ずかしいし』
リンは、曖昧に笑った。
菜月は、きょとんとしている。
そのときだった。
「……何の話をしている」
背後から、荒川の声がした。
『……あっ、荒川先生!』
「押忍!」
菜月が姿勢を正す。
荒川は二人を見比べた。
「……何だ、相原」
「……あの、凛先生が大学時代、どんな空手をしてたのか聞いてたんです!」
「……山元の?」
「はい!」
荒川は、リンへ目を向けた。
『……あはは』
リンは、苦笑するしかなかった。
荒川は一度だけ頷いた。
「……なるほどな」
そして、静かに口を開いた。
「……俺も、昔、山元の試合を見たことがある」
『……えっ?』
思わず、リンが顔を上げた。
「……会場で、だ」
荒川は続けた。
「大学の大会だった。別の用事で会場に行っていたんだが、ちょうど山元が出場していた」
「……本当ですか!?」
菜月が、身を乗り出した。
「……どんな感じだったんですか!?」
荒川は、少し考えた。
「……強かったな」
「……やっぱり!」
「ただ、力任せに攻める選手ではなかった」
荒川は、菜月を見た。
「……相原。お前は相手の動きをよく見ようとするな」
「……はい!」
「だが、見すぎることがある。相手の反応を待って、動きが遅れる」
「……はい」
「山元は、そこが違った」
菜月は、息を呑んだ。
「……見ているんだが、止まらない」
「…………」
「相手がどう動くかを見ながら、自分の動きも止めない。だから、相手が考えている間に、もう次の間合いへ入っている」
リンは、その言葉を聞きながら、以前見た映像を思い出していた。
確かに、そうだった。
山元凛は、ただ速いだけではなかった。
相手との距離が変わるたびに、自然と足の位置が変わっていた。
攻撃を仕掛ける瞬間も、迷いがなかった。
「……それって、すごいですね」
菜月が呟いた。
「……簡単なことじゃない」
荒川は答えた。
「相手を見ながら、自分から仕掛ける。その両方ができる選手は、そう多くない」
「…………」
「俺が見た試合でも、相手は山元の動きについていくのが精いっぱいだった」
菜月の目が、さらに輝いた。
「……やっぱり、凛先生ってすごいんですね!」
『……あ、あはは……』
リンは、ぎこちなく笑った。
褒められているのは、自分ではない。
正確には、自分が今いる身体の持ち主だった。
そのことが、何とも不思議だった。
荒川は、リンへ目を向けた。
「……山元」
『……は、はい!』
「……お前も、今は立場が変わったが」
『……はい?』
「選手たちに、何を見せてやれるかは考えておけ」
『…………』
「昔の実績だけで、生徒を指導できるわけじゃないからな」
リンは、少し驚いた。
荒川の声は、いつもどおり厳しかった。
だが、責められているわけではない。
今ここにいる山元凛に、教師として何ができるのか。
そう問われているのだと分かった。
『……はい』
リンは、ゆっくりと頷いた。
『……ちゃんと、考えます』
荒川は短く頷いた。
「……それでいい」
◇
菜月が防具を片づけに戻ったあと。
リンは、しばらくその場に立っていた。
荒川の話が、頭から離れない。
山元凛。
鬼塚が高く評価していた選手。
篠原も、その実力を知っている。
そして、荒川も実際に試合を見たことがある。
(……ほんと、すごい人だったんだなぁ)
リンは、自分の手を見つめた。
この手で。
あの映像の山元凛は、何度も技を繰り出していた。
けれど、今の自分には同じことはできない。
身体は同じでも。
経験も、判断も、積み重ねてきた時間も違う。
(……あたし、何にも知らないんだな)
少しだけ、胸が痛んだ。
けれど。
ふと、昨日の佐伯の顔を思い出した。
東央大学の特待生に決まったときの、あの表情。
母親と顔を見合わせ、言葉を失っていた姿。
そして、最後に深く頭を下げてくれたこと。
(……でも)
リンは、ゆっくりと顔を上げた。
(……あたしにだって、できることはある)
空手の技術を教えることだけが、教師の仕事ではない。
そのことを、佐伯が教えてくれた気がした。
『……よし』
リンは、小さく頷いた。
それから、記録用紙を抱えて武道場をあとにした。
◇
午後。
校舎の廊下は、静まり返っていた。
夏休み中のため、教室の多くは閉まっている。
リンは職員室へ戻る途中、階段の踊り場で見覚えのある後ろ姿を見つけた。
『……あれ?』
女子生徒が一人、窓際に立っている。
手には薄いプリントの束。
けれど、それを読んでいる様子はない。
ただ、窓の外をぼんやりと眺めていた。
『……西野さん?』
「…………」
返事がない。
『……西野さん?』
「……っ!」
女子生徒が、はっと振り返った。
西野沙織だった。
「……あ、凛先生」
『……あはは。びっくりした?』
「……いえ」
沙織は、小さく笑った。
だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
『……今日はどうしたの? 学校に用事?』
「……はい。補習があって」
『……そっか。お疲れさま』
「……ありがとうございます」
そこで、会話が途切れた。
リンは、少しだけ首を傾げた。
以前の沙織なら、ここから話が続いていたはずだ。
補習が大変だったとか。
先生の話が長かったとか。
何か一つくらいは、笑いながら話してくれた。
けれど。
今の沙織は、プリントの端を指で押さえたまま、俯いている。
『……西野さん』
「……はい?」
『……夏休み、どう?』
「……え?」
『ほら、せっかくの休みだし。楽しんでる?』
「……ああ」
沙織は、少しだけ考えた。
「……まあ、普通です」
『……そっか』
「……はい」
また、沈黙。
リンは、沙織の表情を見つめた。
どこか、疲れているようにも見える。
ただし、具合が悪そうというわけではない。
何か別のことを考えている。
そんな印象だった。
『……そういえばさ』
「……はい」
『高木さんとは、最近どう?』
その瞬間。
沙織の指が止まった。
「…………え?」
『いや、前にすごく楽しそうに話してたからさ。夏休みも会ってるのかなって』
「…………」
沙織は、すぐには答えなかった。
視線が、一度だけ床へ落ちる。
「……はい」
小さな声だった。
「……会ってます」
『……そっか』
「……はい」
リンは、何か言おうとして。
口を閉じた。
違う。
以前の沙織なら、こんな反応ではなかった。
悠斗の名前を出せば、嬉しそうに笑っていた。
何をしたとか、どこへ行ったとか、聞いてもいないことまで話してくれた。
それが今は。
必要なことだけを答えて、会話を終わらせようとしている。
(……あれ?)
リンの胸に、小さな違和感が生まれた。
『……西野さん』
「……はい」
『……何かあった?』
沙織が、わずかに顔を上げた。
「……え?」
『……いや、なんか元気ないなって思って』
「…………」
『……疲れてる?』
沙織は、首を横に振った。
「……大丈夫です」
『……そっか』
「……はい」
そう答えながら、沙織はプリントを持ち直した。
けれど、立ち去ろうとはしない。
リンは、その様子を見つめた。
『……西野さん』
「……はい」
『……ほんとに、大丈夫?』
沙織の唇が、わずかに動いた。
「…………」
何かを言おうとしているように見えた。
リンは、黙って待った。
急かさず、次の言葉を探さず。
ただ、沙織が口を開くのを待つ。
しばらくして。
「……先生」
『……うん』
「…………」
沙織は、俯いた。
プリントを握る指に、少しだけ力がこもる。
「……やっぱり、何でもないです」
『…………』
「……すみません」
沙織は、ぎこちなく笑った。
『……そっか』
リンは、静かに頷いた。
けれど、それで話を終わらせる気にはなれなかった。
『……西野さん』
「……はい?」
『……無理に話さなくてもいいからね』
「…………」
『話したくないことだって、あると思うし』
沙織は、顔を上げた。
『でもさ』
リンは、少しだけ声を柔らかくした。
『……一人で全部抱えなくてもいいんだよ』
「…………」
『あたしでよければ、話、聞くから』
沙織の表情が、わずかに揺れた。
何かを言おうとして。
けれど、言葉にならない。
「……ありがとうございます」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
『……うん』
リンは、微笑んだ。
『……補習、お疲れさま。気をつけて帰ってね』
「……はい」
沙織は、小さく頭を下げた。
そして、階段を下りていく。
リンは、その後ろ姿を見送った。
◇
職員室へ戻ったリンは、机の上に記録用紙を置いた。
椅子に腰掛ける。
けれど、すぐには仕事を再開できなかった。
『……西野さん』
先ほどの表情が、頭から離れない。
以前も、少し様子がおかしいと思ったことはあった。
けれど、今日は違った。
明らかに、何かを抱えていた。
高木の名前を出したときの反応。
何かを言いかけて、飲み込んだ様子。
そして、最後のぎこちない笑顔。
(……何か、あったんだよね)
リンは、手元のペンを置いた。
佐伯は、東央大学への道をつかんだ。
菜月も、自分の目標へ向かって進んでいる。
その一方で。
沙織は、何かを言えずにいる。
(……あたしに、何ができるんだろ)
今日、無理に聞き出すことはしなかった。
あれでよかったのかもしれない。
けれど、あのまま何もなかったことにはしたくない。
リンは、窓の外へ目を向けた。
青く澄んだ夏空。
校庭からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
いつもと変わらない、夏休みの学校。
けれど。
その中で、誰にも言えない思いを抱えている生徒がいる。
『……西野さん』
リンは、もう一度その名前を呟いた。
『……ちゃんと、見てなきゃ』
自分に言い聞かせるように。
小さく、けれどはっきりと。
リンは、机の上の記録用紙へ視線を戻した。
文字を追い始めても、階段で見た沙織の横顔だけは、なかなか頭から離れなかった。




