第九十六話「託された道」
二〇〇〇年(平成十二年)七月二十八日、金曜日。
都立青葉高校、職員室。
夏休みに入り、校内は普段よりも静かだった。
開け放たれた窓から、蝉の声が聞こえてくる。
リンは机に向かい、空手部の活動記録を整理していた。
七月二十二日。
東央大学で行われた合同練習会。
あの日の佐伯大輔の姿は、今でも鮮明に覚えている。
最初の試合で敗れ、それでも自分からもう一度勝負を申し出た。
そして、鬼塚宗一郎が与えた最後の機会。
佐伯は見事に勝利を収めた。
けれど。
それが特待生の指名につながるかどうかは、まだ分からなかった。
『……どうなったんだろうなぁ』
リンは、手元のペンをくるりと回した。
鬼塚が最後に口にした言葉。
――最初から、その空手を見せろ。
あれは、佐伯の実力を認めた言葉だったと思う。
だが、推薦するとは言っていない。
リンは小さく息を吐いた。
そのときだった。
「山元先生、お電話です」
『……あ、はい!』
「東央大学の篠原先生からです」
『……えっ!?』
勢いよく顔を上げた。
東央大学。
篠原圭介。
その名前を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねた。
『す、すぐ出ます!』
リンは立ち上がり、電話の置かれた机へ向かった。
受話器を取る。
『お電話代わりました。山元です!』
「山元か。篠原だ」
『篠原先生! 先日はありがとうございました!』
「ああ。こっちこそな。今日は佐伯のことで連絡した」
『……佐伯さんのこと、ですか』
思わず受話器を握る手に力が入った。
「正式に話したいことがある。本人と保護者、それからお前にも同席してもらいたいんだが、学校で時間を作れないか」
『……正式に?』
「ああ」
『……あの、それって……』
「結果については、直接伝える」
『…………』
「荒川先生にも同席していただけるとありがたい。学校側の都合を確認してもらえるか」
『……はい! 分かりました!』
「できれば来週の前半がいい。そう長く待たせる話でもないからな」
『はい! すぐに確認して、折り返します!』
「ああ。頼む」
電話が切れた。
リンは受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。
『…………』
正式に話したいこと。
本人と保護者を交えて。
それが何を意味するのか。
期待してしまう。
けれど、もし違ったら。
『……いやいや』
リンは小さく首を振った。
まだ決まったわけじゃない。
勝手に喜んで、佐伯をがっかりさせるわけにはいかない。
まずは、面談の準備だ。
リンは手帳を開き、荒川のいる武道場へ足を向けた。
◇
七月三十一日、月曜日。
青葉高校、応接室。
長机を挟み、佐伯大輔とその母親が並んで座っていた。
佐伯は制服姿だった。
背筋を伸ばし、両膝の上に拳を置いている。
その隣で、母親は膝の上に置いた鞄を何度か持ち直していた。
「……大輔」
「……ん?」
「そんなに固くならなくても」
「……母さんだって、緊張してるだろ」
「……それは、そうだけど」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
向かい側には、荒川とリン。
リンもまた、落ち着かない様子で時計を見ていた。
『……もうすぐですね』
「……ああ」
荒川が短く答える。
『……何のお話なんでしょうね』
「……さあな」
『……ですよねぇ』
荒川が、ちらりとリンを見た。
「……山元」
『はい?』
「お前まで緊張してどうする」
『……いや、だって!』
「……落ち着け」
『……はい』
リンは姿勢を正した。
佐伯が、思わず苦笑する。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します」
篠原圭介が姿を現した。
全員が立ち上がる。
「いや、すまない。待たせたな」
篠原は軽く頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
佐伯の母親も、深く頭を下げた。
「こちらこそ、わざわざお越しいただいて……」
「いえ。今日は大事なお話ですから」
篠原は椅子へ腰を下ろした。
全員が着席する。
机の上に、一冊の書類が置かれた。
篠原は佐伯へ目を向けた。
「……佐伯」
「はい!」
「この間の組み手、よく頑張ったな」
「……ありがとうございます!」
「最初の試合では、完全に自分を見失っていた」
「……はい」
「勝ちたいという気持ちだけが先に出ていた。相手の動きも、距離も、ろくに見えていなかったな」
「……はい」
佐伯は、まっすぐに篠原を見つめた。
「だが、最後の試合は違った」
「…………」
「自分の空手を、最後まで崩さなかった」
篠原は一度、言葉を切った。
「鬼塚監督も、あの試合を高く評価している」
佐伯の喉が、小さく動いた。
隣で、母親が息を呑む。
篠原は、机の上の書類を開いた。
「……佐伯大輔」
「……はい!」
「東央大学空手道部は、来年度の特待生として、お前を正式に指名することを決めた」
「…………」
佐伯は、動かなかった。
目を見開いたまま、篠原を見つめている。
母親も、言葉を失っていた。
そして。
『……っ!!』
リンが、思わず口元を押さえた。
荒川だけが、静かに篠原を見つめていた。
「……佐伯?」
篠原が声をかける。
「……は」
佐伯の唇が動いた。
「……はい……!」
「聞こえたか?」
「……はい!」
もう一度、はっきりと返事をする。
「……本当に、俺が……?」
「ああ」
篠原は頷いた。
「お前だ」
「…………」
佐伯は俯いた。
膝の上に置いた拳を、ぎゅっと握りしめる。
「……ありがとうございます……!」
震える声だった。
隣で、母親がそっと口元を覆う。
「……大輔……」
「……母さん」
二人は顔を見合わせた。
何かを言おうとして。
けれど、何も言えなかった。
◇
「……ただし」
篠原が、静かに口を開いた。
佐伯が顔を上げる。
「喜ぶのは、これから話す条件を聞いてからにしてくれ」
「……はい!」
篠原は、机の上の書類を一枚めくった。
「まず、東央大学の空手道部は、特待生について四年間の入寮を義務づけている」
「……四年間、ですか」
母親が尋ねた。
「ええ。基本的に、四年間は寮生活を送ってもらいます。自宅から通うという選択はできません」
「……はい」
佐伯が頷く。
「規則正しい生活と、集団生活の中での責任を身につけてもらうためです。もちろん、休日の外出や帰省まで禁止しているわけではありません」
篠原は続けた。
「それから、特待生に認定された場合の費用についてです」
母親が、少しだけ姿勢を正した。
「学費は、四年間全額免除となります」
「……えっ?」
「入学金を含む学費について、本人の負担はありません」
母親が、目を丸くした。
「……そ、それは……」
「さらに、寮費と光熱費も全額免除です」
「…………」
「寮で提供する朝食と夕食についても、費用はかかりません。昼食や個人的な買い物などは別ですが、生活費の負担はかなり抑えられると思います」
母親は、手元の書類へ視線を落とした。
篠原は説明を続ける。
「空手道部の部費も全額免除。練習に必要な道着や備品については、大学から支給します」
「……道着まで、ですか」
佐伯が思わず声を上げた。
「ああ。競技に必要なものを、毎回自分で買いそろえる必要はない」
「…………」
「練習試合や遠征についても、基本的には大学がバスを出します。すべての費用がゼロになるわけではありませんが、大きな負担にはならないはずです」
佐伯は、書類を見つめた。
学費。
寮費。
光熱費。
朝晩の食事。
部費。
道着。
練習備品。
どれも、これまで自分が心配していたものだった。
大学へ行きたい。
空手を続けたい。
そう願いながらも、いつも頭の片隅にあったのは、金のことだった。
家に、どれだけ負担をかけるのだろう。
母親は、どれだけ無理をするのだろう。
その心配が。
目の前の書類には、ほとんど残っていなかった。
「……あの」
母親が、小さく手を挙げた。
「……本当に、ここまでしていただけるんでしょうか」
「ええ」
篠原は、はっきりと答えた。
「大学として、それだけの価値がある選手だと判断しました」
「…………」
「もちろん、競技成績だけでなく、これからの成長も期待しています」
母親は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
その声が、少し震えていた。
「……本当に、ありがとうございます……」
佐伯は、母親の横顔を見た。
これまで、大学へ行きたいと言うたびに、母親は応援してくれていた。
無理だとは、一度も言わなかった。
それでも。
毎月の生活費。
学費の話。
家計簿を見つめる姿。
そんなものを、佐伯は何度も目にしていた。
「……母さん」
母親は、小さく笑った。
「……よかったね、大輔」
「…………うん」
佐伯は、強く頷いた。
◇
「……さて」
篠原は、書類をもう一枚めくった。
「ここからは、特待生として守ってもらわなければならない条件だ」
佐伯が背筋を伸ばした。
「まず、特待生制度は、一度認定されれば四年間無条件で続くというものではない」
「……はい」
「毎年三月に、継続審査を行う」
篠原は、佐伯をまっすぐ見た。
「競技への取り組み、日頃の生活態度、学業の状況。それらを総合的に判断する」
「……はい!」
「当然、問題行為を起こした場合は、資格を失うこともある」
佐伯が頷く。
「それから、著しく単位を取得できていない場合も同様だ。大学は空手だけをする場所じゃない」
「……はい!」
「退部や休部についても、特待生制度の継続に関わる。事情は個別に確認するが、空手道部に所属し、競技を続けることが基本条件だからな」
「……分かりました!」
篠原は、頷いた。
「厳しいと思うか?」
「……いえ!」
佐伯は、すぐに答えた。
「これだけの支援をしていただくんです。当然だと思います!」
篠原の口元が、わずかに緩んだ。
「……そうか」
そして、もう一枚の書類を取り出した。
「それと、入学試験についても話しておく」
「……はい!」
「特待生に指名されたとはいえ、入学試験は受けてもらう」
「……はい」
「形式上の試験ではあるが、受験そのものを免除するわけではない」
佐伯は頷いた。
「もちろん、一般の受験生と比べれば、相当に優遇されている。それは間違いない」
「……はい」
「だが、だからといって、勉強を疎かにしていいわけじゃないぞ」
篠原の声が、少しだけ低くなった。
「……佐伯」
「はい!」
「あまりにも点が取れないような、情けない結果だけは出すなよ」
「……押忍!」
「大学へ入ってからも同じだ。空手の練習が忙しいから単位を落としました、なんて言い訳は通用しない」
「……はい!」
「学業と競技の両立。それができることも、特待生に求められる条件だ」
「分かりました! 勉強も頑張ります!」
篠原は、満足そうに頷いた。
「……よし」
その隣で、リンはほっと息を吐いていた。
けれど。
荒川は、まだ腕を組んだままだった。
篠原の話が、これで終わりではないことを察していた。
◇
「……それから」
篠原は、机の上の書類を閉じた。
少しだけ、空気が変わった。
「ここからは、制度の説明ではなく、俺個人からのお願いだ」
佐伯が顔を上げる。
母親も、篠原へ目を向けた。
「佐伯。お前は東京都予選を準優勝で終え、インターハイへの出場を決めた」
「……はい」
「八月には、全国の強豪と戦うことになる。そこで結果を残せば、ほかの大学から声がかかる可能性も十分にある」
「……はい」
「推薦の話や、特待生として迎えたいという申し出が来るかもしれない」
篠原は、少し間を置いた。
「それ自体は、素晴らしいことだ。選手として評価されるのは、喜ぶべきことだからな」
「……はい」
「ただし」
篠原の目が、鋭くなった。
「今回、東央大学が特待生として指名した意味を、軽く考えないでほしい」
佐伯の背筋が、さらに伸びた。
「こちらは、大学として正式にお前を迎えると決めた。学費も、生活費も、競技に必要な費用も、できる限り支えるつもりだ」
「……はい」
「そのうえで、あとから別の大学の方が条件がいいからと、簡単に辞退するようなことはしないでほしい」
「…………」
篠原は、佐伯だけでなく、リンと荒川にも目を向けた。
「これは、お前一人の話じゃない」
リンが、わずかに身を乗り出す。
「青葉高校から、今後も東央大学を目指す生徒が出てくるかもしれない」
「……はい」
「だが、今回のような話を受けたあとで簡単に断られることになれば、こちらも学校との付き合いを考え直さなければならなくなる」
篠原は、はっきりと言った。
「今後、青葉高校との推薦の話は、なくなると考えてほしい」
「…………!」
リンの胸が、どくんと鳴った。
頭に浮かんだのは、相原菜月だった。
彼女も、東央大学を目指している。
今回の合同練習会で、その実力を見せていた。
鬼塚も、篠原も、菜月のことを覚えてくれている。
もし。
ここで佐伯が東央大学の信頼を失うようなことになれば。
菜月の可能性まで、失われるかもしれない。
『…………』
リンは、思わず佐伯を見た。
佐伯もまた、表情を引き締めていた。
篠原は続けた。
「もちろん、これから何が起こるかは分からない。事情が変わることもあるだろう」
「……はい」
「だから、絶対に何があっても辞退するなと、契約で縛るつもりはない」
篠原は、ゆっくりと息を吐いた。
「だが、俺たちも覚悟を持ってお前を指名した。そのことだけは、分かっていてほしいんだ」
応接室が、静まり返った。
しばらくして。
佐伯が口を開いた。
「……篠原先生」
「……なんだ」
「俺は、東央大学に行きたいです」
佐伯は、まっすぐに篠原を見た。
「最初から、ずっとそう思ってきました」
「…………」
「だから、ほかの大学から声がかかっても、その気持ちは変わりません」
篠原は、何も言わなかった。
佐伯の声が、少しだけ強くなる。
「そのことを忘れるつもりはありません」
そして、深く頭を下げた。
「……東央大学で、空手を続けさせてください!」
篠原は、しばらく佐伯を見つめていた。
やがて。
「……ああ」
小さく頷いた。
「その言葉、忘れるなよ」
「……押忍!」
◇
面談も、終わりに近づいていた。
篠原は、机の上の書類をまとめながら、佐伯へ目を向けた。
「……佐伯」
「はい!」
「最後に、一つだけ言っておく」
佐伯が姿勢を正す。
「今回の特待生の指名は、お前自身が勝ち取ったものだ」
「……はい」
「最後の組み手で結果を出したのは、お前だ。あの場で諦めず、もう一度勝負を申し出たのもな」
「……はい!」
「だが」
篠原は、リンへ視線を向けた。
「そもそも、山元が青葉高校に赴任していなければ、今回の機会はなかったかもしれない」
『……えっ?』
突然名前を出され、リンが目を丸くした。
「山元が鬼塚監督との縁をつないで、お前を東央大学へ連れてきた」
『い、いや! あたしはそんな大したこと……!』
「山元。今はお前の話をしてるんだ」
『……あ、はい』
篠原が苦笑する。
荒川も、わずかに口元を緩めた。
篠原は佐伯へ向き直った。
「もちろん、荒川先生がこれまでお前を鍛えてきたことも、ご家族が支えてきたことも、大きい」
「……はい」
「お前が今ここにいるのは、自分一人の力じゃない」
佐伯は、静かに頷いた。
「……感謝を忘れるな」
「……はい!」
「そして、残りの高校生活を、最後まで全力で過ごせ」
篠原は、少しだけ笑った。
「空手も、勉強もな」
「……押忍!」
「その先で、待ってるぞ」
「…………!」
佐伯は、勢いよく立ち上がった。
「……ありがとうございます!!」
深く、頭を下げる。
母親も、隣で立ち上がった。
「……本当に、ありがとうございました」
篠原は、穏やかに頷いた。
「こちらこそ。四月に迎えられることを、楽しみにしています」
◇
面談が終わり、篠原は応接室をあとにした。
残された佐伯と母親は、まだ少し呆然としていた。
「……大輔」
「……ん?」
「……決まったんだね」
「…………うん」
佐伯は、ゆっくりと頷いた。
「……決まった」
言葉にしてみても、まだ実感が湧かない。
学費が免除される。
寮に入れる。
空手を続けられる。
それも、ずっと目指してきた東央大学で。
佐伯は、手元の書類を見つめた。
何度も夢に見たことだった。
けれど。
実際にその日が来ると、喜びの言葉すら、うまく浮かばなかった。
「……母さん」
「……なあに?」
「……俺、頑張るから」
母親が顔を上げた。
「……絶対、頑張るから」
佐伯は、真剣な表情で続けた。
「大学でも、ちゃんと勉強して……空手も、もっと強くなって……」
言葉が、途中で詰まった。
「……だから……」
母親は、そんな息子を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……うん」
それだけだった。
けれど、佐伯には十分だった。
母親は、目元をそっと拭った。
「……本当に、よかったね」
「……うん」
佐伯も、少しだけ目を伏せた。
◇
「……山元先生」
母親が帰り支度を始めた頃。
佐伯が、リンへ声をかけた。
『……ん? どうしたの? 佐伯さん』
佐伯は、リンの前へ進み出た。
そして。
「……ありがとうございました!」
深く頭を下げた。
『……えっ!?』
リンが慌てる。
『ちょ、ちょっと! 佐伯さん! 頭上げて!』
「……先生がいなかったら、俺……」
『……佐伯さん』
佐伯は、頭を上げなかった。
「……東央大学へ行けるなんて、思ってませんでした」
『…………』
「俺、ずっと……行きたかったんです。でも、学費もあるし、家のこともあるし……」
声が、少し震えていた。
「……それでも、諦めたくなくて……」
リンは、黙って聞いていた。
「山元先生が、鬼塚先生に頼んでくれなかったら……」
『……佐伯さん』
リンは、ゆっくりと口を開いた。
『……顔、上げて』
佐伯が、そっと顔を上げた。
リンは、笑っていた。
『あたしはね、きっかけを作っただけだよ』
「……え?」
『東央大学で稽古をしたのも、何度も負けながら立ち上がったのも、最後に勝ったのも……全部、佐伯さんでしょ?』
「…………」
『もちろん、荒川先生も、お母さんも、ずっと佐伯さんを支えてきた』
リンは、少しだけ声を柔らかくした。
『だから、今回のことは、みんなで喜んでいいんだと思う』
佐伯の目が、少しだけ潤んだ。
『……それにさ』
リンは、にっと笑った。
『まだ大学入ったわけじゃないんだからね?』
「……あっ」
『入試、ちゃんと受けないと!』
「……はい!」
『篠原先生にも言われたでしょ? 勉強もしなきゃダメだよ?』
「……押忍!」
『……あははっ。返事だけは立派だなぁ』
リンが笑う。
佐伯も、つられて笑った。
そのとき。
「……佐伯」
荒川が声をかけた。
「……はい!」
「明日からも、稽古はあるぞ」
「……はい!」
「……特待生に決まったからといって、気を抜くなよ」
佐伯は、まっすぐに姿勢を正した。
「……押忍!!」
荒川は、満足そうに頷いた。
「……よし」
◇
佐伯と母親が帰ったあと。
リンは応接室に残り、机の上を片づけていた。
先ほどまでの光景が、何度も頭に浮かぶ。
特待生。
正式な指名。
学費も、寮費も、免除。
あの佐伯が。
ずっと、大学へ行きたいと願っていた佐伯が。
ようやく、その道をつかんだ。
『……よかったなぁ』
リンは、小さく呟いた。
そして、ふと笑った。
『……ほんと、よかった』
その声が、少しだけ震えた。
自分は、空手の技術を教えられるわけじゃない。
組み手を見ても、細かいことまでは分からない。
佐伯や菜月のように、真剣に空手へ取り組んできた生徒たちの力には、到底及ばない。
それでも。
自分にできることは、あった。
そう思えた。
『……あたしでも、少しは役に立てたのかな』
リンは、窓の外へ目を向けた。
夏の空が、どこまでも青く広がっていた。
佐伯の道は、ここから始まる。
まだ高校生活は終わっていない。
これから大会もある。
入学試験もある。
そして、大学へ入ってからも、きっと大変なことが待っている。
けれど。
佐伯は、きっと大丈夫だ。
あの日、自分からもう一度勝負を申し出た彼なら。
リンは、そう思った。
『……頑張れ、佐伯さん』
誰もいない応接室で、小さく呟いた。
廊下へ出ると、遠くから空手部の掛け声が聞こえてきた。
夏休みの青葉高校。
いつもと変わらない、午後の風景。
けれど。
今日、確かに一人の生徒の未来が動いた。
そのことが、リンにはたまらなく嬉しかった。




