↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
96/198

第九十六話「託された道」

 二〇〇〇年(平成十二年)七月二十八日、金曜日。


 都立青葉高校、職員室。


 夏休みに入り、校内は普段よりも静かだった。


 開け放たれた窓から、蝉の声が聞こえてくる。


 リンは机に向かい、空手部の活動記録を整理していた。


 七月二十二日。


 東央大学で行われた合同練習会。


 あの日の佐伯大輔の姿は、今でも鮮明に覚えている。


 最初の試合で敗れ、それでも自分からもう一度勝負を申し出た。


 そして、鬼塚宗一郎が与えた最後の機会。


 佐伯は見事に勝利を収めた。


 けれど。


 それが特待生の指名につながるかどうかは、まだ分からなかった。


『……どうなったんだろうなぁ』


 リンは、手元のペンをくるりと回した。


 鬼塚が最後に口にした言葉。


 ――最初から、その空手を見せろ。


 あれは、佐伯の実力を認めた言葉だったと思う。


 だが、推薦するとは言っていない。


 リンは小さく息を吐いた。


 そのときだった。


「山元先生、お電話です」


『……あ、はい!』


「東央大学の篠原先生からです」


『……えっ!?』


 勢いよく顔を上げた。


 東央大学。


 篠原圭介。


 その名前を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねた。


『す、すぐ出ます!』


 リンは立ち上がり、電話の置かれた机へ向かった。


 受話器を取る。


『お電話代わりました。山元です!』


「山元か。篠原だ」


『篠原先生! 先日はありがとうございました!』


「ああ。こっちこそな。今日は佐伯のことで連絡した」


『……佐伯さんのこと、ですか』


 思わず受話器を握る手に力が入った。


「正式に話したいことがある。本人と保護者、それからお前にも同席してもらいたいんだが、学校で時間を作れないか」


『……正式に?』


「ああ」


『……あの、それって……』


「結果については、直接伝える」


『…………』


「荒川先生にも同席していただけるとありがたい。学校側の都合を確認してもらえるか」


『……はい! 分かりました!』


「できれば来週の前半がいい。そう長く待たせる話でもないからな」


『はい! すぐに確認して、折り返します!』


「ああ。頼む」


 電話が切れた。


 リンは受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。


『…………』


 正式に話したいこと。


 本人と保護者を交えて。


 それが何を意味するのか。


 期待してしまう。


 けれど、もし違ったら。


『……いやいや』


 リンは小さく首を振った。


 まだ決まったわけじゃない。


 勝手に喜んで、佐伯をがっかりさせるわけにはいかない。


 まずは、面談の準備だ。


 リンは手帳を開き、荒川のいる武道場へ足を向けた。


     ◇


 七月三十一日、月曜日。


 青葉高校、応接室。


 長机を挟み、佐伯大輔とその母親が並んで座っていた。


 佐伯は制服姿だった。


 背筋を伸ばし、両膝の上に拳を置いている。


 その隣で、母親は膝の上に置いた鞄を何度か持ち直していた。


「……大輔」


「……ん?」


「そんなに固くならなくても」


「……母さんだって、緊張してるだろ」


「……それは、そうだけど」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 向かい側には、荒川とリン。


 リンもまた、落ち着かない様子で時計を見ていた。


『……もうすぐですね』


「……ああ」


 荒川が短く答える。


『……何のお話なんでしょうね』


「……さあな」


『……ですよねぇ』


 荒川が、ちらりとリンを見た。


「……山元」


『はい?』


「お前まで緊張してどうする」


『……いや、だって!』


「……落ち着け」


『……はい』


 リンは姿勢を正した。


 佐伯が、思わず苦笑する。


 そのとき、扉がノックされた。


「失礼します」


 篠原圭介が姿を現した。


 全員が立ち上がる。


「いや、すまない。待たせたな」


 篠原は軽く頭を下げた。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 佐伯の母親も、深く頭を下げた。


「こちらこそ、わざわざお越しいただいて……」


「いえ。今日は大事なお話ですから」


 篠原は椅子へ腰を下ろした。


 全員が着席する。


 机の上に、一冊の書類が置かれた。


 篠原は佐伯へ目を向けた。


「……佐伯」


「はい!」


「この間の組み手、よく頑張ったな」


「……ありがとうございます!」


「最初の試合では、完全に自分を見失っていた」


「……はい」


「勝ちたいという気持ちだけが先に出ていた。相手の動きも、距離も、ろくに見えていなかったな」


「……はい」


 佐伯は、まっすぐに篠原を見つめた。


「だが、最後の試合は違った」


「…………」


「自分の空手を、最後まで崩さなかった」


 篠原は一度、言葉を切った。


「鬼塚監督も、あの試合を高く評価している」


 佐伯の喉が、小さく動いた。


 隣で、母親が息を呑む。


 篠原は、机の上の書類を開いた。


「……佐伯大輔」


「……はい!」


「東央大学空手道部は、来年度の特待生として、お前を正式に指名することを決めた」


「…………」


 佐伯は、動かなかった。


 目を見開いたまま、篠原を見つめている。


 母親も、言葉を失っていた。


 そして。


『……っ!!』


 リンが、思わず口元を押さえた。


 荒川だけが、静かに篠原を見つめていた。


「……佐伯?」


 篠原が声をかける。


「……は」


 佐伯の唇が動いた。


「……はい……!」


「聞こえたか?」


「……はい!」


 もう一度、はっきりと返事をする。


「……本当に、俺が……?」


「ああ」


 篠原は頷いた。


「お前だ」


「…………」


 佐伯は俯いた。


 膝の上に置いた拳を、ぎゅっと握りしめる。


「……ありがとうございます……!」


 震える声だった。


 隣で、母親がそっと口元を覆う。


「……大輔……」


「……母さん」


 二人は顔を見合わせた。


 何かを言おうとして。


 けれど、何も言えなかった。


     ◇


「……ただし」


 篠原が、静かに口を開いた。


 佐伯が顔を上げる。


「喜ぶのは、これから話す条件を聞いてからにしてくれ」


「……はい!」


 篠原は、机の上の書類を一枚めくった。


「まず、東央大学の空手道部は、特待生について四年間の入寮を義務づけている」


「……四年間、ですか」


 母親が尋ねた。


「ええ。基本的に、四年間は寮生活を送ってもらいます。自宅から通うという選択はできません」


「……はい」


 佐伯が頷く。


「規則正しい生活と、集団生活の中での責任を身につけてもらうためです。もちろん、休日の外出や帰省まで禁止しているわけではありません」


 篠原は続けた。


「それから、特待生に認定された場合の費用についてです」


 母親が、少しだけ姿勢を正した。


「学費は、四年間全額免除となります」


「……えっ?」


「入学金を含む学費について、本人の負担はありません」


 母親が、目を丸くした。


「……そ、それは……」


「さらに、寮費と光熱費も全額免除です」


「…………」


「寮で提供する朝食と夕食についても、費用はかかりません。昼食や個人的な買い物などは別ですが、生活費の負担はかなり抑えられると思います」


 母親は、手元の書類へ視線を落とした。


 篠原は説明を続ける。


「空手道部の部費も全額免除。練習に必要な道着や備品については、大学から支給します」


「……道着まで、ですか」


 佐伯が思わず声を上げた。


「ああ。競技に必要なものを、毎回自分で買いそろえる必要はない」


「…………」


「練習試合や遠征についても、基本的には大学がバスを出します。すべての費用がゼロになるわけではありませんが、大きな負担にはならないはずです」


 佐伯は、書類を見つめた。


 学費。


 寮費。


 光熱費。


 朝晩の食事。


 部費。


 道着。


 練習備品。


 どれも、これまで自分が心配していたものだった。


 大学へ行きたい。


 空手を続けたい。


 そう願いながらも、いつも頭の片隅にあったのは、金のことだった。


 家に、どれだけ負担をかけるのだろう。


 母親は、どれだけ無理をするのだろう。


 その心配が。


 目の前の書類には、ほとんど残っていなかった。


「……あの」


 母親が、小さく手を挙げた。


「……本当に、ここまでしていただけるんでしょうか」


「ええ」


 篠原は、はっきりと答えた。


「大学として、それだけの価値がある選手だと判断しました」


「…………」


「もちろん、競技成績だけでなく、これからの成長も期待しています」


 母親は、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 その声が、少し震えていた。


「……本当に、ありがとうございます……」


 佐伯は、母親の横顔を見た。


 これまで、大学へ行きたいと言うたびに、母親は応援してくれていた。


 無理だとは、一度も言わなかった。


 それでも。


 毎月の生活費。


 学費の話。


 家計簿を見つめる姿。


 そんなものを、佐伯は何度も目にしていた。


「……母さん」


 母親は、小さく笑った。


「……よかったね、大輔」


「…………うん」


 佐伯は、強く頷いた。


     ◇


「……さて」


 篠原は、書類をもう一枚めくった。


「ここからは、特待生として守ってもらわなければならない条件だ」


 佐伯が背筋を伸ばした。


「まず、特待生制度は、一度認定されれば四年間無条件で続くというものではない」


「……はい」


「毎年三月に、継続審査を行う」


 篠原は、佐伯をまっすぐ見た。


「競技への取り組み、日頃の生活態度、学業の状況。それらを総合的に判断する」


「……はい!」


「当然、問題行為を起こした場合は、資格を失うこともある」


 佐伯が頷く。


「それから、著しく単位を取得できていない場合も同様だ。大学は空手だけをする場所じゃない」


「……はい!」


「退部や休部についても、特待生制度の継続に関わる。事情は個別に確認するが、空手道部に所属し、競技を続けることが基本条件だからな」


「……分かりました!」


 篠原は、頷いた。


「厳しいと思うか?」


「……いえ!」


 佐伯は、すぐに答えた。


「これだけの支援をしていただくんです。当然だと思います!」


 篠原の口元が、わずかに緩んだ。


「……そうか」


 そして、もう一枚の書類を取り出した。


「それと、入学試験についても話しておく」


「……はい!」


「特待生に指名されたとはいえ、入学試験は受けてもらう」


「……はい」


「形式上の試験ではあるが、受験そのものを免除するわけではない」


 佐伯は頷いた。


「もちろん、一般の受験生と比べれば、相当に優遇されている。それは間違いない」


「……はい」


「だが、だからといって、勉強を疎かにしていいわけじゃないぞ」


 篠原の声が、少しだけ低くなった。


「……佐伯」


「はい!」


「あまりにも点が取れないような、情けない結果だけは出すなよ」


「……押忍!」


「大学へ入ってからも同じだ。空手の練習が忙しいから単位を落としました、なんて言い訳は通用しない」


「……はい!」


「学業と競技の両立。それができることも、特待生に求められる条件だ」


「分かりました! 勉強も頑張ります!」


 篠原は、満足そうに頷いた。


「……よし」


 その隣で、リンはほっと息を吐いていた。


 けれど。


 荒川は、まだ腕を組んだままだった。


 篠原の話が、これで終わりではないことを察していた。


     ◇


「……それから」


 篠原は、机の上の書類を閉じた。


 少しだけ、空気が変わった。


「ここからは、制度の説明ではなく、俺個人からのお願いだ」


 佐伯が顔を上げる。


 母親も、篠原へ目を向けた。


「佐伯。お前は東京都予選を準優勝で終え、インターハイへの出場を決めた」


「……はい」


「八月には、全国の強豪と戦うことになる。そこで結果を残せば、ほかの大学から声がかかる可能性も十分にある」


「……はい」


「推薦の話や、特待生として迎えたいという申し出が来るかもしれない」


 篠原は、少し間を置いた。


「それ自体は、素晴らしいことだ。選手として評価されるのは、喜ぶべきことだからな」


「……はい」


「ただし」


 篠原の目が、鋭くなった。


「今回、東央大学が特待生として指名した意味を、軽く考えないでほしい」


 佐伯の背筋が、さらに伸びた。


「こちらは、大学として正式にお前を迎えると決めた。学費も、生活費も、競技に必要な費用も、できる限り支えるつもりだ」


「……はい」


「そのうえで、あとから別の大学の方が条件がいいからと、簡単に辞退するようなことはしないでほしい」


「…………」


 篠原は、佐伯だけでなく、リンと荒川にも目を向けた。


「これは、お前一人の話じゃない」


 リンが、わずかに身を乗り出す。


「青葉高校から、今後も東央大学を目指す生徒が出てくるかもしれない」


「……はい」


「だが、今回のような話を受けたあとで簡単に断られることになれば、こちらも学校との付き合いを考え直さなければならなくなる」


 篠原は、はっきりと言った。


「今後、青葉高校との推薦の話は、なくなると考えてほしい」


「…………!」


 リンの胸が、どくんと鳴った。


 頭に浮かんだのは、相原菜月だった。


 彼女も、東央大学を目指している。


 今回の合同練習会で、その実力を見せていた。


 鬼塚も、篠原も、菜月のことを覚えてくれている。


 もし。


 ここで佐伯が東央大学の信頼を失うようなことになれば。


 菜月の可能性まで、失われるかもしれない。


『…………』


 リンは、思わず佐伯を見た。


 佐伯もまた、表情を引き締めていた。


 篠原は続けた。


「もちろん、これから何が起こるかは分からない。事情が変わることもあるだろう」


「……はい」


「だから、絶対に何があっても辞退するなと、契約で縛るつもりはない」


 篠原は、ゆっくりと息を吐いた。


「だが、俺たちも覚悟を持ってお前を指名した。そのことだけは、分かっていてほしいんだ」


 応接室が、静まり返った。


 しばらくして。


 佐伯が口を開いた。


「……篠原先生」


「……なんだ」


「俺は、東央大学に行きたいです」


 佐伯は、まっすぐに篠原を見た。


「最初から、ずっとそう思ってきました」


「…………」


「だから、ほかの大学から声がかかっても、その気持ちは変わりません」


 篠原は、何も言わなかった。


 佐伯の声が、少しだけ強くなる。


「そのことを忘れるつもりはありません」


 そして、深く頭を下げた。


「……東央大学で、空手を続けさせてください!」


 篠原は、しばらく佐伯を見つめていた。


 やがて。


「……ああ」


 小さく頷いた。


「その言葉、忘れるなよ」


「……押忍!」


     ◇


 面談も、終わりに近づいていた。


 篠原は、机の上の書類をまとめながら、佐伯へ目を向けた。


「……佐伯」


「はい!」


「最後に、一つだけ言っておく」


 佐伯が姿勢を正す。


「今回の特待生の指名は、お前自身が勝ち取ったものだ」


「……はい」


「最後の組み手で結果を出したのは、お前だ。あの場で諦めず、もう一度勝負を申し出たのもな」


「……はい!」


「だが」


 篠原は、リンへ視線を向けた。


「そもそも、山元が青葉高校に赴任していなければ、今回の機会はなかったかもしれない」


『……えっ?』


 突然名前を出され、リンが目を丸くした。


「山元が鬼塚監督との縁をつないで、お前を東央大学へ連れてきた」


『い、いや! あたしはそんな大したこと……!』


「山元。今はお前の話をしてるんだ」


『……あ、はい』


 篠原が苦笑する。


 荒川も、わずかに口元を緩めた。


 篠原は佐伯へ向き直った。


「もちろん、荒川先生がこれまでお前を鍛えてきたことも、ご家族が支えてきたことも、大きい」


「……はい」


「お前が今ここにいるのは、自分一人の力じゃない」


 佐伯は、静かに頷いた。


「……感謝を忘れるな」


「……はい!」


「そして、残りの高校生活を、最後まで全力で過ごせ」


 篠原は、少しだけ笑った。


「空手も、勉強もな」


「……押忍!」


「その先で、待ってるぞ」


「…………!」


 佐伯は、勢いよく立ち上がった。


「……ありがとうございます!!」


 深く、頭を下げる。


 母親も、隣で立ち上がった。


「……本当に、ありがとうございました」


 篠原は、穏やかに頷いた。


「こちらこそ。四月に迎えられることを、楽しみにしています」


     ◇


 面談が終わり、篠原は応接室をあとにした。


 残された佐伯と母親は、まだ少し呆然としていた。


「……大輔」


「……ん?」


「……決まったんだね」


「…………うん」


 佐伯は、ゆっくりと頷いた。


「……決まった」


 言葉にしてみても、まだ実感が湧かない。


 学費が免除される。


 寮に入れる。


 空手を続けられる。


 それも、ずっと目指してきた東央大学で。


 佐伯は、手元の書類を見つめた。


 何度も夢に見たことだった。


 けれど。


 実際にその日が来ると、喜びの言葉すら、うまく浮かばなかった。


「……母さん」


「……なあに?」


「……俺、頑張るから」


 母親が顔を上げた。


「……絶対、頑張るから」


 佐伯は、真剣な表情で続けた。


「大学でも、ちゃんと勉強して……空手も、もっと強くなって……」


 言葉が、途中で詰まった。


「……だから……」


 母親は、そんな息子を見つめていた。


 そして、ゆっくりと笑った。


「……うん」


 それだけだった。


 けれど、佐伯には十分だった。


 母親は、目元をそっと拭った。


「……本当に、よかったね」


「……うん」


 佐伯も、少しだけ目を伏せた。


     ◇


「……山元先生」


 母親が帰り支度を始めた頃。


 佐伯が、リンへ声をかけた。


『……ん? どうしたの? 佐伯さん』


 佐伯は、リンの前へ進み出た。


 そして。


「……ありがとうございました!」


 深く頭を下げた。


『……えっ!?』


 リンが慌てる。


『ちょ、ちょっと! 佐伯さん! 頭上げて!』


「……先生がいなかったら、俺……」


『……佐伯さん』


 佐伯は、頭を上げなかった。


「……東央大学へ行けるなんて、思ってませんでした」


『…………』


「俺、ずっと……行きたかったんです。でも、学費もあるし、家のこともあるし……」


 声が、少し震えていた。


「……それでも、諦めたくなくて……」


 リンは、黙って聞いていた。


「山元先生が、鬼塚先生に頼んでくれなかったら……」


『……佐伯さん』


 リンは、ゆっくりと口を開いた。


『……顔、上げて』


 佐伯が、そっと顔を上げた。


 リンは、笑っていた。


『あたしはね、きっかけを作っただけだよ』


「……え?」


『東央大学で稽古をしたのも、何度も負けながら立ち上がったのも、最後に勝ったのも……全部、佐伯さんでしょ?』


「…………」


『もちろん、荒川先生も、お母さんも、ずっと佐伯さんを支えてきた』


 リンは、少しだけ声を柔らかくした。


『だから、今回のことは、みんなで喜んでいいんだと思う』


 佐伯の目が、少しだけ潤んだ。


『……それにさ』


 リンは、にっと笑った。


『まだ大学入ったわけじゃないんだからね?』


「……あっ」


『入試、ちゃんと受けないと!』


「……はい!」


『篠原先生にも言われたでしょ? 勉強もしなきゃダメだよ?』


「……押忍!」


『……あははっ。返事だけは立派だなぁ』


 リンが笑う。


 佐伯も、つられて笑った。


 そのとき。


「……佐伯」


 荒川が声をかけた。


「……はい!」


「明日からも、稽古はあるぞ」


「……はい!」


「……特待生に決まったからといって、気を抜くなよ」


 佐伯は、まっすぐに姿勢を正した。


「……押忍!!」


 荒川は、満足そうに頷いた。


「……よし」


     ◇


 佐伯と母親が帰ったあと。


 リンは応接室に残り、机の上を片づけていた。


 先ほどまでの光景が、何度も頭に浮かぶ。


 特待生。


 正式な指名。


 学費も、寮費も、免除。


 あの佐伯が。


 ずっと、大学へ行きたいと願っていた佐伯が。


 ようやく、その道をつかんだ。


『……よかったなぁ』


 リンは、小さく呟いた。


 そして、ふと笑った。


『……ほんと、よかった』


 その声が、少しだけ震えた。


 自分は、空手の技術を教えられるわけじゃない。


 組み手を見ても、細かいことまでは分からない。


 佐伯や菜月のように、真剣に空手へ取り組んできた生徒たちの力には、到底及ばない。


 それでも。


 自分にできることは、あった。


 そう思えた。


『……あたしでも、少しは役に立てたのかな』


 リンは、窓の外へ目を向けた。


 夏の空が、どこまでも青く広がっていた。


 佐伯の道は、ここから始まる。


 まだ高校生活は終わっていない。


 これから大会もある。


 入学試験もある。


 そして、大学へ入ってからも、きっと大変なことが待っている。


 けれど。


 佐伯は、きっと大丈夫だ。


 あの日、自分からもう一度勝負を申し出た彼なら。


 リンは、そう思った。


『……頑張れ、佐伯さん』


 誰もいない応接室で、小さく呟いた。


 廊下へ出ると、遠くから空手部の掛け声が聞こえてきた。


 夏休みの青葉高校。


 いつもと変わらない、午後の風景。


 けれど。


 今日、確かに一人の生徒の未来が動いた。


 そのことが、リンにはたまらなく嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。