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第九十五話「会いたい人」

 二〇二六年(令和八年)八月十九日、水曜日。


 午後十一時を少し過ぎた頃。


 住宅街の一角にある、小さな公園。


 凛は、入口からほど近いベンチに腰掛けていた。


 昼間の暑さが、まだわずかに残っている。


 街灯の明かりに照らされた砂場。


 誰もいないブランコ。


 ときおり遠くを走る車の音が聞こえるだけで、辺りは静まり返っていた。


 凛は、手元のスマートフォンへ目を落とした。


 画面には、聡美からの返信が残っている。


「いいよ! いつもの公園でいい? ちょっと待っててね」


 突然の連絡だった。


 それも、こんな時間に。


 何があったのかも聞かず、聡美はすぐに了承してくれた。


『…………』


 凛はスマートフォンを伏せた。


 頭から離れないものがあった。


 鬼塚宗一郎。


 享年八十一歳。


 急性腎不全。


 死去。


 何度思い返しても、その言葉が自分の知っている鬼塚と結びつかなかった。


 厳しい眼差し。


 道場に響く声。


 選手たちを見つめる、あの背筋の伸びた姿。


 それなのに。


 もう、この世にはいない。


『……鬼塚先生』


 小さく呟いたときだった。


「凛ー!」


 聞き慣れた声がした。


 顔を上げると、公園の入口から聡美が歩いてくるところだった。


 両手には、缶コーヒーが一つずつ。


「お待たせ!」


『……いや。すまない、こんな時間に』


「いいって、いいって」


 聡美は軽く笑い、片方の缶を差し出した。


「はい。こっち、甘くないやつ」


『……ありがとう』


「どういたしまして」


 聡美は凛の隣に腰を下ろした。


 缶のプルタブを開け、一口飲む。


 それから、凛の顔を見た。


「どうしたの? こんな夜中に珍しい」


 いつもどおりの声だった。


 遠回しな質問でも、気を遣った世間話でもない。


 ただ、凛が話し始めるのを待っている。


 凛は両手で缶コーヒーを包んだ。


『……今日、ある人が亡くなったことを知ったんだ』


「……亡くなった?」


『ああ。鬼塚宗一郎という人だ』


「鬼塚……宗一郎?」


『東央大学の空手道部を率いていた人だ。今日、ニュースで訃報を見た』


「……そっか」


 聡美は凛の顔を見た。


「その人、凛の知り合いなの?」


『……ああ』


 凛は小さく頷いた。


『私の、空手の指導者だった』


「……え?」


『私がいた二〇〇〇年では、五十五歳だった。とても厳しい人でな。何度叱られたか分からない』


「……そうなんだ」


『あの人の前では、少しの気の緩みも許されなかった。構え一つ、足の運び一つ、何度もやり直させられたものだ』


 凛の口元が、ほんの少し緩んだ。


『……それでも、尊敬していた』


 聡美は黙って聞いていた。


『誰よりも真剣に、私たちの空手を見てくれる人だったからな』


「……うん」


『そんな人が、八十一歳で亡くなったそうだ』


 凛は缶コーヒーへ視線を落とした。


『……ついこの間まで、私を指導してくれていたのに』


「…………え?」


 聡美が顔を上げた。


「ちょっと待って。ついこの間までって……」


『……ああ』


「……凛が、二〇〇〇年にいたとき?」


『そうだ』


 聡美は目を見開いた。


「……そっか」


 言いかけて、口を閉じる。


 それから、もう一度凛を見た。


「……凛にとっては、本当に数か月前のことなんだよね」


『……ああ』


「……そうだよね。私たちには二十六年前のことでも、凛には……」


 聡美はそこで言葉を失った。


 凛が二〇〇〇年から来たことは、知っている。


 けれど、その時代にいた人々を、凛がどれほど近くに感じているのか。


 そこまで考えたことはなかった。


「……ごめん。私、そこまで考えてなかった」


『……いや』


 凛は首を横に振った。


『私自身、今日まで、ちゃんと考えられていなかったんだ』


 聡美は、手元の缶をそっと膝の上に置いた。


     ◇


『……記事には、もう一人、知っている人の名前があった』


「……誰?」


『篠原圭介という人だ。鬼塚先生を長年支えてきた指導者でな』


「その人も、凛の知ってる人なんだ?」


『ああ。私がいた頃は三十四歳だった』


「……うん」


『今は、六十歳だそうだ』


 聡美が、ゆっくりと瞬きをした。


『鬼塚先生は、五十五歳から八十一歳に。篠原先生は、三十四歳から六十歳に』


 凛は夜空を見上げた。


『……二十六年だ』


 小さな公園に、虫の声が響いた。


『考えてみれば、当たり前のことなんだがな』


「……うん」


『二〇〇〇年から二十六年が経てば、二〇二六年になる。誰だって年を取る。そんなことは、子供でも分かる』


 凛は苦笑した。


『……だが、私は、どこかで分かっていなかったんだ』


「……どういうこと?」


『この時代に来てから、ずっと不思議だった。何もかも違う。街も、学校も、人々の暮らしも……』


 凛は、手元のスマートフォンを見つめた。


『こんなものまで、当たり前に使われている』


「……そうだね」


『まるで、自分の知っている世界とは、まったく別の場所に来てしまったようだった』


 聡美は、凛の横顔を見つめた。


『だが、違った』


 凛は顔を上げた。


『……私のいた二〇〇〇年は、この世界につながっていたんだ』


「…………」


『あの頃、私が知っていた人たちは、そのあとも生きていた。二十六年という時間を、それぞれに過ごしてきたんだ』


 鬼塚は、もういない。


 篠原は、今もどこかで生きている。


 自分が覚えている二人は、確かにこの世界にも存在していた。


『……それが、今日、ようやく分かった』


「……そっか」


 聡美は小さく息を吐いた。


「凛には、今まで実感がなかったんだね」


『……ああ』


「……私には、二〇〇〇年って、昔のことだから」


『……うむ』


「でも、凛にとっては、つい最近まで暮らしてた場所なんだもんね」


 凛は黙って頷いた。


「……なんか、変な感じだね」


『……そうだな』


「同じ二〇二六年にいるのに、凛と私とじゃ、二十六年前の感じ方が全然違うんだ」


『……ああ』


 聡美は少し考え込んだ。


 そして、ふと首を傾げた。


「……でも、それって……」


『……?』


「鬼塚先生だけじゃなくて、ほかの人たちも……」


 そこまで言って、聡美は口を止めた。


 凛の表情が、変わっていたからだ。


『……そうなんだ』


 凛は、両手で缶を握り直した。


『……私も、同じことを考えた』


     ◇


『……父は、どうしているのだろう』


 ぽつりと、凛が呟いた。


 聡美は何も言わなかった。


『母は……今、どこにいるのだろう』


 凛の声が、少しだけ小さくなる。


『姉さんは......』


『友人たちも、そうだ。あの頃、一緒に笑っていた連中は、今、何をしているんだろうな』


 凛は俯いた。


『……みんな、二十六年も年を取ったんだ』


「……うん」


『結婚している者もいるかもしれない。子供がいる者もいるだろう。もう、まったく違う場所で暮らしているかもしれない』


「……そうだね」


『……会えるのだろうか』


 聡美が、凛を見た。


『今も、どこかで生きているのなら……』


 凛はそこで言葉を止めた。


 唇を結び、何かを堪えるように俯く。


「……凛?」


『……怖いんだ』


 声が震えた。


 聡美は、思わず姿勢を正した。


『今日、検索しようとしたんだ。父や母や姉の名前を。友人たちの名前も』


「……うん」


『今の時代なら、何か分かるかもしれないと思った』


 凛は自分の手を見つめた。


『……だが、できなかった』


「……どうして?」


『……もし』


 凛は、一度息を吸った。


『……もし、もう亡くなっていたら』


「…………」


『鬼塚先生のように、訃報が出てきたら……』


 聡美は、何も答えられなかった。


 大丈夫だよ。


 きっと元気だよ。


 そんな言葉が、喉元まで出かかった。


 けれど、口にはしなかった。


 何も知らないのに、そう言うことはできなかった。


『……それだけじゃないんだ』


 凛は続けた。


『もし、生きていたとしても……』


 言葉が途切れる。


『……私のことを、忘れていたら』


「……え?」


『二十六年だぞ、聡美』


 凛は顔を上げた。


『二十六年も経っているんだ』


 聡美の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


『私にとっては、ほんの数か月前まで当たり前に会えていた人たちなんだ』


『父も、母も……姉や友人たちも……』


『だが、あの人たちにとっては、もう二十六年も前のことなんだ』


 凛は、苦しそうに笑った。


『……私なんて、もう、遠い昔の人間になっているのかもしれない』


「……凛」


『みんな、私の知らない人生を生きてきた。私の知らない家族がいて、私の知らない毎日があって……』


 凛は、膝の上で拳を握った。


『……そこに、突然、私が現れたら……』


 続きの言葉が、出なかった。


 聡美も、何も言えなかった。


 しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


 やがて。


『……会いたいんだ』


 凛が呟いた。


 聡美は顔を上げた。


『……父に、会いたい』


 凛の声が、かすかに震えていた。


『母にも……』


 握りしめた拳が、膝の上で揺れる。


『……友人たちにも、会いたいんだ』


 次の言葉を口にしようとして。


 凛は、唇を噛んだ。


『……だが……』


 目元が熱くなった。


『……怖い……』


 ぽたり。


 握りしめた手の甲に、何かが落ちた。


 凛は、驚いたようにそれを見た。


『……あ』


 涙だった。


 慌てて目元を拭う。


 だが、次の涙がこぼれた。


『……っ』


 止まらない。


『……すまない……』


「……凛?」


『……こんな……』


 言葉にならなかった。


 凛は俯いたまま、必死に息を整えようとした。


 けれど、うまくできない。


『……会いたい、のに……』


 声が詰まる。


『……名前すら、調べられなかった……』


 そこまで言って。


 凛は、とうとう顔を覆った。


     ◇


 聡美は、一瞬、動けなかった。


 凛が泣いている。


 いつも背筋を伸ばして、どんなことにも真正面から向き合おうとする凛が。


 こんなふうに声を震わせている。


「……凛」


 何か言わなければ。


 そう思った。


 けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


 大丈夫だよ、なんて。


 そんな簡単な言葉で済ませられる話ではない。


 聡美は、そっと手を伸ばした。


 凛の背中に触れる。


 そして、ゆっくりとさすった。


『……っ、すま……ない……』


「……ううん」


 聡美は小さく首を横に振った。


「謝らなくていいよ」


 凛は顔を上げなかった。


 何度も目元を拭いながら、懸命に涙を止めようとしている。


『……私は……こんな……』


「……うん」


『……情け、ない……』


「……そんなことないよ」


 聡美は背中をさすり続けた。


「……泣いていいよ、凛」


 その言葉に、凛の肩が小さく震えた。


「今、無理して止めなくていいから」


『……っ』


 凛は、返事をしなかった。


 できなかった。


 ただ、俯いたまま涙を流した。


 聡美は、それ以上何も言わなかった。


 背中へ添えた手を、ゆっくりと動かす。


 一度。


 また一度。


 泣きやませようとはしなかった。


 元気づけようとも、励まそうともしなかった。


 ただ、隣にいた。


 凛の呼吸が乱れるたび、背中をさすった。


 街灯の下で、二人の影がベンチの足元へ伸びている。


 遠くで車が走り去った。


 虫の声が、夜の静けさを埋めていく。


 どれくらいの時間が過ぎただろう。


 凛の肩の震えが、少しずつ収まってきた。


『……ふ……っ』


 深く息を吐く。


 もう一度、目元を拭う。


『……すまない』


「……ううん」


『……こんな時間に呼び出して、こんな姿まで……』


「いいって」


 聡美は、少しだけ笑った。


「私が来たくて来たんだから」


 凛は、ようやく顔を上げた。


 目元は赤くなっていた。


 聡美はそれを見ても、何も言わなかった。


 ただ、凛の背中から手を離し、膝の上に置いていた缶コーヒーを持ち直した。


「……少し、落ち着いた?」


『……ああ』


 凛は小さく頷いた。


『……ありがとう』


「うん」


 また、静かな時間が流れた。


     ◇


「……ねえ、凛」


 しばらくして、聡美が口を開いた。


『……うむ』


「私さ、さっき、何て言えばいいか全然分かんなかった」


 凛が、聡美を見る。


「凛のお父さんやお母さんが、今どうしてるのかも知らないし……友達のことだって、何も分からないから」


『……ああ』


「だから、きっと会えるよ、とか、絶対覚えてるよ、とか……そういうことは言えない」


 聡美は、少しだけ困ったように笑った。


「……本当は、そう言ってあげたいんだけどね」


 凛は黙って聞いていた。


「でもね」


 聡美は、凛の顔を見た。


「会いに行ってもいいし、行かなくてもいいと思う」


『…………』


「どっちが正しいかなんて、私には決められないよ」


 凛は、静かに目を伏せた。


「……だって、凛の人生なんだから」


 聡美は続けた。


「でも、会いたいって気持ちも、怖いって気持ちも、どっちも本当なんでしょ?」


『……ああ』


「だったら、今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」


『……今すぐ、か』


「うん」


 聡美は頷いた。


「今日、初めて分かったことなんだよね。二〇〇〇年と今が、ちゃんとつながってるって」


『……ああ』


「だったら、今日のうちに何もかも決めなくていいよ」


 聡美は、手元の缶コーヒーを見つめた。


「怖いままでもいいし、迷ったままでもいい」


 それから、凛へ向き直った。


「ちゃんと悩んで、ちゃんと考えて。それから凛が決めればいいんだよ」


『…………』


「もし会いに行くって決めたなら、私は応援する」


 聡美は微笑んだ。


「もし行かないって決めたとしても、それで凛を責めたりしない」


『……聡美』


「……私は、どっちを選んでも凛の味方だから」


 凛は、何も言えなかった。


 聡美の言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。


 会いたい。


 けれど、怖い。


 そのどちらかを、今すぐ捨てなければならないと思っていた。


 会うなら覚悟を決めなければならない。


 会わないなら、諦めなければならない。


 だが、聡美は言った。


 今すぐ決めなくていい、と。


 凛は、ゆっくりと息を吐いた。


『……私は、焦っていたのかもしれないな』


「……そうかもね」


『……いや。焦っていたというより……』


 凛は少し考えた。


『……何かを決めなければ、この怖さから逃げられないと思っていた』


 聡美は、静かに頷いた。


『……だが、そうか』


 凛は夜空を見上げた。


『……まだ、考えていてもいいんだな』


「うん」


 聡美が微笑んだ。


「いいんだよ」


 凛は、しばらく夜空を見つめていた。


 鬼塚のことを思い出す。


 父の顔を思い出す。


 母の声を思い出す。


 友人たちの笑い声を思い出す。


 何一つ、解決したわけではなかった。


 怖さだって、まだ残っている。


 それでも。


 今は、少しだけ息がしやすかった。


『……聡美』


「ん?」


『……ありがとう』


 聡美は、いつもどおり笑った。


「どういたしまして」


     ◇


 しばらくして、聡美が缶コーヒーへ口をつけた。


「……あ」


『……?』


「ぬるくなっちゃった」


 凛は、自分の手元にある缶を見た。


 受け取ってから、ほとんど口をつけていなかった。


『……そうだな』


「もう一本、買ってこようか?」


『いや。これでいい』


「そう?」


『ああ』


 凛はプルタブを開け、一口飲んだ。


 最初にもらったときの温かさは、もうほとんど残っていない。


 けれど、不思議と嫌な味はしなかった。


「……どう?」


『……うむ』


 凛は、少し考えてから答えた。


『……うまいな』


「ほんと?」


『ああ』


「絶対ぬるいと思うんだけど」


『……ぬるいぞ』


「やっぱり!」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、小さく笑った。


 笑った拍子に、凛の目元が少し痛んだ。


 きっと、随分泣いてしまったのだろう。


 こんなふうに誰かの前で泣いたのは、いつ以来だろうか。


 思い出そうとして、やめた。


 今夜は、もう十分だった。


「……ねえ、凛」


『なんだ?』


「また、話したくなったら呼んでね」


『……こんな夜中でもか?』


「毎日は困るけどね」


『……はは。それはそうだな』


「でも、今日みたいなときはいいよ」


 聡美は、少し肩をすくめた。


「私、そんなに気の利いたこと言えないかもしれないけど」


『……いや』


 凛は首を横に振った。


『……十分だ』


「……そっか」


『ああ』


 凛は缶コーヒーを両手で包み直した。


『……今夜、聡美に会えてよかった』


 聡美は一瞬、目を丸くした。


 それから、少し照れくさそうに笑った。


「……私も、会えてよかったよ」


 風が吹いた。


 ブランコが、かすかに揺れる。


 二人はそれ以上、無理に言葉を重ねなかった。


 鬼塚の死は、悲しい。


 父や母がどうしているのかも、まだ分からない。


 会いに行くのか。


 行かないのか。


 その答えも、今夜は出なかった。


 ただ。


 凛は、隣に座る聡美の横顔を見た。


 自分が知っている二〇〇〇年から、二十六年。


 あまりにも遠い場所へ来てしまったと思っていた。


 けれど。


 今、隣には、こうして話を聞いてくれる人がいる。


 凛は、もう一口コーヒーを飲んだ。


 やはり、少しぬるかった。


 それでも。


 今夜のその味を、きっと忘れないだろうと思った。

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