第九十四話「知らない輪郭」
二〇二六年(令和八年)八月十九日、水曜日。
都立桜丘高校、体育館。
春高バレー東京都予選の初戦まで、あと三日。
女子バレー部の練習は、いつもより少し早い時間から始まっていた。
「はい! もう一本!」
宮野千夏の声が響く。
コートの反対側から放たれたボールを、後衛の選手が受け止めた。
「オッケー! 上げる!」
「千夏、二本目お願い!」
「任せて!」
乱れたレシーブを千夏がつなぐ。
セッターが体勢を整え、前衛へトスを送った。
「いくよ!」
鋭いスパイク。
ボールが相手コートへ落ちる。
「よし!」
小さな歓声が上がった。
だが、千夏はすぐに次のボールを拾った。
「今の、最初のレシーブがもうちょっと内側だったら、もっと攻めやすかったよね」
「うん。でも、私が前に出ると後ろが空くかも」
「あ、そっか。じゃあ、そこはどうしよう?」
「私が一歩寄るよ。そしたらカバーできると思う」
「それいいね! 次、試してみよう!」
誰か一人が決めるのではない。
それぞれが考え、声を出し、次の動きを確かめていく。
そんな光景が、今の桜丘女子バレー部にはあった。
◇
体育館の壁際。
腕を組んで練習を見ていた凛は、満足そうに頷いた。
『……うむ。いい雰囲気だな』
隣には、女子バレー部顧問の藤沢和彦が立っている。
「いやあ、本当ですねえ。みんな、ずいぶん声が出るようになりました」
『はい。以前なら、一つのプレーが終わるたびに紗奈が指示を出していましたが……』
「ええ。今は千夏さんを中心に、みんなで考えられるようになりましたねえ」
凛はコートへ目を向けた。
千夏が仲間の話を聞き、頷いている。
以前の彼女なら、自分の判断を口にする前に、必ず誰かの顔色を窺っていた。
間違っていたらどうしよう。
余計なことを言ってしまったらどうしよう。
そんな迷いが、いつも先に立っていた。
だが今は違う。
分からないことは尋ねる。
必要だと思えば、自分の意見を伝える。
そして、仲間の意見も受け入れる。
それが自然にできるようになっていた。
『……千夏も、よく頑張った』
「そうですねえ。でも、あの子一人の力ではありませんよ」
『ええ。もちろんです』
凛は頷く。
朝倉紗奈が、これまで築いてきたチーム。
その土台があったからこそ、千夏も、ほかの部員たちも成長できた。
紗奈がコートを離れた時間は、決して無駄にはなっていない。
「さて、山本先生。今日はこれくらいでよろしいでしょうかねえ」
『そうですね。大会も近いですし、新しいことを詰め込む必要はありません』
凛は時計を見上げた。
『このあとは連携の確認をもう少し。それで切り上げましょう』
「ええ。そうしましょう」
藤沢が穏やかに頷いた。
◇
「……九、十……!」
コートから少し離れた場所。
紗奈は椅子に腰掛け、両手に持った軽いダンベルをゆっくりと下ろした。
「……ふうっ」
「はい。次、あと五回」
「…………え?」
紗奈が顔を上げた。
目の前には、メモを手にした水瀬結衣がいる。
「結衣、今ので十回じゃなかった?」
「うん。十回動かしたよ」
「じゃあ終わりでしょ?」
「途中の三回、フォームが崩れてたから」
「……えっ」
「ちゃんとできたのは七回」
「ちょっと待って。じゃあ、あと三回じゃない?」
「うん。そのあと次のセットがあるから」
「……ああ、そっちの五回!?」
「そうだよ」
「先に言ってよ!」
結衣は不思議そうに首を傾げた。
「メニューに書いてあるよ?」
「いや、書いてあるけど!」
紗奈は思わず額に手を当てた。
膝の状態を考慮して組まれたトレーニングメニュー。
回数も負荷も決まっており、今日はその範囲で身体を動かしている。
結衣はただ、メニューどおりに回数を数えているだけだ。
ただし。
その数え方が、恐ろしく正確だった。
「……ねえ、結衣」
「なに?」
「ちょっとくらい、おまけしてくれてもよくない?」
「なんで?」
「なんでって……」
「ちゃんとやった方がいいでしょ?」
「それはそうだけど!」
結衣はメモへ目を落とした。
「それに、紗奈が途中で勢いつけちゃうから」
「……見てるねえ」
「見てるよ。付き添いだもん」
あまりにも当然のように言われ、紗奈は返す言葉を失った。
「……結衣って、たまにすごく容赦ないよね」
「そうかな?」
「そうだよ!」
「じゃあ、あと三回」
「話聞いてた!?」
思わず声が大きくなる。
近くにいた部員が振り返り、くすりと笑った。
紗奈は苦笑しながら、もう一度ダンベルを持ち上げた。
「……一」
「はい」
「……二」
「うん」
「……三!」
「今の、ちょっと勢いがついた」
「えええ!?」
「もう一回」
「鬼!」
「無理しないでね」
「厳しいのか優しいのか、どっちなの!?」
結衣は小さく笑った。
それを見て、紗奈もつられて笑ってしまう。
こんなふうに声を上げて笑ったのは、久しぶりかもしれなかった。
◇
ひと息ついた紗奈は、タオルで額の汗を拭いながらコートへ目を向けた。
千夏たちが、最後の連携確認をしている。
「そこ、私が入る!」
「お願い!」
「千夏、次どうする?」
「今の形でもう一本やってみよう!」
声が重なり、ボールがつながる。
誰かがミスをしても、すぐに次の動きへ切り替わる。
「……いい感じだね」
紗奈が呟いた。
結衣もコートを見る。
「うん」
「前はさ、私が何か言わないと、みんな止まっちゃうこともあったんだけど」
「そうだね」
「今は、私がいなくてもちゃんと回ってる」
紗奈の声は穏やかだった。
けれど、膝の上に置いた手が、ほんの少しだけ握られる。
結衣はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「……千夏、頑張ったなあ」
「紗奈も頑張ってるよ」
「え?」
「今も」
結衣が手元のメモを軽く持ち上げる。
「ちゃんと続けてるでしょ」
紗奈は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「……結衣に言われると、なんか説得力あるね」
「そう?」
「うん。さっきから一回も甘やかしてくれないし」
「ちゃんとできてるときは、ちゃんと数えてるよ」
「……それはありがとう」
紗奈はコートへ視線を戻した。
千夏が仲間と笑い合っている。
その姿を見つめる紗奈の表情にも、自然と笑みが浮かんだ。
「……よし。私も頑張ろ」
「うん」
「じゃあ、次のセットやろっか」
「その前に、さっきの残り一回」
「…………」
紗奈がゆっくりと結衣を見た。
「……まだ覚えてたの?」
「もちろん」
「……鬼だ」
結衣は、今度こそ声を出して笑った。
◇
午後。
部活動を終えて帰宅した凛は、シャワーを浴び、洗面所の鏡の前に立っていた。
タオルで濡れた髪を拭う。
鏡に映るのは、もう何度も見慣れた顔だった。
山本リン。
この身体で目覚めたばかりの頃は、鏡を見るたびに驚いていた。
自分とは違う顔。
違う髪。
違う身体。
何もかもが奇妙で、落ち着かなかった。
けれど、今では違う。
髪を乾かす手つきも、服を選ぶ感覚も、随分と自然になった。
化粧道具の扱いにも、少しは慣れた。
何より、鏡に映るこの顔を見ても、以前のようにいちいち立ち止まることがなくなっていた。
『……慣れるものだな』
凛は小さく呟いた。
四か月以上。
短いようで、決して短くない時間だった。
この身体で授業をした。
生徒たちを叱り、励まし、一緒に笑った。
悩むことも、間違えることもあった。
それでも、毎日を過ごしてきた。
今では、桜丘高校の体育教師としての生活が、当たり前になりつつある。
だが。
鏡の中の自分を見つめながら、凛はふと思った。
この身体には、自分の知らない人生がある。
二十二年間。
山本リンという女性が、それまで生きてきた時間。
自分が知っているのは、そのほんの一部だけだった。
『……山本リン、か』
名前を口にする。
けれど、それ以上の言葉は浮かばなかった。
凛はタオルを肩に掛け、洗面所を出た。
◇
部屋に戻り、ベッドへ腰掛ける。
何気なくスマートフォンを手に取った。
これも、すっかり使い慣れたものの一つだった。
最初は画面に触れるだけでも戸惑っていたのに、今では連絡も調べ物も、ほとんど迷わずできる。
凛はYahoo!ニュースのアプリを開いた。
特に何かを調べようと思ったわけではない。
ただ、画面に並ぶ見出しを指で流していく。
政治。
経済。
芸能。
スポーツ。
そして。
ある記事が目に入った瞬間。
凛の指が止まった。
――東央大学空手道部の名将・鬼塚宗一郎氏が死去 81歳 急性腎不全。
『…………え?』
声が漏れた。
画面に表示された名前を、もう一度読む。
鬼塚宗一郎。
間違いない。
凛は震える指で、その記事を開いた。
長年にわたり東央大学空手道部を率い、数多くの優秀な選手を育てた鬼塚宗一郎氏が、急性腎不全のため亡くなった。
享年八十一。
厳格な指導で知られながらも、選手一人ひとりの将来を考え続けた名指導者だったと、記事には記されていた。
その下には、写真が掲載されている。
白髪の増えた、年老いた男性。
けれど、鋭い眼差しは変わっていなかった。
『……鬼塚、先生……?』
凛は画面から目を離せなかった。
知っている。
この顔を、知っている。
自分を何度も叱り、何度も鍛えてくれた人。
道場で背筋を伸ばし、選手たちを見つめていた姿。
妥協を許さない声。
それでいて、努力を重ねた者には必ず目を向けてくれる人だった。
その人が。
亡くなった。
『……そんな』
凛は記事を読み返した。
何度読んでも、内容は変わらない。
八十一歳。
急性腎不全。
死去。
知っているはずの人物に、その言葉が結びつかなかった。
凛の記憶にある鬼塚は、五十五歳だった。
厳しい表情で道場に立ち、選手たちを叱り飛ばす。
そんな姿しか思い浮かばない。
なのに、画面の向こうの鬼塚は、ずっと年老いている。
そして、もうこの世にはいないという。
凛は唇を噛んだ。
『……先生』
小さな声が、静かな部屋に落ちた。
ついこの間まで、当たり前に存在していた人だった。
少なくとも、凛自身の感覚では。
それが、二度と会えない人になっていた。
◇
しばらくして、凛は記事の続きを読み始めた。
関係者のコメントが並んでいる。
その中の、一つの名前。
――篠原圭介氏(60)。
鬼塚氏を長年にわたり支えてきた篠原氏は、師の死を惜しみ、次のように語った。
「厳しい方でしたが、誰よりも選手たちの将来を考えていた。最後まで空手への情熱を失わない方でした」
『……篠原、先生……』
思わず呟いた。
篠原圭介。
あの頃は三十四歳。
鬼塚のそばで選手たちを見守っていた、まだ若い指導者だった。
その篠原が。
六十歳。
『……六十、歳』
凛はゆっくりと息を吸った。
鬼塚は、五十五歳から八十一歳へ。
篠原は、三十四歳から六十歳へ。
どちらも、二十六年。
当たり前の計算だった。
けれど、その当たり前が、凛の胸を強く打った。
『……そう、か』
スマートフォンを握る手に、力がこもる。
二〇〇〇年。
自分が生きていた時代。
そして、二〇二六年。
今、自分が生きている時代。
これまで凛は、その二つを頭の中でうまく結びつけられずにいた。
目覚めたら、見知らぬ場所にいた。
見知らぬ身体になっていた。
目にするものすべてが変わり、知っているはずの常識も通じなかった。
二十六年後。
そう聞いても、どこか現実味がなかった。
まるで、まったく別の世界へ放り込まれたようだった。
だが。
鬼塚宗一郎という人間がいた。
篠原圭介という人間がいた。
自分が知っている二人は、確かにこの世界にも存在していた。
そして、自分の知らない二十六年を生きていた。
鬼塚は、その人生を終えた。
篠原は、今もどこかで生きている。
『……つながって、いたんだな』
凛は、ぽつりと呟いた。
二〇〇〇年の世界が、どこかへ消えてしまったわけではない。
あの道場も。
あの頃の街も。
あの日々を生きた人たちも。
確かに時間を重ねて、今へと続いている。
自分だけが、その二十六年間を知らない。
その事実が、ようやく胸の奥へ落ちてきた。
そして。
『…………あ』
凛は、顔を上げた。
胸の奥に、別の思いが浮かび上がった。
父さんは。
母さんは。
あの頃、一緒に笑っていた友人たちは。
今、どうしているのだろう。
◇
凛はスマートフォンを見つめた。
鬼塚の訃報が、まだ画面に表示されている。
名前を検索すれば、こうして情報が出てくる。
それなら。
父や母の名前を調べれば。
友人たちの名前を調べれば。
何か分かるかもしれない。
今も元気に暮らしているのだろうか。
もう随分と年齢を重ねているはずだ。
結婚した友人もいるだろう。
子供が生まれた者もいるかもしれない。
自分の知らない二十六年間。
みんな、それぞれの人生を歩んできたのだろう。
……けれど。
凛の胸に、冷たいものが広がった。
もし。
もう亡くなっていたら。
鬼塚先生のように、訃報が見つかったら。
『…………』
息が詰まる。
さらに、別の考えが浮かんだ。
自分のことを、覚えているのだろうか。
二十六年前にいた、山元凛という人間を。
父も、母も、友人たちも。
今も覚えていてくれるのだろうか。
それとも。
もう、遠い昔のことになっているのだろうか。
凛は、スマートフォンの検索画面を開いた。
白い入力欄が表示される。
ここに名前を打ち込めばいい。
それだけだ。
指を伸ばす。
けれど。
動かなかった。
『……っ』
名前が、打てない。
何度か画面へ指を近づけては、止まる。
知りたい。
間違いなく、知りたい。
それなのに。
もし、知りたくない現実が表示されたら。
そう考えるだけで、胸が苦しくなった。
凛は、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
何一つ、調べられなかった。
◇
夜。
部屋の明かりを落としても、凛は眠れずにいた。
目を閉じれば、鬼塚の顔が浮かぶ。
厳しい声が聞こえる。
そして、父や母の顔が浮かぶ。
友人たちの笑い声が、記憶の奥からよみがえる。
会いたい。
その気持ちは、確かにあった。
だが、どうすればいいのか分からない。
凛は寝返りを打った。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面が明るくなった。
検索画面を開こうとする。
けれど、また指が止まる。
『…………』
しばらく、何もできないまま画面を見つめていた。
どのくらい、そうしていただろう。
気がつくと、凛はLINEを開いていた。
画面には、見慣れた名前が表示されている。
聡美。
なぜ彼女の名前を選んだのか。
凛自身にも、うまく説明できなかった。
ただ。
今は、誰かと話がしたかった。
この胸の中にあるものを、一人で抱えているのがつらかった。
凛は、ゆっくりと文字を打った。
何度も書き直すことはしなかった。
短い文章だった。
『夜分遅くにすまない。今から会えないか?』
送信。
緑色の吹き出しが、画面に表示された。
凛はそれを見つめた。
返事は、まだない。
それでも、スマートフォンを置くことができなかった。
◇
同じ夜。
茜は、自室のベッドに腰掛けていた。
片手にはスマートフォン。
画面には、LINEのトーク画面が開かれている。
茜は少しだけ考えてから、文字を打ち始めた。
「昨日はごちそうさまでした!」
続けて、もう一文。
「またお仕事のお話、たくさん聞かせてくださいね」
少し迷い、最後の文章を加える。
「タクシー代までいただいて、ありがとうございました」
茜は打ち込んだ文章を一度読み返した。
そして、送信ボタンを押す。
三つのメッセージが、画面の右側に並んだ。
しばらくして、小さく「既読」の文字がついた。
茜はそれを見つめ、わずかに口元を緩めた。
ベッドの脇には、新しい財布が置かれている。
先日、莉子が目を輝かせていた、ロエベの財布だった。
茜はスマートフォンを伏せた。
窓の外では、夏の夜が静かに更けていた。




