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第九十三話「小さな変化」

 二〇二六年八月十七日、月曜日。


 都立桜丘高校。


 沖縄への修学旅行から戻って、十日が経っていた。


 夏休みの校舎は、普段よりもずっと静かだった。


 それでも、補習を受ける生徒や部活動に励む生徒たちの姿はある。


 廊下の向こうから、運動部の掛け声が聞こえてきた。


「……あっつぅ……」


 橘莉子は、手に持ったプリントで顔を扇ぎながら歩いていた。


 午前中の補習を終えたところだった。


 教室には冷房が効いていたものの、一歩廊下へ出ると途端に暑さがまとわりついてくる。


「……もう、なんで夏休みに学校来なきゃいけないのよ……」


 ぼやきながら階段へ向かおうとしたところで、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


「……あれ?」


 廊下の窓際。


 一人の女子生徒が、鞄の中を探っている。


「……茜?」


 声をかけると、少女が振り返った。


「あ、莉子」


 茜だった。


「何してんの?」


「んー、ちょっと探し物」


「何かなくした?」


「いや、財布が見つかんなくて」


 茜はそう言いながら、鞄の中へ手を入れた。


 しばらくして。


「あ、あった」


 取り出したのは、淡い色の小さな財布だった。


 その表面にあるロゴを見た瞬間、莉子の目が大きく開いた。


「……えっ!?」


「……ん?」


「ちょっと待って! それ、ロエベじゃん!」


 莉子が、思わず身を乗り出す。


「えーっ! めっちゃ可愛い! しかも高いやつでしょ!?」


「……ああ、これ?」


 茜は、財布を軽く持ち上げた。


「うん。新しくした」


「いいなぁ! あたしもロエベ欲しいんだけど!」


 茜は、少し笑った。


「……莉子の財布も可愛いじゃん」


「そういう問題じゃないの!」


 茜が、くすっと笑った。


「……何それ」


「いや、普通に羨ましいんだけど!」


 莉子は、もう一度財布へ目を向けた。


 色も、形も、上品で可愛らしい。


 普段の茜の持ち物とは、少し雰囲気が違う気がした。


「……なんかさ」


「……ん?」


「茜、最近ちょっと大人っぽくなった?」


「……え?」


 茜が目を丸くする。


「……何それ、急に」


「いや、なんとなく!」


 莉子は笑った。


「その財布とか、めっちゃ似合ってるし!」


「……ありがと」


 茜は、少し照れたように笑った。


 そして財布を鞄へ戻す。


「……じゃ、私そろそろ行くね」


「あ、うん! またね!」


「またね」


 茜は、軽く手を振って廊下を歩いていった。


 莉子は、その背中を見送りながら小さく呟いた。


「……いいなぁ、ロエベ」


 そして、自分の鞄へ目を落とす。


「……バイトでもしよっかなぁ」


 そんなことを考えながら、階段へ向かった。


 廊下には、再び静けさが戻った。


     ◇


 同じ頃。


 桜丘高校、体育館。


「……ナイス!」


「もう一本!」


 女子バレー部の練習が続いていた。


 体育館には、シューズが床を擦る音と、ボールを打つ乾いた音が響いている。


 八月二十二日。


 春高バレー東京都予選の初戦まで、あと五日。


 選手たちの表情には、普段の練習とは違う緊張感が漂っていた。


「……よし! 次、行こう!」


 コートの中央から、千夏の声が響いた。


 練習形式のゲーム。


 相手チームから放たれたスパイクを、後衛の選手が拾う。


「……上がった!」


 ボールが高く浮いた。


 セッターが走る。


「……千夏!」


「はいっ!」


 千夏が、助走へ入った。


 大きく跳ぶ。


 右腕を振り抜いた。


「……ハァッ!」


 鋭いスパイク。


 しかし、相手のブロックに触れたボールは、コートの内側へ跳ね返った。


「……あっ!」


 千夏が、着地と同時に振り返った。


 相手のブロックポイント。


 得点にはならなかった。


 だが、すぐに顔を上げる。


「……ごめん! 今の、ちょっと打点低かった!」


 周囲の部員たちが頷く。


「ドンマイ!」


「次、次!」


 千夏は、すぐに次の位置へ戻った。


 その表情に、必要以上の落ち込みはなかった。


     ◇


 次のラリー。


 今度は、相手チームが鋭いサーブを放った。


「……っ!」


 レシーブが乱れる。


 ボールが、コートの端へ大きく流れた。


「……任せて!」


 千夏が走った。


 ぎりぎりでボールの下へ入り、腕を伸ばす。


 高く上がったボールを、別の部員がつなぐ。


 しかし、攻撃までは持ち込めなかった。


 相手コートへ返したボールが、すぐに強打となって戻ってくる。


「……っ!」


 床へ落ちるボール。


 失点。


 続けて、もう一点。


 さらに次のラリーでも、連携が乱れた。


「……ごめん!」


 レシーブを失敗した部員が、悔しそうに声を上げる。


「私、今の取れたのに……」


 その表情を見て、千夏が近づいた。


「……大丈夫!」


「……でも」


「まだ次があるじゃん!」


 千夏は、相手コートへ目を向けた。


「今のサーブ、結構伸びてきてたでしょ?」


「……うん」


「じゃあ、少しだけ位置変えよ!」


 千夏は、床を指さした。


「そのくらい後ろから入ってみない?」


「……あ、うん!」


「よし! 次、絶対拾おう!」


 部員の表情が、少しだけ明るくなった。


「……うん!」


 千夏は、ほかの部員たちへも声をかけた。


「みんな、次の一本!」


「おーっ!」


 再び、コートへ声が響いた。


     ◇


 体育館の端。


 ベンチに座っていた朝倉紗奈は、その様子を静かに見つめていた。


「…………」


 右膝には、まだサポーターが巻かれている。


 怪我をしてから、ずいぶん時間が経った。


 最初の頃に比べれば、痛みもかなり落ち着いている。


 普段の歩行で困ることは、ほとんどなくなった。


 リハビリも、少しずつ進んでいる。


 けれど。


 まだ、完全ではなかった。


 ジャンプ。


 着地。


 急な方向転換。


 バレーボールでは、膝へ大きな負担がかかる動きが何度も続く。


 そのすべてに耐えられる状態かと聞かれれば、紗奈自身も自信を持って頷けなかった。


「……おや、朝倉さん」


 隣から、穏やかな声がした。


 顔を上げると、女子バレー部の顧問、藤沢和彦が立っていた。


 六十三歳の再任用教員。


 白髪交じりの髪と柔らかな物腰は、いつもと変わらない。


「……藤沢先生」


「いやあ、今日も暑いですねえ。膝の具合はどうですか?」


「……だいぶ良くなってきました」


 紗奈は、右膝へ視線を落とした。


「普通に歩く分には、もうほとんど痛くないです」


「そうですか。それはよかった」


 藤沢は、嬉しそうに頷いた。


 そして、コートへ目を向けた。


「千夏さんたちも、頑張っていますねえ」


「……はい」


 紗奈も、千夏の姿を見た。


 仲間たちに声をかけ、次のプレーへ備えている。


「……ずいぶん頼もしくなりました」


「ええ。本当に」


 藤沢は、穏やかに笑った。


 それから、少し間を置いた。


「……朝倉さん。初戦のことですがね」


 紗奈の背筋が、わずかに伸びた。


「……はい」


「出場できるかどうか、まだ気になっているでしょう」


「…………」


 紗奈は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


「そうでしょうねえ。ずっと目指してきた大会ですから」


 藤沢は、紗奈の表情を見た。


「ですが、現時点では、出場できるとは申し上げられません」


「……分かっています」


「最終的には、お医者さんの判断も必要ですし、実際にどこまで身体を動かせるかも確認しなければなりません」


「……はい」


 紗奈は答えたものの、その声は少し小さかった。


 藤沢は、急いで言葉を重ねなかった。


「……私もねえ、朝倉さんがどれほど頑張ってきたか、見てきたつもりです」


「…………」


「昨年の新人大会から、ずいぶんいろいろなことがありましたからね」


 紗奈が、顔を上げた。


 昨年の秋。


 チームをまとめきれず、初戦で敗れた新人大会。


 あの悔しさが、今の自分の出発点だった。


「……はい」


「だから、試合に出たい気持ちはよく分かりますよ」


 藤沢は、ゆっくりと続けた。


「ただ、ここで無理をしてしまっては、これから先にも響きますからねえ」


「……はい」


「そこだけは、焦らないでください」


 紗奈は、唇を結んだ。


 分かっている。


 怪我を悪化させれば、初戦だけでは済まなくなる。


 これから先の試合どころか、進学にも影響するかもしれない。


 それでも。


 簡単に割り切れるものではなかった。


「……藤沢先生」


「はい?」


「もし、初戦に間に合わなかったら……」


 紗奈は、そこで言葉を止めた。


 藤沢は、続きを待った。


「……私、何かできること、ありますか」


「……そうですねえ」


 藤沢は、少し考えた。


「私は、バレーボールの専門的なことには、あまり詳しくありませんからね」


 紗奈は、黙って聞いていた。


「ですが、朝倉さんがこれまで、チームのために何をしてきたかは見ていますよ」


「…………」


「練習の進め方も、仲間への声かけも、ずいぶん考えてくれていましたねえ」


 藤沢は、コートへ目を向けた。


「今は千夏さんが頑張ってくれています。でも、それは朝倉さんが必要なくなったということではありませんよ」


「…………!」


「朝倉さんが気づいたことも、これまでと同じように、みんなへ伝えてあげてください」


 紗奈は、ゆっくりと顔を上げた。


「……はい!」


 藤沢は、小さく頷いた。


「ただし、膝に負担のかかることは、無理をしないように。そこは守ってくださいね」


「……分かりました」


「ええ。それでいいんです」


 藤沢は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「それでは、私は少し向こうを見てきます」


「……はい。ありがとうございます」


 紗奈が頭を下げると、藤沢は軽く手を上げてコートの方へ歩いていった。


     ◇


「…………」


 紗奈は、もう一度右膝へ目を向けた。


 初戦まで、あと五日。


 間に合うかもしれない。


 間に合わないかもしれない。


 そのどちらも、まだ分からなかった。


 ……出たいな。


 心の中で、そう呟いた。


 当たり前だった。


 ずっと、この大会を目指してきた。


 三年生にとって、残された大会は多くない。


 春高へつながる予選。


 その大切な舞台に、自分も立ちたかった。


 けれど。


「……よし! ナイスレシーブ!」


 コートから、千夏の声が響いた。


 紗奈は、ゆっくりと顔を上げた。


 千夏が、仲間たちと声を掛け合っている。


 誰かがミスをすれば、すぐに声をかける。


 うまく攻撃が決まれば、自分のことのように喜ぶ。


 以前よりも、ずっと周囲が見えている。


「…………」


 紗奈は、小さく笑った。


 ……成長したなぁ。


 そう思った。


 嬉しかった。


 キャプテンとして、仲間が成長してくれることほど嬉しいことはない。


 けれど。


 その光景を、コートの外から見つめている。


 自分は、まだそこへ戻れない。


 紗奈は、膝の上で手を握った。


 ……私だって。


 ……一緒にやりたいのに。


 その気持ちだけは、どうしても消えなかった。


     ◇


「……はい! 集合!」


 凛の声が、体育館に響いた。


 部員たちが、練習を止めて集まってくる。


 凛は、選手たちの顔を見渡した。


『……今日の練習、悪くなかった』


 部員たちが、少しだけ表情を緩める。


『だが、まだ連携が乱れる場面がある』


「……はい!」


『特に、レシーブが崩れたあとの二本目だ。誰が取るのか、一瞬迷っている』


 千夏が頷いた。


「……はい」


『本番で、その一瞬を相手は見逃してくれない』


 凛は、少しだけ声を強めた。


『だが、ミスをしたあとに立て直せるようになってきたのは、いい変化だ』


 部員たちが、顔を見合わせた。


『失点したときこそ、声を出せ。黙ったところから崩れていく』


「……はい!」


 凛は、頷いた。


『……よし。今日はあと少しだ。最後まで集中しろ!』


「はいっ!!」


 部員たちが、再びコートへ散っていった。


     ◇


 練習再開。


 今度は、攻撃の組み立てを中心に確認する。


「……千夏!」


「はい!」


 トスが上がる。


 千夏が助走へ入る。


 しかし、相手のブロックが二枚、正面へ並んだ。


「……っ!」


 千夏は、空中で相手の位置を見た。


 そして、強打ではなく、指先でボールを軽く押し出す。


 ブロックの奥。


 空いた場所へ、ボールが落ちた。


「……ナイス!」


 仲間たちの声が響く。


 千夏は、着地すると笑った。


「よしっ!」


 紗奈も、思わず声を上げた。


「ナイス、千夏!」


 千夏が振り返る。


「あっ、紗奈!」


「今の、よく見えてたじゃん!」


「……へへっ!」


 千夏が、少し照れたように笑った。


「ありがと!」


 そして、すぐに次の位置へ戻る。


 紗奈は、その背中を見つめた。


 以前なら、力任せに打っていたかもしれない。


 けれど、今は相手のブロックまで見ている。


 自分のプレーだけではなく、コート全体を見ようとしている。


 ……ほんと。


 ……頼もしくなったなぁ。


 紗奈は、静かに頷いた。


     ◇


 練習が終わる頃には、体育館の窓から差し込む光も少し柔らかくなっていた。


 部員たちは、ボールや用具の片づけを始めている。


 千夏は、タオルで汗を拭いながらベンチへ近づいた。


「……紗奈!」


「……ん?」


「今日、どうだった?」


「……何が?」


「練習!」


 紗奈は、少し笑った。


「……よかったと思うよ」


「ほんと?」


「うん。特に最後の方、連携よくなってたし」


「……よかったぁ」


 千夏は、ほっとしたように息を吐いた。


 そして、紗奈の右膝へ目を向けた。


「……そういえばさ」


「……ん?」


「膝、どう?」


 紗奈は、自分の膝を見た。


「……うん。少しずつ良くなってるよ」


「そっか!」


 千夏が笑った。


「よかった!」


「……ありがと」


「でも、無理しないでね」


 その言葉に、紗奈が少しだけ目を伏せた。


「……千夏」


「……ん?」


「心配してくれるのは嬉しいんだけどさ」


「……うん」


「……私だって、試合に出たいんだからね」


 千夏は、少しだけ目を丸くした。


「…………」


 紗奈は、小さく笑った。


「……分かってるんだよ。焦っても仕方ないって」


「……うん」


「でもさ、みんなが頑張ってるの見てると、やっぱり一緒にやりたくなるんだよね」


 紗奈は、体育館のコートへ目を向けた。


「……キャプテンなのに、外から見てるだけって、結構悔しいんだよ」


 千夏は、何も言わなかった。


 紗奈の気持ちを、分かっていたつもりだった。


 怪我をしたこと。


 試合に出られないかもしれないこと。


 その悔しさも、きっと理解しているつもりだった。


 けれど。


 今の紗奈の言葉を聞いて、改めて気づいた。


 紗奈は、ただチームの勝利を願っているわけではない。


 自分も、その勝利をコートの中でつかみたいのだ。


「……うん」


 千夏は、静かに頷いた。


「分かってる。紗奈がどれだけ出たいか」


「……ほんと?」


「ほんと」


 千夏は、紗奈をまっすぐ見た。


「だから、待ってる」


「……え?」


「一緒にコートに立てるの」


 紗奈が、少しだけ目を見開いた。


「……千夏」


「でも、無理してほしいわけじゃないよ。ちゃんと治して、戻ってきてほしい」


 千夏は、笑った。


「それまで、みんなで頑張るから」


 紗奈は、しばらく千夏を見つめていた。


 やがて、口元を緩める。


「……じゃあさ」


「ん?」


「それまで、ちゃんと勝ち残ってよね」


 千夏は、大きく頷いた。


「もちろん!」


「言ったね?」


「言った!」


 二人は、顔を見合わせて笑った。


 紗奈は、もう一度コートへ目を向けた。


 自分が戻りたい場所。


 そこには、今も仲間たちがいる。


 そして、その中には。


 以前よりもずっと頼もしくなった、千夏の姿があった。


     ◇


 部員たちが片づけを終え、体育館から少しずつ出ていく。


 千夏も、ほかの部員に呼ばれてベンチを離れた。


「じゃ、紗奈! また明日!」


「うん! お疲れ!」


 千夏は軽く手を振り、仲間たちのところへ駆けていった。


 紗奈は、その背中を見送った。


 体育館には、まだ数人の部員が残っている。


 片づけの音と、遠くから聞こえる話し声。


 いつもなら、紗奈もあの中で動き回っていた。


 けれど今は、ベンチに座っている。


『……紗奈』


 声をかけられ、紗奈が顔を上げた。


 凛だった。


「……先生」


 凛は、紗奈の隣へ立った。


 二人の視線の先では、千夏が仲間たちと笑っている。


 しばらくして。


『……不安か?』


 凛が、静かに尋ねた。


 紗奈は、少しだけ目を伏せた。


「……はい」


 その返事には、迷いがなかった。


「正直、すごく不安です」


 紗奈は、右膝へ手を置いた。


「初戦に間に合うかも分からないし……。もし出られなかったらって考えると、やっぱり悔しくて」


『……そうか』


 凛は、それ以上何も言わなかった。


 紗奈は、ゆっくりと顔を上げた。


「……でも」


『ん?』


 紗奈の視線が、千夏へ向かう。


「今の千夏なら、大丈夫だって思えます」


 凛も、千夏を見た。


『……そうか』


「前だったら、千夏も自分のプレーで精いっぱいだったと思うんです」


 紗奈は、小さく笑った。


「でも今は、みんなのこともちゃんと見てるんです。誰かがミスしても声をかけるし、コート全体を見ながらプレーしてるし」


『……ああ』


「それに、千夏だけじゃないんです。ほかのみんなも、少しずつ変わってきてて」


 紗奈は、体育館を見渡した。


「……みんな、頼もしくなりました」


 その声には、嬉しさが滲んでいた。


 けれど。


「……悔しいくらいに」


 最後の一言だけ、少し小さくなった。


 凛は、紗奈の横顔を見つめた。


『……いいキャプテンだな、お前は』


「……え?」


 紗奈が、顔を上げた。


『自分が出られないかもしれない。それでも、仲間の成長をちゃんと喜べる』


「…………」


『簡単なことじゃない』


 紗奈は、少しだけ視線を落とした。


「……でも、私……」


『ああ』


 凛は、静かに頷いた。


『分かっている』


「…………」


『悔しいんだろう?』


 紗奈は、唇を結んだ。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


『なら、その気持ちまで我慢する必要はない』


 凛は、コートへ目を向けた。


『仲間の成長を喜ぶことと、自分が試合に出たいと思うことは、別だ』


「…………」


『どちらも、大切にしていい』


 紗奈は、静かに凛の言葉を聞いていた。


『ただし、膝だけは無理をするな。そこは約束してもらうぞ』


「……はい」


『お前が戻る場所は、ちゃんとある』


 紗奈が、顔を上げた。


 体育館の向こうでは、千夏が仲間たちと笑っていた。


 紗奈は、その姿をしばらく見つめた。


 そして。


「……はい!」


 先ほどよりも、少しだけ力のこもった返事をした。


 凛は、短く頷いた。


『……よし』


 窓の外には、夏の夕空が広がっていた。


 春高バレー東京都予選。


 初戦まで、あと五日。


 紗奈がそのコートに立てるかどうかは、まだ分からない。


 それでも。


 仲間たちは、確かに前へ進んでいる。


 紗奈は、ゆっくりと立ち上がった。


 右膝に気をつけながら、一歩を踏み出す。


 そして、千夏たちの方へ歩いていった。

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