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第九十二話「その一歩の先へ」

 二〇〇〇年七月二十二日、土曜日。


 東央大学、空手道場。


 二人の高校生が、向かい合っていた。


 都立青葉高校三年生、佐伯大輔。


 横浜創学館高校三年生、五十嵐翔。


 試合場の周囲には、大学生や高校生たちが座っている。


 誰もが、二人の組手へ視線を向けていた。


 特別に認められた、二度目の試合。


 有効打が出た時点で終了。


 そして、佐伯にとっては。


 負ければ、東央大学の特待生として推薦される可能性を失う一戦だった。


「…………」


 佐伯は、静かに息を吐いた。


 向かい合う五十嵐は、落ち着いた表情をしていた。


 構えにも、余計な力が入っていない。


 午前中の稽古。


 午後の組手。


 そのどちらでも、五十嵐は同じような姿勢を崩さなかった。


 ……強い。


 佐伯は、改めてそう思った。


 けれど、目を逸らさなかった。


「……始め!」


 合図が響いた。


     ◇


 先に動いたのは、五十嵐だった。


 前足が、わずかに動く。


「……っ!」


 佐伯は反応しかけた。


 しかし、踏みとどまる。


 五十嵐の足は、すぐに元の位置へ戻った。


 蹴りではない。


 ただの牽制だった。


 佐伯は、構えを崩さなかった。


 ……今のは、入ってこない。


 もう一度、五十嵐の前足が動いた。


 今度は、鋭い前蹴り。


「……っ!」


 佐伯は半歩下がり、蹴りの間合いから外れた。


 五十嵐も追いかけない。


 足を戻し、静かに構える。


 最初の組手で見たとおりだった。


 相手が入ろうとすれば、前蹴りが飛ぶ。


 無理に近づこうとすれば、その動きを利用される。


 佐伯は、ゆっくりと位置を変えた。


 正面から入るのではなく、少し角度を変える。


 五十嵐も、足を運ぶ。


 互いの正面が、すぐに向き合った。


 ……やっぱり、簡単には外させてくれないか。


 佐伯は、小さく息を吐いた。


     ◇


「……動かないですね」


 菜月が、小さく呟いた。


 隣には、荒川とリンがいた。


『……うん』


 リンも、中央の試合場を見つめている。


 先ほどの試合では、佐伯は積極的に攻め続けていた。


 しかし、今は違う。


 五十嵐へ無理に踏み込むことなく、慎重に距離を測っている。


『……佐伯さん、落ち着いてるね』


「……ああ」


 荒川が短く答えた。


 その視線は、佐伯の足元へ向けられていた。


「……今度は、ちゃんと相手を見ている」


 菜月も頷いた。


「……でも、あの前蹴り、厄介ですね」


『……そうだね』


 五十嵐が、再び前蹴りを放つ。


 佐伯は、わずかに身体を引いてかわした。


 しかし、その分だけ距離が開く。


 五十嵐は、そこへ踏み込んでこない。


 自分の間合いを崩さず、佐伯が動くのを待っていた。


 荒川は、黙って腕を組んだ。


     ◇


 佐伯は、少しずつ前へ出た。


 五十嵐の前足を見る。


 わずかな重心移動。


 構えの変化。


 そして、蹴りが届く間合い。


 ……ここだ。


 佐伯は、踏み込む素振りを見せた。


 五十嵐の前足が動く。


「……っ!」


 鋭い前蹴り。


 佐伯は、すぐに距離を取った。


 蹴りは届かない。


 しかし、佐伯の攻撃も届かなかった。


 もう一度。


 今度は、少しだけ深く踏み込む。


「セイッ!」


 五十嵐の前蹴りが伸びた。


 佐伯は腕で払い、さらに前へ出ようとした。


 しかし。


「……っ!」


 五十嵐は、すぐに足を引いて構え直した。


 佐伯の踏み込みに合わせて、後方へ距離を取る。


 拳は届かない。


 佐伯は、追いかけなかった。


 ……速い。


 前蹴りだけではない。


 蹴りを戻す動きも、そこから距離を取り直す動きも。


 すべてが無駄なくつながっていた。


 佐伯は、再び構えた。


 焦るな。


 まだ、何も決まっていない。


     ◇


 五十嵐は、相手の動きが先ほど見た組手とは違うことに気づいていた。


 最初の試合では、佐伯は積極的に前へ出ていた。


 相手の攻撃を受けても、すぐに取り返そうとしていた。


 しかし、今は違う。


 前蹴りを見ても、無理に追いかけてこない。


 少しでも間合いが悪ければ、すぐに距離を取り直す。


 ……なるほど。


 五十嵐は、わずかに目を細めた。


 ただの勢い任せではないらしい。


 それなら。


 もう少し、動かしてみるか。


 五十嵐の前足が、小さく動いた。


 佐伯が反応する。


 しかし、蹴りは出さない。


 もう一度。


 今度は、わずかに上体を前へ傾ける。


 佐伯の構えが、少しだけ変わった。


 その瞬間。


「……ハッ!」


 五十嵐が、一気に踏み込んだ。


 鋭い上段突き。


「……っ!」


 佐伯は、ぎりぎりで身体を引いた。


 拳が、顔の手前を通り過ぎる。


 審判から得点の合図はない。


 五十嵐は、すぐに構えを戻した。


 佐伯も、距離を取る。


 ……危なかった。


 前蹴りばかり意識していた。


 そのせいで、突きへの反応が遅れた。


 五十嵐は、前蹴りだけの選手ではない。


 分かっていたはずだった。


 佐伯は、大きく息を吐いた。


     ◇


 そのとき。


 ふと、菜月の顔が浮かんだ。


 青葉高校の空手道場。


 何度も向かい合ってきた後輩。


「……先輩、もう一回お願いします!」


 菜月は、いつもそう言って笑っていた。


 踏み込んだと思えば止まる。


 攻撃すると思えば、しない。


 こちらが反応すれば、それを見て次の動きを変える。


 佐伯は、何度も惑わされてきた。


 ある日の稽古でも。


 菜月が前へ出る。


 佐伯は、すぐに防御の構えを取った。


 しかし、菜月は攻撃しなかった。


「……っ!」


 その直後。


 別の角度から、蹴りが伸びてきた。


 佐伯は、慌てて距離を取った。


「……相原!」


「はい!」


「……今、蹴るつもりだっただろ」


「……えへへ」


 菜月は、楽しそうに笑った。


「先輩が動いたので!」


「……それ、答えになってないぞ」


「……そうですか?」


 何度も、そんなやり取りをしてきた。


 あの頃は、菜月の動きに振り回されるばかりだった。


 けれど。


 ……そうか。


 佐伯は、五十嵐を見た。


 あいつは、俺が動くのを見ている。


 なら。


 俺も、あいつを動かせばいい。


     ◇


 佐伯が、わずかに前足を動かした。


 五十嵐は、構えを崩さない。


 もう一歩。


 今度は、少しだけ深く。


 五十嵐の前足が、反応した。


 しかし、佐伯は踏み込まなかった。


「…………」


 五十嵐が、わずかに目を細める。


 佐伯は、すぐに距離を戻した。


 もう一度。


 今度は、肩をわずかに前へ出す。


 中段突きへ入るような動き。


 五十嵐の前蹴りが伸びた。


 佐伯は、半歩下がってかわす。


 そして。


 再び、同じ間合いへ戻った。


 ……なるほど。


 五十嵐は、佐伯を見つめた。


 動きが変わってきた。


 ただ前へ出るのではなく、こちらの反応を確かめている。


 午前中の稽古や、先ほどの組手とは違う。


 五十嵐は、静かに構えを取り直した。


 ……面白い。


 だが。


 それだけで、この間合いを崩せると思うなよ。


     ◇


「……佐伯先輩」


 菜月が、小さく呟いた。


 佐伯の動きが、少しずつ変わっていた。


 五十嵐の前蹴りをかわすだけではない。


 自分からわずかに動き、相手の反応を確かめている。


「……なんか、さっきと違いますね」


『……うん』


 リンも頷いた。


 先ほどまでの佐伯には、どこか必死さが見えていた。


 今は、落ち着いている。


 もちろん、緊張がなくなったわけではないだろう。


 けれど、何かを確かめるように、少しずつ動いている。


「…………」


 荒川は、何も言わなかった。


 ただ、その目は佐伯の足元を追っていた。


 ……そうだ。


 攻めることだけが、前へ出ることではない。


 相手を動かすことも、立派な攻めだ。


 荒川は、腕を組み直した。


     ◇


 五十嵐の前蹴りが、再び伸びた。


「……っ!」


 佐伯は、右手で軽く払いながら距離を取る。


 五十嵐が、すぐに構え直す。


 それを見て、佐伯は前へ出なかった。


 もう一度。


 今度は、わずかに右へ動く。


 五十嵐も、それに合わせて向きを変える。


 佐伯は、さらに半歩。


 五十嵐の前足が動いた。


 ……来る。


 佐伯は、すぐに下がった。


 前蹴りが、空を切る。


 五十嵐は追わない。


 再び構える。


 ……まだだ。


 佐伯は、五十嵐の足を見ていた。


 どの位置から蹴りが出るのか。


 蹴ったあと、どちらへ体重が移るのか。


 足を戻すまでに、どれほど時間がかかるのか。


 何度も前蹴りを見た。


 何度も、間合いを外した。


 そして、そのたびに。


 五十嵐の反応を確かめた。


     ◇


 道場には、道着の擦れる音と、二人の足音だけが響いていた。


 誰もが、試合場へ目を向けている。


 先ほどまで、五十嵐は一方的に相手の動きを制していた。


 しかし、今は違った。


 佐伯も簡単には踏み込まない。


 五十嵐も、不用意には前蹴りを放てない。


 互いに、相手の動きを見ている。


 その静かな攻防が、少しずつ長くなっていた。


「……なるほどな」


 篠原が、小さく呟いた。


 隣にいた大学生が顔を向ける。


「……何がですか?」


「……いや」


 篠原は、試合場から目を離さなかった。


「少し、面白くなってきた」


     ◇


 佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。


 五十嵐の前蹴り。


 何度も見てきた。


 そして、何度も避けてきた。


 けれど、それだけでは勝てない。


 この試合は、最初の有効打で終わる。


 いくら防いでも、勝利にはならない。


 どこかで、自分から攻撃しなければならない。


 ……分かってる。


 佐伯は、ゆっくりと構え直した。


 目の前の五十嵐は、相変わらず落ち着いている。


 その前足が、わずかに動いた。


 佐伯も、半歩前へ出る。


 五十嵐が反応する。


 前蹴り。


「……っ!」


 佐伯は、今度は下がらなかった。


 伸びてきた足を、右手で外側へ払う。


 そして、そのまま踏み込もうとする。


 五十嵐の目が、わずかに動いた。


 ……来た。


 前蹴りを払ったあと、佐伯は踏み込もうとしている。


 中段突き。


 あるいは、上段への連続攻撃。


 どちらにせよ、ここで距離を詰められるのは厄介だった。


 しかし。


 五十嵐には、その動きへの備えがあった。


 前蹴りを払われた瞬間。


 軸足へ体重を移し、逆の脚を引き上げる。


 そして。


「……ハァッ!」


 鋭い回し蹴りが、佐伯へ向かって伸びた。


     ◇


 ……来た!


 佐伯の目が、わずかに見開かれた。


 だが、それは驚きではなかった。


 待っていた。


 五十嵐が、ここで攻撃を重ねてくることを。


 前蹴りを払ったあと。


 自分が踏み込むと見せれば、五十嵐はその動きを止めようとする。


 今まで、何度も見てきた。


 相手の反応を利用する空手。


 菜月が、何度も自分へ仕掛けてきたこと。


 それを、今度は自分がやる。


 五十嵐の回し蹴りが迫った。


 佐伯は、踏み込む動きをわずかに止める。


 そして、身体を少しだけ右へずらした。


 左腕を上げる。


 回し蹴りの軌道を、外側へ受け流す。


「……っ!」


 五十嵐の表情が変わった。


 ……防がれた!?


 その瞬間。


 佐伯の右拳が、動いていた。


 防御と、ほとんど同時。


 五十嵐の蹴りが伸びきった、そのわずかな隙。


 佐伯は、迷わず踏み込んだ。


「……セイッ!!」


 右の中段突き。


 五十嵐の胴へ、鋭く伸びる。


 拳が、正確に届いた。


     ◇


「……やめ!!」


 審判の声が、道場に響いた。


 二人の動きが止まる。


 佐伯の右拳は、五十嵐の中段を捉えていた。


 五十嵐は、わずかに目を見開いている。


「…………」


 佐伯も、すぐには動かなかった。


 自分が何をしたのか。


 頭では、分かっている。


 五十嵐の前蹴りを払った。


 踏み込む素振りを見せた。


 相手の回し蹴りを誘った。


 そして。


 左腕で受けながら、右の中段突きを放った。


 その拳が。


 届いた。


「……有効!」


 審判の判定が響いた。


 佐伯に、一点。


 特別ルールによる、即終了。


「……勝者、佐伯!」


 その瞬間。


 道場が、ざわめいた。


「……えっ!?」


「……佐伯が勝った!?」


「五十嵐に!?」


 周囲の高校生たちが、次々と声を上げる。


 大学生たちも、中央の試合場へ目を向けていた。


 先ほどの組手では、勝てなかった選手。


 その佐伯が。


 関東大会ベスト八、そして神奈川予選優勝者の五十嵐を破った。


 しかも、一瞬の攻防で。


     ◇


「…………」


 佐伯は、しばらく立ち尽くしていた。


 右拳を、ゆっくりと下ろす。


 自分の呼吸が、ひどく荒いことに気づいた。


 膝が、少し震えている。


 けれど。


 勝った。


 確かに、勝った。


 佐伯は、奥歯を噛みしめた。


 胸の奥から、何かが込み上げてくる。


 大声を上げたくなった。


 思い切り拳を握りしめたくなった。


 けれど。


「……礼!」


 審判の声が響いた。


 佐伯は、慌てて姿勢を正した。


「……ありがとうございました!!」


 深く頭を下げる。


 五十嵐も、静かに礼を返した。


「……ありがとうございました」


 二人が顔を上げる。


 五十嵐は、少しだけ佐伯を見つめた。


「……なるほどな」


「……え?」


「……そういうことか」


 五十嵐は、小さく息を吐いた。


「……やられたよ」


「…………」


 佐伯は、何も言えなかった。


 五十嵐は、わずかに笑った。


「……さっき、試したいことができたって言ってたな」


「……ああ」


「……あれか」


 佐伯は、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


「……そっか」


 五十嵐は、もう一度佐伯を見た。


「……次は、そう簡単にはいかないぞ」


「…………」


 佐伯は、少しだけ笑った。


「……ああ」


 そして、もう一度頭を下げた。


「……ありがとう」


 五十嵐も頷いた。


 二人は、それぞれ元の場所へ戻っていった。


     ◇


「……先輩!!」


 佐伯が戻るなり、菜月が立ち上がった。


「すごかったです!!」


「……相原」


「最後の中段! めちゃくちゃ綺麗でした!!」


「……ああ」


 佐伯は、少し照れたように笑った。


「……ありがとう」


 菜月は、まだ興奮が収まらない様子だった。


「五十嵐さんの前蹴り、あんなに厄介だったのに!」


「……そうだな」


「でも、最後はちゃんと読んでましたよね!」


「……まあ、な」


 佐伯は、少しだけ笑った。


 何度も組手をしてきた後輩。


 何度もフェイントに引っかかってきた相手。


 その経験が、最後の一撃につながった。


 佐伯は、菜月へ目を向けた。


「……相原」


「……はい?」


「……お前との稽古、役に立ったよ」


「…………」


 菜月が、少し目を丸くした。


 それから。


「……えへへ!」


 嬉しそうに笑った。


「……それなら、よかったです!」


     ◇


『……佐伯さん!』


 リンも、近づいてきた。


 その顔には、安堵が浮かんでいた。


『……お疲れさま!』


「……凛先生」


『……すごかったよ!』


 佐伯は、少しだけ頭を下げた。


「……ありがとうございます」


『……ほんと、よかった』


 リンは、胸の前で手を合わせた。


 先ほど、鬼塚が告げた条件。


 負ければ、特待生として推薦しない。


 その言葉を聞いたときは、思わず止めたくなった。


 けれど、佐伯は自分で決めた。


 そして、自分で勝った。


『……佐伯さん』


「……はい」


『……本当に、お疲れさま』


 佐伯は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 それ以上、何も言わなかった。


 けれど、その表情は、最初の試合を終えたときとは違っていた。


     ◇


「……佐伯」


 低い声が響いた。


 振り返ると、荒川が立っていた。


「……先生!」


 佐伯は、姿勢を正した。


「……押忍!」


 荒川は、しばらく佐伯を見つめた。


 それから、短く頷く。


「……よくやった」


「…………!」


 佐伯の表情が、わずかに変わった。


「……ありがとうございます!」


 深く頭を下げる。


 荒川は、静かに続けた。


「……初戦では、攻めることばかり考えていたな」


「……はい」


「だが、今の試合は違った」


「……押忍」


「……相手を見ていた」


 佐伯は、顔を上げた。


 荒川の表情は、いつもと変わらなかった。


 けれど。


 その右手が、強く握られていたことに、佐伯は気づいた。


「……佐伯」


「……はい」


「……忘れるなよ」


「……押忍!」


 佐伯は、もう一度深く頭を下げた。


     ◇


「……佐伯」


 今度は、鬼塚の声だった。


 佐伯が、すぐに姿勢を正す。


「……押忍!」


 鬼塚は、試合場の中央に立ったまま、佐伯を見つめていた。


 道場が、少しずつ静かになる。


「……最初から、その空手を見せろ」


「…………」


 佐伯は、息を呑んだ。


 褒められたわけではない。


 勝ったからといって、初戦の敗北がなくなったわけでもない。


 鬼塚は、それを認めるつもりはないのだろう。


 佐伯は、深く頭を下げた。


「……押忍!!」


 鬼塚は、短く頷いた。


 それ以上、何も言わなかった。


 特待生の合否についても、言葉はなかった。


 佐伯も、尋ねなかった。


 今日、自分にできることはやった。


 それだけは、胸を張って言える。


 あとは、結果を待つだけだった。


     ◇


 合同試合が終了し、参加者たちは帰り支度を始めていた。


 道場のあちこちで、今日の組手について話す声が聞こえている。


「五十嵐、最後のやつ惜しかったな」


「いや、あれは佐伯が上手かっただろ」


「相原の上段もすごかったよな」


 そんな声が、時折耳に入ってきた。


 佐伯は、道着を整えながら小さく息を吐いた。


 まだ、少し実感がなかった。


 五十嵐に勝った。


 自分から試合を申し出て、勝った。


 何度思い返しても、不思議な気持ちだった。


「……先輩!」


 菜月が、隣へやってきた。


「今日、帰ったらゆっくり休んでくださいね!」


「……お前こそな」


「私は元気ですよ!」


「……そうか」


 佐伯は、少し笑った。


 そのとき。


「……佐伯、相原」


 背後から声がした。


 二人が振り返る。


 鬼塚だった。


「……押忍!」


「……押忍!」


 二人は、すぐに姿勢を正した。


 鬼塚は、二人を見比べた。


「……今日の組手、見せてもらった」


「……ありがとうございます!」


 佐伯が頭を下げる。


 菜月も続いた。


「ありがとうございました!」


 鬼塚は、静かに頷いた。


「……佐伯」


「……押忍!」


「お前は、まだまだ甘い」


「……はい!」


「相原」


「……はい!」


「お前もだ」


「……押忍!」


 二人は、まっすぐ鬼塚を見つめた。


 その様子を見て、鬼塚は少しだけ目を細めた。


 そして。


「……山元は、こんなものじゃなかったぞ」


「…………」


「…………」


 佐伯と菜月が、同時に顔を上げた。


「……え?」


 先に声を漏らしたのは菜月だった。


 鬼塚は、二人を見たまま続ける。


「お前たちの教師だ」


「……凛先生、ですか?」


 佐伯が尋ねた。


「……ああ」


 鬼塚は、短く頷いた。


「……あいつが学生だった頃は、もっと厄介だった」


「…………!」


 菜月が、目を丸くした。


「……そんなに、ですか?」


「……ああ」


 鬼塚は、少しだけ口元を緩めた。


「……あれを超えるつもりで、稽古しろ」


「……押忍!!」


 二人が、勢いよく頭を下げた。


 鬼塚は、それ以上何も言わず、道場の奥へ歩いていった。


     ◇


「…………」


「…………」


 佐伯と菜月は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 やがて。


「……先輩」


「……ん?」


「……凛先生って、そんなに強かったんですか?」


「……いや」


 佐伯は、少し考えた。


「……俺も、そこまでは知らない」


「……ですよね」


 菜月は、道場の奥へ視線を向けた。


 鬼塚の背中は、もう見えない。


「……あの鬼塚監督が、あんなこと言うなんて」


「……ああ」


 佐伯も頷いた。


 そして、二人はほとんど同時に、少し離れた場所へ目を向けた。


 リンが、荒川と話している。


『……えっ? 今日はもうこれで終わりですか?』


「……ああ。そろそろ帰る準備をするぞ」


『……はい!』


 リンは、いつもどおりの表情で頷いていた。


 その姿を見ながら、菜月がぽつりと呟く。


「……凛先生、すごい人なんですね」


「……そうみたいだな」


 佐伯は、少しだけ笑った。


 菜月も、笑った。


「……私、もっと頑張ります!」


「……ああ」


 佐伯は、ゆっくりと頷いた。


「……俺もだ」


 そのとき。


『……佐伯さーん! 相原さーん!』


 リンが、こちらへ手を振った。


『そろそろ帰るよー!』


「……はい!」


「……押忍!」


 二人は、顔を見合わせた。


 そして、リンの方へ歩き出した。


     ◇


『……二人とも、お疲れさま!』


 リンが、笑顔で迎えた。


『今日は、ほんとに頑張ったね!』


「……ありがとうございます!」


 佐伯が頭を下げる。


 菜月も、嬉しそうに頷いた。


「凛先生!」


『……ん?』


「……私、もっと強くなります!」


『……おっ! いいね!』


「絶対、先生みたいになります!」


『…………』


 リンの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。


『……え?』


 菜月は、満面の笑みを浮かべている。


「鬼塚監督が言ってたんです!」


『……鬼塚さんが?』


「はい! 凛先生は、私たちなんかよりずっと強かったって!」


『…………』


 リンは、ゆっくりと瞬きをした。


 ……え。


 ちょっと待って。


 そんなに?


「……凛先生」


 佐伯も、真剣な表情で頭を下げた。


「……自分も、もっと頑張ります」


『……あ、うん!』


 リンは、慌てて頷いた。


『……二人とも、頑張ってね!』


「……押忍!」


「はい!」


 二人は、嬉しそうに返事をした。


 リンも笑った。


 けれど。


 ……山元凛って。


 ……一体、どんだけ強かったのよ。


 そんな疑問だけが、胸の中に残った。


     ◇


 夕方。


 東央大学の正門を出る頃には、夏の日差しも少し和らいでいた。


 佐伯は、大学の校舎を振り返った。


 前回訪れたときは、何一つ勝てなかった。


 今日は、二度戦った。


 一度負けて。


 そして、一度勝った。


 それだけだった。


 特待生に選ばれるかどうかは、まだ分からない。


 大学へ進学できると決まったわけでもない。


 けれど。


 佐伯は、ゆっくりと拳を握った。


 今日のことは、忘れないだろう。


 自分の弱さを、嫌というほど思い知らされたこと。


 それでも、もう一度立ったこと。


 そして、今まで積み重ねてきたものが、確かに届いたこと。


 ふと、六月の東京都予選を思い出した。


 準決勝を勝ち抜き、全国への切符をつかんだ。


 だが、決勝では敗れた。


 東京都準優勝。


 決して悪い結果ではない。それでも、あと一つ勝てなかった悔しさは残っている。


 そして今日。


 神奈川県の頂点に立った五十嵐を、最後の一瞬で上回ることができた。


 もちろん、公式戦で勝ったわけではない。


 だからこそ、思う。


(……全国では、どこまで通用するんだろうな)


 八月のインターハイ。


 全国から集まる強豪たちを相手に、自分はどこまで戦えるのか。


 その答えを、早く知りたかった。


「……佐伯先輩!」


 前を歩く菜月が、振り返った。


「早く行きましょう!」


「……ああ!」


 佐伯は、顔を上げた。


 東央大学の正門を抜け、仲間たちの方へ歩き出す。


 まだ、何も終わっていない。


 むしろ。


 ここからが、始まりだった。

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