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第九十一話「そろそろだね」

 二〇〇〇年七月二十二日、土曜日。


 東央大学、空手道場。


「……始め!」


 合図とともに、二人の選手が構えを取った。


 横浜創学館高校三年生、五十嵐翔。


 昨年の男子関東大会でベスト八に入り、今年のインターハイ神奈川県予選では男子個人組手を制した実力者だった。


 向かい合う高校生も、決して弱い選手ではない。


 開始直後、相手が素早く間合いを詰めた。


「セイッ!」


 中段突き。


 しかし、その拳が届く前に。


「……っ!」


 五十嵐の前足が伸びた。


 鋭い前蹴り。


 相手の踏み込みを正面から制し、それ以上近づかせない。


 相手が下がると、五十嵐も足を戻した。


 そして、何事もなかったように構え直す。


「…………」


 佐伯は、その動きをじっと見つめていた。


 午前中の稽古でも見た前蹴り。


 しかし、試合になると、その厄介さがよく分かった。


 相手は攻めたい。


 けれど、踏み込もうとするたびに前蹴りが飛んでくる。


 近づかなければ攻撃は届かない。


 かといって、無理に近づけば蹴りを受ける。


 五十嵐は、自分から大きく動いているわけではなかった。


 それなのに、相手の動きだけが少しずつ制限されていく。


「……セイッ!」


 相手が、今度は上段への突きを見せた。


 五十嵐が反応する。


 その瞬間、相手は中段へ踏み込んだ。


 フェイントだった。


 しかし。


「……っ!」


 またしても、五十嵐の前蹴りが伸びた。


 相手が、思わず足を止める。


 そこへ。


「……ハッ!」


 五十嵐が、一気に踏み込んだ。


 中段突き。


「……やめ!」


 審判の声が響く。


 有効。


 五十嵐に一点が入った。


     ◇


「……すごいですね」


 菜月が、小さく呟いた。


 隣の佐伯も頷く。


「……ああ」


「相手の人、全然近づけないですね」


「……そうだな」


 佐伯は、五十嵐の足元へ目を向けた。


 前蹴り。


 ただ、それだけの技だ。


 もちろん、実際には速さも間合いも正確でなければ成立しない。


 けれど、五十嵐がやっていることは、それだけではなかった。


 相手が前蹴りを警戒し始めると、今度は自分から踏み込む。


 相手がそれを嫌がって下がれば、また間合いを詰める。


 攻めることも、守ることも、五十嵐の方が先に決めているように見えた。


 佐伯は、膝の上で拳を握った。


 ……俺とは、違う。


 自分は、相手へ攻撃を当てようとして前へ出た。


 五十嵐は、相手がどう動くのかを見ながら、必要なときだけ前へ出ている。


 その差が、はっきり見えた。


     ◇


 試合は、その後も五十嵐の優勢で進んだ。


 相手は何とか距離を詰めようとする。


 しかし、前蹴りで止められる。


 左右へ動いて角度を変えても、五十嵐は慌てない。


 無理に追いかけず、相手が入ってくる場所を見ている。


 そして、試合の終盤。


 相手が大きく踏み込んだ。


 今度こそ、前蹴りをかわそうと身体を斜めに運ぶ。


 しかし、五十嵐は蹴らなかった。


「……っ!」


 前蹴りを警戒した相手の身体が、わずかに流れる。


 その瞬間。


「セイッ!」


 五十嵐の上段突きが伸びた。


「……やめ!」


 有効。


 追加の一点が認められた。


 やがて終了の合図が響き、五十嵐の勝利が告げられた。


 最後まで、相手は五十嵐の間合いを崩せなかった。


 周囲から、感心したような声が漏れる。


「……やっぱ強いな」


「去年の関東ベスト八だろ?」


「前蹴りが厄介すぎる……」


 五十嵐は、相手と礼を交わすと、静かに元の場所へ戻った。


 派手に喜ぶこともない。


 息を整え、腰を下ろす。


 その姿まで、どこか落ち着いていた。


「……先輩」


 菜月が、佐伯へ声をかけた。


「……ん?」


「今の人、すごく面白い空手でしたね」


「……ああ」


 佐伯は、五十嵐を見た。


 そして、もう一度試合場へ視線を戻した。


「……強かったな」


 その言葉には、悔しさも混じっていた。


 けれど、相手の強さを認めることに、もう抵抗はなかった。


     ◇


 その後も、鬼塚の指名によって組手が続いた。


 鋭い突きで攻める選手。


 蹴りを得意とする選手。


 相手の攻撃を受け、反撃の機会を待つ選手。


 佐伯は、どの試合からも目を離さなかった。


 自分の試合は、すでに終わっている。


 勝てなかったという事実も、変わらない。


 それでも、ここには学べるものがある。


 佐伯は、選手たちの動きを追い続けた。


 やがて。


「……次」


 鬼塚が、参加者たちを見渡した。


「相原菜月」


「……押忍!」


 菜月が立ち上がった。


 その声に、佐伯も顔を上げる。


 菜月は一度道着を整えると、試合場へ向かった。


 向かい側からは、別の高校の女子選手が進み出る。


 背筋の伸びた、精悍な顔つきの選手だった。


 試合場の中央で、二人が向かい合う。


 佐伯は、菜月の背中を見つめた。


 毎日のように組手をしてきた相手。


 何度もフェイントに引っかかり、何度も攻撃をかわされてきた。


 菜月がどれほど厄介な選手なのか。


 佐伯は、よく知っていた。


     ◇


 試合場の周囲では、女子の高校生たちも二人の対戦を見守っていた。


 その一角。


 一人の女子高校生が、隣に座る大学生へ何度も視線を向けていた。


 樋口夢香。


 東央大学四年生。


 女子空手部の実力者であり、東央大学を目指す女子選手の間では、知らない者の方が少ないほどの存在だった。


 その高校生も、以前から夢香の名前を知っていた。


 大会での活躍も、何度も耳にしている。


 そんな選手が、今はすぐ隣に座っている。


 話しかけてみたい。


 けれど、何を話せばいいのか分からない。


 せっかくの機会なのに。


 高校生は、少し落ち着かない様子で膝の上に手を置いた。


 一方、夢香は試合場を見つめていた。


「…………」


 その視線の先には、菜月がいる。


 以前の合同練習。


 自分を指名して組手を申し込んできた高校生。


 名前も知らないまま挑んできた、少し変わった少女だった。


 夢香は、あのときの組手を覚えていた。


 簡単に勝たせてくれる相手ではなかった。


 そして、何より。


 あの目。


 自分の動きを、最後まで見ようとしていた。


 夢香は、わずかに口元を緩めた。


     ◇


「……始め!」


 合図が響いた。


 先に動いたのは、相手の女子選手だった。


「セイッ!」


 鋭い中段突き。


 菜月は半歩下がり、拳をかわす。


 相手は、そのまま踏み込んだ。


 続けて上段突き。


 しかし、菜月は身体を斜めに運び、距離を取った。


「……っ!」


 相手が構え直す。


 菜月も、静かに構えた。


 再び、相手が前へ出る。


 中段への攻撃。


 菜月はかわす。


 今度は右へ。


 続いて左へ。


 相手の攻撃が続くたび、菜月はわずかに位置を変えていった。


「……なんだ?」


 観戦していた男子高校生が呟いた。


「相原、全然攻めないな」


 佐伯も、試合を見つめていた。


 菜月は、時折前足を動かす。


 踏み込む素振りを見せる。


 だが、そこから強い攻撃へつなげることはなかった。


 相手の女子選手が、再び前へ出る。


「……ハァッ!」


 突き。


 菜月が下がる。


 さらに突き。


 また、菜月がかわす。


 相手は、少しずつ前へ出る距離を伸ばしていた。


 周囲には、菜月が押され続けているように見えた。


     ◇


「……結構、押されてますね」


 夢香の隣にいた女子高校生が、思わず呟いた。


 言ってから、少しだけ後悔する。


 憧れの選手の隣で、余計なことを言ってしまったかもしれない。


 しかし、夢香は何も答えなかった。


 ただ、試合場を見ている。


 高校生も、慌ててそちらへ視線を戻した。


 菜月は、相変わらず相手の攻撃をかわし続けていた。


 何度か反撃の素振りは見せるものの、決定的な一撃には至らない。


 相手の女子選手は、明らかに前へ出る回数を増やしている。


 ……やっぱり、相手の方が強いのかな。


 そう思ったときだった。


「……そろそろだね」


 夢香が、小さく呟いた。


「……えっ?」


 高校生は、思わず顔を上げた。


 樋口夢香が、今、何かを言った。


 そのことが嬉しくて、つい勢いよく返事をしてしまう。


「……は、はい! やっぱり、あの子もそろそろ限界ですよね!」


 夢香が、わずかに首を傾げた。


「……ん?」


「ずっと攻められっぱなしですし、あれだけ動かされたら……」


 夢香は、高校生を一度だけ見た。


 それから、試合場へ視線を戻した。


「……いや、逆さ」


「……え?」


 夢香は、菜月を見つめたまま続けた。


「あの子にあれだけ情報を与えちゃダメなんだよ」


「…………?」


 高校生は、意味が分からず目を瞬かせた。


 情報。


 何のことだろう。


 相手が攻めている。


 菜月は守っている。


 そう見えていた。


 けれど、夢香の表情には迷いがなかった。


 そのとき。


 試合場で、相手の女子選手が大きく踏み込んだ。


     ◇


「……セイッ!」


 中段突き。


 菜月は、また半歩下がる。


 相手は、その動きを追った。


 もう一歩。


 今までと同じように、下がる菜月へ攻撃を重ねようとする。


 しかし。


 菜月は、もう下がらなかった。


「……っ!」


 相手が、その変化に気づいたときには。


 菜月の身体が、鋭く回転していた。


「……ハァッ!」


 上段蹴り。


 伸びた足が、相手の上段を正確に捉える。


「……やめ!」


 審判の声が響いた。


 一瞬遅れて、周囲からどよめきが起こる。


「……えっ!?」


「今の、何だ!?」


 審判が、得点を示した。


 一本。


 三点。


 菜月は、すぐに足を引き、構えを戻していた。


 相手の女子選手は、少し驚いたように菜月を見つめている。


 先ほどまでと、何も変わらないように見えた。


 なのに。


 最後の一度だけ、菜月は動きを変えた。


 その一瞬へ、相手は対応できなかった。


     ◇


「…………!」


 夢香の隣にいた女子高校生は、言葉を失っていた。


 何が起きたのか。


 目では追えた。


 けれど、どうしてあの蹴りが決まったのか、すぐには理解できなかった。


 夢香は、静かに試合を見ていた。


 菜月が相手の攻撃をかわし続けていた時間。


 前へ出る回数。


 踏み込む足。


 攻撃をつなげるときの癖。


 相手は、そのすべてを菜月へ見せ続けていた。


 そして菜月は、最後の一瞬だけ、その動きを利用した。


「……相変わらずムカつく空手をするね、あの子は」


 夢香が、ぽつりと呟いた。


 その声には、かすかな笑みが混じっていた。


 隣の高校生が、思わず夢香を見る。


「……あの、樋口先輩」


「……ん?」


「あの子のこと、知ってるんですか?」


「……一度、組手したことがあるよ」


「……えっ!?」


 高校生が目を丸くする。


 夢香は、それ以上何も言わなかった。


 ただ、試合場へ目を向けていた。


     ◇


 試合は、その後も続いた。


 しかし、菜月は最後まで相手の攻撃へ冷静に対応し、追加の得点を許さなかった。


 終了の合図が響く。


 菜月の勝利だった。


「……ありがとうございました!」


 菜月は、相手へ深く頭を下げた。


 相手も礼を返す。


 二人は試合場を離れ、それぞれの場所へ戻っていった。


「……相原」


 佐伯が声をかけた。


「……はい!」


「……今の上段、すごかったな」


 菜月は、少し照れたように笑った。


「……ありがとうございます!」


「……あれ、最初から狙ってたのか?」


「……うーん」


 菜月は、少し考えた。


「……どうでしょう?」


「……は?」


「なんか、いけそうだったので!」


「…………」


 佐伯は、思わず苦笑した。


「……お前な」


「……えへへ」


 菜月は、隣へ腰を下ろした。


 佐伯は、もう一度試合場へ目を向けた。


 相原らしい。


 そう思った。


 けれど。


 ただの偶然で、あんな蹴りが決まるはずはない。


 毎日の稽古で、何度も見てきた。


 相手の反応を確かめるような動き。


 踏み込むと思わせて、踏み込まない。


 下がると思わせて、下がらない。


 そうやって、相手が考えていることを少しずつ利用していく。


 ……やっぱり、すごいな。


 佐伯は、小さく息を吐いた。


     ◇


 組手は、その後も続いた。


 大学生たちが見守る中、高校生たちは次々と試合場へ立つ。


 勝つ者。


 負ける者。


 思いどおりの動きができた者。


 悔しそうに戻ってくる者。


 佐伯は、その一つひとつを見ていた。


 自分の試合のあと、顔を伏せたくなったことを思い出す。


 けれど、あのまま下を向いていたら、五十嵐の組手も、菜月の上段蹴りも見られなかった。


 見なければ、分からなかったことがある。


 相手を無理に追いかけない強さ。


 攻撃を急がず、動きを見続ける強さ。


 どちらも、これまで稽古で何度も教わってきたことだった。


 それでも。


 今日、改めて目の前で見たことで、何かが少しずつ整理されていく気がした。


 佐伯は、膝の上に置いた手を見た。


 最初の試合。


 あのとき、自分は何を考えていたのだろう。


 相手を見ていたつもりだった。


 けれど、本当に見ていたのか。


 勝たなければ。


 点を取らなければ。


 そんな思いばかりが先に立っていなかったか。


「…………」


 佐伯は、ゆっくりと拳を握った。


 悔しさは、少しも消えていなかった。


     ◇


 やがて、最後の組手が終了した。


 参加者たちが、試合場の周囲へ整列する。


 鬼塚が、全員の前に立った。


「……ご苦労だった」


「押忍!」


 道場に、力強い返事が響く。


 鬼塚は、集まった選手たちを見渡した。


「今日の組手で、自分の課題が見えた者もいるだろう」


 誰も口を開かない。


「勝ったからといって、満足するな。負けた者も、何が足りなかったのかを考えろ」


 佐伯は、まっすぐ前を向いていた。


「……では、次回の案内については、追って――」


 そのときだった。


 正座していた一人の高校生が、静かに右手を上げた。


「…………」


 隣にいた菜月が、その動きに気づく。


「……先輩?」


 佐伯大輔だった。


     ◇


「……佐伯?」


 篠原が、わずかに眉を上げた。


「どうした。何かあるのか?」


 佐伯は、ゆっくりと手を下ろした。


 背筋を伸ばす。


 周囲の視線が、少しずつ集まってくる。


「……あの」


 声が、わずかに震えた。


 佐伯は、一度唇を結んだ。


 そして。


「……もう一試合だけ、お願いします」


 道場が静まり返った。


 誰かが、小さく息を呑む。


 菜月も、目を丸くした。


「……先輩……?」


 佐伯は、前を向いたままだった。


 鬼塚が、ゆっくりと佐伯へ視線を向ける。


「……佐伯」


「……押忍」


「今日の説明を聞いていなかったのか」


「……聞いていました」


「一人一試合だと伝えたはずだ」


「……承知しています」


 鬼塚の表情は変わらなかった。


「ならば、なぜこれだけの生徒がいる中で、お前だけを特別扱いせねばならん」


「…………」


 佐伯は、すぐには答えられなかった。


 正論だった。


 自分だけに、もう一度試合をさせてほしい。


 それが、どれほど勝手な願いなのかは分かっている。


 ほかの選手たちも、この日のために稽古を重ねてきた。


 一試合しかできなかったのは、自分だけではない。


 その中で、自分だけに二度目を求める。


 簡単に許されることではなかった。


「……申し訳ありません」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 鬼塚は、何も言わない。


 佐伯は顔を上げた。


「……ですが、どうしても、もう一度だけお願いします」


「……理由は」


「……さっきの試合で、自分は負けました」


 佐伯は、膝の上で拳を握った。


「相手が強かったのは、もちろんです」


「……それで?」


「……自分も、今までやってきたことを出そうとしました」


 声が、少しだけ震える。


「でも、攻めることばかり考えて……相手をちゃんと見られていませんでした」


 鬼塚は、黙って聞いていた。


「……それが、今の自分の実力だったと思っています」


「…………」


「負けたことを、なかったことにしたいわけではありません」


 佐伯は、まっすぐに鬼塚を見た。


「ですが……あの試合が、自分のすべてだとは思っていません」


 道場は、静まり返っていた。


 リンも、荒川も、何も言わない。


 佐伯の声だけが、道場へ響いていた。


     ◇


「……誰とやりたい」


 鬼塚が、短く尋ねた。


 佐伯は、一瞬だけ息を止めた。


 そして、答える。


「……横浜創学館高校の、五十嵐翔くんとお願いします」


 周囲がざわついた。


「……五十嵐?」


「あいつ、さっき勝っただろ……?」


 五十嵐自身も、顔を上げた。


 佐伯へ視線を向ける。


 鬼塚は、佐伯を見据えた。


「……さっきのお前の空手では、五十嵐には勝てないぞ」


「……分かっています」


「それでも、あいつを指名するのか」


「……押忍」


 佐伯の返事に、迷いはなかった。


 鬼塚は、しばらくその顔を見つめた。


「……そこまで言うのなら」


 低い声が、道場へ響く。


「覚悟を見せてみろ」


「……押忍!」


「ただし、条件がある」


 佐伯の背筋が伸びた。


 鬼塚は、一度も視線を逸らさなかった。


「次の試合で負ければ、お前を特待生として推薦することはない」


「…………!」


 佐伯の身体が、わずかに強張った。


 周囲からも、小さなどよめきが起こる。


 リンは、思わず佐伯へ目を向けた。


 その条件が、彼にとってどれほど重いものなのか。


 知っている。


 東央大学へ進学するために、どれほど努力してきたのか。


 家族のことを考え、一度は進学を諦めていたことも。


 そこへ、ようやく見えてきた特待生という道。


 その可能性を、次の一試合に懸けろと言っている。


『…………』


 リンは、唇を結んだ。


 隣の荒川も、険しい表情のまま佐伯を見つめていた。


 しかし、二人とも口を挟まなかった。


     ◇


「……分かっているのか」


 鬼塚が、佐伯へ問いかけた。


「お前が望んでいる道を、自分で閉ざすことになるかもしれんのだぞ」


「…………」


 佐伯は、何も答えられなかった。


 頭に浮かんだのは、家族の顔だった。


 弟たち。


 家で待っている母親。


 そして、東央大学で空手を続けたいという、自分の願い。


 ここで再試合を諦めれば。


 今日の結果だけで、選考を受けることはできるのかもしれない。


 可能性は、まだ残るのかもしれない。


 けれど。


 佐伯は、膝の上の拳へ目を落とした。


 自分の試合が終わってから、ずっと考えていた。


 何が足りなかったのか。


 何を間違えたのか。


 そして。


 このまま帰って、本当に納得できるのか。


 ……できない。


 佐伯は、ゆっくりと顔を上げた。


「……分かっています」


 声が震えた。


 それでも、目は逸らさなかった。


「……それでも、お願いします」


 鬼塚は、しばらく佐伯を見つめていた。


 やがて、五十嵐へ視線を移した。


「……五十嵐」


「押忍!」


 五十嵐が、姿勢を正す。


「お前はどうだ」


「……自分は構いません」


 短い返事だった。


 五十嵐は、佐伯を見た。


 佐伯も、その視線を受け止めた。


「……押忍。お願いします」


 佐伯が頭を下げる。


 五十嵐も、小さく頷いた。


     ◇


「……篠原」


 鬼塚が呼んだ。


「はい」


「特別に一試合だけ認める」


 篠原は、静かに頷いた。


「……分かりました」


「有効打が出た時点で終了だ」


 鬼塚は、佐伯と五十嵐を見た。


「それでいいな」


「押忍!」


 二人の返事が重なった。


 鬼塚は、最後に佐伯へ視線を向けた。


「……佐伯」


「……押忍!」


「三度目はないぞ」


「……押忍!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


 そして、ゆっくりと立ち上がった。


     ◇


 中央の試合場。


 佐伯が、一歩ずつ歩いていく。


 向かい側からは、五十嵐が進み出た。


 すれ違うように、二人が定位置へ向かう。


 その途中。


「……佐伯」


 五十嵐が、小さく声をかけた。


「……ん?」


「どうして俺なんだ?」


 佐伯は、少しだけ足を止めた。


 そして、五十嵐を見た。


「……お前の空手を見て、試したいことができた」


「…………」


 五十嵐は、しばらく佐伯の顔を見つめた。


 やがて、小さく頷く。


「……そうか」


 それ以上、何も言わなかった。


 二人が向かい合う。


 佐伯は、ゆっくりと息を吐いた。


 初戦の敗北。


 五十嵐の前蹴り。


 菜月の上段蹴り。


 そして、今まで積み重ねてきた稽古。


 そのすべてが、頭をよぎった。


 けれど、もう余計なことは考えなかった。


 ここへ立つと決めたのは、自分だ。


 相手を指名したのも、自分だ。


 ならば。


 自分の空手を、するだけだった。


「……礼!」


 二人が、深く頭を下げる。


 そして。


 ゆっくりと構えを取った。


 道場に、静けさが戻った。


 鬼塚が、二人を見据える。


 佐伯は、五十嵐から目を離さなかった。

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