↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
90/198

第九十話「一度きりの勝負」

 二〇〇〇年(平成十二年)七月二十一日、金曜日。


 都立青葉高校、空手道場。


「……セイッ!」


 鋭い気合いとともに、佐伯大輔が踏み込んだ。


 右の中段突き。


 相手が半歩下がる。


 佐伯は追いかけようとして、足を止めた。


「……っ」


 次の瞬間、相手の前足が動いた。


 佐伯はわずかに身体を引き、伸びてきた蹴りをかわす。


「……やめ!」


 荒川の声が響いた。


 二人が構えを解き、礼をする。


「……佐伯」


「押忍!」


「今の、最初の踏み込みはよかった」


「ありがとうございます!」


「だが、追いかけようとしたな」


「……はい」


「何を見て止まった?」


 佐伯は少し考えた。


「……相手の重心です」


「そうだ。下がったからといって、次も下がるとは限らん」


「押忍!」


 荒川は短く頷いた。


「……よし。今日はここまでだ」


 道場に、部員たちの返事が響いた。


     ◇


 稽古を終えた部員たちが、道場の清掃を始めていた。


 佐伯は壁際に座り、汗を拭った。


 明日。


 七月二十二日。


 東央大学との合同試合が行われる。


 あの日程を知らされてから、ずっと意識してきた日だった。


「……佐伯先輩!」


 顔を上げると、菜月が近づいてきた。


「明日ですね!」


「……ああ」


「なんか、あっという間でしたね!」


「……そうだな」


 菜月は、隣へ腰を下ろした。


「私、楽しみです!」


「……お前は本当に楽しそうだな」


「はい!」


 迷いのない返事だった。


 佐伯は、思わず笑った。


「……緊張しないのか?」


「しますよ?」


「……そうなのか?」


「もちろんです!」


 菜月は、大きく頷いた。


「でも、強い人たちとまた組手できるんですよね?」


「……まあ、そうだな」


「だったら、楽しみじゃないですか!」


「…………」


 佐伯は、少しだけ目を伏せた。


 菜月らしい答えだった。


 前回の合同練習では、自分より遥かに強い大学生へ挑戦し、敗れている。


 それでも、また戦いたいと思っている。


 佐伯には、その気持ちが少し羨ましかった。


「……先輩?」


「……ん?」


「大丈夫ですか?」


「……ああ」


 佐伯は、タオルを畳んだ。


「俺も、明日は楽しみにしてるよ」


 菜月が笑った。


「はい!」


 そのとき、背後から声がした。


「……佐伯。相原」


 二人が振り返る。


 荒川だった。


「押忍!」


「はい!」


「明日は九時から受付だ。遅れるなよ」


「押忍!」


「はい!」


「道着と防具の確認も忘れるな。今日は早く休め」


 荒川は、佐伯へ目を向けた。


「……佐伯」


「……はい」


「明日は、何を見せるつもりだ」


「…………」


 佐伯は、すぐには答えなかった。


 前回の合同練習。


 一勝もできなかった。


 何度も踏み込み、何度も攻撃をかわされた。


 それでも、あの日から稽古を続けてきた。


 間合い。


 相手の反応。


 攻撃へ入るタイミング。


 そして、自分がどれほど攻め急ぎやすいのか。


 何度も指摘され、そのたびに修正してきた。


「……今までやってきたことを、全部出します」


 荒川は、佐伯の顔を見た。


 それから、短く頷いた。


「……なら、それでいい」


「……押忍!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


     ◇


 翌日。


 二〇〇〇年七月二十二日、土曜日。


 午前九時過ぎ。


 東京都内、東央大学。


『……うわぁ』


 正門をくぐったリンは、周囲を見渡した。


 大学の構内には、道着の入った鞄を肩に掛けた高校生たちが歩いている。


 前回訪れたときよりも、明らかに人数が多かった。


『……結構いるね』


「……今回は参加校が増えたそうですから」


 隣で荒川が答えた。


『そうでしたね』


 リンは頷く。


 少し後ろでは、佐伯と菜月が歩いていた。


「……佐伯先輩、あの人たちも参加するんですかね?」


「……そうだろうな」


「すごい人数ですね!」


「……ああ」


 佐伯は、前方を歩く高校生たちへ目を向けた。


 見覚えのある学校名が、いくつもあった。


 空手の強豪校。


 大会で名前を聞いたことのある学校。


 その生徒たちが、同じ場所へ向かっている。


「……先輩?」


 菜月が顔を覗き込んだ。


「……ん?」


「なんか、顔怖いですよ?」


「……そうか?」


「はい!」


 佐伯は、少し笑った。


「……気をつけるよ」


 菜月も笑う。


「いつもの先輩の方がいいです!」


「……お前な」


 二人のやり取りを聞きながら、リンは少しだけ口元を緩めた。


 佐伯さん、やっぱり緊張してるんだろうな。


 けれど、今の自分にできるのは、二人が無事に稽古へ参加できるようにすることだ。


『……よし! じゃあ受付に行こうか!』


「はい!」


「押忍!」


     ◇


 東央大学、空手道場。


 中へ入ると、すでに多くの選手が集まっていた。


 道着姿の大学生たち。


 各校から参加した高校生たち。


 道場の端では、受付を終えた選手が準備運動を始めている。


「……おっ、山元!」


 奥から声がした。


 篠原圭介だった。


『……篠原さん! お久しぶりです!』


「おう。ちゃんと来たな」


『はい! 今日はよろしくお願いします!』


 リンが頭を下げると、荒川も一歩前へ出た。


「……本日はお世話になります」


「いやいや、こちらこそ。遠いところありがとうございます」


 篠原は、佐伯と菜月へ目を向けた。


「……佐伯、相原。調子はどうだ?」


「……押忍! しっかり準備してきました!」


「はい! 楽しみにしてました!」


 篠原が笑う。


「……相原は相変わらずだな」


「……え?」


「いや、いいことだ」


 菜月は不思議そうに首を傾げた。


「……あ、そうだ」


 篠原が、佐伯へ顔を向ける。


「佐伯。今日は参加者も多い。午後の組手では、他校の選手と当たる可能性もあるからな」


「……押忍!」


「気負いすぎるなよ」


「……はい!」


 佐伯は、深く頭を下げた。


     ◇


 午前十時。


「……集合!」


 鬼塚宗一郎の声が、道場に響いた。


 大学生たちが、一斉に動きを止める。


 高校生たちも整列し、姿勢を正した。


 鬼塚は、集まった選手たちを見渡した。


「……今日は、各校から多くの選手が参加している」


 道場が静まり返る。


「午前は全体で稽古を行う。大学生は高校生への指導も担当しろ」


「押忍!」


「高校生も、ただ言われたとおりに動くだけでは意味がない。分からんことがあれば、自分から聞け」


「押忍!」


 鬼塚は、ゆっくりと視線を動かした。


「……午後は組手を見る。そこで何を見せるかは、お前たち次第だ」


 佐伯は、背筋を伸ばした。


「……始め!」


「押忍!」


 力強い返事が、道場いっぱいに響いた。


     ◇


 稽古は、基本動作から始まった。


 突き。


 蹴り。


 踏み込み。


 体重移動。


 そして、相手との間合いを測る練習。


 大学生たちが高校生の動きを確認しながら、次々と指導を行っていく。


「……もう一度」


「押忍!」


 佐伯は、向かい合う大学生の指示に従って踏み込んだ。


 中段突き。


 しかし、拳が届く前に相手が身体をずらした。


「……今、どこを見て入った?」


「……胸元です」


「そうか。じゃあ、俺がいつ動いたか分かったか?」


「…………」


 佐伯は、少し考えた。


「……自分が踏み込んでから、だと思います」


「そう見えただろ?」


「……はい」


 大学生は、軽く頷いた。


「でも、お前が動く前から準備できてたんだよ」


「…………!」


「踏み込みそのものは悪くない。ただ、攻めることが先に決まってるように見える」


 佐伯は、息を呑んだ。


 荒川からも、何度も言われてきたことだった。


「……もう一回やってみようか」


「……押忍!」


 佐伯は、再び構えた。


 今度は、すぐには踏み込まない。


 相手の足。


 肩。


 重心。


 大学生が、わずかに前へ出た。


 佐伯は反応しかけたが、踏みとどまった。


「……そう。それでいい」


 大学生が頷く。


「今のは、こっちが先に動いただけだ。全部に反応する必要はない」


「……押忍!」


 佐伯は、大きく息を吐いた。


 大学生と向かい合うと、いつもより自分の動きがよく見える気がする。


 相手の動きが鋭いからこそ、こちらのわずかな癖も簡単に見抜かれてしまう。


 それでも、前回とは違った。


 ただ圧倒されるだけではない。


 指摘されたことを、少しずつ自分の動きへ取り込もうとしていた。


     ◇


 一方、菜月は別の大学生と向かい合っていた。


「……相原さん、今のは何を待ってたの?」


「……え?」


「さっきから、あまり自分から攻めてこないから」


 菜月は、少し考えた。


「……相手の動きを見てました」


「……なるほど」


 大学生は頷いた。


「でも、見ようとしすぎて自分が止まると、相手に好きなように動かれるよ」


「……あ」


「観察するのと、何もしないのは違うからね」


「……はい!」


「じゃあ、今度は自分から少し動いてみようか」


「押忍!」


 菜月は、構えを取り直した。


 軽く前足を動かす。


 相手が反応した。


 菜月は、そこで踏み込まずに距離を変えた。


「……おっ」


 大学生が、少し笑った。


「そうそう。今みたいに、自分から相手を動かすのも大事だよ」


「……はい!」


 菜月も笑った。


 普段の稽古とは違う指摘。


 知らなかった考え方。


 それらが、一つずつ増えていく。


 菜月は、次の合図がかかるのを待ちきれないように構えた。


     ◇


 しばらくして、大学生たちの指導を受けながら組手の練習が始まった。


 佐伯は、水分を取るために道場の端へ戻った。


「……ふぅ」


 額の汗を拭う。


 午前中だけでも、ずいぶん多くのことを教わった。


 まだ、すべてを身体に覚え込ませられたわけではない。


 それでも、こうして強い選手たちと稽古できる時間がありがたかった。


「……佐伯先輩!」


 菜月が近づいてきた。


「どうでした?」


「……勉強になったよ」


「ですよね!」


 菜月は、嬉しそうに頷いた。


「私、さっき面白いこと教えてもらいました!」


「……何だ?」


「相手を見たいなら、自分から動かしてみろって!」


「……へえ」


「だから、ちょっと試してみたんです!」


「……どうだった?」


「まだ難しいです!」


 菜月が、あっさり答えた。


 佐伯は思わず笑った。


「……そうか」


「でも、できたら面白そうです!」


「……お前らしいな」


 菜月が首を傾げる。


「……そうですか?」


「……ああ」


 佐伯は、もう一度水を飲んだ。


 その視線の先。


 別の場所では、一人の高校生が大学生と向かい合っていた。


 すらりとした体格。


 無駄のない構え。


 相手が踏み込もうとした瞬間、前足が鋭く伸びる。


「……っ!」


 大学生が足を止めた。


 しかし、その高校生は深追いしない。


 すぐに構えを戻す。


 もう一度、相手が動く。


 再び、前蹴り。


 それを見て、佐伯は小さく眉を寄せた。


「……あの人」


「……え?」


 菜月も視線を向けた。


「……あ、本当だ」


 相手の前へ出る動きを、わずかな足の動きで止めている。


 菜月は、しばらくその様子を見つめた。


「……上手ですね」


「……ああ」


 佐伯は頷いた。


 高校生の制服や学校名までは分からなかった。


 ただ、その前蹴りだけが妙に印象に残った。


     ◇


 昼休憩。


 選手たちは稽古を終え、それぞれ昼食を取っていた。


 リンは、道場の端に座る佐伯と菜月のところへ向かった。


『……二人とも、お疲れさま!』


「あっ、凛先生!」


「……お疲れさまです」


『どう? 午前中の稽古』


「すごく勉強になりました!」


 菜月が、真っ先に答えた。


「大学生の人たち、いろいろ教えてくれるんです!」


『……そっか! よかったね!』


「はい!」


 リンは、佐伯へ目を向けた。


『佐伯さんは?』


「……自分の課題が、まだまだあるなって思いました」


『……そっか』


 佐伯は、少し笑った。


「でも、前に来たときよりは、ちゃんと考えて動けていると思います」


『……うん』


 リンも笑った。


『それなら、よかった』


 そのとき、荒川が近づいてきた。


「……佐伯、相原。午後の組手がある。食べすぎるなよ」


「押忍!」


「はい!」


 リンが、思わず荒川へ顔を向ける。


『……先生、あたしもちょっと食べすぎたかもしれません』


「……山元は試合に出ないだろう」


『……それはそうですけど!』


 菜月が吹き出した。


「凛先生も出ればいいのに!」


『……えっ!?』


「先生の組手、久しぶりに見たいです!」


『……いやいや! 今日はみんなが主役でしょ!』


「……むぅ」


 菜月は、少し不満そうだった。


 荒川が、小さく息を吐く。


「……相原。午後の自分の試合に集中しろ」


「……はーい!」


 佐伯も、隣で小さく笑った。


 リンは胸を撫で下ろす。


 ……危なかった。


 この子、まだ諦めてなかったんだ。


     ◇


 午後。


 東央大学の空手道場。


 午前中とは、道場の様子が変わっていた。


 中央に、一つの試合場。


 その周囲を囲むように、大学生と高校生が座っている。


 壁際には、各校の引率教員たちの姿もあった。


 同時にいくつもの組手を行うわけではない。


 鬼塚が指名した二人が、全員の前で試合をする。


 そして、その場にいる全員が、一つの組手を見守る。


『……すごい緊張感だね』


 リンが小さく呟いた。


 隣では、荒川が腕を組んでいる。


「……ああ。いつもより、選手の動きがよく見える」


『……なるほど』


 リンは、中央の試合場へ目を向けた。


 まだ誰も立っていない。


 それなのに、道場は先ほどまでとは違う静けさに包まれていた。


 やがて。


「……全員、聞け」


 鬼塚が前へ出た。


 選手たちの背筋が伸びる。


「午前の稽古、ご苦労だった」


「押忍!」


「午後は、ここで組手を行う」


 鬼塚は、中央の試合場を示した。


「当初は一人につき何試合かずつ見るつもりだったが、参加者が多い」


 佐伯が顔を上げた。


「……今回は、一人一試合ずつにする」


 道場が静まり返った。


「一試合で、今のお前たちの実力を見せてもらう」


「押忍!」


 返事が響く。


 佐伯は、膝の上で拳を握った。


 ……一試合。


 たった一度。


 その中で、自分の空手を見せなければならない。


 これまで積み重ねてきたもの。


 東央大学で空手を続けたいという気持ち。


 そのすべてを。


 佐伯は、大きく息を吸った。


     ◇


 最初の二人が指名された。


 互いに礼をし、構える。


「……始め!」


 鋭い気合いが響いた。


 踏み込み。


 突き。


 蹴り。


 互いに距離を測りながら、相手の動きを探る。


 中央で行われる組手へ、全員の視線が集まっていた。


 佐伯も、一つひとつの動きを追った。


 自分と同じ高校生。


 その中にも、実力のある選手が大勢いる。


 素早い踏み込みを見せる者。


 蹴りを中心に攻める者。


 相手の攻撃をかわし、鋭い反撃を返す者。


 それぞれ、戦い方が違った。


 何組かの試合が終わった頃。


「……次」


 鬼塚が、参加者たちを見渡した。


「佐伯大輔」


「……押忍!」


 佐伯は、勢いよく返事をした。


 立ち上がり、試合場へ向かう。


 その向こうから、もう一人の選手が立ち上がった。


「…………」


 佐伯は、思わず相手を見た。


 大柄な男子選手だった。


 肩幅が広く、佐伯よりもひと回り大きい。


 しかし、その動きに重さは感じられなかった。


 試合場へ進み出る足取りは落ち着いている。


 相手も、静かに礼をした。


 佐伯は、拳を握り直した。


 ……よし。


 やるしかない。


     ◇


「……始め!」


 佐伯が、前へ出た。


「セイッ!」


 鋭い中段突き。


 相手が、半歩下がってかわす。


 佐伯は、すぐに追いかけた。


 もう一度踏み込む。


 しかし。


「……っ!」


 大柄な選手が、身体をずらした。


 佐伯の拳が空を切る。


 相手の反撃。


 佐伯は腕を上げ、ぎりぎりで受け止めた。


 ……速い!


 体格だけではない。


 反応も鋭かった。


 佐伯は、すぐに距離を取った。


 呼吸を整える。


 まだ始まったばかりだ。


 焦る必要はない。


 相手が、静かに構えを取る。


 佐伯は、前足をわずかに動かした。


 相手が反応する。


 ……今だ!


「……セイッ!」


 佐伯が踏み込んだ。


 中段突き。


 相手が身を引く。


 拳は、わずかに届かなかった。


「……くっ!」


 佐伯は、すぐに構えを戻した。


 惜しかった。


 あと少し。


 もう少し踏み込めれば。


 そう考えた瞬間だった。


 ……いや。


 佐伯は、自分の考えを振り払った。


 荒川の言葉を思い出す。


 攻めなければならんと思い込むな。


 相手を見ろ。


 佐伯は、もう一度距離を測った。


     ◇


 壁際では、リンが試合を見つめていた。


『……佐伯さん、頑張ってるね』


「……ああ」


 荒川が短く答えた。


『前より、ずっと攻めてる気がします』


「……そうだな」


 荒川は、佐伯の動きを追った。


 以前の合同練習では、大学生たちの速さに圧倒されていた。


 踏み込むこともできず、相手の攻撃を受ける場面が多かった。


 今は違う。


 自分から間合いを詰め、攻撃を仕掛けている。


 しかし。


「…………」


 荒川の眉が、わずかに動いた。


 佐伯の踏み込み。


 少しずつ、早くなっている。


 相手の反応を待ちきれず、自分から攻撃へ入ろうとしていた。


 ……佐伯。


 荒川は、黙って試合を見守った。


     ◇


「……セイッ!」


 佐伯の中段突き。


 相手が下がる。


 佐伯は、さらに前へ出た。


 今度は上段を狙う。


「……っ!」


 相手が、わずかに身体を沈めた。


 拳が空を切る。


 佐伯は、すぐに構えを戻そうとした。


 しかし。


 大柄な選手の足が、先に動いていた。


「……っ!」


 鋭い蹴り。


 佐伯は腕を上げた。


 だが、防御がわずかに遅れた。


 相手の蹴りが、佐伯の中段を捉える。


「……やめ!」


 審判の声が響いた。


 両者が距離を取る。


 旗が上がった。


 技あり。


 相手に二点が入る。


「…………」


 佐伯は、奥歯を噛みしめた。


 ……取られた。


 けれど、まだ終わっていない。


 もう一度。


 今度こそ。


 佐伯は、構えを取り直した。


     ◇


「……始め!」


 佐伯が、前へ出た。


 相手の動きを見る。


 右足。


 肩。


 構え。


 わずかな隙。


 ……今度こそ!


「……ハァッ!」


 踏み込んだ。


 しかし、相手は待っていた。


「……っ!」


 佐伯の突きに合わせ、身体をずらす。


 そして、すぐに反撃。


 鋭い中段突きが、佐伯の胴へ届いた。


「……やめ!」


 旗が上がる。


 有効。


 相手に一点。


 佐伯は、動きを止めた。


 ……あ。


 合計三点。


 相手との差が、さらに開いた。


 佐伯は、自分の呼吸が乱れていることに気づいた。


 肩が上下している。


 拳にも、余計な力が入っていた。


 さっきから、何をやっているんだ。


 分かっていたはずなのに。


 相手をよく見て。


 無理に攻めず。


 今まで稽古してきたことを。


 ……なのに。


「……続け!」


 審判の声が響いた。


 佐伯は、再び構えた。


     ◇


 その後も、佐伯は攻撃を続けた。


 何度も間合いを詰める。


 相手の反応を見ようとする。


 そして、一度だけ。


「……セイッ!」


 佐伯の拳が、相手の中段へ届いた。


「……やめ!」


 旗が上がる。


 有効。


 佐伯に一点。


「……っ!」


 佐伯は、拳を握りしめた。


 ……入った!


 自分の攻撃が、届いた。


 相手の実力が高いことは分かっている。


 それでも、戦えている。


 その実感が、少しだけ胸を熱くした。


 しかし。


 佐伯は、すぐに気持ちを切り替えた。


 まだ一点。


 相手の方が上だ。


 ここから取り返さなければ。


 佐伯は、再び前へ出た。


 そして。


 終了の合図が響いた。


「……やめ!」


 両者が動きを止める。


 審判が、勝者を示した。


 大柄な選手の勝利だった。


     ◇


「…………」


 佐伯は、しばらくその場を動けなかった。


 負けた。


 また、勝てなかった。


 前回とは違う。


 確かに、自分の攻撃も届いた。


 相手を追い詰める場面もあった。


 けれど。


 勝てなかった。


「……礼!」


 声が響いた。


 佐伯は、慌てて姿勢を正した。


「……ありがとうございました!」


 深く頭を下げる。


 相手も礼を返した。


 佐伯は、静かに試合場を離れた。


     ◇


 元の場所へ戻ると、佐伯は正座した。


 膝の上に、拳を置く。


「…………」


 悔しかった。


 どうしようもなく、悔しかった。


 あれほど稽古してきたのに。


 何度も、何度も同じことを指摘されてきたのに。


 肝心な場面で、それができなかった。


 自分の中に残っていた焦り。


 勝たなければならないという気持ち。


 それが、身体を先に動かしてしまった。


 ……何やってるんだ、俺。


 佐伯は、膝の上で拳を握った。


 ここへ来るまでに、何人もの人が力を貸してくれた。


 荒川先生。


 凛先生。


 家族。


 そして、毎日一緒に稽古してきた仲間たち。


 その人たちに、何を見せられたのだろう。


 ……これで、終わりなのか。


 鬼塚が告げた、一人一試合。


 その一度を、もう使ってしまった。


 佐伯は、唇を噛みしめた。


 顔を伏せたくなった。


 誰とも目を合わせたくなかった。


 けれど。


 佐伯は、顔を上げた。


 中央の試合場では、次の選手たちが準備を始めていた。


 ……まだ、終わってない。


 少なくとも、今日という一日は。


 自分の試合は終わった。


 それでも、ここには強い選手たちが大勢いる。


 その組手を見ることはできる。


 せっかく、ここまで来たんだ。


 何か一つでも。


 何か一つでも、持って帰ろう。


 佐伯は、拳を緩めた。


 そして、まっすぐ試合場へ目を向けた。


     ◇


 少し離れたところでは、菜月が佐伯の姿を見ていた。


「……先輩」


 声をかけようとして、口を閉じる。


 佐伯は、次の組手を見つめていた。


 背筋を伸ばし、正座したまま。


 その顔には、まだ悔しさが残っている。


 けれど、下を向いてはいなかった。


 菜月は、何も言わずに前へ向き直った。


 そのときだった。


「……次」


 鬼塚の声が響いた。


 道場が静かになる。


 鬼塚は、参加者たちを見渡した。


「横浜創学館高校、五十嵐翔」


 その名前を聞いた瞬間。


 周囲の高校生たちが、わずかにざわついた。


「……五十嵐?」


「……あの、関東ベスト八の?」


 佐伯も顔を上げた。


 横浜創学館高校、三年生。


 五十嵐翔。


 昨年の男子関東大会で、ベスト八に残った実力者。


 名前は、佐伯も知っていた。


 そして。


「…………」


 試合場へ歩いていく五十嵐を見て、佐伯は思い出した。


 午前中の稽古。


 大学生を相手に、何度も前蹴りで動きを止めていた高校生。


 あの選手だった。


 五十嵐は、静かに試合場へ進んだ。


 向かい側には、指名された対戦相手が立っている。


 互いに礼をする。


 五十嵐が、構えを取った。


 佐伯は、その姿をじっと見つめた。


 ……あの前蹴り。


 午前中、何度も見た。


 相手が踏み込もうとすると、まるでそれを知っていたかのように足が伸びる。


 そして、相手が止まる。


 ……どうやって、あの間合いを作っているんだろう。


 佐伯は、少しだけ身を乗り出した。


 悔しさは、まだ消えていない。


 それでも今は、目の前の組手を見逃したくなかった。


「……始め!」


 鬼塚の声が響いた。


 五十嵐の前足が、静かに動いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。