第九十話「一度きりの勝負」
二〇〇〇年(平成十二年)七月二十一日、金曜日。
都立青葉高校、空手道場。
「……セイッ!」
鋭い気合いとともに、佐伯大輔が踏み込んだ。
右の中段突き。
相手が半歩下がる。
佐伯は追いかけようとして、足を止めた。
「……っ」
次の瞬間、相手の前足が動いた。
佐伯はわずかに身体を引き、伸びてきた蹴りをかわす。
「……やめ!」
荒川の声が響いた。
二人が構えを解き、礼をする。
「……佐伯」
「押忍!」
「今の、最初の踏み込みはよかった」
「ありがとうございます!」
「だが、追いかけようとしたな」
「……はい」
「何を見て止まった?」
佐伯は少し考えた。
「……相手の重心です」
「そうだ。下がったからといって、次も下がるとは限らん」
「押忍!」
荒川は短く頷いた。
「……よし。今日はここまでだ」
道場に、部員たちの返事が響いた。
◇
稽古を終えた部員たちが、道場の清掃を始めていた。
佐伯は壁際に座り、汗を拭った。
明日。
七月二十二日。
東央大学との合同試合が行われる。
あの日程を知らされてから、ずっと意識してきた日だった。
「……佐伯先輩!」
顔を上げると、菜月が近づいてきた。
「明日ですね!」
「……ああ」
「なんか、あっという間でしたね!」
「……そうだな」
菜月は、隣へ腰を下ろした。
「私、楽しみです!」
「……お前は本当に楽しそうだな」
「はい!」
迷いのない返事だった。
佐伯は、思わず笑った。
「……緊張しないのか?」
「しますよ?」
「……そうなのか?」
「もちろんです!」
菜月は、大きく頷いた。
「でも、強い人たちとまた組手できるんですよね?」
「……まあ、そうだな」
「だったら、楽しみじゃないですか!」
「…………」
佐伯は、少しだけ目を伏せた。
菜月らしい答えだった。
前回の合同練習では、自分より遥かに強い大学生へ挑戦し、敗れている。
それでも、また戦いたいと思っている。
佐伯には、その気持ちが少し羨ましかった。
「……先輩?」
「……ん?」
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
佐伯は、タオルを畳んだ。
「俺も、明日は楽しみにしてるよ」
菜月が笑った。
「はい!」
そのとき、背後から声がした。
「……佐伯。相原」
二人が振り返る。
荒川だった。
「押忍!」
「はい!」
「明日は九時から受付だ。遅れるなよ」
「押忍!」
「はい!」
「道着と防具の確認も忘れるな。今日は早く休め」
荒川は、佐伯へ目を向けた。
「……佐伯」
「……はい」
「明日は、何を見せるつもりだ」
「…………」
佐伯は、すぐには答えなかった。
前回の合同練習。
一勝もできなかった。
何度も踏み込み、何度も攻撃をかわされた。
それでも、あの日から稽古を続けてきた。
間合い。
相手の反応。
攻撃へ入るタイミング。
そして、自分がどれほど攻め急ぎやすいのか。
何度も指摘され、そのたびに修正してきた。
「……今までやってきたことを、全部出します」
荒川は、佐伯の顔を見た。
それから、短く頷いた。
「……なら、それでいい」
「……押忍!」
佐伯は、深く頭を下げた。
◇
翌日。
二〇〇〇年七月二十二日、土曜日。
午前九時過ぎ。
東京都内、東央大学。
『……うわぁ』
正門をくぐったリンは、周囲を見渡した。
大学の構内には、道着の入った鞄を肩に掛けた高校生たちが歩いている。
前回訪れたときよりも、明らかに人数が多かった。
『……結構いるね』
「……今回は参加校が増えたそうですから」
隣で荒川が答えた。
『そうでしたね』
リンは頷く。
少し後ろでは、佐伯と菜月が歩いていた。
「……佐伯先輩、あの人たちも参加するんですかね?」
「……そうだろうな」
「すごい人数ですね!」
「……ああ」
佐伯は、前方を歩く高校生たちへ目を向けた。
見覚えのある学校名が、いくつもあった。
空手の強豪校。
大会で名前を聞いたことのある学校。
その生徒たちが、同じ場所へ向かっている。
「……先輩?」
菜月が顔を覗き込んだ。
「……ん?」
「なんか、顔怖いですよ?」
「……そうか?」
「はい!」
佐伯は、少し笑った。
「……気をつけるよ」
菜月も笑う。
「いつもの先輩の方がいいです!」
「……お前な」
二人のやり取りを聞きながら、リンは少しだけ口元を緩めた。
佐伯さん、やっぱり緊張してるんだろうな。
けれど、今の自分にできるのは、二人が無事に稽古へ参加できるようにすることだ。
『……よし! じゃあ受付に行こうか!』
「はい!」
「押忍!」
◇
東央大学、空手道場。
中へ入ると、すでに多くの選手が集まっていた。
道着姿の大学生たち。
各校から参加した高校生たち。
道場の端では、受付を終えた選手が準備運動を始めている。
「……おっ、山元!」
奥から声がした。
篠原圭介だった。
『……篠原さん! お久しぶりです!』
「おう。ちゃんと来たな」
『はい! 今日はよろしくお願いします!』
リンが頭を下げると、荒川も一歩前へ出た。
「……本日はお世話になります」
「いやいや、こちらこそ。遠いところありがとうございます」
篠原は、佐伯と菜月へ目を向けた。
「……佐伯、相原。調子はどうだ?」
「……押忍! しっかり準備してきました!」
「はい! 楽しみにしてました!」
篠原が笑う。
「……相原は相変わらずだな」
「……え?」
「いや、いいことだ」
菜月は不思議そうに首を傾げた。
「……あ、そうだ」
篠原が、佐伯へ顔を向ける。
「佐伯。今日は参加者も多い。午後の組手では、他校の選手と当たる可能性もあるからな」
「……押忍!」
「気負いすぎるなよ」
「……はい!」
佐伯は、深く頭を下げた。
◇
午前十時。
「……集合!」
鬼塚宗一郎の声が、道場に響いた。
大学生たちが、一斉に動きを止める。
高校生たちも整列し、姿勢を正した。
鬼塚は、集まった選手たちを見渡した。
「……今日は、各校から多くの選手が参加している」
道場が静まり返る。
「午前は全体で稽古を行う。大学生は高校生への指導も担当しろ」
「押忍!」
「高校生も、ただ言われたとおりに動くだけでは意味がない。分からんことがあれば、自分から聞け」
「押忍!」
鬼塚は、ゆっくりと視線を動かした。
「……午後は組手を見る。そこで何を見せるかは、お前たち次第だ」
佐伯は、背筋を伸ばした。
「……始め!」
「押忍!」
力強い返事が、道場いっぱいに響いた。
◇
稽古は、基本動作から始まった。
突き。
蹴り。
踏み込み。
体重移動。
そして、相手との間合いを測る練習。
大学生たちが高校生の動きを確認しながら、次々と指導を行っていく。
「……もう一度」
「押忍!」
佐伯は、向かい合う大学生の指示に従って踏み込んだ。
中段突き。
しかし、拳が届く前に相手が身体をずらした。
「……今、どこを見て入った?」
「……胸元です」
「そうか。じゃあ、俺がいつ動いたか分かったか?」
「…………」
佐伯は、少し考えた。
「……自分が踏み込んでから、だと思います」
「そう見えただろ?」
「……はい」
大学生は、軽く頷いた。
「でも、お前が動く前から準備できてたんだよ」
「…………!」
「踏み込みそのものは悪くない。ただ、攻めることが先に決まってるように見える」
佐伯は、息を呑んだ。
荒川からも、何度も言われてきたことだった。
「……もう一回やってみようか」
「……押忍!」
佐伯は、再び構えた。
今度は、すぐには踏み込まない。
相手の足。
肩。
重心。
大学生が、わずかに前へ出た。
佐伯は反応しかけたが、踏みとどまった。
「……そう。それでいい」
大学生が頷く。
「今のは、こっちが先に動いただけだ。全部に反応する必要はない」
「……押忍!」
佐伯は、大きく息を吐いた。
大学生と向かい合うと、いつもより自分の動きがよく見える気がする。
相手の動きが鋭いからこそ、こちらのわずかな癖も簡単に見抜かれてしまう。
それでも、前回とは違った。
ただ圧倒されるだけではない。
指摘されたことを、少しずつ自分の動きへ取り込もうとしていた。
◇
一方、菜月は別の大学生と向かい合っていた。
「……相原さん、今のは何を待ってたの?」
「……え?」
「さっきから、あまり自分から攻めてこないから」
菜月は、少し考えた。
「……相手の動きを見てました」
「……なるほど」
大学生は頷いた。
「でも、見ようとしすぎて自分が止まると、相手に好きなように動かれるよ」
「……あ」
「観察するのと、何もしないのは違うからね」
「……はい!」
「じゃあ、今度は自分から少し動いてみようか」
「押忍!」
菜月は、構えを取り直した。
軽く前足を動かす。
相手が反応した。
菜月は、そこで踏み込まずに距離を変えた。
「……おっ」
大学生が、少し笑った。
「そうそう。今みたいに、自分から相手を動かすのも大事だよ」
「……はい!」
菜月も笑った。
普段の稽古とは違う指摘。
知らなかった考え方。
それらが、一つずつ増えていく。
菜月は、次の合図がかかるのを待ちきれないように構えた。
◇
しばらくして、大学生たちの指導を受けながら組手の練習が始まった。
佐伯は、水分を取るために道場の端へ戻った。
「……ふぅ」
額の汗を拭う。
午前中だけでも、ずいぶん多くのことを教わった。
まだ、すべてを身体に覚え込ませられたわけではない。
それでも、こうして強い選手たちと稽古できる時間がありがたかった。
「……佐伯先輩!」
菜月が近づいてきた。
「どうでした?」
「……勉強になったよ」
「ですよね!」
菜月は、嬉しそうに頷いた。
「私、さっき面白いこと教えてもらいました!」
「……何だ?」
「相手を見たいなら、自分から動かしてみろって!」
「……へえ」
「だから、ちょっと試してみたんです!」
「……どうだった?」
「まだ難しいです!」
菜月が、あっさり答えた。
佐伯は思わず笑った。
「……そうか」
「でも、できたら面白そうです!」
「……お前らしいな」
菜月が首を傾げる。
「……そうですか?」
「……ああ」
佐伯は、もう一度水を飲んだ。
その視線の先。
別の場所では、一人の高校生が大学生と向かい合っていた。
すらりとした体格。
無駄のない構え。
相手が踏み込もうとした瞬間、前足が鋭く伸びる。
「……っ!」
大学生が足を止めた。
しかし、その高校生は深追いしない。
すぐに構えを戻す。
もう一度、相手が動く。
再び、前蹴り。
それを見て、佐伯は小さく眉を寄せた。
「……あの人」
「……え?」
菜月も視線を向けた。
「……あ、本当だ」
相手の前へ出る動きを、わずかな足の動きで止めている。
菜月は、しばらくその様子を見つめた。
「……上手ですね」
「……ああ」
佐伯は頷いた。
高校生の制服や学校名までは分からなかった。
ただ、その前蹴りだけが妙に印象に残った。
◇
昼休憩。
選手たちは稽古を終え、それぞれ昼食を取っていた。
リンは、道場の端に座る佐伯と菜月のところへ向かった。
『……二人とも、お疲れさま!』
「あっ、凛先生!」
「……お疲れさまです」
『どう? 午前中の稽古』
「すごく勉強になりました!」
菜月が、真っ先に答えた。
「大学生の人たち、いろいろ教えてくれるんです!」
『……そっか! よかったね!』
「はい!」
リンは、佐伯へ目を向けた。
『佐伯さんは?』
「……自分の課題が、まだまだあるなって思いました」
『……そっか』
佐伯は、少し笑った。
「でも、前に来たときよりは、ちゃんと考えて動けていると思います」
『……うん』
リンも笑った。
『それなら、よかった』
そのとき、荒川が近づいてきた。
「……佐伯、相原。午後の組手がある。食べすぎるなよ」
「押忍!」
「はい!」
リンが、思わず荒川へ顔を向ける。
『……先生、あたしもちょっと食べすぎたかもしれません』
「……山元は試合に出ないだろう」
『……それはそうですけど!』
菜月が吹き出した。
「凛先生も出ればいいのに!」
『……えっ!?』
「先生の組手、久しぶりに見たいです!」
『……いやいや! 今日はみんなが主役でしょ!』
「……むぅ」
菜月は、少し不満そうだった。
荒川が、小さく息を吐く。
「……相原。午後の自分の試合に集中しろ」
「……はーい!」
佐伯も、隣で小さく笑った。
リンは胸を撫で下ろす。
……危なかった。
この子、まだ諦めてなかったんだ。
◇
午後。
東央大学の空手道場。
午前中とは、道場の様子が変わっていた。
中央に、一つの試合場。
その周囲を囲むように、大学生と高校生が座っている。
壁際には、各校の引率教員たちの姿もあった。
同時にいくつもの組手を行うわけではない。
鬼塚が指名した二人が、全員の前で試合をする。
そして、その場にいる全員が、一つの組手を見守る。
『……すごい緊張感だね』
リンが小さく呟いた。
隣では、荒川が腕を組んでいる。
「……ああ。いつもより、選手の動きがよく見える」
『……なるほど』
リンは、中央の試合場へ目を向けた。
まだ誰も立っていない。
それなのに、道場は先ほどまでとは違う静けさに包まれていた。
やがて。
「……全員、聞け」
鬼塚が前へ出た。
選手たちの背筋が伸びる。
「午前の稽古、ご苦労だった」
「押忍!」
「午後は、ここで組手を行う」
鬼塚は、中央の試合場を示した。
「当初は一人につき何試合かずつ見るつもりだったが、参加者が多い」
佐伯が顔を上げた。
「……今回は、一人一試合ずつにする」
道場が静まり返った。
「一試合で、今のお前たちの実力を見せてもらう」
「押忍!」
返事が響く。
佐伯は、膝の上で拳を握った。
……一試合。
たった一度。
その中で、自分の空手を見せなければならない。
これまで積み重ねてきたもの。
東央大学で空手を続けたいという気持ち。
そのすべてを。
佐伯は、大きく息を吸った。
◇
最初の二人が指名された。
互いに礼をし、構える。
「……始め!」
鋭い気合いが響いた。
踏み込み。
突き。
蹴り。
互いに距離を測りながら、相手の動きを探る。
中央で行われる組手へ、全員の視線が集まっていた。
佐伯も、一つひとつの動きを追った。
自分と同じ高校生。
その中にも、実力のある選手が大勢いる。
素早い踏み込みを見せる者。
蹴りを中心に攻める者。
相手の攻撃をかわし、鋭い反撃を返す者。
それぞれ、戦い方が違った。
何組かの試合が終わった頃。
「……次」
鬼塚が、参加者たちを見渡した。
「佐伯大輔」
「……押忍!」
佐伯は、勢いよく返事をした。
立ち上がり、試合場へ向かう。
その向こうから、もう一人の選手が立ち上がった。
「…………」
佐伯は、思わず相手を見た。
大柄な男子選手だった。
肩幅が広く、佐伯よりもひと回り大きい。
しかし、その動きに重さは感じられなかった。
試合場へ進み出る足取りは落ち着いている。
相手も、静かに礼をした。
佐伯は、拳を握り直した。
……よし。
やるしかない。
◇
「……始め!」
佐伯が、前へ出た。
「セイッ!」
鋭い中段突き。
相手が、半歩下がってかわす。
佐伯は、すぐに追いかけた。
もう一度踏み込む。
しかし。
「……っ!」
大柄な選手が、身体をずらした。
佐伯の拳が空を切る。
相手の反撃。
佐伯は腕を上げ、ぎりぎりで受け止めた。
……速い!
体格だけではない。
反応も鋭かった。
佐伯は、すぐに距離を取った。
呼吸を整える。
まだ始まったばかりだ。
焦る必要はない。
相手が、静かに構えを取る。
佐伯は、前足をわずかに動かした。
相手が反応する。
……今だ!
「……セイッ!」
佐伯が踏み込んだ。
中段突き。
相手が身を引く。
拳は、わずかに届かなかった。
「……くっ!」
佐伯は、すぐに構えを戻した。
惜しかった。
あと少し。
もう少し踏み込めれば。
そう考えた瞬間だった。
……いや。
佐伯は、自分の考えを振り払った。
荒川の言葉を思い出す。
攻めなければならんと思い込むな。
相手を見ろ。
佐伯は、もう一度距離を測った。
◇
壁際では、リンが試合を見つめていた。
『……佐伯さん、頑張ってるね』
「……ああ」
荒川が短く答えた。
『前より、ずっと攻めてる気がします』
「……そうだな」
荒川は、佐伯の動きを追った。
以前の合同練習では、大学生たちの速さに圧倒されていた。
踏み込むこともできず、相手の攻撃を受ける場面が多かった。
今は違う。
自分から間合いを詰め、攻撃を仕掛けている。
しかし。
「…………」
荒川の眉が、わずかに動いた。
佐伯の踏み込み。
少しずつ、早くなっている。
相手の反応を待ちきれず、自分から攻撃へ入ろうとしていた。
……佐伯。
荒川は、黙って試合を見守った。
◇
「……セイッ!」
佐伯の中段突き。
相手が下がる。
佐伯は、さらに前へ出た。
今度は上段を狙う。
「……っ!」
相手が、わずかに身体を沈めた。
拳が空を切る。
佐伯は、すぐに構えを戻そうとした。
しかし。
大柄な選手の足が、先に動いていた。
「……っ!」
鋭い蹴り。
佐伯は腕を上げた。
だが、防御がわずかに遅れた。
相手の蹴りが、佐伯の中段を捉える。
「……やめ!」
審判の声が響いた。
両者が距離を取る。
旗が上がった。
技あり。
相手に二点が入る。
「…………」
佐伯は、奥歯を噛みしめた。
……取られた。
けれど、まだ終わっていない。
もう一度。
今度こそ。
佐伯は、構えを取り直した。
◇
「……始め!」
佐伯が、前へ出た。
相手の動きを見る。
右足。
肩。
構え。
わずかな隙。
……今度こそ!
「……ハァッ!」
踏み込んだ。
しかし、相手は待っていた。
「……っ!」
佐伯の突きに合わせ、身体をずらす。
そして、すぐに反撃。
鋭い中段突きが、佐伯の胴へ届いた。
「……やめ!」
旗が上がる。
有効。
相手に一点。
佐伯は、動きを止めた。
……あ。
合計三点。
相手との差が、さらに開いた。
佐伯は、自分の呼吸が乱れていることに気づいた。
肩が上下している。
拳にも、余計な力が入っていた。
さっきから、何をやっているんだ。
分かっていたはずなのに。
相手をよく見て。
無理に攻めず。
今まで稽古してきたことを。
……なのに。
「……続け!」
審判の声が響いた。
佐伯は、再び構えた。
◇
その後も、佐伯は攻撃を続けた。
何度も間合いを詰める。
相手の反応を見ようとする。
そして、一度だけ。
「……セイッ!」
佐伯の拳が、相手の中段へ届いた。
「……やめ!」
旗が上がる。
有効。
佐伯に一点。
「……っ!」
佐伯は、拳を握りしめた。
……入った!
自分の攻撃が、届いた。
相手の実力が高いことは分かっている。
それでも、戦えている。
その実感が、少しだけ胸を熱くした。
しかし。
佐伯は、すぐに気持ちを切り替えた。
まだ一点。
相手の方が上だ。
ここから取り返さなければ。
佐伯は、再び前へ出た。
そして。
終了の合図が響いた。
「……やめ!」
両者が動きを止める。
審判が、勝者を示した。
大柄な選手の勝利だった。
◇
「…………」
佐伯は、しばらくその場を動けなかった。
負けた。
また、勝てなかった。
前回とは違う。
確かに、自分の攻撃も届いた。
相手を追い詰める場面もあった。
けれど。
勝てなかった。
「……礼!」
声が響いた。
佐伯は、慌てて姿勢を正した。
「……ありがとうございました!」
深く頭を下げる。
相手も礼を返した。
佐伯は、静かに試合場を離れた。
◇
元の場所へ戻ると、佐伯は正座した。
膝の上に、拳を置く。
「…………」
悔しかった。
どうしようもなく、悔しかった。
あれほど稽古してきたのに。
何度も、何度も同じことを指摘されてきたのに。
肝心な場面で、それができなかった。
自分の中に残っていた焦り。
勝たなければならないという気持ち。
それが、身体を先に動かしてしまった。
……何やってるんだ、俺。
佐伯は、膝の上で拳を握った。
ここへ来るまでに、何人もの人が力を貸してくれた。
荒川先生。
凛先生。
家族。
そして、毎日一緒に稽古してきた仲間たち。
その人たちに、何を見せられたのだろう。
……これで、終わりなのか。
鬼塚が告げた、一人一試合。
その一度を、もう使ってしまった。
佐伯は、唇を噛みしめた。
顔を伏せたくなった。
誰とも目を合わせたくなかった。
けれど。
佐伯は、顔を上げた。
中央の試合場では、次の選手たちが準備を始めていた。
……まだ、終わってない。
少なくとも、今日という一日は。
自分の試合は終わった。
それでも、ここには強い選手たちが大勢いる。
その組手を見ることはできる。
せっかく、ここまで来たんだ。
何か一つでも。
何か一つでも、持って帰ろう。
佐伯は、拳を緩めた。
そして、まっすぐ試合場へ目を向けた。
◇
少し離れたところでは、菜月が佐伯の姿を見ていた。
「……先輩」
声をかけようとして、口を閉じる。
佐伯は、次の組手を見つめていた。
背筋を伸ばし、正座したまま。
その顔には、まだ悔しさが残っている。
けれど、下を向いてはいなかった。
菜月は、何も言わずに前へ向き直った。
そのときだった。
「……次」
鬼塚の声が響いた。
道場が静かになる。
鬼塚は、参加者たちを見渡した。
「横浜創学館高校、五十嵐翔」
その名前を聞いた瞬間。
周囲の高校生たちが、わずかにざわついた。
「……五十嵐?」
「……あの、関東ベスト八の?」
佐伯も顔を上げた。
横浜創学館高校、三年生。
五十嵐翔。
昨年の男子関東大会で、ベスト八に残った実力者。
名前は、佐伯も知っていた。
そして。
「…………」
試合場へ歩いていく五十嵐を見て、佐伯は思い出した。
午前中の稽古。
大学生を相手に、何度も前蹴りで動きを止めていた高校生。
あの選手だった。
五十嵐は、静かに試合場へ進んだ。
向かい側には、指名された対戦相手が立っている。
互いに礼をする。
五十嵐が、構えを取った。
佐伯は、その姿をじっと見つめた。
……あの前蹴り。
午前中、何度も見た。
相手が踏み込もうとすると、まるでそれを知っていたかのように足が伸びる。
そして、相手が止まる。
……どうやって、あの間合いを作っているんだろう。
佐伯は、少しだけ身を乗り出した。
悔しさは、まだ消えていない。
それでも今は、目の前の組手を見逃したくなかった。
「……始め!」
鬼塚の声が響いた。
五十嵐の前足が、静かに動いた。




