第八十九話「それぞれの次へ」
二〇〇〇年七月十二日、水曜日。
午前七時四十分。
『……よし!』
玄関の鏡を前に、リンは軽く頬を叩いた。
熱は、もうない。
喉にはまだ少し違和感が残っていたが、食欲も戻り、身体のだるさもすっかり抜けていた。
日曜日に体調を崩してから三日。
月曜日は学校を休み、昨日も大事を取って自宅で過ごした。
その間、携帯電話には健吾から何度も連絡が入っていた。
体調はどうか。
熱は下がったか。
何か必要なものはないか。
短い文面ばかりだったが、そのどれもがリンを気遣うものだった。
『……ほんと、心配性なんだから』
そう呟きながら、リンは鞄を肩に掛けた。
机の引き出しには、先日見つけた日記と手紙がしまってある。
あの手紙を読んでから、健吾からの連絡を見るたびに、少しだけ胸の奥が落ち着かなくなる。
けれど。
『……今は、学校!』
リンは玄関の扉を開けた。
七月の朝。
外には、すでに強い日差しが降り注いでいた。
◇
「……あっ!」
青葉高校の校門を抜けたところで、一人の生徒が声を上げた。
「凛先生!」
『……ん?』
振り返ると、三年生の女子生徒が駆け寄ってきた。
「もう大丈夫なんですか!?」
『ああ、うん! もうすっかり元気だよ!』
「よかったー! 月曜日休んでたからびっくりしました!」
『心配かけちゃってごめんね』
「いえ! でも、無理しないでくださいね!」
『ありがと!』
リンが笑うと、生徒も安心したように笑った。
その後も、廊下を歩くたびに声をかけられた。
「先生、風邪だったんですか?」
『そうそう。ちょっと熱出しちゃって』
「もう治った?」
『うん! ありがとね』
「夏風邪って長引くって言いますよ!」
『……うっ。気をつけます』
自分が休んだのは、たった二日。
それでも、これほど心配されるとは思っていなかった。
リンは職員室へ向かいながら、小さく笑った。
教師という仕事も、悪くない。
そんなことを思った。
◇
三年二組。
朝のホームルーム。
『おはよー!』
「おはようございまーす!」
リンが教室へ入ると、いつもどおりの返事が返ってきた。
そして。
「……あっ!」
片岡美奈が、勢いよく立ち上がった。
「凛ちゃん!!」
『……おわっ!?』
「もう大丈夫なの!?」
『う、うん!』
「月曜日いなかったから、びっくりしたんだけど!」
『ごめんごめん! 風邪ひいちゃってさ』
「真理とめっちゃ心配してたんだよ!」
美奈の隣で、真理も頷いた。
「……凛先生、もう熱はないんですか?」
『うん! 昨日には下がってたから、大丈夫だよ』
「……よかった」
真理が、小さく笑った。
すると、後ろの席から森田翔平が声を上げた。
「先生、土曜日あんな元気だったじゃん!」
『……いやー、あたしもびっくりしたよ』
「コンテストではしゃぎすぎたんじゃないですか?」
『ちょっと! そんなこと言わないでよ!』
教室に笑い声が広がった。
「でも、先生が休むって珍しいっすよね」
佐伯が言った。
『……そう?』
「はい。あんまりそういうイメージないんで」
『……まあ、あたしも休みたくて休んだわけじゃないからね』
「そりゃそうでしょ!」
美奈が笑う。
リンも、つられて笑った。
『……はいはい! 心配してくれたみんな、ありがと! じゃあ、出席取るよー!』
「はーい!」
いつもどおりの教室。
いつもどおりの生徒たち。
たった二日ぶりなのに、妙に懐かしかった。
◇
昼休み。
職員室で午後の授業の準備をしていると、入口から声がした。
「……凛先生!」
『……ん?』
顔を上げると、美奈と真理が立っていた。
美奈の手には、一冊の週刊誌がある。
『あれ? 二人ともどうしたの?』
「ちょっと見てほしいものがあって!」
『……見てほしいもの?』
美奈が、雑誌を開いた。
「これ!」
差し出されたページには、大きな写真が載っていた。
ステージの上で優勝旗を掲げる、制服姿の少女。
その隣には、仲間たちの笑顔。
見覚えのある顔だった。
『……あっ!』
リンが声を上げる。
『熊川さん!』
「そう!」
美奈は頷いた。
「全国大会の記事、載ってたの!」
誌面には、大きな見出しが印刷されていた。
《二〇〇〇年度 全国高校生ファッション創作コンテスト》
《グランプリ 京都市立美術工芸高等学校》
写真の中心にいるのは、熊川怜奈。
あの日、東京国際フォーラムのステージで、二年連続のグランプリを受け取った少女だった。
『……へえー! こんなに大きく載ってるんだ!』
「すごいよね!」
美奈は笑った。
しかし、その表情には、少しだけ複雑なものが混じっていた。
「……でもさ」
『……ん?』
「やっぱ、こうして見ると……」
美奈は、写真へ目を向けた。
「……悔しいなぁ」
その声は、思ったよりも静かだった。
真理も、隣で小さく頷いた。
「……うん」
リンは、二人の顔を見た。
大会が終わった日のことを思い出す。
夕暮れの東京国際フォーラム。
会場の外で、二人は泣いていた。
賞を取れなかった悔しさを、初めて言葉にした。
あれから、まだ四日しか経っていない。
『……そっか』
リンは、もう一度誌面へ目を向けた。
『……悔しいよね』
「……うん」
美奈は、少しだけ笑った。
「だってさ、優勝旗掲げてるの見ると、やっぱりいいなって思っちゃうもん」
真理も、写真を見つめた。
「……綺麗だったもんね。銅美のドレス」
「ね!」
美奈が頷く。
「……ほんと、すごかった」
あの変形するドレス。
一着の服が、まるで別の服に生まれ変わるように姿を変えた。
会場に響いた歓声も、今でもはっきり覚えている。
そして、自分たちの名前が最後まで呼ばれなかったことも。
「……あたしたちも、あそこに立ちたかったなぁ」
美奈が、ぽつりと言った。
「……うん」
真理は、静かに頷いた。
◇
『……そういえば、インタビューも載ってるんだね』
リンが誌面の下へ目を向けた。
「そうなの! 読んでみて!」
美奈が、雑誌を少し近づけた。
写真の隣には、熊川怜奈へのインタビューが掲載されていた。
【今回のテーマ「変化」について、思うことがあれば教えてください】
「そうですね。会場では、私たちが想像していたものとは全く違う《変化》を表現している学校がたくさんいて、驚かされました。
表と裏で異なる雰囲気を見せる高校。モデルの動きに合わせて衣装のシルエットそのものが変わる高校。蝶の羽化になぞらえて、成長を変化として魅せる高校。どれも本当に素晴らしかったです。
同じ《変化》というテーマでも、こんなにたくさんの答えがあるんだと、改めて感じました。
今回グランプリをいただけたことは、本当に嬉しいです。でも、それ以上に、たくさんの素晴らしい作品に出会えたことが、私にとって大きな経験になりました」
『…………』
リンは、記事を読み終えると、小さく頷いた。
『……いいこと言うね』
「……うん」
真理が答えた。
「……私も、同じこと思った」
『……同じこと?』
「……こんなにいろんな変化があるんだって」
真理は、誌面を見つめた。
「……自分じゃ、思いつかなかったものばっかりだったから」
「……そうなんだよね」
美奈も頷く。
「裏返すだけで全然違う雰囲気になる服とかさ。蝶のやつとか、ほんとびっくりしたし」
『……うんうん』
「あと、銅美の服も」
美奈は、優勝旗を掲げる怜奈の写真を見た。
「……どうやったら、あんなの作れるんだろ」
真理が、小さく笑った。
「……この前、熊川さんにいろいろ教えてもらったじゃん」
「そうだけど!」
美奈は、少し頬を膨らませた。
「聞けば聞くほど、もっと知りたくなるんだもん!」
リンが笑う。
『……あはは! 片岡さんらしいね!』
「……そうかな?」
『うん!』
真理も、小さく笑った。
大会のあと、二人は怜奈と直接話す機会を得ていた。
自分たちのドレスについて意見をもらい、改善できる部分も教えてもらった。
あのとき聞いた言葉は、今でも二人の中に残っている。
「……ねえ、真理」
「……なに、美奈ちゃん?」
「帰ったらさ、もう一回あのドレス見ようよ」
真理が、顔を上げた。
「……ドレス?」
「うん。熊川さんが言ってたとこ、もう一回確認したい」
「……腰のドレープ?」
「そうそう!」
美奈は頷いた。
「あとさ、照明の当たり方とか。写真もいっぱい撮ったし!」
「……うん」
真理は、少し考えた。
「……私も、もう一回見たい」
美奈が笑う。
「よし! じゃあ決まり!」
リンは、そんな二人を見つめていた。
悔しさが、消えたわけではない。
けれど、その悔しさは、もう二人の足を止めていなかった。
◇
『……ところで、二人とも』
リンは、手元の書類を揃えた。
『進路の話、今日の放課後に少しできる?』
「……あっ!」
美奈が顔を上げる。
「できるできる!」
「……私も、大丈夫です」
『じゃあ、授業が終わったら進路指導室に来てくれる?』
「はーい!」
『前に話してた専門学校の資料、持ってきてもらえると助かるな』
「持ってくる!」
真理も頷いた。
「……分かりました」
二人は雑誌を閉じると、職員室を出ていった。
リンは、その背中を見送った。
全国大会が終わっても、二人の物語は続いていく。
今度は、それぞれが選んだ道へ。
◇
放課後。
進路指導室の机には、二人分の資料が並んでいた。
美奈が持参したのは、服飾技術を学べる専門学校の案内。
真理が持参したのは、デザインを専門的に学ぶ学校の資料だった。
それぞれ、別の学校。
そこは、すでに二人で決めていた。
『……よし。じゃあ、確認していこうか』
リンは、二人の向かいに座った。
『まず、片岡さんの方からね』
「はーい!」
美奈が、資料を開いた。
「ここね、実習がすごく多いんだって!」
『……へえ』
「ミシンとか、パターンとか、服を作る技術をいっぱい勉強できるの!」
美奈の声が弾む。
「それでさ、卒業制作もあるんだって!」
『……なるほどね』
リンは、資料へ目を向けた。
授業内容。
取得を目指せる資格。
就職実績。
確かに、美奈が興味を持ちそうな内容が並んでいる。
『……片岡さんは、やっぱり服を作る方をもっと勉強したいんだね』
「うん!」
美奈は、迷わず頷いた。
「真理のデザインを形にするの、めっちゃ楽しかったから!」
隣にいた真理が、少し照れたように笑った。
「……美奈ちゃん」
「でもさ、今回のコンテストで分かったんだ」
美奈は、資料を見つめた。
「……あたし、まだまだ知らないこといっぱいあるんだなって」
『……うん』
「だから、もっと上手くなりたい!」
リンは、ゆっくりと頷いた。
『……そっか』
それから、出願に必要な条件へ目を向けた。
『じゃあ、次は出願時期と学費を確認しようか』
「……あっ、そこ!」
美奈が、資料の一か所を指さした。
「そこ、ちょっと分かんなくて!」
『どれどれ……』
二人は、顔を寄せて案内を読み始めた。
◇
『……じゃあ、次は小川さんだね』
「……はい」
真理は、少し緊張した様子で資料を開いた。
『この学校を選んだ理由、聞いてもいい?』
「……はい」
真理は、しばらく資料を見つめた。
「……私、もっとデザインを勉強したいんです」
『……うん』
「今までは、頭の中で思いついたものを、スケッチにして……それを美奈ちゃんと作ってきたんですけど」
真理は、ゆっくりと言葉を続ける。
「……今回のコンテストで、自分の知らない表現が、たくさんあるんだって思いました」
リンは黙って聞いていた。
「……だから、もっと勉強してみたいです」
『……そっか』
真理は、少しだけ顔を上げた。
「……それに」
『……ん?』
「……いつか、自分の考えた服を、もっとたくさんの人に着てもらえたらいいなって」
その声は、小さかった。
けれど、はっきりしていた。
リンは、思わず笑った。
『……いいね!』
真理が、少し目を丸くする。
『小川さんが考えた服、あたしもまた見てみたいな』
「……ありがとうございます」
真理は、嬉しそうに笑った。
隣で、美奈も大きく頷く。
「絶対見せようね!」
「……うん」
『……じゃあ、小川さんの方も出願条件を確認しようか』
「はい!」
リンは資料をめくった。
入学までの流れ。
選考方法。
必要な書類。
学校見学の日程。
一つずつ確認していく。
進路を決めることと、実際にそこへ進むことは違う。
これから、準備しなければならないことはたくさんある。
それでも、二人の表情は明るかった。
◇
相談を終える頃には、窓の外も少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
『……よし! 今日はここまでにしようか』
「はーい!」
美奈が資料をまとめる。
真理も、持ってきたパンフレットを鞄へしまった。
『次は、学校見学の予定を確認しようね』
「うん!」
「……はい」
二人は立ち上がった。
そこで、美奈がふと真理へ顔を向けた。
「……ねえ、真理」
「……なに?」
「学校、別々になっちゃうね」
真理は、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
「……でもさ」
美奈は、笑った。
「卒業しても、一緒に服作ろうね!」
真理が顔を上げる。
「……うん!」
その返事は、いつもより少し大きかった。
「……作ろう、美奈ちゃん」
「約束ね!」
二人は、顔を見合わせて笑った。
リンは、その姿を静かに見つめていた。
別々の学校。
別々の道。
けれど、それは二人の関係が終わるということではない。
それぞれの場所で学んだことを持ち寄れば、今までとは違う服が作れるかもしれない。
リンは、そんな未来を少しだけ想像した。
『……二人とも、頑張ってね』
「うん! ありがと、凛ちゃん!」
「……ありがとうございます、凛先生」
二人は頭を下げ、進路指導室を出ていった。
◇
同じ頃。
青葉高校の空手道場には、鋭い気合いが響いていた。
「セイッ!」
佐伯大輔が、相手との間合いを詰める。
踏み込み。
中段突き。
しかし、相手がわずかに身体を引き、拳は届かなかった。
「……くっ!」
佐伯は、すぐに構えを戻した。
「……もう一本!」
向かい合う部員が頷く。
再び、組み手が始まった。
七月二十二日。
東央大学との合同試合まで、あと十日。
佐伯は、その日が近づくにつれて、稽古へ向かう気持ちが強くなっていた。
前回の合同練習では、一勝もできなかった。
大学生との力の差を、嫌というほど思い知らされた。
それでも、諦めなかった。
あの日から、何度も自分の動きを見直してきた。
間合いの取り方。
踏み込むタイミング。
相手の動きを見てからでは、間に合わない瞬間があること。
何度も、繰り返してきた。
「……佐伯!」
荒川の声が響く。
「焦るな! 今の踏み込みは早すぎる!」
「……押忍!」
佐伯は、構えを取り直した。
もう一度。
今度は、相手の動きをよく見る。
しかし。
わずかな隙を見つけた瞬間、身体が先に動いた。
相手の反撃が、佐伯の手前で止まる。
「……っ!」
「……佐伯!」
荒川が近づいてきた。
「今、何を見た?」
「……相手の右肩です」
「それで?」
「……動いたので、入れると思いました」
「……本当に入れたか?」
「…………」
佐伯は、答えられなかった。
荒川は、佐伯の顔を見つめた。
「攻めることは悪くない。だが、攻めなければならんと思い込むな」
「……押忍」
「お前がやってきた稽古は、前へ出るだけのものか?」
佐伯は、ゆっくりと首を横に振った。
「……違います」
「ならば、思い出せ」
「……押忍!」
佐伯は、再び構えを取った。
その目には、先ほどよりも落ち着きが戻っていた。
◇
少し離れたところでは、相原菜月が別の部員と組み手を続けていた。
「……えいっ!」
菜月が踏み込む。
相手が反応する。
しかし、菜月はそのまま攻撃しなかった。
一瞬だけ動きを止め、相手の反応を確かめる。
そして。
「……そこっ!」
逆側から蹴りが伸びた。
「うわっ!」
相手の部員が、慌てて距離を取る。
菜月は、楽しそうに構えを戻した。
「……惜しい!」
佐伯は、その様子を横目で見ていた。
菜月の空手。
何度も組み手をしてきた相手だ。
あのフェイント。
攻めてくると思わせて、攻めてこない。
守ったと思えば、その反応を利用して別の場所を狙ってくる。
何度も引っかかった。
今でも、簡単には見抜けない。
「……先輩!」
菜月が、こちらへ顔を向けた。
「次、お願いしてもいいですか?」
佐伯は、少しだけ笑った。
「……ああ」
荒川へ視線を向ける。
「先生、相原と組んでもいいですか?」
「……ああ。やってみろ」
「押忍!」
佐伯は、菜月の前へ立った。
互いに礼をする。
「……よろしくお願いします!」
「……よろしく」
二人が構えた。
菜月は、いつもどおりの表情だった。
その目は、佐伯の動きをじっと見ている。
佐伯も、構えを崩さなかった。
七月二十二日。
あの日、自分がどこまで通用するのか。
まだ、分からない。
それでも。
佐伯は、まっすぐ菜月を見据えた。
「……行くぞ」
「……はい!」
次の瞬間。
二人が、同時に動いた。
◇
稽古が終わった頃。
リンが、空手道場へ顔を出した。
『……お疲れさまー!』
「お疲れさまです!」
部員たちが、一斉に返事をする。
『……あはは。みんな元気だね!』
「先生こそ、もう大丈夫なんですか?」
菜月が近づいてきた。
『うん! もう平気だよ!』
「……よかったです」
菜月は、安心したように笑った。
『相原さんも、合同試合まであと十日だね』
「はい!」
その返事には、迷いがなかった。
「楽しみです!」
『……そっか』
リンは、少しだけ笑った。
菜月は、本当に楽しみにしているらしい。
以前、自分より遥かに強い大学生へ挑戦し、敗れたこともあるというのに。
それでも、またあの場所で試合をしたいと思っている。
その姿が、少し眩しかった。
「……凛先生」
今度は、佐伯が近づいてきた。
『あっ、佐伯さん! お疲れさま』
「お疲れさまです」
『調子はどう?』
佐伯は、少し考えた。
「……正直、まだ課題は多いです」
『……そっか』
「でも、やれることはやってきたつもりです」
リンは、静かに頷いた。
『……うん』
「……あと十日、できることを全部やります」
その言葉には、強い決意があった。
リンは、佐伯の顔を見た。
以前よりも、迷いが少なくなっている。
けれど、それは不安がなくなったということではないのだろう。
大切な試合が近づいている。
しかも、その結果が大学進学に関わるかもしれない。
緊張しないはずがない。
『……佐伯さん』
「……はい」
『応援してるよ』
佐伯は、少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます」
『でも、無理して怪我しないようにね』
「……はい!」
佐伯は、しっかりと頷いた。
リンも、笑った。
◇
その日の夜。
自室へ戻ったリンは、机の上に鞄を置いた。
『……ふぅ』
久しぶりの学校。
まだ本調子ではない身体には、少し疲れが残っていた。
それでも、不思議と気分はよかった。
美奈と真理。
全国大会で悔しい思いをした二人が、それぞれの未来へ向けて動き始めている。
佐伯も、七月二十二日の合同試合へ向けて稽古を続けていた。
みんな、自分の進む道を考えている。
その姿を見ていると、リンも少しだけ背筋が伸びる気がした。
机の上で、携帯電話が震えた。
『……ん?』
画面を見る。
健吾からだった。
『体調どうだ? 今日から学校だったんだろ?』
リンは、少しだけ笑った。
『……ほんと、よく覚えてるなぁ』
返信を打ち始める。
『もう大丈夫! 今日からちゃんと学校行ってきたよ!』
送信。
しばらくすると、返事が来た。
『そっか。よかった』
短い文章だった。
けれど、リンにはその言葉が少し温かく感じられた。
日曜日。
熱でふらついた自分を、健吾が支えてくれた。
あのときの腕の感触を、まだ覚えている。
そして。
机の引き出しへ、視線が向いた。
そこには、山元凛が残した手紙がある。
健吾への誕生日の手紙。
あの中には、確かに愛情が込められていた。
リンは、携帯電話を見つめた。
今、健吾が心配しているのは。
自分なのだろうか。
それとも。
山元凛なのだろうか。
『…………』
リンは、しばらく動かなかった。
やがて、もう一度携帯電話を開いた。
『心配してくれてありがとね』
短い返信。
それを送ってから、リンは机へ携帯電話を置いた。
今の自分に、何ができるのか。
まだ、よく分からない。
けれど。
今日、学校で見た生徒たちの顔が浮かんできた。
悔しさを抱えながらも、次の道へ進もうとする美奈と真理。
不安を抱えながら、試合へ向かう佐伯。
みんな、簡単に答えが出るわけではない。
それでも、前へ進んでいる。
『……あたしも、頑張らなきゃな』
小さく呟く。
窓の外には、夏の夜が広がっていた。
七月二十二日まで、あと十日。
それぞれの次の一歩が、少しずつ近づいていた。




