第八十八話「呼び慣れた名前」
二〇二六年八月六日、木曜日。
沖縄修学旅行、二日目。
朝から、ホテルのレストランは賑わっていた。
「ねえ、今日どこから回る?」
「とりあえず、国際通りでしょ!」
「お土産、いっぱい買いたい!」
「でも、荷物増えすぎたら帰り大変じゃない?」
「それはそう!」
生徒たちは朝食を取りながら、今日の予定について話し合っていた。
窓の向こうには、昨日と変わらない青い海が広がっている。
莉子も、友人たちとテーブルを囲んでいた。
「ねえ、シーサーの置物ってさ、めっちゃ種類あるんでしょ?」
「あるらしいよ! 色とか顔とか全然違うみたい」
「うわ、選べなさそう!」
「莉子、絶対ずっと迷ってるじゃん!」
「迷うと思う!」
莉子が笑うと、周囲もつられて笑った。
少し離れた席では、結衣が友人たちと朝食を取っている。
「結衣、今日のお土産どうする?」
「うーん。家族の分は買いたいかな」
「弟くんのも?」
「うん。何がいいか聞いたら、食べ物がいいって」
「あはは! 分かりやすい!」
結衣も、小さく笑った。
昨夜は同じ部屋の友人たちと話しているうちに、思ったより遅くなってしまった。
少し眠かったが、今日の予定を考えると自然と目が覚めた。
◇
レストランの一角では、引率教員たちも朝食を取っていた。
「リン先生、昨日はよく眠れました?」
瀬戸が尋ねる。
『ああ。おかげさまでな』
「よかったです。今日は結構歩きますからね」
『そうだな。生徒たちの体調にも気を配らなければ』
凛は、手元の旅程表へ目を落とした。
二日目は那覇市内を中心とした班別研修。
午前中は各班の計画に沿って市内を見学し、午後には国際通りでの自由行動が予定されている。
指定された範囲内で行動し、決められた時刻に集合することになっていた。
「昨日、大きなトラブルがなくてよかったですね」
『ああ。今日もそう願いたいところだ』
「……先生、少し心配しすぎじゃないですか?」
『何を言う。こういうときこそ注意が必要だろう』
「……まあ、そうですね」
瀬戸が笑った。
凛は、窓の外へ目を向ける。
朝から、強い日差しが降り注いでいた。
『……それにしても、本当に暑いな』
「沖縄ですからね」
『昨日から何度も言っている気がするが、暑いものは暑い』
「……あはは」
瀬戸は笑いながら、冷たい水を一口飲んだ。
◇
午前中の班別研修を終え、生徒たちは那覇市の国際通りへ集まってきた。
通り沿いには、土産物店や飲食店がずらりと並んでいる。
色鮮やかな看板。
店先に並ぶシーサーの置物。
沖縄らしい模様の衣服や、さまざまな雑貨。
通りには観光客の姿も多く、あちこちから賑やかな声が聞こえていた。
「うわー! お店いっぱい!」
「どこから見よう!?」
「とりあえず、あっち行ってみない?」
莉子は、友人たちと一緒に通りを歩いていた。
「ねえ、あれ可愛くない!?」
店先に並ぶ小さなシーサーを見つけ、莉子が足を止める。
「ほんとだ!」
「色いっぱいある!」
「ピンクのやつ可愛い!」
「えー、あたし青も好き!」
友人たちと笑いながら、店の中へ入っていく。
棚には、シーサーの置物だけでなく、キーホルダーやアクセサリーも並んでいた。
「やばっ。こういうの見始めたら終わらないんだけど!」
「莉子、さっきも同じこと言ってたよ!」
「だって可愛いんだもん!」
莉子は、楽しそうに商品を手に取った。
◇
同じ頃。
結衣も、友人たちと国際通りを歩いていた。
「結衣、これどう?」
友人が、紅芋を使ったお菓子の箱を持ち上げる。
「いいと思う。家族に買っていくの?」
「うん。結衣は?」
「私は、もう少し見てからかな」
結衣は、店内を見渡した。
沖縄限定のお菓子。
色とりどりの雑貨。
小さな琉球ガラスのアクセサリー。
どれも、東京ではあまり見かけないものばかりだった。
「ねえ、ちょっとお手洗い行きたいんだけど」
友人の一人が言った。
「あ、私も」
「じゃあ、近くにあるか探してくる?」
結衣は、手に持っていたお土産を見た。
「私、ここでもう少し見てるね」
「分かった! じゃあ、戻ってくるまでここにいて!」
「うん」
友人たちは、近くのお手洗いを探しに店を出ていった。
結衣は、再び棚の前へ向き直った。
◇
一方、莉子は。
「……あれ?」
店の中で、首を傾げていた。
さっきまで隣にいた友人たちの姿がない。
「……え?」
入口の方を見る。
人が次々と出入りしている。
けれど、友人たちは見当たらなかった。
「……ちょっと待って」
莉子は、スマートフォンを取り出した。
グループのメッセージを確認する。
少し前に、友人の一人から連絡が来ていた。
『隣のお店見てるね!』
「……あー!」
莉子は、思わず声を上げた。
「全然気づかなかった!」
慌てて返信する。
『ごめん! 今どこ?』
送信すると、すぐに既読がついた。
しかし、返事はまだ来ない。
「……もう」
莉子は、店の外へ出た。
隣にも、その隣にも土産物店がある。
しかも、観光客で通りは賑わっていた。
「……どっち?」
莉子は、少し困った顔で周囲を見渡した。
別に、迷子になったわけではない。
集合場所も分かっているし、連絡も取れる。
ただ、友人たちを探して歩き回るのが少し面倒だった。
「……とりあえず、こっちかな」
近くの店を覗く。
いない。
もう一軒。
やっぱり、いない。
「……あれぇ?」
莉子は、スマートフォンをもう一度確認した。
まだ返事はない。
「……何やってんだろ、あたし」
小さく笑いながら、次の店へ入った。
そのときだった。
「…………あ」
少し奥の棚に、見覚えのある横顔があった。
小さなお菓子の箱を手に取っている女子生徒。
水瀬結衣だった。
◇
「……水瀬?」
莉子が声をかける。
結衣が、ゆっくりと振り返った。
「……あ」
少し驚いたように目を丸くする。
「橘さん……」
莉子は、周囲を見渡した。
近くに結衣の友人たちはいない。
「……一人なの?」
「……うん。今みんな、お手洗い探しに行っちゃってて。ここで待ってる」
「……そうなんだ」
「……うん」
会話が途切れた。
莉子は、棚に並んだお菓子へ視線を向ける。
結衣は、手に持っていた箱をそっと戻した。
周囲からは、店員の声や観光客の話し声が聞こえてくる。
けれど、二人の間には、次の言葉を探すような時間が流れていた。
以前のように険悪なわけではない。
学校でも、必要な話はできるようになっている。
ただ、二人きりになると、どうしても会話のきっかけが見つからなかった。
「……あ、そういえばさ」
莉子が口を開いた。
「弟くん、元気? もう中三だっけ?」
結衣が、少し驚いたように顔を上げる。
「……うん。相変わらずサッカー続けてるよ」
「へえ!」
「来年、桜丘高校受験するって」
「えっ、うちの高校受けるんだ!」
莉子の表情が明るくなった。
「受かったら後輩だね!」
「……そうだね」
結衣も、小さく笑った。
「昔からサッカー好きだったもんね、弟くん」
「うん。今も部活ばっかり」
「あはは。変わんないんだ」
「……うん」
短い会話だった。
けれど、不思議と話しやすかった。
結衣の弟がサッカーをしていること。
小学生の頃から、ずっと好きだったこと。
莉子は、そんな何年も前のことを覚えていた。
しかし。
弟の高校受験の話が終わると、二人は次の話題を見つけられなくなった。
莉子は、店の奥に飾られた色鮮やかな布を眺めた。
結衣は、肩に掛けた鞄の位置を直す。
昔なら、話すことがなくなっても平気だった。
同じ場所にいるだけで、何となく時間が過ぎていった。
今は、何かを話していないと落ち着かない。
そのことに、莉子は少しだけ戸惑っていた。
そして。
「……あっ」
結衣の鞄に目を向けた瞬間、莉子の声が止まった。
小さなアクリルキーホルダー。
制服姿の女の子が、こちらに笑顔を向けている。
映画『天気の子』のヒロイン。
天野陽菜だった。
「……それ」
結衣が、莉子の視線に気づいた。
「あ……うん」
指先で、キーホルダーに触れる。
「橘さんと『天気の子』見たときに買ったやつ」
「……まだつけてたんだね」
結衣は、少しだけ目を伏せた。
「……なんか、外すタイミングなくて」
「…………」
莉子は、キーホルダーを見つめた。
二〇一九年。
まだ、小学生だった頃。
母親たちに連れられ、二人で『天気の子』を観に行ったことがあった。
映画を観終わったあと、売店でグッズを眺めた。
陽菜と帆高。
どちらにしようか、なかなか決められなかった結衣。
その隣で、莉子はあれこれ口を出していた。
そんな、懐かしい光景が浮かんできた。
「……そっか」
莉子は、小さく笑った。
「……あのときさ」
「……うん?」
「めっちゃ迷ってなかった? どっち買うか」
結衣が、少し驚いたように顔を上げる。
「……覚えてるの?」
「覚えてるよ!」
莉子は、笑った。
「陽菜にするか、帆高にするかでさ。結局あたしが、陽菜の方が可愛いじゃんって……」
そこで、少し首を傾げる。
「……あれ? 結衣、最初は帆高の方がいいって言ってなかった?」
「…………」
結衣は、何も言わなかった。
ただ、目を丸くして莉子を見つめていた。
「……ん?」
莉子が首を傾げる。
「……どうしたの?」
「……今」
結衣が、小さく口を開いた。
「……結衣って」
「…………」
莉子の表情が止まった。
何と言ったのか。
少し遅れて、気づいた。
「……あ」
昔の呼び方。
もう何年も、口にしていなかった名前。
それが、あまりにも自然に出てきた。
「……ごめん」
莉子は、少し照れくさそうに笑った。
「なんか、昔の癖で」
結衣は、ゆっくりと首を横に振った。
「……ううん」
そして、キーホルダーへ視線を落とす。
「……覚えてるよ」
「……え?」
「あのとき、莉子が陽菜の方がいいって言ったんだよね」
「…………」
今度は、莉子が目を丸くした。
結衣は、小さく笑った。
「……だから、こっちにしたの」
莉子は、しばらく何も言わなかった。
今、結衣は。
確かに、莉子と呼んだ。
橘さん、ではなく。
昔と同じように。
「……そっか」
莉子は、少しだけ口元を緩めた。
「……そうだったね」
「……うん」
二人は、もう一度キーホルダーを見た。
透明なアクリルの中で、陽菜が笑っている。
七年前に選んだ、小さなお土産。
結衣は、それを今も鞄につけていた。
「……ねえ、結衣」
莉子が、もう一度名前を呼んだ。
結衣が顔を上げる。
「……何?」
「それ、これからもつけときなよ」
結衣は、少し驚いたように瞬きをした。
それから、小さく笑う。
「……うん」
指先で、キーホルダーを軽く持ち上げた。
「……そうする」
莉子も、笑った。
昔のように、何でも話せる関係へ戻ったわけではない。
以前のことが、全部なくなったわけでもない。
けれど。
名前を呼ぶことに、もう理由はいらなかった。
◇
そのとき。
莉子のスマートフォンが震えた。
「あっ」
画面を見る。
友人からのメッセージだった。
「莉子! 今どこ? 隣のアクセサリー屋にいるよ!」
「……あー、そっちか!」
莉子は、思わず笑った。
結衣が首を傾げる。
「……どうしたの?」
「あ、友達とはぐれちゃってて」
「えっ、大丈夫?」
「うん! 今、場所分かった!」
莉子は、すぐに返信した。
「今行く!」
そして、結衣へ顔を向ける。
「じゃあ、あたし行くね」
「……うん」
莉子は、店の入口へ向かいかけた。
けれど、途中で足を止める。
「……あ」
振り返った。
「またあとでね、結衣」
結衣は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、少し嬉しそうに笑った。
「……うん。またね、莉子」
莉子も、笑った。
そして、今度こそ店を出ていった。
結衣は、その背中を少しだけ見送った。
鞄のキーホルダーが、店の明かりを受けて揺れている。
「……ふふっ」
小さく笑みがこぼれた。
そのとき、店の入口から友人たちの声がした。
「結衣ー! ごめん、待たせた!」
「あっ、ううん!」
「何かいいの見つかった?」
「……うん。ちょっとね」
結衣は、もう一度キーホルダーに触れた。
それから、友人たちの方へ歩き出した。
◇
「莉子ー!」
店を出た莉子は、友人たちの姿を見つけた。
「ごめーん! 全然気づかなかった!」
「もう! どこ行ったかと思った!」
「あたしも探したって!」
「スマホ見てよ!」
「見た見た! ちょっと遅れただけ!」
友人たちが笑う。
莉子も、つられて笑った。
「で、何買ったの?」
「まだ何も!」
「えー! あんなに迷ってたのに!?」
「だって、可愛いの多すぎるんだもん!」
莉子は、再び友人たちと歩き始めた。
さっき、結衣と話したこと。
昔の映画のこと。
キーホルダーのこと。
そして、久しぶりに名前を呼んだこと。
それらを、わざわざ誰かへ話そうとは思わなかった。
ただ。
「……へへっ」
思わず、小さく笑ってしまう。
「……莉子?」
「ん?」
「何笑ってんの?」
「えっ? 別に!」
「えー、なんか怪しい!」
「怪しくないって!」
莉子は、笑いながら友人たちの後を追った。
◇
午後の国際通りでは、生徒たちがそれぞれ買い物を楽しんでいた。
シーサーの置物を選ぶ者。
家族へのお菓子を買う者。
沖縄限定の雑貨を探す者。
どの店からも、楽しそうな声が聞こえてくる。
凛も、巡回の途中で一軒の土産物店へ立ち寄っていた。
『……ほう』
棚には、小さなシーサーがいくつも並んでいる。
赤いもの。
青いもの。
笑っているような顔。
少し怖そうな顔。
『……随分と種類があるものだな』
凛は、一つ手に取って眺めた。
「先生!」
後ろから声がした。
振り返ると、陸が立っていた。
「何見てるんですか?」
『……シーサーだ』
「それは見れば分かります!」
『……む』
陸は、凛が持っている置物を覗き込んだ。
「先生、買うんですか?」
『……少し迷っている』
「えー! じゃあこっちどうです?」
陸が、隣に並ぶ別のシーサーを指さした。
大きく口を開けた、愛嬌のある顔をしている。
「先生、なんかこれ似合いそう!」
『……どういう意味だ?』
「なんか、強そうじゃないですか!」
『……私はシーサーではないぞ』
「分かってますって!」
陸が笑った。
凛も、つられて口元を緩めた。
結局、凛は陸が勧めた小さなシーサーを買うことにした。
◇
夕方。
班別行動を終えた生徒たちが、指定された集合場所へ戻ってきた。
凛は名簿を確認する。
『……よし。三年四組、全員揃っているな』
「先生! めっちゃ買っちゃいました!」
莉子が、両手に持った袋を見せた。
『……随分と多いな』
「だって、可愛いのいっぱいあったんですもん!」
『……帰りの荷物、大丈夫なのか?』
「……たぶん!」
『……たぶんでは困るぞ』
莉子が笑う。
「大丈夫ですって!」
その少し後ろでは、結衣も友人たちと歩いていた。
莉子と結衣の視線が、ほんの一瞬だけ重なった。
莉子が、小さく笑う。
結衣も、わずかに口元を緩めた。
それだけだった。
凛は、二人のやり取りに気づくことなく、次の班の人数を確認していた。
◇
その夜。
ホテルでは、修学旅行最後の夜を楽しむ生徒たちの声が、各部屋から聞こえていた。
「もう明日帰るんだねー!」
「早すぎ!」
「まだ沖縄いたい!」
「分かるー!」
莉子も、友人たちと買ってきたお土産を広げていた。
「これ、お母さん用!」
「可愛い!」
「こっちは自分の!」
「自分の方が多くない?」
「……気のせい!」
部屋に笑い声が広がる。
その頃、結衣の部屋でも。
「結衣、それ買ったの?」
「うん。弟に」
結衣が取り出したのは、沖縄限定のお菓子だった。
「サッカー部の練習終わりとかに食べるかなって」
「いいじゃん!」
「……喜んでくれるといいけど」
結衣は、小さく笑った。
そのあと、鞄へ荷物をしまう。
取っ手についたアクリルキーホルダーが、揺れた。
結衣は、それを指先でそっと押さえた。
七年前と変わらない、小さな陽菜。
今日、久しぶりに呼ばれた名前。
「……莉子」
誰にも聞こえないほど小さく呟いてみる。
その響きが、少し懐かしかった。
結衣は、キーホルダーから手を離した。
そして、友人たちの会話へ戻っていった。
◇
八月七日、金曜日。
修学旅行、最終日。
朝のホテルには、少し名残惜しい空気が漂っていた。
「……もう帰るの?」
「三日間、早すぎない?」
「ほんと、それ!」
生徒たちは朝食を取りながら、何度も同じようなことを話していた。
凛も、最後の朝食を終えると、瀬戸と一緒に出発準備を進めた。
「リン先生、荷物の確認終わりました?」
『ああ。こちらは問題ない』
「じゃあ、あとはチェックアウトですね」
『そうだな』
凛は、ロビーへ集まってくる生徒たちを見渡した。
大きなスーツケース。
昨日買ったお土産の袋。
旅行初日より、荷物が増えている生徒も多い。
『……みんな、随分と荷物が増えたな』
「……あはは。お土産ですね」
『……飛行機に持ち込める範囲に収まっていればいいが』
「そこは昨日、確認してますよ」
『……そうだったな』
瀬戸が笑う。
凛も、少しだけ口元を緩めた。
◇
ホテルを出発した一行は、最後の見学を終えると那覇空港へ向かった。
車窓からは、沖縄の街並みが流れていく。
初日に見たときは、何もかもが新鮮だった景色。
それも、三日目になると少し見慣れてきた気がした。
「……ねえ、また沖縄来たいね」
「絶対来たい!」
「今度はもっと長くいたい!」
生徒たちが話している。
凛も、窓の外を眺めていた。
青い空。
南国の木々。
遠くに見える海。
『……そうだな』
小さく呟く。
聞こえていた瀬戸が、顔を向けた。
「……先生?」
『……いや。私も、また来てみたいと思ってな』
「……いいですね」
瀬戸は、少し笑った。
「今度は仕事じゃなくて、ゆっくり旅行するのもいいかもしれませんね」
『……ああ』
凛は、もう一度窓の外へ目を向けた。
そういう旅も、いつかしてみたい。
自然と、そんなことを考えていた。
◇
那覇空港。
搭乗までの時間、生徒たちは最後の買い物を楽しんでいた。
「うわ! これ買い忘れてた!」
「まだ買うの!?」
「だって限定って書いてある!」
「もう荷物入んないでしょ!」
あちこちで笑い声が上がる。
凛は、集合時刻を確認しながら生徒たちを見守っていた。
『……まったく。最後まで元気なものだな』
そう呟いたときだった。
「先生!」
莉子が駆け寄ってきた。
『……ん? どうした、莉子?』
「これ、お土産です!」
差し出されたのは、小さな袋だった。
『……私にか?』
「そう! みんなで買ったんです!」
袋の中には、沖縄らしい模様の小さなハンカチが入っていた。
『……これは』
「先生、三日間ありがとうございました!」
莉子が笑う。
後ろにいた友人たちも、次々と声をかけてきた。
「お疲れさまでした!」
「めっちゃ楽しかったです!」
『…………』
凛は、少し驚いたように袋を見つめた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
『……ありがとう』
小さく頷いた。
『大切に使わせてもらうよ』
「やった!」
莉子たちが笑った。
凛も、自然と笑みを浮かべた。
◇
やがて、帰りの飛行機へ乗り込む時間になった。
生徒たちは、行きと同じように指定された座席へ向かう。
しかし、機内の様子は少し違っていた。
初日は、窓の外を見るだけで大騒ぎだった。
それが今は、座席へ着くなり眠そうに目を擦る生徒もいる。
「……ねむ」
「昨日、何時に寝たの?」
「……覚えてない」
「それ絶対遅いやつじゃん!」
莉子も、友人と笑いながらシートベルトを締めた。
少し離れた席では、結衣がスマートフォンの写真を見返している。
平和祈念公園。
ホテルから見た海。
国際通りで買ったお土産。
その中には、友人たちと笑っている写真も何枚もあった。
結衣は、一枚ずつゆっくりと眺めた。
それから、スマートフォンをしまい、窓の外へ目を向けた。
◇
飛行機が離陸すると、沖縄の街並みが少しずつ遠ざかっていった。
青い海。
白い砂浜。
緑の島。
やがて、それらも雲の下へ隠れていく。
凛は、窓の外を見つめていた。
隣には瀬戸が座っている。
「……リン先生」
『……ん?』
「三日間、お疲れさまでした」
『……ああ。瀬戸もお疲れさま』
「大きなトラブルもなくて、よかったですね」
『そうだな』
凛は、ゆっくりと頷いた。
初日の羽田空港。
生徒たちと撮った写真。
沖縄の青い海。
平和祈念公園で見た、数えきれないほどの名前。
ホテルでの賑やかな夕食。
国際通りでの買い物。
そして、先ほど受け取った小さなハンカチ。
三日間の出来事が、次々と頭に浮かんできた。
「……先生、どうでした?」
瀬戸が尋ねた。
『……何がだ?』
「初めての沖縄ですよ」
『……ああ』
凛は、少し考えた。
最初は、教師として生徒たちを無事に引率することばかり考えていた。
もちろん、それは最後まで変わらなかった。
けれど、気づけば自分もたくさん笑っていた。
生徒たちと同じ景色を見て、同じ時間を過ごした。
初めての場所に驚き、知らなかったことを学び、美味しいものを食べた。
それは、凛自身にとっても忘れがたい三日間になっていた。
『……そうだな』
凛は、窓の外へ目を向けた。
どこまでも続く、白い雲。
その向こうには、青い空が広がっている。
『……楽しかったな』
自然と、そんな言葉がこぼれた。
瀬戸が、少し笑った。
「……それは、よかったです」
凛も、口元を緩めた。
機内では、いつの間にか眠っている生徒たちも増えていた。
隣の席からは、小さな寝息が聞こえてくる。
凛は、もう一度窓の外を見た。
朝、沖縄のホテルを出たときは、少し名残惜しかった。
けれど今は、東京へ戻ってからの毎日も、少し楽しみに思えている。
旅行先だけが、特別なわけではない。
学校で過ごす時間も。
生徒たちと交わす何気ない言葉も。
その一つひとつが、今の凛にとって大切なものになっていた。
『……さて』
凛は、静かに背もたれへ身体を預けた。
東京までは、まだ少し時間がある。
窓の向こうには、夏の青空がどこまでも広がっていた。




