第八十七話「南の島へ」
二〇二六年八月五日、水曜日。
午前六時四十分。
羽田空港の出発ロビーには、朝早くから大勢の人々が行き交っていた。
大きなスーツケースを引く家族連れ。
足早に保安検査場へ向かう会社員。
出発案内の電光掲示板を見上げる人々。
その一角に、ひときわ賑やかな集団があった。
「うわー! 空港来たー!」
「朝早すぎて眠かったけど、なんか目覚めた!」
「ねえ、飛行機って何時だっけ?」
「しおり見なよ!」
都立桜丘高校、三年生。
今日から三日間、沖縄への修学旅行が始まる。
『……よし! 三年四組、点呼を始めるぞ!』
凛は名簿を開き、生徒たちの前に立った。
◇
『神谷陸!』
「はいっ!」
『橘莉子!』
「はーい!」
『水瀬結衣!』
「はい」
『高瀬美月!』
「はい!」
凛は、返事を確認しながら名簿へ印をつけていく。
早朝にもかかわらず、教室での朝のホームルームより返事がいい。
『……なんだ、みんな今日は随分と元気だな』
「そりゃ修学旅行ですから!」
「先生、昨日全然寝れなかった!」
『……何?』
「楽しみすぎて!」
『……まったく。飛行機の中で眠ることになっても知らんぞ』
「それはそれで最高じゃないですか!」
陸の返事に、周囲から笑い声が上がった。
凛は小さく息を吐き、再び名簿へ目を落とす。
全員出席。
遅刻者もいなかった。
『……よし。全員揃っているな』
「先生! 写真撮りません?」
声をかけてきたのは莉子だった。
手にはスマートフォンを持っている。
『……写真?』
「そう! 出発前にみんなで!」
「先生も入ってくださいよ!」
『……私もか?』
「当たり前じゃないですか!」
周囲の生徒たちも、次々と集まってきた。
凛は少し迷ったものの、結局その輪の中へ入った。
「先生、もっと真ん中!」
『……ここでいいだろう』
「いいからいいから!」
生徒たちに促され、気づけば中央に立っていた。
「じゃあ撮るよー!」
『……うむ』
「先生、笑って!」
『……笑っているぞ』
「いや、めっちゃ真顔!」
莉子が吹き出した。
『……む』
「もう一回! 今度こそ!」
凛は、少しだけ口元を緩めた。
シャッター音が鳴る。
「……あはは!」
写真を確認した莉子が笑った。
「先生、今度はちゃんと笑ってる!」
『……そうか』
「うん! いい感じ!」
差し出された画面には、生徒たちに囲まれて笑う自分の姿があった。
凛は、しばらくそれを見つめた。
『……なるほど』
「先生?」
『……いや。いい写真だな』
そう言うと、莉子は満足そうに頷いた。
「でしょ!」
◇
「リン先生、お疲れさまです」
点呼を終えたところで、瀬戸湊が近づいてきた。
『……ああ、瀬戸。そちらはどうだ?』
「荷物の確認も終わりました。今のところ問題ありません」
『そうか。よかった』
凛は名簿を閉じた。
「……なんか、今日は機嫌いいですね」
『……そうか?』
「はい。朝からいつも以上に元気な気がします」
『……普段と変わらんつもりだが』
「そうですか?」
瀬戸は少し笑った。
「昨日も、何回も旅程表見てましたよね」
『……当然だろう。準備は大切だからな』
「それだけですか?」
『……む』
凛は、わずかに視線を逸らした。
『……初めての沖縄だからな』
「……ああ!」
瀬戸が頷く。
「そういえば、行ったことないって言ってましたね」
『ああ。だから、少し楽しみにしている』
「少し?」
『……何だ』
「いや、結構楽しみにしてるんじゃないかなって」
『…………』
凛は、窓の向こうへ視線を向けた。
これから乗る飛行機が、搭乗口の先に見えている。
『……まあ、そうだな』
そして、小さく笑った。
『せっかくの機会だからな。私も楽しもうと思っている』
「……いいですね!」
瀬戸も笑った。
「でも、引率の仕事は忘れないでくださいよ?」
『分かっている!』
「……あはは。冗談ですよ」
◇
保安検査を終え、一行は搭乗口へ向かった。
大きな窓の向こうには、白い機体が停まっている。
「……うわ、でっか!」
「近くで見ると迫力あるね!」
「ねえ、これ乗るんだよね?」
「そうだって!」
生徒たちは窓際へ集まり、スマートフォンを向けていた。
凛も、少し離れたところから機体を眺めた。
大きな翼。
地上で作業をする係員たち。
機体の下へ運ばれていく荷物。
『……ふむ』
「先生!」
陸が振り返った。
「飛行機って、あんな重そうなのに何で飛ぶんですかね?」
『……揚力が働くからだ』
「おおっ!」
『翼の形や空気の流れが関係している』
「へえー!」
陸は、再び飛行機へ目を向けた。
「……でも、やっぱすげえな」
『……そうだな』
凛も頷いた。
空を飛ぶ乗り物が当たり前に存在している。
そのことは昔から知っていた。
けれど、実際に目の前にすると、改めて不思議なものだった。
やがて、搭乗案内が始まった。
◇
機内へ入ると、生徒たちはそれぞれ指定された座席へ向かった。
「やった! 窓側!」
「ねえ、席替わってよー!」
「無理! じゃんけんで勝ったんだから!」
あちこちから声が聞こえる。
凛は通路を歩きながら、荷物が正しく収納されているかを確認した。
『……通路に荷物を置いたままにするなよ。全員、座席を確認してくれ』
「はーい!」
『それから、機内では客室乗務員の指示に従うこと』
「分かってまーす!」
生徒たちが着席したのを確認し、凛も自分の座席へ向かった。
隣には瀬戸が座っている。
「……ようやく一息ですね」
『……ああ』
凛はシートベルトを締めた。
窓の外では、地上の係員たちが慌ただしく動いている。
やがて機体が、ゆっくりと動き始めた。
『……おお』
思わず声が漏れる。
「……リン先生?」
『……ん?』
「もしかして、緊張してます?」
『……いや、そんなことはない』
「……ほんとですか?」
『ああ』
凛は、背筋を伸ばした。
瀬戸が、その姿をちらりと見る。
「……めちゃくちゃ姿勢いいですけど」
『……いつもどおりだ』
「……そういうことにしておきます」
瀬戸は笑った。
凛は、少しだけ眉を寄せた。
そのとき。
エンジン音が大きくなった。
機体が滑走路を走り始める。
身体が、座席へ押しつけられた。
『……っ!』
凛は、思わず肘掛けを握った。
窓の外の景色が、一気に流れていく。
そして。
地面が、遠ざかった。
『……おお……!』
東京の街並みが、少しずつ小さくなっていく。
道路。
建物。
川。
さっきまでいた空港も、あっという間に遠くなった。
「うわーっ!」
「すげえ!」
少し離れた席から、生徒たちの声が聞こえる。
凛も、窓の外を見つめたままだった。
やがて機体は雲の上へ出た。
真っ白な雲が、どこまでも続いている。
『……綺麗だな』
瀬戸が、窓の外を覗き込んだ。
「ほんとですね」
『……雲の上とは、こういう景色なのか』
「先生、飛行機は久しぶりなんですか?」
『……ああ。随分とな』
凛は、窓の外へ視線を戻した。
雲の上に広がる青空。
それを眺めているうちに、いつの間にか肘掛けから手が離れていた。
◇
機内の生徒たちは、それぞれの時間を過ごしていた。
莉子は隣の友人と、沖縄で撮りたい写真について話している。
「やっぱ海でしょ!」
「分かる! 絶対綺麗だよね!」
「あとホテルでも撮ろ!」
「いいね!」
少し離れた席では、結衣が友人と旅行のしおりを眺めていた。
「この資料館、結構広いみたい」
「そうなんだ。ちゃんと時間内に見られるかな?」
「気になるところ、先に確認しておこうか」
「うん!」
二人は、しおりのページをめくっていく。
一方、陸は窓の外から目を離せないようだった。
「やばい。雲って上から見るとこんな感じなんだ」
「さっきからずっと同じこと言ってるじゃん」
「だってすごくない!?」
凛の席まで、その声が届いた。
『……まったく』
小さく呟きながらも、口元は緩んでいた。
◇
約二時間半後。
機内に、間もなく那覇空港へ到着するという案内が流れた。
窓の外には、青い海が広がっている。
東京で見慣れた海とは、色が違っていた。
透き通るような青。
場所によっては、緑がかった部分も見える。
「……うわっ!」
「海、めっちゃ綺麗!」
「見て見て! やばい!」
窓側の生徒たちが、次々と声を上げた。
凛も、その景色に目を奪われていた。
『……これは、見事だな』
「沖縄の海、綺麗ですよね」
瀬戸が言う。
『ああ。写真で見るのとは、まるで違う』
「まだ空からしか見てないですよ」
『……そうだったな』
凛が笑う。
やがて機体は高度を下げ、那覇空港へ着陸した。
◇
「……あっつ!!」
空港の建物を出た瞬間、陸が声を上げた。
「東京と変わんないじゃん!」
「いや、なんか空気違う!」
「湿気すごくない?」
沖縄の熱気が、生徒たちを包み込んだ。
凛も、思わず額の汗を拭った。
『……なるほど。こちらも随分と暑いな』
「先生! 沖縄来ちゃいましたね!」
莉子が声をかける。
『……ああ。ついに来たな』
「めっちゃ楽しみ!」
『そうだな。だが、まずは全員揃っているか確認するぞ』
「はーい!」
凛は名簿を取り出した。
生徒たちは、それぞれ友人と話しながら、指定された場所へ集まっていく。
空は、朝の東京と同じくらい青かった。
しかし、街路樹の形も、風の匂いも違う。
遠くへ来た。
そんな実感が、少しずつ湧いてきた。
◇
貸切バスへ乗り込むと、一行は糸満市へ向かった。
窓の外には、東京とは違う街並みが流れていく。
低い建物。
鮮やかな花。
南国らしい木々。
「ねえ、あれ何の木?」
「ヤシの木じゃない?」
「いや、違うんじゃない?」
生徒たちが、窓の外を指さしながら話している。
やがて、バスガイドが沖縄の歴史について話し始めた。
琉球王国の時代。
沖縄独自の文化。
そして、第二次世界大戦末期の沖縄戦。
車内の話し声が、少しずつ小さくなっていく。
今日、最初に訪れるのは沖縄県営平和祈念公園だった。
◇
沖縄県糸満市、摩文仁。
バスを降りると、広々とした公園が目の前に広がっていた。
緑の芝生。
静かに揺れる木々。
遠くには、青い海。
「……綺麗なところだね」
誰かが、小さく呟いた。
凛は、生徒たちを集めた。
『……ここからは、平和学習の時間だ。事前に学んできたことを思い出しながら、見学してほしい』
「はい」
生徒たちは頷いた。
最初に向かったのは、平和の礎だった。
そこには、沖縄戦などで亡くなった人々の名前が刻まれている。
国籍や、軍人と民間人といった区別なく、犠牲者の名前が並んでいた。
「……すごい数」
莉子が呟いた。
黒い石碑が、いくつも続いている。
一つひとつに、たくさんの名前。
「……こんなに?」
茜も、思わず足を止めた。
結衣は石碑の前に立ち、刻まれた文字を目で追っていた。
「……これ、一人ずつ名前があるんだよね」
近くにいた友人が、小さく頷く。
「うん……」
凛も石碑を見つめた。
教科書では、沖縄戦の犠牲者数を数字として学ぶ。
だが、ここには一人ひとりの名前があった。
学校へ通っていた子ども。
家族と暮らしていた人。
それぞれに、大切な人や日々の生活があったはずだった。
凛は、しばらくその場を動かなかった。
◇
続いて、一行は沖縄県平和祈念資料館へ向かった。
館内には、沖縄戦に関するさまざまな資料が展示されていた。
当時の写真。
住民たちが使っていた生活用品。
戦争の経緯を説明する資料。
そして、体験者たちの証言。
生徒たちは事前学習の資料を手に、それぞれ展示を見て回った。
「……これ、普通の家族の写真なんだ」
陸が、小さく呟いた。
隣の友人が頷く。
「……うん」
戦争が始まる前の沖縄の暮らし。
学校へ通う子どもたち。
家族と過ごす人々。
街の風景。
そこには、今の自分たちと変わらない日常があった。
「……なんか」
莉子が、展示の前で足を止めた。
「教科書で読むのと、全然違うね」
「……うん。写真とか、実物見ると……」
友人も、言葉を探しているようだった。
莉子はもう一度展示へ向き直った。
そのまま、しばらく説明文を読み続けた。
◇
凛は、少し離れたところから生徒たちの様子を見守っていた。
普段は落ち着きのない陸も、今日は一つの展示の前で足を止めている。
ふざけた言葉を口にすることもない。
凛自身、資料を読みながら知らなかったことの多さを感じていた。
教室で学ぶことと、実際にその場所へ来ること。
どちらも大切なのだろう。
そのとき。
「……先生」
振り返ると、美月が立っていた。
『……どうした、美月?』
「……あの」
美月は少し迷ったあと、展示へ目を向けた。
「こういうの見ると、今こうして普通に生活できてるのって、すごいことなんだなって思います」
『…………』
凛も、同じ展示を見た。
『……そうだな』
「……当たり前じゃないんですね」
『ああ』
凛は、静かに頷いた。
『私も、ここへ来て改めて感じたよ』
美月は少し驚いたように凛を見る。
「……先生も?」
『もちろんだ。知らなかったことも、たくさんあった』
「……そっか」
美月は、小さく頷いた。
「もうちょっと、見てきます」
『ああ。行っておいで』
美月は再び展示の方へ歩いていった。
凛も、まだ読んでいなかった説明文へ目を向けた。
◇
見学を終えた生徒たちは、公園の広場へ集まった。
友人と感想を話し合う生徒。
資料を読み返す生徒。
遠くの海を眺める生徒。
凛は、全員が揃っていることを確認した。
『……よし。今日の平和学習は、これで終了だ』
生徒たちが顔を上げる。
『帰ってから、改めて振り返りの時間も取る。今日見たことや感じたことを、忘れないようにな』
「はい」
『……では、これからホテルへ向かうぞ!』
その言葉に、生徒たちの表情が変わった。
「ホテル!」
「やっとだー!」
「部屋めっちゃ楽しみ!」
凛は、小さく笑った。
先ほどまで真剣に展示を見ていた生徒たちが、今度は宿泊先の話で盛り上がっている。
少し忙しない気もするが、それも高校生らしかった。
◇
夕方。
一行は、宿泊先のホテルへ到着した。
大きなエントランス。
明るいロビー。
窓の向こうには、青い海が広がっている。
「うわーっ!」
「めっちゃ綺麗!」
「やばい! ホテルすごい!」
生徒たちが歓声を上げた。
凛も、思わず周囲を見渡す。
『……立派なホテルだな』
隣の瀬戸が笑った。
「……先生、また楽しそうですね」
『……む』
「いや、いいと思いますよ」
『……お前は先ほどから、そればかりだな』
「だって、分かりやすいんですもん」
『……そうか?』
「はい」
瀬戸が頷く。
凛は、もう一度窓の向こうを見た。
確かに、いつもより気持ちが弾んでいるのかもしれない。
◇
ロビーでは、部屋ごとの鍵が配られた。
生徒たちは、決められた部屋割りに従って移動する。
「莉子! 早く行こ!」
「待って待って! 荷物重い!」
莉子は、同じ部屋の友人たちとエレベーターへ向かった。
一方、結衣は別の部屋だった。
「結衣、こっちだよ」
「あ、うん!」
結衣も、友人たちと一緒に廊下を歩いていく。
凛は、部屋割り表を確認しながら生徒たちを見送った。
『荷物を置いたら、夕食の集合時間までに戻ってくること!』
「はーい!」
『廊下は走るなよ!』
「分かってまーす!」
生徒たちが、次々とエレベーターへ乗り込んでいった。
◇
「うわっ! 見て見て!」
莉子は、部屋へ入るなり窓際へ駆け寄った。
大きな窓の向こうに、海が広がっている。
「やばい! めっちゃ綺麗!」
「ほんとだ!」
「ねえ、写真撮ろ!」
友人たちが、次々とスマートフォンを取り出した。
莉子も窓の外へカメラを向ける。
「これ、絶対映える!」
「ねえ、あとでみんなで撮ろ!」
「撮ろ撮ろ!」
しばらく写真を撮り合ったあと、ようやく荷物を広げ始めた。
その頃、別の部屋では。
「……わぁ」
結衣が、窓の外を見つめていた。
夕方の陽射しを受けた海が、きらきらと輝いている。
「結衣、綺麗だね」
「うん。すごいね」
結衣は、窓際から少し離れた。
友人たちとベッドの位置を決め、荷物を置く。
鞄を椅子へ掛けると、ついていた小さなアクリルキーホルダーが揺れた。
結衣はそれに気づかないまま、夕食の時間を確認するため、旅行のしおりを取り出した。
◇
夕食は、ホテルのレストランでのビュッフェだった。
広い会場には、さまざまな料理が並んでいる。
沖縄そば。
ゴーヤーチャンプルー。
ラフテー。
色とりどりの野菜料理。
デザートも豊富だった。
「うわー! 何食べよ!」
「全部美味しそう!」
「沖縄そばある!」
生徒たちは皿を手に、それぞれ料理を選んでいた。
凛も列へ並ぶ。
『……これは、ゴーヤーチャンプルーか』
小皿へ少し取り分ける。
その隣には、ラフテーが並んでいた。
『……ほう』
どちらも美味しそうだった。
さらに奥には沖縄そばもある。
凛は、しばらく料理を見比べた。
「……先生」
後ろから陸の声がした。
『……ん?』
「めっちゃ迷ってません?」
『……何がだ?』
「何食べるかですよ!」
『……種類が多いからな』
「先生でも迷うんですね」
『……私を何だと思っている』
「いや、なんか、すぐ決めそうだなって」
『……そんなことはない。食事くらい、ゆっくり選ばせてくれ』
陸が笑った。
「じゃあ、沖縄そばおすすめですよ!」
『……ほう。食べたことがあるのか?』
「いや、ないです!」
『……ないのか!』
「でも絶対美味しそうじゃないですか!」
『……まったく』
凛は苦笑した。
そして、沖縄そばも少し取ることにした。
◇
食事が始まると、会場はさらに賑やかになった。
「これ美味しい!」
「ゴーヤ、思ったより苦くない!」
「いや、俺はちょっと苦手かも」
「デザート取りに行こ!」
凛も、料理を口へ運んだ。
『……うむ』
思わず頷く。
『……美味しいな』
「先生、沖縄そばどうですか?」
近くの席から陸が尋ねた。
『……ああ。美味いぞ』
「でしょ!」
『……お前、食べたことがないと言っていただろう』
「そうでしたっけ?」
『……まったく』
凛は、小さく笑った。
少し離れた席では、莉子たちが料理の写真を撮っている。
結衣も友人と話しながら、食事を楽しんでいた。
朝早くから移動し、午後には平和学習。
忙しい一日だったが、生徒たちに疲れた様子はほとんどなかった。
「……リン先生」
隣に座っていた瀬戸が、声をかけてきた。
『……ん?』
「今日は、どうでした?」
『……どう、とは?』
「初めての沖縄ですよ」
『……ああ』
凛は、少し考えた。
朝の羽田空港。
飛行機から見た雲。
沖縄の海。
平和の礎に刻まれた名前。
そして今、目の前で食事を楽しむ生徒たち。
『……そうだな』
凛は、皿を置いた。
『思っていた以上に、いろいろなものを見られたよ』
「……そうですね」
『平和祈念公園も、実際に行ってみると感じるものが違った』
「……はい」
瀬戸も頷いた。
凛は、生徒たちの方へ目を向ける。
『……それに、みんなが楽しそうでよかった』
瀬戸は少し笑った。
「……リン先生も、十分楽しんでますけどね」
『……またそれか』
「だって本当ですから」
凛は、呆れたように首を振った。
けれど、否定はしなかった。
◇
夕食を終えると、生徒たちはそれぞれの部屋へ戻っていった。
ロビーでは、凛たちが翌日の確認を行っている。
『……明日の集合時刻を間違えないように。それから、夜更かしはほどほどにすること』
「はーい!」
「先生も早く寝てくださいね!」
『……分かっている』
「絶対ですよ!」
『……なぜ私が注意されているんだ?』
生徒たちが笑った。
「だって先生、明日も朝早いでしょ?」
『……それはお前たちも同じだろう』
「そうでしたー!」
最後の生徒たちがエレベーターへ乗り込んでいく。
凛は、その姿を見送った。
全員、体調に問題はない。
大きなトラブルもなかった。
まずは無事に初日を終えられそうだった。
◇
夜。
凛は、自室の窓際に立っていた。
外には、暗い海が広がっている。
遠くの街の明かりが、静かに瞬いていた。
今日一日を思い返す。
朝の羽田空港。
離陸の瞬間。
窓から見下ろした青い海。
平和祈念公園で足を止めていた生徒たち。
そして、ホテルでの賑やかな夕食。
『……ふふっ』
小さく笑みがこぼれた。
初めて訪れた沖縄。
慣れない引率の仕事に、気を張る場面も多かった。
だが、それ以上に楽しい一日だった。
凛は、窓の外を見つめた。
今朝、空港で莉子たちと撮った写真を思い出す。
最初は、教師が生徒と一緒にはしゃいでいいものかと少し迷った。
けれど、あの輪の中に入ってよかったと思う。
今日の出来事は、きっと長く覚えているだろう。
凛は、机の上に置いた旅行のしおりへ目を向けた。
明日は班別研修。
国際通りでの自由行動も予定されている。
生徒たちは、今頃それぞれの部屋で明日の話をしているのだろう。
『……明日も、楽しみだな』
凛は、もう一度窓の外へ目を向けた。
南国の夜は、静かに更けていった。




