第八十六話「残された言葉」
二〇〇〇年七月十日、月曜日。
「……うぅ」
喉が、痛い。
目を覚ましたリンは、布団の中で小さく呻いた。
唾を飲み込むだけで、喉の奥がひりつく。
身体も重い。
頭の芯がぼんやりしていて、起き上がる気力さえ湧いてこなかった。
「……まだ、熱あるのかなぁ」
枕元の体温計を手に取り、脇へ挟む。
しばらくして、電子音が鳴った。
表示された数字を見て、リンは顔をしかめた。
三十九度一分。
「……下がってないじゃん」
昨日の夜から、ほとんど変わっていない。
リンは、ぐったりと枕へ頭を戻した。
昨日は、健吾と食事をした。
その途中から体調が悪くなり、帰り道ではまともに立っていられなくなった。
健吾がいなければ、どうなっていたか分からない。
「……はぁ」
情けない。
あんなに心配させてしまった。
しかも、今日は月曜日だ。
週明けには、真理と美奈の進路について、進路指導の先生へ相談するつもりだった。
全国ファッションコンテストを終えた二人が、涙を流しながら話してくれたこと。
服作りをもっと学びたいという、その思い。
できるだけ早く、次の一歩につなげてあげたかった。
「……でも、さすがに無理かぁ」
リンは、ゆっくり身体を起こした。
この状態で学校へ行けば、ほかの先生や生徒たちに迷惑をかけてしまう。
何より、まともに仕事ができるとは思えなかった。
時計を見る。
まだ、学校への連絡には間に合う。
「……電話しよ」
◇
学校へ欠勤の連絡を入れると、電話口の先生はすぐに休むよう勧めてくれた。
大会後の進路相談については、出勤してから改めて進めればいいと言われた。
『……はい。すみません。よろしくお願いします』
受話器を置き、リンは小さく息を吐いた。
続いて、近所の内科へ電話をかける。
症状を伝えると、診察を受けられるとのことだった。
リンは、しばらく椅子に座って休んでから、外出の準備を始めた。
鏡を見る。
「……うわ」
顔色が悪い。
目も少し充血している。
昨日、健吾が心配そうに覗き込んできたのも無理はなかった。
「……あ」
その顔を思い出した途端、胸の奥に妙な感覚が広がった。
倒れかけた自分を受け止めてくれた腕。
すぐ近くで聞こえた声。
そして、抱きしめられたときの温かさ。
「…………」
リンは、慌てて首を振った。
「……いやいや、今は病院!」
自分に言い聞かせるように呟き、鞄を手に取った。
◇
午前中の診療所は、思ったより混んでいた。
待合室には、年配の男性や子ども連れの母親が座っている。
壁際のテレビからは、朝の情報番組が流れていた。
リンは受付を済ませると、空いている椅子に腰を下ろした。
「……ふぅ」
冷房の風が、少し寒い。
鞄からハンカチを取り出し、口元を押さえる。
何度か咳が出た。
頭が重い。
何も考えず、ただ順番を待っていたかった。
やがて名前を呼ばれ、診察室へ入る。
「三十九度の熱が続いているんですね」
『……はい。昨日の夜から下がらなくて』
「喉の痛みは?」
『結構あります。飲み込むのもちょっと痛くて……』
医師は症状を確認し、喉の状態を診た。
高熱が続いているため、感染症の可能性についても説明を受けた。
「喉の炎症が強いですね。お薬を出しますので、しっかり水分を取って、安静にしてください」
『……はい』
「熱が続いたり、息苦しさが出たり、水分も取れなくなるようなら、もう一度受診してくださいね」
『分かりました』
診察を終えると、リンは処方箋を持って近くの薬局へ向かった。
薬剤師から飲み方を説明され、薬を受け取る。
帰り道、コンビニエンスストアで飲み物とゼリーを買った。
袋を提げて歩くうちに、また少し身体がだるくなってきた。
「……早く帰ろ」
リンは、いつもよりゆっくりと足を進めた。
◇
帰宅して薬を飲むと、リンはそのまま布団へ潜り込んだ。
目を閉じる。
天井の明かりが、瞼の裏にぼんやりと残っている。
少し眠ったらしい。
再び目を開けると、窓の外は昼過ぎの明るさになっていた。
「……ん」
身体を起こしてみる。
まだだるさはあるが、朝より少し楽になっていた。
熱を測る。
三十八度五分。
「……ちょっと下がった」
リンは、ほっと息を吐いた。
枕元の水を飲む。
喉はまだ痛かったが、朝より飲み込みやすくなっている。
それから、ぼんやりと天井を見つめた。
何もすることがない。
学校へ行く必要もなければ、授業の準備を急ぐ必要もない。
休めと言われたのだから、休むしかない。
「……暇だなぁ」
そう呟いた直後だった。
昨日の光景が、また頭に浮かんだ。
健吾の顔。
心配そうな声。
そして、自分を支えてくれた腕。
「…………」
リンは、布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「……だから、なんで思い出すかなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
倒れそうになったところを、助けてもらった。
ただ、それだけだ。
しかも、あのときは高熱でまともに立っていられなかった。
安心したのだって、当然だと思う。
なのに、何度も思い返してしまう。
「……うーん」
リンは、寝返りを打った。
以前、健吾とキスをしたときのことも思い出す。
あのときは、正直、何も分からなかった。
嫌だとは思わなかった。
でも、嬉しいとも思えなかった。
ただ、凛と健吾の関係を壊したくなくて。
そのことばかり考えていた。
昨日だって、同じはずだった。
健吾は凛の恋人。
リンは、その凛の身体で生活している。
その事実は、何も変わっていない。
「…………」
リンは、目を閉じた。
「……あー、もう!」
小さく声を上げ、布団をめくる。
考えたところで、答えなんて出てこない。
それなら、何か別のことをしていた方がいい。
◇
リンは、ゆっくりと机へ向かった。
この部屋で暮らし始めて、三か月が経っている。
最初の頃は、何がどこにあるのかさえ分からなかった。
今では、服のしまい場所も、必要な書類の場所も、大体覚えている。
けれど。
「……そういえば」
リンは、机の引き出しへ目を向けた。
普段、ほとんど開けない場所がある。
仕事に必要なものは、分かるところへまとめてある。
だから、奥にしまわれたものをわざわざ取り出すことはなかった。
ここは、山元凛の部屋だ。
今はリンが使っているものの、もともと自分のものではない。
必要以上に触れないようにしていたのは、そのためだった。
リンは、しばらく引き出しを見つめた。
「……ちょっとだけ」
小さく呟き、そっと開ける。
中には、何冊かのノートと封筒。
古い写真。
文房具。
どれも、きちんと整理されていた。
「……ほんと、几帳面だなぁ」
リンは、思わず笑った。
その中に、一冊の厚いノートがあった。
落ち着いた色の表紙。
端の部分が、少し擦れている。
「……これ、何だろ」
取り出して、表紙を開く。
そこには、日付と文章が並んでいた。
「……日記?」
リンは、目を丸くした。
山元凛の日記。
それも、何年も前から書き続けているらしい。
「…………」
リンは、そっと閉じようとした。
勝手に読むのは、よくない。
分かっている。
他人の日記なんて、普通なら絶対に見ない。
けれど。
リンは今、この女性の身体で生活している。
この女性の名前で呼ばれ、この女性の仕事をしている。
それなのに、凛が何を考え、何を大切にしてきたのか、ほとんど知らない。
昨日の健吾との出来事も、その疑問をいっそう大きくしていた。
「……ごめんね、凛先生」
リンは、小さく呟いた。
「……ちょっとだけ、読ませて」
そして、もう一度日記を開いた。
◇
最初に目に入ったのは、空手について書かれた文章だった。
稽古で思うように技が決まらなかったこと。
何度も同じ失敗を繰り返し、自分の未熟さを痛感したこと。
けれど、その悔しさを次の稽古へつなげようとしていること。
丁寧な文字で、まっすぐに綴られていた。
「……へえ」
リンは、ゆっくりとページをめくった。
別の日には、稽古で初めて納得のいく動きができたことが書かれていた。
嬉しかった。
だが、まだ足りない。
もっと上達したい。
そんな言葉が並んでいる。
「……ほんと、空手が好きなんだなぁ」
リンは、小さく笑った。
空手部で感じた、凛の身体の動き。
自分では考えられないほど自然に出てくる構えや踏み込み。
あれは、凛が何年も積み重ねてきたものだったのだ。
次のページを開く。
今度は、教育実習について書かれていた。
初めて生徒の前に立ったときの緊張。
授業が思うように進まなかった悔しさ。
自分の言葉が生徒に届いたと感じた日の喜び。
そして。
教師という仕事が、思っていた以上に難しく、やりがいのあるものだったということ。
「…………」
リンは、ページをめくる手を止めた。
凛にも、こんな時期があった。
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
リンが思い描いていた山元凛は、いつも真面目で、何事にも厳しく向き合う人。
空手が得意で、規律を大切にする、昔ながらの体育教師。
そんな印象だった。
けれど、日記に書かれた凛は、失敗している。
悩んでいる。
上手くいかなくて、落ち込んでいる。
それでも、次は頑張ろうとしている。
「……なんだ」
リンは、ふっと笑った。
「……凛先生も、あたしと同じじゃん」
教師になったばかりで、分からないことだらけ。
生徒への接し方に悩み、授業で失敗して、家に帰って落ち込む。
違う時代を生きてきた、正反対のような二人。
けれど、教師としての不安や期待は、案外似ているのかもしれない。
◇
しばらく読み進めたところで、リンは最後のページへ辿り着いた。
そこに記されていた日付を見て、指が止まった。
二〇〇〇年四月六日。
「……あ」
リンは、小さく息を呑んだ。
忘れもしない日付だった。
リンが神社で願い事をしたのも、四月六日。
ただし、それは二〇二六年のことだ。
そして翌朝、目を覚ましたときには、山元凛の身体になっていた。
「……同じ日、なんだ」
二十六年も離れた、同じ月日。
偶然なのか。
それとも、何か関係があるのか。
今のリンには分からない。
あの日、いったい何が起きたのか。
本来の山元凛が、今どこで何をしているのか。
そもそも、無事でいるのかどうかさえ、確かめる方法がなかった。
リンは、もう一度日付を確かめた。
そして、ゆっくりと文章を読み始めた。
二〇〇〇年四月六日
《明日から、いよいよ担任としての生活が始まる。》
《私が受け持つのは、三年生の生徒たち。》
《卒業までの一年間、彼らの成長を見守ることになる。》
《教師としての経験も浅く、至らないところも多いだろう。》
《それでも、生徒たちに恥じない教師でありたい。》
《時には厳しく、時には優しく。》
《努力することの大切さと、自分の道を選ぶ勇気を伝えていきたい。》
《一人ひとりと真剣に向き合い、決して途中で投げ出さない。》
《私自身も、生徒たちとともに成長していこう。》
《明日が楽しみだ。》
「…………」
リンは、何も言えなかった。
最後の一文を、もう一度読む。
《明日が楽しみだ。》
楽しみだったのだ。
凛は。
初めて担任を受け持つことも。
三年生の生徒たちと出会うことも。
卒業までの一年間を、一緒に過ごすことも。
そのすべてを、楽しみにしていた。
リンは、ゆっくりと視線を落とした。
初めて青葉高校へ行った日。
教壇に立ち、目の前の生徒たちを見た日。
右も左も分からず、どうすればいいのか必死だった。
あのとき、リンは自分のことで精いっぱいだった。
元の時代へ帰れるのか。
ちゃんと教師の仕事ができるのか。
誰かに正体を知られてしまわないだろうか。
けれど、凛は、あの日を楽しみにしていた。
それを、今初めて知った。
リンは、日記の上にそっと手を置いた。
思い浮かぶのは、生徒たちの顔だった。
真理。
美奈。
佐伯。
森田。
相原。
ほかにも、たくさんの生徒たち。
授業で笑ったこと。
悩みを聞いたこと。
家庭訪問で、それぞれの暮らしを知ったこと。
空手部で、汗を流したこと。
そして、一昨日。
真理と美奈が、全国の舞台へ立ったこと。
あの二人が、自分の進路を選んだこと。
そのすべてが、リンにとって大切な思い出になっていた。
けれど、本来なら。
凛が経験するはずだった日々なのかもしれない。
この日記に書かれた未来を、今はリンが生きている。
「……凛先生」
小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
リンは、日記の最後の一文をもう一度見た。
《明日が楽しみだ。》
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
凛もまた、新しい毎日を楽しみにしていたのだ。
リンは、そっと日記を閉じた。
◇
日記を引き出しへ戻そうとした、そのときだった。
「……ん?」
奥に、白い封筒が見えた。
ほかの書類の下に、静かにしまわれている。
飾り気のない、シンプルな封筒。
リンは、何気なく手を伸ばした。
表には、丁寧な字で名前が書かれていた。
健吾へ。
「…………」
リンは、動きを止めた。
健吾。
昨日、一緒に食事をした相手。
自分を抱きしめた、あの人。
「……手紙?」
封はされていなかった。
中には、一枚の白い便箋が入っている。
リンは、少し迷った。
さっきの日記だけでも、十分に悪いことをしている気がする。
これ以上、勝手に見ていいのだろうか。
だが、健吾に関するものだと分かった途端、どうしても気になってしまった。
「……ごめん」
もう一度、小さく謝る。
そして、便箋を開いた。
◇
五月十日。
《健吾、お誕生日おめでとう》
《今の教師という自分があるのは、健吾の存在が非常に大きい》
《いつも不器用な私のそばにいてくれてありがとう》
《これからは仕事が忙しくなると思うけれど、二人で過ごす時間も大切にしていきたい》
《私が迷ったとき、何度も背中を押してくれたことを忘れていません》
《愛している》
「…………」
リンは、しばらく便箋を見つめた。
五月十日。
健吾の、誕生日。
「……え?」
思わず、声が漏れた。
日付を、もう一度確かめる。
間違いない。
五月十日。
その日は、もう二か月も前に過ぎている。
「……うそ」
リンは、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
五月十日。
あの日、自分は何をしていただろう。
学校へ行って。
授業をして。
生徒たちと話して。
たぶん、いつもと変わらない一日を過ごした。
けれど、健吾に何か伝えただろうか。
誕生日を祝っただろうか。
プレゼントを渡しただろうか。
「…………」
記憶を探す。
何も、出てこなかった。
知らなかったのだから、当然だった。
健吾の誕生日が五月十日だなんて、リンは今日初めて知った。
だから、おめでとうの一言さえ送っていない。
「……あたし」
リンは、便箋を握る指に力を込めかけ、慌てて緩めた。
凛の、大切な手紙。
折り目をつけてはいけない。
ゆっくりと、机の上へ置いた。
そして、もう一度文章を読んだ。
《今の教師という自分があるのは、健吾の存在が非常に大きい》
健吾は、凛を支えていたのだ。
教師になろうとした凛の背中を押して。
きっと、悩んだときも話を聞いて。
そばにいてくれたのだろう。
《いつも不器用な私のそばにいてくれてありがとう》
「……不器用、かぁ」
リンは、かすかに笑った。
なんとなく、分かる気がした。
凛は、まっすぐで真面目な人。
でも、自分の気持ちを言葉にするのは、あまり得意ではないのかもしれない。
だからこそ、こうして手紙を書いたのだろう。
普段は言えないことを、きちんと伝えるために。
そして、最後の一文。
《愛している》
「…………」
リンは、そこから目を離せなかった。
凛は、健吾のことを愛していた。
ただ付き合っているだけではない。
大切に思っていた。
これからも、一緒に過ごしていきたいと願っていた。
その相手が。
昨日、リンを抱きしめた。
「…………」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
◇
リンは、ゆっくりと背もたれに身体を預けた。
頭が重い。
熱のせいなのか。
それとも、別の理由なのか。
分からなかった。
思い浮かぶのは、以前の健吾の顔だった。
別れを切り出された日。
健吾は、寂しそうだった。
何度誘っても断られる。
何を考えているのか分からない。
そんな関係を、いつまでも続けられない。
あのとき、健吾はそう言っていた。
リンは、目を閉じた。
「……そっか」
誕生日にも、何もなかった。
連絡も。
お祝いも。
きっと、何一つ。
健吾が、そのことをどれほど気にしていたのかは分からない。
もしかしたら、気にしていなかったかもしれない。
けれど、もし、楽しみにしていたとしたら。
いつもと違う一日になることを、少しでも期待していたとしたら。
「……ごめん、健吾」
声が、震えた。
健吾は、何も知らない。
目の前にいる凛が、実は別の時代から来た女性だなんて。
だから、突然変わってしまった恋人に戸惑っていた。
会おうとしても断られ。
話しかけても、どこか距離を取られ。
誕生日さえ、忘れられてしまった。
それでも、昨日は、あんなに優しくしてくれた。
倒れそうになった自分を、迷わず受け止めてくれた。
「…………」
リンは、両手で顔を覆った。
凛と健吾の関係を壊さないようにしよう。
ずっと、そう思ってきた。
だから別れを引き止めた。
だから、キスにも応じた。
けれど、凛がどれほど健吾を大切にしていたのか、知らなかった。
健吾の誕生日さえ、知らなかった。
知らないまま、二人の関係を守ろうとしていた。
「……そんなの」
リンは、小さく呟いた。
「……守ってることにならないじゃん」
◇
しばらくして、リンは携帯電話を手に取った。
折りたたみ式の携帯電話。
画面を開く。
電話帳から、健吾の名前を探す。
「…………」
そこに表示された名前を見つめた。
何か、伝えたい。
誕生日を忘れていたこと。
今まで、何度も誘いを断っていたこと。
健吾を寂しい気持ちにさせていたかもしれないこと。
謝りたい。
けれど。
「……何て言えばいいんだろ」
リンは、メールの作成画面を開いた。
文字を打つ。
《健吾、今さらなんだけど》
そこで、指が止まった。
今さら。
本当に、今さらだった。
五月十日は、もう二か月も前。
昨日は一緒に食事をしたばかりだ。
今になって誕生日の話を持ち出したら、健吾はどう思うだろう。
それに、どうして急に思い出したのか、聞かれたら。
凛が用意していた手紙を見つけたから。
そんなこと、言えるはずがない。
「…………」
リンは、ゆっくりと文字を消した。
画面には、何も残らなかった。
しばらく、そのまま携帯電話を見つめていた。
そして、ぱたん、と閉じた。
「……だめだ」
小さく呟く。
今のリンには、何を伝えればいいのか分からなかった。
◇
リンは、便箋を丁寧に折りたたんだ。
白い封筒へ戻す。
日記帳も、元の場所へ。
引き出しの中に、そっとしまう。
最後に、もう一度だけ手を止めた。
そこには、凛の人生があった。
空手に打ち込んだ日々。
教師になるために努力した時間。
生徒たちと過ごす未来への期待。
そして、健吾への、まっすぐな愛情。
「……凛先生」
リンは、小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
けれど、今までよりも少しだけ、山元凛という人が近く感じられた。
自分とは、全然違う人。
でも、悩んで、失敗して、それでも前に進もうとしてきた人。
大切なものを、ちゃんと持っていた人。
今、その人がどこにいるのか、リンには分からない。
この部屋に戻ってくる日があるのかどうかも、分からない。
それでも、ここに残された言葉は、確かに凛が生きていた証だった。
「……ごめんね」
リンは、静かに呟いた。
何に対する謝罪なのか、自分でもよく分からなかった。
勝手に日記を読んだこと。
健吾の誕生日を知らなかったこと。
凛が楽しみにしていた毎日を、自分が過ごしていること。
そして、昨日、健吾の腕の中で安心してしまったこと。
その全部かもしれなかった。
◇
布団へ戻ると、リンはゆっくり横になった。
身体は、まだ熱っぽい。
喉も痛い。
薬が効いているのか、少し眠気もあった。
目を閉じる。
すると、日記の最後の一文が浮かんできた。
《明日が楽しみだ。》
凛は、あの日、自分の未来を楽しみにしていた。
新しく担任を受け持つ生徒たち。
これから始まる教師としての毎日。
その先に、どんな出来事が待っているのか。
きっと、少し緊張しながらも、期待していたのだろう。
そして、手紙の最後の一文。
《愛している》
健吾のことも、同じように大切にしていた。
教師としての未来。
恋人と過ごす未来。
そのどちらも、凛の人生だった。
「…………」
リンは、ゆっくりと寝返りを打った。
この時代へ来てから、ずっと必死だった。
学校へ行って。
授業をして。
生徒たちの悩みを聞いて。
気づけば、三か月が経っていた。
その間に、リン自身にも大切なものができた。
真理と美奈。
佐伯。
空手部のみんな。
青葉高校で過ごす毎日。
最初は、元の時代へ戻るまでの仮の生活だと思っていた。
それなのに、今では、あの学校へ行くことが当たり前になっている。
生徒たちが笑えば嬉しいし、悩んでいれば放っておけない。
一昨日、真理と美奈が涙を流したときだって、リンも本当に悔しかった。
あの気持ちは、誰かの代わりに感じたものではない。
リン自身の気持ちだった。
だからこそ、分からなくなる。
凛の身体で生きるということは、どういうことなのだろう。
凛が大切にしていたものを守ることなのか。
それとも、今ここにいる自分が、自分の気持ちで生きることなのか。
簡単には答えを出せなかった。
「…………」
そして、また、健吾の顔が浮かんだ。
心配そうに覗き込んでいた目。
優しく抱きしめてくれた腕。
あの温かさ。
リンは、ぎゅっと目を閉じた。
凛は、健吾のことを愛していた。
それは、もう分かった。
だったら、リンが昨日感じたものは、何だったのだろう。
ただ、弱っていたから。
助けてもらって、安心しただけ。
そう考えれば、説明がつくはずだった。
それなのに、今もはっきりと思い出してしまう。
「……ずるいな、あたし」
小さく呟いた。
誰に対して、何がずるいのか。
上手く説明できなかった。
健吾に優しくされて、安心した。
そのことを、どこかで嬉しいと感じてしまった。
けれど、その気持ちを認めるのは怖かった。
健吾は、凛が愛していた人なのだから。
「…………」
リンは、布団を少しだけ引き上げた。
熱は、まだ下がりきっていない。
頭の奥も、ぼんやりしている。
今は、何も考えたくなかった。
けれど、目を閉じても、凛の日記の言葉と、健吾の優しい声が、何度も胸の中を行き来していた。
その答えを、リンはまだ見つけられそうになかった。




