第八十五話「出発まで、あと少し」
二〇二六年八月三日、月曜日。
朝、玄関の扉を開けた凛は、その場で足を止めた。
『…………暑い』
まだ午前八時にもなっていない。
それなのに、外から流れ込んできた空気は、まるで熱した風呂場のようだった。
額に汗が浮かぶ。
凛は、空を見上げた。
青い。
腹立たしいほどに、青い。
『それにしても、この時代の夏は暑すぎやしないか……?』
思わず、そんな言葉が漏れた。
二〇〇〇年の夏も、決して涼しかったわけではない。
炎天下で空手の稽古をすれば、汗は滝のように流れた。
真夏の体育館など、立っているだけで息苦しくなることもあった。
しかし。
『……これだけ暑いと、日射病になるぞ』
凛は、眉間に皺を寄せた。
アスファルトの上では、陽炎が揺れている。
道行く人々は日傘を差し、首に小さな扇風機をかけていた。
凛は、その一人を目で追った。
『……扇風機を持ち歩く時代か』
もっとも、あれがなければ耐えられないというのなら、笑ってもいられない。
『……光化学スモッグ注意報は出ていないのか?』
そう呟いてから、凛はスマートフォンを取り出した。
天気予報の画面には、三十五度を超える最高気温の予想が表示されている。
『……三十五度!?』
思わず声が大きくなった。
『まだ朝だというのに、なんということだ……』
さらに画面を確認すると、熱中症への警戒を呼びかける表示も出ていた。
凛は、しばらくそれを見つめた。
日射病。
熱中症。
使う言葉も、注意を呼びかける仕組みも、二十六年の間に随分変わった。
けれど、暑さそのものが身体に与える危険は変わらない。
『……よし』
凛は、一度部屋へ戻った。
冷蔵庫から冷やした飲み物を取り出し、水筒へ移す。
タオルも一枚、鞄へ追加した。
そして、再び玄関へ向かう。
『……まったく。二十六年も経つと、夏まで変わるものなのだな』
そうぼやきながら、凛は朝の街へ歩き出した。
◇
都立桜丘高校。
夏休み中の校舎は、普段より静かだった。
蝉の声が響く中、部活動に向かう生徒たちが校門をくぐっていく。
凛も職員室へ向かい、いつものように挨拶をした。
『おはようございます!』
「おはよう、山本先生」
声をかけてきたのは、早川奈緒だった。
手には、何枚もの資料を持っている。
「今日も元気ねぇ」
『はい! しかし、外は凄まじい暑さですね』
「ああ、ほんとにね。朝から三十度超えてるし」
『このような暑さでは、屋外での活動も危険ですね』
「そうなのよ。部活動も時間を短くしたり、場所を変えたりしてるところ」
早川は、持っていた資料を机へ置いた。
「それより、今日の修学旅行の説明、準備できてる?」
『はい! 配布資料も確認済みです!』
「よかった。三年生も、いよいよだもんね」
凛は、机の上に置かれた旅程表へ目を向けた。
そこには、大きく日付が記されている。
八月五日、水曜日。
沖縄修学旅行、出発日。
『……あと二日ですね』
「そう。今日は最終確認だから、抜けがないようにね」
『承知しました!』
凛は、背筋を伸ばして頷いた。
◇
桜丘高校の修学旅行には、少し珍しい特徴があった。
多くの高校では二年生のうちに実施される修学旅行を、この学校では三年生の夏に行っている。
二年次から沖縄の歴史や文化、平和について事前学習を重ね、三年次の現地研修でその成果を確かめる。
また、夏休み期間中に実施することで通常授業への影響を抑え、帰京後は進路に応じた受験勉強や就職準備へ集中できるようにする。
そうした教育方針から、桜丘高校では長年この時期の修学旅行を続けていた。
今年の行き先は、沖縄。
日程は、八月五日から七日までの二泊三日。
そして今日は、出発前の最終説明会だった。
◇
「先生! おはようございまーす!」
凛が三年四組の教室へ入ると、元気な声が飛んできた。
『おはよう! みんな揃っているか?』
「先生、早く沖縄行きたいです!」
「もう明後日だよ!」
「俺、飛行機めっちゃ久しぶり!」
夏休み中とは思えないほど、教室は賑やかだった。
凛は教卓に資料を置き、出席を確認する。
窓の外では蝉が鳴いている。
教室の冷房は効いているものの、次々と話しかけてくる生徒たちの熱気は、それ以上だった。
『よし! では、修学旅行の最終確認を始めるぞ!』
「はーい!」
『まず、集合についてだ』
凛は、黒板へ大きく文字を書いた。
羽田空港。
集合時刻。
指定された集合場所。
『当日は、学校ではなく空港で集合だ。各自、事前に確認した交通手段で向かうように!』
「先生、遅刻したらどうなります?」
神谷陸が手を挙げた。
『遅刻しないことだ!』
「いや、それはそうなんですけど!」
教室に笑い声が広がる。
凛は、少しだけ口元を緩めた。
『交通機関の遅延など、やむを得ない事情が生じた場合は、すぐに学校指定の連絡先へ連絡すること。自分たちだけで判断せず、必ず指示を受けるように』
「はーい!」
『そして、集合時刻は出発時刻ではない。荷物の確認や保安検査にも時間が必要だ。余裕を持って行動すること!』
「先生、めっちゃ気合い入ってる」
「そりゃ先生だもん」
笑い声が聞こえた。
凛は、その方へ顔を向ける。
『当然だ! 全員が無事に帰ってくるまでが修学旅行だからな!』
「出た! 体育会系!」
陸が笑う。
『何か問題でもあるか?』
「ないでーす!」
再び、教室が笑いに包まれた。
◇
続いて、凛は飛行機に関する注意事項を説明した。
預ける荷物と機内へ持ち込む荷物の違い。
液体物や危険物の取り扱い。
航空会社の定める制限。
そして、保安検査を受ける際の注意点。
『持ち込みが可能か判断に迷うものは、各自で事前に調べるか、先生たちへ確認すること』
「モバイルバッテリーは?」
『機内へ持ち込む。預け荷物には入れないように』
「先生、日焼け止めって持っていっていいですか?」
『持っていける。ただし、機内持ち込みや預け入れには種類や容量による制限もある。配布した資料をよく確認してくれ』
凛は、説明を続けながら教室を見渡した。
生徒たちは、資料へ目を落としたり、友人と小声で確認し合ったりしている。
『次に、沖縄での行動についてだ』
黒板へ、もう一つ文字を書き加える。
熱中症対策。
『現地でも、厳しい暑さが予想される。こまめな水分補給を徹底すること!』
「先生、東京もめっちゃ暑いですよ?」
『それは今朝、私も身をもって感じた!』
思わず力の入った返事に、生徒たちが笑った。
『だからこそ、油断してはならん。帽子や日傘、飲み物を活用し、体調がおかしいと思ったらすぐに申し出るように』
「はーい」
『我慢して倒れることを、根性とは呼ばないからな!』
「先生が言うと説得力すごい!」
凛は、少しだけ胸を張った。
かつての自分なら、暑さに負けるなと声を張り上げていたかもしれない。
けれど、身体を守ることも、教師が教えるべき大切なことだ。
その考えは、今の凛にしっかり根づいていた。
◇
「じゃあ、二日目の班別研修についても確認しておこう」
途中から説明を引き継いだのは、三年四組の副担任、瀬戸湊だった。
「班ごとの行動計画は提出済みだけど、移動時間や集合場所をもう一度確認してください」
瀬戸が、スクリーンに旅程表を映す。
「当日、予定どおりにいかない場合もあります。そういうときは、勝手に行き先を変更しないで、担当の先生に連絡してくださいね」
生徒たちは、手元の資料へ目を落とした。
莉子は、隣に座る女子生徒と行程表を見比べている。
「ここ、移動時間こんなにかかるんだ」
「ね。思ったより遠いよね」
少し離れた席では、結衣が静かに資料を確認していた。
手元のメモに、集合時刻を書き加えている。
二人が直接言葉を交わすことはなかった。
けれど、以前のように教室全体が誰かの動きを気にして、妙に静まり返ることもない。
凛は、教室の様子を一度確かめると、再び説明へ意識を戻した。
今、無理に何かを変えようとする必要はない。
大切なのは、生徒たちがそれぞれ安心して旅行に参加できることだった。
◇
最後に、平和学習の確認が行われた。
初日は、沖縄戦に関する資料館や慰霊の場所を訪れる予定になっている。
事前学習では、戦争の経緯や当時の住民の暮らしについて学んできた。
凛も、引率に向けて改めて資料を読み直していた。
『みんな、沖縄では楽しい時間もたくさんあるだろう』
凛が言うと、生徒たちが顔を上げた。
『だが、今回の旅行には、学ぶという大切な目的もある』
黒板に書かれた日程を指す。
『資料館などでは、そこでしか見られないもの、聞けないことがある。何を感じるかは、人それぞれだろう』
凛は、少しだけ声を落とした。
『無理に同じ感想を持つ必要はない。ただ、自分の目で見て、自分なりに考えてほしい』
教室が、静かになった。
凛は、すぐに表情を和らげた。
『そして、見学先では周囲への配慮を忘れないこと。約束を守って、充実した三日間にしよう!』
「はーい!」
元気な返事が返ってきた。
説明会は、予定どおり終了した。
◇
「はーっ! やっと終わったー!」
説明が終わるなり、陸が机に突っ伏した。
「説明だけでこんな疲れるなら、沖縄どうなるんだよ」
「いや、旅行は別でしょ!」
友人が笑った。
教室のあちこちで、楽しそうな話し声が上がる。
莉子も、友人たちと顔を寄せ合っていた。
「沖縄、絶対写真いっぱい撮ろ!」
「撮ろ撮ろ! 海とかめっちゃ綺麗なんでしょ?」
「楽しみすぎる!」
その近くで、茜が大きく頷いた。
「分かるー! 絶対いっぱい撮りたい!」
茜は、スマートフォンを取り出した。
沖縄の観光スポットを調べようとして、いつものSNSを開く。
すると、画面に一枚の写真が流れてきた。
「……あ」
指が止まる。
白いテーブル。
綺麗に並べられた小さなケーキ。
大きな窓の向こうに広がる街並み。
写真の中央には、淡い色のワンピースを着た若い女性が座っていた。
膝の上には、ブランド物らしいバッグ。
手元には、上品なネイルが施されている。
「……かわい」
茜は、小さく呟いた。
次の投稿を開く。
今度は、高層階のレストラン。
夜景を背景に、同じ女性が笑っている。
さらに、その次。
ホテルのラウンジ。
アクセサリー。
高そうな洋服。
画面には、華やかな写真が次々と並んでいた。
「……いいなぁ」
思わず声が漏れる。
プロフィールを開いてみる。
二十歳。
都内在住。
それほど自分と年齢が変わらない。
「……二十歳で、こんな生活してるんだ」
茜は、画面を見つめた。
写真の女性は、どれも楽しそうだった。
好きな服を着て。
綺麗な場所へ行って。
美味しそうなものを食べている。
コメント欄には、たくさんの言葉が並んでいた。
『かわいすぎる!』
『憧れです!』
『バッグどこのですか?』
茜も、その気持ちはよく分かった。
こんな生活、ちょっとしてみたい。
そんなことを考えながら、何気なくフォローボタンを押した。
「茜ー!」
莉子の声がした。
「何見てんの?」
「ん? あ、ちょっとインスタ!」
「また服?」
「まあ、そんな感じ!」
茜は、笑ってスマートフォンを伏せた。
「てか、沖縄めっちゃ楽しみじゃない?」
「ねー!」
二人は、そのまま旅行の話へ戻っていった。
茜の頭の中には、先ほどの写真が少しだけ残っていた。
◇
説明会を終えた凛は、瀬戸と一緒に職員室へ戻っていた。
「リン先生、お疲れさまでした」
『瀬戸先生も、お疲れさまです!』
「みんな、すごく楽しみにしてましたね」
『ああ。そうだな』
凛は、資料を机へ置いた。
『だが、浮かれているときほど注意が必要だ。特にあの暑さではな』
「そうですね。先生も、水分補給忘れないでくださいね」
『もちろんだ!』
瀬戸が笑った。
「じゃあ、僕は提出資料をまとめてきます」
『ああ。よろしく頼む』
瀬戸を見送ったあと、凛は少しだけ時計を確認した。
まだ昼前だった。
午後には、引率教員同士での最終打ち合わせが予定されている。
その前に、体育館の様子を見ておこう。
そう考え、凛は職員室を出た。
◇
廊下を歩いていると、前方から見覚えのある生徒がやってきた。
「あっ、リン先生!」
『……紗奈!』
凛は、思わず足を止めた。
朝倉紗奈。
三年一組の生徒で、女子バレーボール部の主将。
以前、右膝を負傷し、しばらく固定具と松葉杖を使っていた。
だが。
『……おおっ!?』
凛は、紗奈の足元を見た。
松葉杖がない。
大きな固定具も外れている。
膝にはサポーターが巻かれていたが、紗奈は自分の足で歩いていた。
『紗奈! 松葉杖はどうした!?』
「えへへ!」
紗奈が、嬉しそうに笑った。
「やっと外れたんです!」
『本当か!』
「はい! 固定具も取れて、今はサポーターだけで歩けるようになりました!」
凛の顔が、ぱっと明るくなった。
『そうか! それはよかったな!』
「ありがとうございます!」
紗奈は、少し照れくさそうに笑った。
「まだ長い距離はゆっくりですけどね」
『ああ。焦る必要はない。医師の指示どおりに、少しずつ戻していけばいい』
「はい!」
凛は、改めて紗奈の姿を見た。
以前は松葉杖に体重を預け、移動するだけでも時間がかかっていた。
それが今は、こうして廊下を歩いている。
小さな変化に見えるかもしれない。
けれど、本人にとっては大きな一歩だ。
『部活動はどうしている?』
「まだ見学だけです。先生にも、復帰は焦っちゃ駄目って言われてるので」
『うむ。それがいい』
凛は頷いた。
『練習に戻りたい気持ちは分かるが、再び悪くしてしまっては元も子もない』
「……はい」
紗奈は、一瞬だけ体育館の方へ目を向けた。
その表情には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
凛は、何も言わずに待った。
やがて紗奈が、もう一度笑う。
「でも、松葉杖なしで歩けるだけでも、すっごく嬉しいです!」
『……ああ!』
凛も、力強く頷いた。
『それは、喜んでいいことだ!』
「はい!」
紗奈は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、凛も自然と頬を緩めた。
『ところで、修学旅行はどうだ? 長時間の移動もあるが』
「あ、先生たちにも相談してます! 歩く距離とか、休むタイミングとか」
『そうか。無理にみんなと同じ速さで歩こうとしなくていいからな』
「分かってます!」
紗奈は、少し胸を張った。
「ちゃんと楽しんで帰ってきます!」
『うむ! それが一番だ!』
凛が笑うと、紗奈も笑った。
「じゃあ先生、私、体育館行ってきます!」
『ああ。気をつけてな!』
「はい!」
紗奈は、ゆっくりと歩き出した。
凛は、その背中をしばらく見送った。
松葉杖のない姿。
自分の足で、一歩ずつ進んでいく姿。
それだけのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
『……よかったな、紗奈』
小さく呟く。
その声は、廊下に響く蝉の声へ溶けていった。
◇
午後。
引率教員の最終打ち合わせが行われた。
生徒の名簿。
緊急連絡先。
現地での集合場所。
航空便の遅延や欠航が発生した場合の対応。
そして、体調面で配慮が必要な生徒への支援。
確認することは、思っていた以上に多かった。
「……では、当日の点呼は各クラスの担任が担当してください」
白石学年主任が、資料をめくりながら説明する。
「体調不良の生徒が出た場合は、すぐに学年の引率責任者へ報告してください。現地では無理に予定を続けさせないこと」
凛も、手元の資料へ書き込んだ。
朝の暑さを思い出す。
沖縄では、さらに強い日差しの中を歩くこともあるだろう。
楽しい旅行だからこそ、無理をしてしまう生徒もいるかもしれない。
『……白石先生』
「はい、山本先生」
『班別研修中の体調不良についても、各班から連絡が入った際の対応を、改めて確認しておきたいのですが』
「ええ、もちろんです」
白石は、資料の一枚を指した。
「こちらに連絡の流れをまとめています。生徒の現在地を確認して、必要なら担当教員が向かう形です」
『ありがとうございます!』
凛は、しっかりと頷いた。
生徒たちにとっては、楽しみにしていた修学旅行。
しかし、教師にとっては、その楽しさを守るための仕事がある。
どちらも大切だった。
◇
打ち合わせが終わる頃には、窓の外の陽射しが少しだけ傾き始めていた。
凛は、机の上に広げた旅程表を片づけた。
八月五日。
もう、明後日だ。
沖縄。
生徒たちが、あれほど楽しみにしている場所。
もちろん、凛自身も楽しみだった。
二〇〇〇年の自分なら、こんな形で沖縄へ行くことになるとは想像もしなかっただろう。
ましてや、二十六年後の高校で教師を務め、その生徒たちを引率するなど。
『……ふふっ』
思わず、小さく笑った。
何が起こるか分からないものだ。
けれど。
今の自分には、生徒たちと過ごしてきた時間がある。
失敗したことも。
悩んだことも。
嬉しかったことも。
そのすべてが、ここで経験したものだった。
凛は、旅程表をもう一度手に取った。
聡美が見せてくれた、山本リンの笑顔を思い出す。
あの女性も、きっと楽しみにしていただろう。
初めて担任を受け持った生徒たちとの修学旅行を。
だが、今ここにいるのは自分だ。
だからこそ。
自分も、この三日間を大切にしたい。
『……よし!』
凛は、資料を鞄へしまった。
『準備は万全だな!』
窓の外では、まだ蝉が鳴いている。
暑い。
本当に、暑い夏だった。
それでも。
明後日から始まる三日間を思うと、凛の胸には小さな期待が膨らんでいた。




