第八十四話「借りものの温もり」
二〇〇〇年七月九日、日曜日。
「……っ、んん」
目が覚めた瞬間、喉の奥に違和感があった。
唾を飲み込む。
「……痛っ」
ひりつくような痛み。
リンは布団の中で顔をしかめた。
昨日は、朝から晩まで東京国際フォーラムにいた。
真理と美奈が、全国高校生ファッションコンテストに出場した日。
あの二人がランウェイを見つめていた顔も、美奈がドレスを着て歩く姿も、まだはっきり覚えている。
そして、大会が終わったあとの帰り道。
涙を流しながら、二人がそれぞれの進路を話してくれたこと。
「……へへっ」
思わず笑みがこぼれた。
嬉しかったなぁ。
二人とも、自分のやりたいことを見つけたんだ。
この先どうなるかなんて、まだ分からない。
でも、服を作ることをもっと勉強したい。
そう言ってくれたのが、あたしは本当に嬉しかった。
「……さてと」
リンは、ゆっくり身体を起こした。
その途端、少しだけ頭が重く感じられた。
「……あれ?」
軽く咳払いする。
やっぱり喉が痛い。
昨日、はしゃぎすぎたのかな。
それとも、疲れが出たんだろうか。
時計を見る。
午前九時を少し過ぎていた。
「……あ」
そこで、今日の約束を思い出した。
健吾と昼食を取る予定だった。
「…………」
リンは、しばらく時計を見つめた。
高橋健吾。
山元凛の恋人。
自分にとっては、まだどう接すればいいのか分からない相手だった。
以前、健吾から別れを切り出された。
会おうとしても断られる。
何を考えているのか分からない。
そんな関係を、いつまでも続けることはできない。
彼は、そう言っていた。
その言葉を聞いたとき、リンは慌てた。
自分が勝手に、凛と健吾の関係を終わらせてしまう。
それだけは、避けたかった。
だから、引き止めた。
別れたくないと伝えた。
そして、ちゃんと話せるようになりたいと約束した。
「……約束、したもんなぁ」
リンは、布団の上で膝を抱えた。
今日の食事も、その約束の一つだった。
もちろん、体調が悪いなら断ればいい。
健吾だって、きっと怒らない。
それは分かっている。
でも。
また断るのか。
そう思われるのが、嫌だった。
今度こそ、きちんと向き合う。
そう決めたばかりなのだから。
「……喉が痛いだけだし」
リンは、ゆっくり立ち上がった。
「とりあえず、準備しよっか」
◇
正午少し前。
待ち合わせ場所の駅前には、休日を楽しむ人々が行き交っていた。
日差しは強く、歩道にはくっきりと影が落ちている。
リンは、少しだけ喉を押さえた。
家を出たときより、痛みが増している気がする。
けれど、歩けないほどではなかった。
「……凛!」
声のする方を見る。
健吾が、少し離れたところから手を振っていた。
襟付きの半袖シャツに、落ち着いた色のズボン。
こちらに気づくと、ほっとしたように笑った。
「久しぶり」
『……うん。久しぶり』
リンも、小さく笑った。
「今日は来てくれてありがとう」
『……約束したからね』
健吾が、少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに頷いた。
「……そっか」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
リンは、何か話さなければと思った。
以前なら、ここで適当な理由をつけて話題を逸らしていたかもしれない。
けれど今日は、自分から話すと決めていた。
『……今日、どこ行くんだっけ?』
「ああ。駅の向こうにある洋食屋」
『洋食屋?』
「うん。前に話したところ」
『……ああ、そっか』
リンは、曖昧に頷いた。
正直、覚えていない。
それが健吾と本来の凛の間で交わされた話なら、あたしが知るはずもない。
けれど、健吾は特に気にした様子もなかった。
「行こうか」
『うん』
二人は、並んで歩き出した。
◇
店内は、落ち着いた雰囲気だった。
白いテーブルクロス。
壁に飾られた小さな絵。
窓際には、季節の花が置かれている。
健吾が席を引くと、リンは軽く頭を下げた。
『ありがと』
「どういたしまして」
向かい合って座る。
メニューを開きながら、健吾が尋ねた。
「何にする?」
『……うーん』
リンは、少し考えた。
ハンバーグ。
オムライス。
チキンソテー。
どれも美味しそうだった。
普段なら、すぐに決めていただろう。
けれど今日は、あまり食欲が湧かない。
『……オムライスにしようかな』
「じゃあ、俺はハンバーグにするよ」
注文を終えると、健吾は水を一口飲んだ。
「……学校、忙しい?」
『……うん。まあ、それなりに』
「昨日も大会だったんだろ?」
『……あっ、そうそう!』
リンの表情が、ぱっと明るくなった。
『聞いてよ、健吾!』
「……ん?」
『昨日ね、うちの生徒が全国大会に出たんだよ!』
「へえ! 何の大会?」
『ファッションコンテスト!』
健吾が目を丸くした。
「ファッション?」
『そう! 生徒が二人で服を作って、それを全国の高校生たちと競う大会だったんだけどさ!』
話し始めると、自然と言葉が出てきた。
家庭科室で何度も生地を広げていたこと。
真理がデザインを考え、美奈が縫製に取り組んだこと。
そして、全国大会のランウェイで、美奈が楽しそうに歩いていたこと。
『もうね、すっごく綺麗だったんだよ!』
リンは、思わず身を乗り出した。
『光の当たり方で色が変わる生地でさ! 青緑だったのが、歩くと紫っぽく見えるの!』
「へえ……すごいな」
『でしょ!?』
リンは、嬉しそうに笑った。
健吾は、その姿をじっと見ていた。
『……あれ?』
リンが首を傾げる。
『どうしたの?』
「……いや」
健吾は、少し照れくさそうに笑った。
「久しぶりだなって思って」
『……何が?』
「凛が、そんなに楽しそうに話すの」
『…………』
リンの笑顔が、少しだけ止まった。
健吾は、慌てて続ける。
「あ、変な意味じゃないよ」
『……うん』
「最近、会ってもどこか遠慮してる感じだったからさ」
健吾は、静かに笑った。
「今日は、なんか嬉しい」
『…………』
リンは、グラスへ視線を落とした。
嬉しい。
その言葉が、胸に残った。
あたしが話したのは、あたしが経験したことだ。
真理と美奈のこと。
あの二人を見て、あたし自身が感じた喜び。
でも、健吾が見ているのは、山元凛だ。
久しぶりに、自分へ心を開いてくれた恋人。
きっと、そう思っている。
『……そっか』
リンは、小さく笑った。
『……それなら、よかった』
健吾も、笑った。
◇
料理が運ばれてきた頃には、リンの喉の痛みはさらに強くなっていた。
スプーンでオムライスを一口運ぶ。
美味しい。
はずだった。
けれど、飲み込むと喉がひりついた。
「……っ」
思わず、顔をしかめる。
「凛?」
『……ん?』
「どうした?」
『……ううん。なんでもない』
リンは、慌てて笑った。
水を一口飲む。
けれど、喉の奥の違和感は消えなかった。
それどころか、少し寒い。
店内は、冷房が効いている。
ほかの客は涼しそうに食事をしているのに、自分だけが妙に寒かった。
『……あれ』
小さく呟く。
指先が、少し冷たい。
頭も、さっきより重い。
健吾が、顔を覗き込んだ。
「……凛、顔色悪くない?」
『……そうかな』
「……もしかして、体調悪い?」
『……ちょっと、喉が痛いだけだよ』
「朝から?」
『……うん』
健吾が、少し眉を寄せた。
「……言ってくれればよかったのに」
『……でも、約束してたし』
「約束は、またできるだろ?」
『…………』
リンは、返事に困った。
健吾は、しばらくリンの顔を見ていた。
そして、静かに言った。
「……今日は帰ろう」
『……え?』
「無理しなくていいよ」
健吾は、優しく笑った。
「また今度、元気なときに会えばいいんだから」
『…………』
リンは、俯いた。
また今度。
その言葉が、思っていたよりも温かく聞こえた。
『……ごめん』
「謝らなくていいって」
健吾は、軽く首を振った。
「体調悪いなら、ちゃんと言ってほしい」
『……うん』
リンは、小さく頷いた。
◇
店を出ると、強い日差しが照りつけていた。
七月の昼。
歩道からは、むっとするような熱気が上がっている。
なのに、リンは寒かった。
『……ん』
思わず、両腕をさする。
健吾が、その様子に気づいた。
「……寒い?」
『……ちょっと』
「外、こんなに暑いのに?」
『……うん』
健吾は、心配そうに顔を覗き込んだ。
「……やっぱり熱あるんじゃないか?」
『……そうかも』
リンは、弱々しく笑った。
歩くたびに、頭が重くなる。
視界の端が、少しぼやけていた。
駅まで、あと少し。
それだけ考えて、足を進める。
「……凛」
『……ん?』
「無理しないで。ゆっくり歩こう」
『……うん』
健吾は、リンの歩幅に合わせた。
普段なら何でもない距離なのに。
今日は、妙に長く感じられる。
車の音。
人々の話し声。
遠くで鳴る踏切の音。
それらが、少しずつ遠ざかっていくようだった。
『……あれ……』
リンは、小さく呟いた。
足元が、ふわりと浮いたように感じた。
次の瞬間。
視界が、ぐらりと傾いた。
「……っ!」
膝の力が抜ける。
身体が、横へ倒れかけた。
「凛っ!」
健吾の声が響いた。
その直後。
強い腕が、身体を支えた。
◇
「……凛! 大丈夫か!?」
『……っ、あ……』
リンは、うまく返事ができなかった。
健吾が、肩と背中を支えている。
倒れかけた身体を、しっかりと受け止めてくれていた。
「……ちょっと、顔見せて」
健吾が、心配そうに覗き込む。
額へ手を当てる。
「……熱い」
『……え……?』
「すごい熱じゃないか」
健吾の表情が、険しくなる。
「こんな状態で、よく歩いてたな……」
『……ごめん……』
「……だから、謝らなくていいって」
健吾は、リンを支えたまま周囲を見渡した。
近くの建物の軒下に、少し日陰がある。
「……こっち、行こう」
『……うん』
リンは、健吾の腕を借りて歩こうとした。
けれど、また足元がふらついた。
「……っ」
「……危ない!」
健吾が、もう一度身体を引き寄せる。
そして、そのまま。
リンを、優しく抱きしめた。
◇
「……大丈夫。ゆっくりでいいから」
耳元で、健吾の声がした。
『…………』
リンは、何も言えなかった。
背中に回された腕。
肩を支える手。
すぐ近くで聞こえる、健吾の声。
温かかった。
熱で寒気がしているせいかもしれない。
倒れそうになった身体を受け止めてもらったからかもしれない。
ただ、安心した。
それが、少し不思議だった。
以前、健吾とキスをした。
あのときは、何も分からなかった。
嬉しいとも。
嫌だとも。
ただ、凛と健吾の関係を壊してはいけない。
その思いばかりが、頭にあった。
けれど、今は。
『…………』
リンは、健吾のシャツを見つめた。
近い。
思っていたよりも、ずっと近い。
それなのに、すぐに離れようとは思わなかった。
健吾が、もう一度声をかける。
「……凛?」
『……うん』
「立てそう?」
『……たぶん』
「……分かった。無理しないで」
健吾の腕が、少しだけ緩む。
リンは、ゆっくりと身体を起こした。
けれど。
離れたあとも、背中に残った温かさが消えなかった。
それが、妙に気になった。
あの人が抱きしめたのは、山元凛だ。
そう思っている相手だ。
それなのに。
あたしは、今。
少しだけ、安心してしまった。
そのことが、なぜか胸に引っかかった。
◇
健吾は、リンを日陰のベンチへ座らせた。
「……ここで待ってて。飲み物買ってくる」
『……うん』
少しして、冷たいスポーツドリンクを持って戻ってきた。
「飲めそう?」
『……うん。ありがと』
リンは、ゆっくりと口をつけた。
冷たい液体が、痛む喉を通っていく。
「……少しは楽?」
『……ちょっと』
健吾が、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
それから、真剣な顔で続ける。
「凛、今日は一人で帰さないから」
『……え?』
「こんな状態で電車なんか乗せられないよ」
『……でも』
「タクシーで送る」
『…………』
リンは、思わず健吾を見た。
「嫌?」
『……そうじゃないけど』
「じゃあ、決まり」
健吾は、静かに笑った。
「家に着いたら、ちゃんと休んで。熱も測って」
『……うん』
「ひどかったら、病院も行こう」
『……分かった』
リンは、小さく頷いた。
健吾は、それ以上何も言わなかった。
ただ、隣で一緒に座っていた。
その沈黙が、不思議と嫌ではなかった。
◇
タクシーの中では、ほとんど会話をしなかった。
リンは、窓の外を眺めていた。
流れていく街並み。
信号待ちの車。
歩道を歩く人々。
何もかもが、少し遠く感じられる。
「……凛」
健吾の声がした。
『……ん?』
「眠かったら、寝てていいよ」
『……うん』
リンは、ゆっくりと目を閉じた。
眠気はあった。
身体もだるい。
けれど、頭の片隅には、先ほどの出来事が残っていた。
倒れかけた自分を受け止めてくれた腕。
心配そうな声。
そして。
あの温かさ。
どうして、こんなに覚えているんだろう。
熱のせいだ。
きっと、そうだ。
リンは、そう考えながら目を閉じ続けた。
◇
自宅に着くと、健吾は玄関まで送ってくれた。
「……本当に大丈夫?」
『……うん。ありがと』
「熱、ちゃんと測ってね」
『……分かってる』
「何かあったら、すぐ連絡して」
『……うん』
リンは、少しだけ笑った。
『……今日は、ごめんね』
健吾が、困ったように笑う。
「……また謝ってる」
『……あはは』
「別に、今日会えたのは嬉しかったよ」
『…………』
リンは、顔を上げた。
健吾は、穏やかに笑っていた。
「学校の話も聞けたし」
少し照れくさそうに続ける。
「……久しぶりに、楽しかった」
『……そっか』
「うん」
健吾は、一度だけリンの顔を確かめた。
「……じゃあ、ちゃんと休んで」
『……うん』
そして、静かに手を振った。
リンも、小さく手を振り返す。
健吾の姿が見えなくなるまで、玄関先に立っていた。
◇
部屋へ戻ると、リンはすぐに体温計を取り出した。
脇に挟み、しばらく待つ。
やがて、電子音が鳴った。
「…………」
表示を見て、目を丸くする。
「……三十九度……?」
思わず、もう一度見直した。
間違いない。
「……うわぁ」
リンは、額へ手を当てた。
「……そりゃ、ふらつくわけだよ」
情けない声が漏れる。
とりあえず水を飲み、着替えて布団へ入った。
身体は、鉛のように重い。
喉も痛い。
頭もぼんやりしている。
健吾がいなかったら、どうなっていただろう。
駅まで歩けたかどうかも怪しい。
「……はあ」
リンは、天井を見上げた。
そのとき。
枕元に置いた携帯電話が、小さく鳴った。
メールだった。
差出人は、健吾。
《具合はどう? 何かあったら連絡して》
「…………」
リンは、しばらく画面を見つめた。
それから、ゆっくりと文字を打つ。
《ありがとう。今日はごめんね》
少し考えて、最後の言葉を消した。
《ありがとう。熱があるから、今日はちゃんと休むね》
送信する。
携帯電話を枕元へ置くと、リンはゆっくりと目を閉じた。
健吾は、優しかった。
それは、以前から分かっていたことだ。
自分を心配してくれた。
無理をするなと言ってくれた。
倒れそうになった身体を、受け止めてくれた。
それだけのこと。
特別なことなんて、何もない。
なのに。
「…………」
リンは、布団の中で少し寝返りを打った。
あのとき。
健吾の腕の中にいたとき。
安心した。
その感覚を、まだ覚えている。
それが、少し怖かった。
健吾は、凛の恋人だ。
自分の恋人ではない。
あの人が大切にしているのは、本来の山元凛。
あたしじゃない。
分かってる。
ちゃんと、分かってる。
それなのに。
「……なんでだろ」
小さく呟いた。
健吾の顔が、頭に浮かぶ。
心配そうに覗き込んでいた目。
安心したように笑った顔。
そして、背中に回された腕。
リンは、ぎゅっと目を閉じた。
違う。
きっと、熱のせいだ。
弱ってたから、安心しただけ。
そう思えばいい。
それで、説明はつくはずだった。
けれど。
胸の奥に残った違和感は、なかなか消えてくれなかった。
「……ほんと、困るなぁ」
リンは、布団を少し引き上げた。
自分が何に困っているのか。
その答えを、今はまだ知りたくなかった。




