第八十三話「知らない私の笑顔」
七月の日曜日。
窓の外では、朝から蝉が鳴いていた。
山本リンの身体で迎える、二〇二六年の夏。
凛は、洗濯物を干し終えると、冷たい麦茶を一杯飲んだ。
美月のストーカー事件が解決してから、しばらくが経っていた。
あれ以来、不審な人物が現れたという話はない。
美月は以前と変わらず学校へ通い、配信活動も続けている。両親とも話し合い、以前よりも連絡を取り合うようになったらしい。
凛も、時折その様子を確かめてはいたが、今のところ心配なことは起きていなかった。
ようやく、穏やかな日常が戻ってきた。
もっとも、学校には学校で、毎日のように別の出来事が起こる。
授業。
部活動。
進路相談。
生徒同士の小さな揉め事。
気づけば一週間が終わっていることも珍しくなかった。
「……ふう」
凛は、空になったグラスを流しへ置いた。
今日は休日だ。
女子バレー部の練習もなく、学校へ行く予定もない。
久しぶりに、ゆっくりできる一日だった。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、メッセージが表示されている。
『今日のお昼、忘れてないよね?』
差出人は、聡美。
凛は、少しだけ口元を緩めた。
『ああ。覚えている』
返信すると、すぐに新しいメッセージが届いた。
『よかった! 最近忙しそうだったからさ』
『十二時に駅前だったな』
『そうそう! 遅刻禁止ね!』
『承知している』
送信してから、凛は画面を見つめた。
すると、またメッセージが届く。
『相変わらず返事かたいなー笑』
「…………」
凛は、小さく息を吐いた。
「……これでも、随分柔らかくなったつもりなのだがな」
◇
正午前。
駅前の通りには、休日を楽しむ人々が行き交っていた。
凛は、待ち合わせ場所へ向かいながら、周囲を見渡す。
半袖のシャツ。
涼しげなワンピース。
日傘を差した女性たち。
真夏の陽射しを避けるように、人々が日陰を選んで歩いている。
「凛ーっ!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、聡美が手を振っていた。
「こっちこっち!」
『待たせたか?』
「全然! 私も今来たところ!」
聡美は、凛の服装を見て笑った。
「おっ、今日はちょっと雰囲気違うじゃん」
『……そうか?』
「うん。前よりちゃんと休日って感じ!」
『それは褒めているのか?』
「もちろん!」
聡美が、楽しそうに笑った。
「じゃ、行こっか! お店、予約しといたから!」
『ああ』
二人は、並んで歩き出した。
◇
案内されたのは、駅から少し歩いたところにある小さな洋食店だった。
木目調のテーブル。
大きな窓。
落ち着いた音楽。
休日の昼らしい、ゆったりとした空気が流れている。
「ここ、前から来てみたかったんだよねー!」
席へ着くなり、聡美がメニューを広げた。
「凛、何食べる?」
『……そうだな』
凛もメニューに目を落とす。
オムライス。
パスタ。
ハンバーグ。
サラダの付いたランチセット。
『私は、ハンバーグにしよう』
「おっ、いいね! 私はオムライスかなー」
注文を終えると、聡美はグラスの水を一口飲んだ。
「で、最近どう?」
『最近?』
「学校だよ、学校! なんかいろいろあったんでしょ?」
『ああ……』
凛は、少し考えた。
『確かに、慌ただしい日が続いていたな』
「美月ちゃんのことも?」
『ああ。だが、あの件は落ち着いている』
聡美が、ほっとしたように息を吐く。
「そっか。よかった」
『本人も、今は以前と変わらず過ごしている。配信も続けているようだ』
「へえ! やめなかったんだ?」
『ああ。本人が続けたいと望んだからな』
凛は、グラスを手に取った。
『危険を避けることは大切だ。しかし、それだけを理由に本人の望みを奪うのは違うのだろう』
聡美が、少し驚いた顔をした。
「……へえ」
『なんだ?』
「いや、なんかさ」
聡美は、にやりと笑った。
「凛、変わったよね」
『……そうか?』
「うん。前だったら、もっときっぱり禁止しそうだったもん」
『…………』
凛は、すぐには答えなかった。
確かに。
以前の自分なら、どうしただろう。
生徒の安全を第一に考え、危険につながる行動を制限する。
それが教師として正しい判断だと、疑わなかったかもしれない。
けれど、今は違う。
美月と向き合う中で、生徒自身の意思を尊重することの大切さを学んだ。
『……そうかもしれんな』
凛が答えると、聡美は満足そうに笑った。
「でしょ!」
そこから、話題は学校のことへ移っていった。
女子バレー部の練習。
生徒たちの進路。
授業中に起きた、ちょっとした出来事。
聡美は相槌を打ったり、笑ったり、ときには真面目な顔で話を聞いた。
気づけば、注文した料理が運ばれてきていた。
◇
「いただきまーす!」
聡美が、嬉しそうにスプーンを手に取る。
凛も、ナイフとフォークを持った。
『いただきます』
しばらくは、食事を楽しみながら他愛ない話が続いた。
新しくできた店のこと。
最近見たテレビ番組。
夏休みに何をするか。
聡美は、次から次へと話題を見つけてくる。
凛は、その話を聞きながら、ときどき笑った。
こうして聡美と食事をすることにも、随分慣れた。
最初は、どう接すればいいのか分からなかった。
相手は山本リンの友人。
自分にとっては、何も知らない女性だった。
けれど今は、気兼ねなく話せる相手になっている。
そのことを、凛は不思議に思うことがあった。
すると。
「……ねえ、凛」
聡美が、ふいに声の調子を変えた。
『ん?』
「凛ってさ、リンがどんな子だったか知ってる?」
『……ん?』
凛は、首を傾げた。
『りんが……りん?』
「だからさ!」
聡美が、思わず笑った。
「その身体の持ち主が、どんな子だったかってこと!」
『……ああ』
凛は、ようやく意味を理解した。
山本リン。
この身体の、本来の持ち主。
凛は、少し考え込んだ。
若い女性。
運動はあまり得意ではない。
合理的な考え方をする。
保健体育の教師。
知っていることを挙げようとすれば、いくつかは思い浮かぶ。
だが。
彼女が普段、どんなことを考えていたのか。
何を楽しみ、何を嫌い、どんなふうに笑っていたのか。
そう尋ねられると、何も出てこなかった。
『……そう言われれば、ほとんど何も知らないな』
聡美は、ゆっくりと頷いた。
「だよね」
『……どうして急に?』
「いや、なんとなく」
聡美は、少し笑った。
「最近の凛の話聞いてたらさ、ふと思ったんだよね」
そして、テーブルの上にスマートフォンを置いた。
「……ちょっと、これ見てみる?」
『……何だ?』
「リンの動画!」
聡美が、画面を操作し始めた。
◇
最初に映ったのは、薄暗い部屋だった。
画面の向こうには、テーブル。
その奥に、数人の若い女性たち。
誰かが、小さな声で笑っている。
『……これは?』
「大学のときの誕生日!」
聡美が笑った。
「リンに内緒で、みんなでサプライズしたんだよ!」
動画の中で、部屋の扉が開いた。
そして、一人の女性が入ってくる。
『……っ』
凛は、思わず息を呑んだ。
自分と同じ顔だった。
同じ髪。
同じ目。
同じ声。
けれど、そこにいるのは自分ではない。
「……え?」
画面の中のリンが、きょとんとした顔をしている。
次の瞬間。
『せーのっ! お誕生日おめでとーっ!!』
大きな声。
クラッカーの音。
色とりどりの紙片が、画面いっぱいに舞った。
「ええっ!? ちょっと待って!」
リンが、目を丸くする。
「なに!? えっ、なになに!?」
誰かがケーキを差し出した。
ろうそくの灯りが揺れている。
「うそ! えっ、あたしの!?」
リンは、両手で口元を押さえた。
そして。
「……やばっ!」
笑った。
目を細め、頬を緩ませ、嬉しそうに笑っていた。
「ちょっとー! 聞いてないんだけど!」
『サプライズだもん!』
「いや、そうだけど!」
リンは、笑いながら友人たちを見渡す。
「……ありがと!」
その声は、驚くほど柔らかかった。
凛は、画面を見つめていた。
自分と同じ顔。
けれど、自分がこんなふうに笑ったことは、あっただろうか。
聡美が、隣から顔を覗き込む。
「どう?」
『……驚いたな』
「でしょ?」
聡美は、嬉しそうに笑った。
「リン、サプライズとか全然気づかないんだよ!」
次の動画が再生される。
◇
大学の自習室らしい場所だった。
机の上には、開いた教科書とノート。
画面には、ペンを動かすリンの姿が映っている。
リンは、真剣な顔でノートへ何かを書いていた。
「……うーん」
小さく唸る。
「これ、どういうこと……?」
ページをめくり、もう一度ペンを走らせる。
その様子を、少し離れた位置からカメラが撮っていた。
やがて。
「…………」
リンの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……ねえ」
カメラに向かって、目を細めた。
「……撮ってる?」
画面の向こうから、笑い声がする。
『バレた?』
「バレるって!」
リンは、困ったように笑った。
「ちょっとー。今、真面目に勉強してんだから!」
『いいじゃん、記念記念!』
「何の記念よ!」
そう言いながらも、リンは笑っていた。
そして、カメラに向かって軽く手を振る。
「はいはい! もう終わり! 勉強の邪魔しない!」
動画は、そこで終わった。
聡美が笑う。
「これ、隠し撮りしてたのすぐバレちゃってさ!」
『……そうか』
「リンって、怒ってもあんな感じなんだよね」
凛は、何も言わなかった。
画面に映っていたリンの表情を、思い返していた。
怒っている。
確かに、怒っていた。
けれど、その目には嫌な色がなかった。
友人へ向ける、親しみのある表情。
凛は、静かに口を開いた。
『……優しい笑い方をする人なんだな』
聡美が、ふっと笑った。
「……うん」
それから、少し誇らしそうに言った。
「そうだよ」
◇
「もう一個あるよ!」
聡美が、別の動画を開いた。
今度は、カラオケルームだった。
派手な照明。
テーブルの上に並んだ飲み物。
画面の中央には、マイクを持つリンがいる。
「えー! 次あたし!?」
誰かが笑いながらマイクを渡したらしい。
「ちょっと待って! まだ曲決めてないって!」
『いつものやつでいいじゃん!』
「えーっ!?」
そう言いながらも、リンは楽しそうに笑っている。
やがて音楽が流れ始めた。
「あっ、これね!」
リンが、リズムに合わせて身体を揺らす。
歌い始めると、周囲から手拍子が起こった。
リンは笑いながら歌っている。
少し音を外し、自分で吹き出す。
友人たちの声に笑い、また歌い始める。
その姿には、先ほどの真剣な学生とも違う顔があった。
『…………』
凛は、画面から目を離せなかった。
同じ身体なのに。
こんなにも違う。
自分が使っている声。
自分が見慣れた手。
毎朝、鏡の中で見ている顔。
それらが、まったく別の表情を見せている。
「……楽しそうでしょ?」
聡美が尋ねた。
『……ああ』
凛は、静かに頷いた。
『本当に、楽しそうだ』
聡美は、少しだけ懐かしそうに笑った。
「リンってさ、普段は結構あっさりしてるんだよね」
『……ああ。それは聞いている』
「何考えてるのか、分かんないときもあるし」
聡美は、スマートフォンの画面を指でなぞった。
「でも、こういうときはすっごく楽しそうなの」
凛は、もう一度画面を見た。
そこには、マイクを持って笑うリンの姿が映っていた。
◇
「……ねえ、凛」
聡美が、スマートフォンを伏せた。
『ん?』
「リンが体育教師になった理由って、知ってる?」
『……いや』
凛は首を振った。
『詳しくは聞いていない』
「そっか」
聡美は、少し笑った。
「最初はね、私が誘ったんだよ」
『……聡美が?』
「うん!」
聡美は頷いた。
「大学入って、進路どうするかって話になったときさ。私、教師になりたいって思ってて」
『……ああ』
「で、リンにも一緒に目指さない? って言ったの」
聡美は、少し照れくさそうに笑った。
「まあ、結構強引だったけどね!」
『……そうなのか』
「そうそう。リン、最初は『えー、あたしが先生?』って顔してたし」
凛は、思わず口元を緩めた。
先ほどの動画に映っていたリンなら、確かにそんな顔をしそうだった。
「それにさ、リンって運動好きじゃないじゃん?」
『……そうだな』
「なのに保健体育の教師って、なかなかでしょ?」
聡美が笑う。
「私も、最初はちょっと面白がってたところあったかも」
そこで、少しだけ声を落とした。
「でもさ」
『……ん?』
「教員採用試験に合格したあと、リン、なんか変わったんだよね」
凛は、聡美を見る。
「それまでは、学校の話しても『大変そうだよねー』とか、そんな感じだったんだけど」
聡美は、懐かしそうに目を細めた。
「合格したら、やたらと話すようになったの」
『……何を?』
「高校教師になる自分のこと」
凛は、黙って続きを待った。
「どんな生徒がいるんだろう、とか。授業、ちゃんとできるかな、とか」
聡美は、少し笑った。
「あとね、運動嫌いな子でも楽しめる体育の授業って、どうすればいいんだろうって」
『…………』
「リン自身、運動苦手だったからさ。そういう子の気持ちは、結構分かるんだと思う」
凛は、ゆっくりと視線を落とした。
運動が苦手な生徒。
体育の時間を嫌がる生徒。
そうした生徒たちの姿が、頭に浮かんだ。
自分は、これまで何を教えてきただろう。
努力すること。
諦めないこと。
身体を動かすことの大切さ。
どれも、間違ってはいないはずだ。
けれど。
山本リンは、別のところから授業を考えていた。
運動が苦手な自分だからこそ、できること。
その可能性を、教師になる前から考えていたのだ。
「……ほんと、不思議だったなぁ」
聡美が呟いた。
『……何がだ?』
「私が誘ったのにさ」
聡美は、少し笑った。
「気づいたら、リンの方がずっと楽しみにしてたんだよね。先生になるの」
凛は、ゆっくりと頷いた。
『……そうか』
そして、もう一度スマートフォンへ目を向けた。
そこに映っていたのは、楽しそうに笑うリン。
何の迷いもなく、友人たちと過ごす一人の女性。
その女性が、高校教師になることを楽しみにしていた。
自分の知らないところで。
自分の知らない未来を、思い描いていた。
◇
しばらくの沈黙が流れた。
聡美は、水を一口飲んだ。
そして、ぽつりと言った。
「……ねえ、凛」
『ん?』
「私さ、今の凛と一緒にいるのも、普通に楽しいんだよ」
凛は、少し驚いた。
『……ああ』
「最初はさ、どう接すればいいか分かんなかったけど」
聡美は、少し笑った。
「今じゃ普通にランチ誘ってるし!」
『……そうだな』
「でもさ」
聡美の笑顔が、少しだけ静かになった。
「……たまに、リンに会いたくなるんだよね」
『…………』
凛は、何も言わなかった。
聡美は、慌てたように手を振った。
「あっ、違う違う! 別に凛が嫌とかじゃないからね!」
『……分かっている』
「ほんと?」
『ああ』
凛は、静かに頷いた。
『当然だろう』
聡美が、顔を上げる。
『お前にとっての友人は、元々あの子だったのだからな』
「…………」
『会いたくなるのは、当たり前だ』
聡美は、しばらく凛を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……ありがと」
『礼を言われることではない』
「……うん」
聡美は、もう一度スマートフォンを見た。
画面には、誕生日を祝われて笑うリンの姿が映っている。
「……なんかさ」
『ん?』
「ちょっと、不思議だよね」
『……何がだ?』
「同じ顔なのに、違うんだもん」
凛は、ゆっくりと頷いた。
『……ああ』
同じ顔。
同じ身体。
けれど、違う人間。
聡美は、少し考えてから続けた。
「でも、凛は凛で、ちゃんと私の友達になったんだよね」
凛は、目を見開いた。
「最初はリンの友達として会ってたけどさ」
聡美は、笑った。
「今は、凛に会いたいから誘ってるんだよ」
『…………』
凛は、しばらく言葉を失っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『……そうか』
その声は、いつもより少し柔らかかった。
『……ありがとう、聡美』
「えへへ。どういたしまして!」
◇
食事を終え、二人は店を出た。
午後の陽射しが、駅前の通りを明るく照らしている。
「いやー! 美味しかった!」
聡美が、大きく伸びをした。
『ああ。いい店だったな』
「でしょ? また来ようね!」
『そうだな』
駅へ向かって歩きながら、凛はふと口を開いた。
『……聡美』
「ん?」
『さっきの動画、私にも送ってくれないか』
聡美が、少し目を丸くした。
「……え?」
『もう少し、リンのことを知っておきたい』
聡美は、凛を見つめた。
それから、嬉しそうに笑った。
「……もちろん!」
スマートフォンを取り出す。
「あとでまとめて送るね! まだまだあるから!」
『……まだあるのか?』
「あるある! いっぱいあるよ!」
『……そうか』
「変な顔してるのとかもあるけど!」
『……それは本人に怒られるのではないか?』
「大丈夫大丈夫! リンなら笑って許してくれるって!」
聡美が、楽しそうに笑った。
凛も、つられて口元を緩めた。
◇
夕方。
自宅へ戻った凛は、ソファに腰を下ろしていた。
スマートフォンには、聡美から送られてきた動画がいくつも並んでいる。
その中から、最初の一つを再生した。
誕生日のサプライズ。
クラッカーの音。
友人たちの笑い声。
そして。
「……ありがと!」
画面の中のリンが、満面の笑みを浮かべた。
凛は、その顔をじっと見つめた。
自分と同じ顔。
けれど、自分の知らない笑顔。
凛は、ゆっくりと立ち上がった。
洗面所へ向かう。
鏡の前に立つ。
そこには、見慣れた顔が映っていた。
山本リンの顔。
けれど、その表情は、画面の中のリンとは違っていた。
背筋を伸ばし、少しだけ眉を寄せた自分。
鏡に映る顔と、スマートフォンの中の顔。
同じはずなのに、まるで違って見える。
『……不思議なものだな』
凛は、小さく呟いた。
そして、リビングへ戻った。
ソファに腰を下ろし、もう一度動画を再生する。
大学の自習室で、少し困ったように笑うリン。
カラオケで、楽しそうに歌うリン。
どれも、自分の知らない姿だった。
これまで凛は、山本リンとして学校へ通い、授業をし、生徒たちに向き合ってきた。
彼女の身体を借りている。
彼女の生活を代わりに送っている。
そう考えていた。
だが。
この身体の持ち主にも、友人がいた。
思い出があった。
教師として思い描いた未来があった。
そして今。
自分は、その未来の途中にいる。
『…………』
凛は、スマートフォンの画面を見つめた。
あの笑顔の持ち主は、どんな教師になりたかったのだろう。
運動が苦手な生徒にも、体育を楽しんでもらいたい。
そう考えていたという、山本リン。
自分とは違うやり方で、生徒たちに向き合おうとしていた女性。
『……お前は』
凛は、小さく口を開いた。
『……どんな先生になりたかったんだ?』
答えは、返ってこない。
画面の中では、リンが友人たちと笑っている。
凛は、その姿を静かに見つめ続けた。
いつか元に戻る。
その願いが消えたわけではない。
けれど、それまでの毎日を、ただ過ぎ去るのを待つ時間にしていいのだろうか。
山本リンが思い描いた未来の中で、今、自分は生きている。
ならば。
その時間を、ただの借りものとして扱いたくはなかった。
凛は、ゆっくりとスマートフォンを伏せた。
『……私も、ちゃんと生きなければな』
窓の外では、夕暮れの街が静かに色を変え始めていた。




