第九話「戻れない休日」
二〇〇〇年(平成十二年)四月十五日、土曜日。
目を覚ましたリンは、しばらく天井を見つめていた。
『…………』
見慣れない部屋。
見慣れない家具。
枕元に置かれた、見慣れない携帯電話。
そして、何度見ても自分のものではない顔。
『……やっぱり、戻ってないかぁ』
リンは布団の中で寝返りを打った。
山元凛として目覚めてから、もう一週間以上が経っている。
最初は夢だと思った。
次は、何かの間違いだと思った。
けれど、学校へ行き、生徒たちと話し、空手部の副顧問として叱られ、知らない恋人とまで会ってしまった。
さすがに、夢だと言い張るのも難しい。
(……あたし、何でここにいるんだろ)
天井へ向かって片手を伸ばす。
自分のものより、少し逞しい腕。
昨日までの筋肉痛すら、ほとんど残っていない。
運動が得意ではなかったリンにとって、この身体の回復力は驚異的だった。
(……こんな身体、欲しい人はいっぱいいるんだろうけどさ)
リンは手を下ろした。
『……あたしは、あたしの身体がいいよ』
小さく呟いて、目を閉じる。
しかし、いくら待っても何も変わらなかった。
◇
「凛、今日どうするの?」
朝食の席で、美咲が尋ねた。
『……え?』
「今日。空手の練習とかないの?」
『……あ、うん。今日は、ちょっと』
「ちょっと?」
美咲が首を傾げる。
リンは箸を置いた。
『……行きたいところがあって』
「どこ?」
『……神社』
「神社?」
美咲は目を丸くした。
「凛が?」
『……そんなに変?』
「変っていうか……あんた、休みの日は空手ばっかりだったじゃない」
『……そうなんだ』
「そうなんだって……」
美咲は呆れたように息を吐いた。
「最近ほんと、どうしちゃったの?」
『……いや、別に』
「健吾くんとも何かあった?」
リンの箸が止まった。
『……何で?』
「この前会ったんでしょ?」
『……うん』
「昨日、健吾くんから電話があってさ。凛、仕事で疲れてるみたいだから、様子見てやってって」
『…………』
リンは俯いた。
あの人は、まだ自分のことを心配している。
自分ではない誰かを。
「喧嘩したわけじゃないんでしょ?」
『……うん。してない』
「だったらいいけど」
美咲はリンの顔を覗き込んだ。
「……本当に大丈夫?」
『……大丈夫だよ』
答えた瞬間、リンは少しだけ後悔した。
何が大丈夫なのだろう。
自分でも分からないのに。
「……そっか」
美咲はそれ以上、聞かなかった。
しかし、その視線は食事を終えるまで、何度かリンへ向けられていた。
◇
神社へ向かう道は、リンの記憶と少し違っていた。
以前歩いたときにはなかった店がある。
反対に、見覚えのある建物が、まだ新しい姿で立っている。
道端に並ぶ自動販売機。
公衆電話。
すれ違う人々の服装。
そのどれもが、リンに二〇〇〇年という時代を突きつけてくる。
(……二十六年前なんだよね)
自分が生まれるよりも前の世界。
教科書やテレビでしか知らなかった時代。
それなのに、今はこの場所で働き、食事をし、眠っている。
『……あ』
石段の向こうに、見覚えのある鳥居が見えた。
リンは立ち止まった。
(……ここだ)
四月六日。
担任としての初出勤を翌日に控え、不安を抱えたまま訪れた神社。
そこで願い事をした翌朝、自分は山元凛になっていた。
あの出来事と、この場所に関係があるのかもしれない。
根拠はない。
それでも、ほかに思い当たる場所がなかった。
リンは石段を上り始めた。
◇
境内には、数人の参拝客がいた。
小さな子どもを連れた夫婦。
散歩の途中らしい年配の男性。
誰もが当たり前の休日を過ごしている。
リンは、その光景を少し羨ましく思った。
賽銭箱の前に立つ。
財布から小銭を取り出すと、そっと賽銭箱へ入れた。
鈴を鳴らす。
二礼、二拍手。
目を閉じた。
(……お願いします)
心の中で、強く願う。
(あたしを、元の時代に戻してください)
少しだけ、力を込めて手を合わせた。
(……ちゃんと教師になります。仕事も頑張ります。だから……)
そこで、言葉が途切れた。
自分は何を約束しようとしているのだろう。
もともと教師になるつもりだった。
そのために勉強し、採用試験を受け、ようやく働けることになったのだ。
帰りたいと願うために、改めて約束する必要などないはずなのに。
(……とにかく、お願いします)
リンはゆっくり目を開けた。
境内の景色は、何も変わっていなかった。
鳥居。
石畳。
木々の間から差し込む春の日差し。
『…………』
リンは自分の手を見た。
指を開き、握り直す。
何も起こらない。
『……あれ?』
辺りを見回した。
参拝客が一人、石段を下りていく。
鳥の鳴き声が聞こえた。
それだけだった。
(……もしかして、夜じゃないと駄目なのかな)
四月六日に来たのは、仕事帰りだった。
それとも、同じ願い事を言わなければならないのだろうか。
リンは、あの日の言葉を思い出した。
『……一人前の教師になれたら、また来ます』
小さく呟いた。
しかし、それでも何も起こらなかった。
『……そっか』
リンは息を吐いた。
少し離れた場所へ移動し、境内の端にあるベンチへ腰を下ろす。
目の前では、子どもが両親に手を引かれて歩いていた。
「ねえ、お願い事、叶うかな?」
「どうだろうねえ」
「叶うよ! 絶対!」
元気な声が聞こえた。
リンは、思わず苦笑した。
(……あたしも、そう思いたかったな)
しばらく座っていたが、身体にも周囲にも変化はなかった。
そもそも、ここが原因だという確証すらない。
ただ、思い当たる場所がここしかなかった。
それだけだ。
『……一人前の教師、かぁ』
先ほど口にした言葉を、もう一度呟く。
元の時代では、一度も教壇に立たないまま初出勤の日を迎えることができなかった。
けれど、今は違う。
三年二組の担任になった。
空手部の副顧問にもなった。
昨日までの数日間で、何度も失敗した。
小野寺に注意され、荒川に怒鳴られ、生徒への接し方も分からなくなった。
それでも。
怪我をした生徒が、ありがとうと言ってくれた。
相原菜月が、自分のことを好きだと言ってくれた。
その言葉が嬉しかったのは、本当だった。
(……でも)
リンは膝の上で手を握った。
(……だからって、帰りたくないわけじゃないんだよ)
家族に会いたい。
自分の部屋で寝たい。
友達と話したい。
何より、自分の名前で教師になりたかった。
リンは立ち上がった。
『……また、来るね』
鳥居へ向かって、小さく言った。
今度こそ、本当に願いが叶うかどうかは分からない。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
石段を下りていく。
境内を振り返っても、そこには静かな春の景色が広がっているだけだった。
◇
二〇二六年(令和八年)四月十一日、土曜日。
「悠斗、ちょっと買い物お願いできる?」
山本家のリビングに、真由美の声が響いた。
「えー、何買うの?」
「牛乳と卵。それから洗剤もお願い」
「……結構あるじゃん」
「重いものばっかりだから、お願いしたいのよ」
悠斗はソファに寝転がったまま、面倒そうに返事をした。
「……分かったよ」
その会話を、凛はダイニングから聞いていた。
今日は学校が休みだった。
初めての一週間をどうにか終えたものの、家でじっとしていると余計なことばかり考えてしまう。
二十六年前の家族。
帰る方法。
そして、これから自分がどうすればいいのか。
『……悠斗』
凛は声をかけた。
「……何?」
『私も、一緒に行っていいか?』
悠斗が顔を上げた。
「……買い物?」
『ああ』
「……何で?」
『少し、外を歩きたくてな』
「……別にいいけど」
悠斗は身体を起こした。
「姉ちゃんが買い物ついてくるとか、珍し」
『……そうなのか?』
「そうなのかって、自分のことじゃん」
『……ははは!』
「……またそれ」
悠斗は呆れた顔で立ち上がった。
真由美は二人を見て、少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、二人でお願いね」
『はい!』
「……返事まで変なんだよなあ」
悠斗の呟きを聞かなかったことにして、凛は玄関へ向かった。
◇
駅前へ続く通りは、休日らしく人で賑わっていた。
家族連れ。
買い物袋を下げた女性。
イヤホンを着けて歩く若者。
凛は周囲を見ながら歩いていた。
二〇〇〇年とは違う建物や店が並んでいる。
街並みそのものも変わっているが、そこを歩く人々の様子にも、どこか違和感があった。
『……悠斗』
「ん?」
『今日は、何か病気でも流行っているのか?』
「……は?」
『いや、随分マスクをしている人が多いと思ってな』
悠斗は辺りを見回した。
確かに、マスクを着けた人が何人も歩いている。
着けていない人もいるが、凛が知っている光景より、その割合は高く感じられた。
「……別に、今は普通じゃない?」
『普通なのか?』
「花粉症の人もいるだろうし。まだ気になる人もいるんじゃない?」
『……まだ?』
悠斗は凛を見た。
「……コロナの話だけど」
『……コロナ?』
「……え?」
『……何だ、それは』
悠斗が足を止めた。
「……姉ちゃん、本気で言ってる?」
『……あ、いや。名前は聞いたことがあるような……』
凛は慌てて言葉を濁した。
悠斗は眉を寄せる。
「新型コロナ。世界中で流行ったやつ」
『……世界中で?』
「うん。俺が小学生のころとか、学校も休みになったし」
『学校が休みになったのか!?』
「……なったよ。オンライン授業とかもあったし」
凛は絶句した。
世界中で病気が流行り、学校まで休みになった。
しかも、それを目の前の弟は、昔の出来事として当たり前に話している。
『……そんな大変なことがあったのか』
「……あったけど」
『……それで、皆がマスクを?』
「まあ、そういう時期もあったしね。今は着けるかどうか自由だけど」
『……そうなのか』
凛は、すれ違う人々へ目を向けた。
マスクをしている人。
していない人。
誰もが、それぞれの休日を過ごしている。
しかし、この人たちは皆、自分の知らない出来事を経験してきたのだ。
凛は、改めて二十六年という時間の長さを感じた。
「……姉ちゃん」
『……ん?』
「何でそんな初めて聞いたみたいな反応なの?」
『……いや、改めて考えると、大変だったんだなと思って』
「……まあ、大変だったけどさ」
悠斗は納得していない様子だった。
凛はそれ以上、何も言わなかった。
◇
最初に立ち寄ったのは、駅前のコンビニだった。
悠斗が飲み物を買いたいと言ったためである。
凛は店内を見回した。
見慣れない商品や色鮮やかな広告が並んでいる。
しかし、二十六年前にもコンビニはあった。
すべてが未知の世界というわけではない。
『……随分、品揃えが増えたな』
「……そう?」
悠斗は適当に返事をしながら飲み物を選んでいた。
凛も棚を眺める。
やがて、悠斗がレジへ向かった。
「いらっしゃいませ」
店員が流暢な日本語で挨拶した。
名札には、凛に馴染みのない名前が書かれていた。
凛は少し驚いたが、そのまま会釈した。
『……こんにちは』
店員はにこやかに応対し、悠斗の会計を済ませた。
店を出てから、凛は口を開いた。
『……外国から来た人も、こうして働いているんだな』
「……ん?」
『今の店員さんだ』
「ああ。そうだね」
『……最近は多いのか?』
「普通にいるよ。コンビニとか飲食店とか」
『……そうか』
凛は感心したように頷いた。
二〇〇〇年にも、外国から来て日本で暮らす人はいた。
もちろん、店で働く人だっていた。
ただ、凛が普段の生活で接していた人々とは、少し顔ぶれが変わったように感じられた。
『……日本も、随分変わったんだな』
「……姉ちゃん、今日そればっか言ってない?」
『……そうか?』
「うん。何か、観光客みたい」
『……ははは!』
「……いや、笑ってごまかすなって」
凛は慌てて歩く速度を上げた。
◇
スーパーに到着すると、悠斗は買い物かごを手に取った。
「牛乳と卵と洗剤だっけ」
『ああ。私が持とう』
「いや、いいよ」
『遠慮するな!』
「……別に遠慮してないんだけど」
凛はかごを受け取った。
そのまま悠斗の後について歩く。
牛乳。
卵。
洗剤。
頼まれたものを順番に入れていった。
途中、悠斗が菓子売り場へ向かう。
「何か買ってく?」
『……菓子か?』
「うん」
凛は棚を見た。
色とりどりの菓子が並んでいる。
その中に、懐かしい形の箱を見つけた。
『……おお!』
「……何?」
『カプリコじゃないか!』
凛は嬉しそうに手を伸ばした。
ジャイアントカプリコ。
子どものころから知っている菓子だった。
『……懐かしいな!』
「……カプリコが?」
『ああ! よく食べたものだ!』
凛は箱を手に取り、しげしげと眺めた。
昔と変わらない、特徴的な形。
パッケージには見覚えがある。
しかし。
『……ん?』
凛は目を細めた。
『……何だか、少し小さくなっていないか?』
「……何が?」
『カプリコだ』
「いや、知らないよ」
『……昔は、もう少し大きかったような気がするんだが』
「気のせいじゃない?」
『……そうだろうか』
凛は箱を持ち直した。
大人になって手が大きくなったせいかもしれない。
今の身体は、もとの自分とは違うのだから。
そう考えて、ひとまず納得しかけたときだった。
棚の値札が目に入った。
『…………』
凛は動きを止めた。
『……百七十五円?』
「……うん?」
『……これが?』
「……何?」
『カプリコが、百七十五円もするのか!?』
悠斗が振り返った。
「……いや、そんなもんでしょ」
『……そんなもんなのか!?』
「……うん」
凛は、もう一度値札を見た。
何かの見間違いではない。
百七十五円。
しかも、その横には小さな文字が書かれていた。
『……待て』
「……まだ何かあるの?」
『これは、税抜き価格か?』
「……そう書いてあるじゃん」
『……じゃあ、実際にはもっと高いのか!?』
「そりゃそうでしょ」
凛は口を開けた。
『……消費税は、今いくらなんだ?』
「十パーセント」
『じゅっ!?』
思わず声が裏返った。
悠斗が顔をしかめる。
「……声でかいって」
『……十パーセント!?』
「……あ、でも食べ物は八パーセントだから」
『……八?』
「うん」
『……十なのか、八なのか、どっちなんだ!?』
「だから、普通は十パーセントだけど、持ち帰る食べ物とかは八パーセントなの!」
『……何で分かれているんだ!?』
「俺に聞かれても知らないよ!」
凛は目を丸くしたまま、カプリコを見つめた。
値段が高い。
何となく小さく感じる。
しかも、消費税まで複雑になっている。
『……恐ろしい時代だな……』
「……お菓子一個で大げさすぎ」
『……だが、これは大きな問題だぞ』
「そんなに?」
『……ジャイアントなのに……』
「……そこ?」
悠斗は呆れた顔をした。
凛はしばらく考え込んだ。
そして、カプリコをかごへ入れた。
「……結局買うんだ」
『……ああ』
「高いんじゃなかったの?」
『……高い。だが、食べたい』
「……何それ」
悠斗が笑った。
凛も、つられて少し笑った。
◇
会計を済ませようとしたときだった。
悠斗が、店員のいないレジへ向かって歩き始めた。
『……悠斗』
「ん?」
『そっちは誰もいないぞ』
「……うん」
『……レジは向こうじゃないのか?』
「ああ、セルフレジだから」
『……セルフ?』
「自分で会計するの」
『……自分で!?』
悠斗は慣れた様子で画面に触れた。
凛はその隣で、何が始まるのかと見守る。
「商品、貸して」
『……ああ』
悠斗は牛乳を手に取り、箱の側面を機械へ向けた。
ピッ。
短い電子音が鳴る。
画面に商品の名前と金額が表示された。
『……おお!』
「……何?」
『今のは何だ!?』
「バーコード読んだだけだけど」
『……バーコードか!』
それなら知っている。
レジで店員が商品を読み取っているところは、何度も見たことがあった。
ただ、それを客自身が行うとは思わなかった。
『……私にもやらせてくれ!』
「……え?」
『一度やってみたい!』
悠斗は少し迷ったが、卵のパックを差し出した。
「……割らないでよ」
『任せろ!』
「……いや、そういう意味じゃなくて」
凛は卵のパックを受け取り、機械へ近づけた。
『……こうか?』
反応しない。
『……ん?』
もう一度近づける。
やはり反応しない。
『……おかしいな』
「バーコード、そっちじゃない」
『……どこだ?』
「裏」
『……裏か!』
凛はパックをひっくり返そうとして、悠斗に止められた。
「ちょっ、卵! 卵!」
『……あっ!』
「危ないって!」
凛は慌てて持ち直した。
悠斗がパックを支えながら、バーコードの位置を指さした。
「ここ。これをかざすの」
『……なるほど』
凛が慎重に機械へ近づける。
ピッ。
『……おおっ!』
「……だから声!」
悠斗は笑いながら、次の商品を手に取った。
凛も、少しずつ操作を覚えていく。
牛乳。
洗剤。
そして、カプリコ。
最後の商品を読み取ったとき、凛は少し得意げに笑った。
『……できたぞ!』
「……はいはい」
『便利なものだな!』
「……まあね」
画面が会計方法の選択へ切り替わった。
悠斗が迷わず操作する。
凛は、その様子をじっと見つめた。
ほどなく会計が終わり、レシートが出てきた。
『……ん?』
凛は首を傾げた。
『……悠斗』
「何?」
『……お金は?』
「払ったよ」
『……いつ!?』
「今」
『……財布も出していないだろう!?』
「……電子マネーで払ったから」
『……電子マネー?』
悠斗は、もう説明する気力がなくなったようだった。
「……姉ちゃん、あとで教えるから。とりあえず袋詰めしよ」
『……あ、ああ!』
凛は慌てて商品を袋へ移した。
後ろには、次の客が待っている。
自分たちだけでいつまでもレジを占領するわけにはいかない。
凛は袋を抱え、悠斗の後を追った。
◇
スーパーを出ると、春の風が吹いていた。
凛は買い物袋を片手に、悠斗と並んで歩いた。
『……今日は、いろいろ勉強になった』
「……買い物しただけだけどね」
『それが勉強になったんだ』
「……ふーん」
悠斗は飲み物を一口飲んだ。
それから、少し間を置いて口を開く。
「……姉ちゃんさ」
『……何だ?』
「……マジで、どうしたの?」
凛は足を緩めた。
『……どうした、とは?』
「いや、だからさ」
悠斗は困った顔をした。
「前は普通にできてたことが、急にできなくなってるじゃん」
『…………』
「スマホもそうだし、今日のレジとかさ。コロナのことも、まるで知らないみたいだったし」
凛は言葉に詰まった。
「……それに、喋り方も違う」
『……そうか』
「うん」
悠斗は凛を見た。
「……本当に、何があったの?」
凛は視線を落とした。
目の前の少年は、心配しているのだ。
自分の姉に何が起きたのか。
なぜ突然、別人のようになってしまったのか。
それを知りたがっている。
けれど、凛には答えられなかった。
自分が二〇〇〇年から来たこと。
この身体が、本当は自分のものではないこと。
そんな話を、いきなり信じてもらえるとは思えない。
何より、悠斗が慕っている姉が今どこにいるのか、凛自身にも分からないのだ。
『……すまない』
「……何で謝るの?」
『心配をかけているからだ』
「……いや、そうじゃなくてさ」
悠斗は言いかけて、口を閉じた。
凛は続けた。
『……今は、上手く説明できない』
「…………」
『……だが、心配してくれていることは分かっている。ありがとう』
悠斗は、しばらく黙っていた。
「……姉ちゃん」
『……ん?』
「……何か、すっごい他人行儀なんだけど」
『……そうか?』
「そうだよ。ありがとうとか、すまないとか」
『……む』
凛は少し考えた。
確かに、自分の家族にはもっと遠慮なく話していた気がする。
しかし、山本家の家族との距離感が、まだ分からないのだ。
『……では、何と言えばいい?』
「……それを俺に聞く?」
『……すまない』
「ほら、また!」
悠斗が声を上げた。
凛は思わず笑ってしまった。
『……ははは!』
「……もう、ほんと何なの」
悠斗も呆れたように笑った。
少しだけ、空気が軽くなった。
再び歩き始める。
しばらくして、悠斗がぽつりと言った。
「……まあ、分かんないことあったら聞けば?」
『……え?』
「スマホとか、今日のレジとか。ああいうの」
『……いいのか?』
「……別に。知ってることなら教えるし」
悠斗は前を向いたまま続けた。
「……だから、変にごまかさなくてもいいよ」
凛は、その横顔を見つめた。
自分を疑っている。
きっと、何も納得していない。
それでも、助けてくれると言っている。
『……そうか』
凛は微笑んだ。
『……それなら、また頼らせてもらう』
「……うん」
『……今日は、ありがとうな。悠斗』
今度は、少しだけ自然に言えた気がした。
悠斗は照れくさそうに顔を背けた。
「……いいって、別に」
◇
夕食のあと。
凛は自分の部屋で、昼間に買ったカプリコを取り出した。
『……さて』
包装を開ける。
懐かしい、甘い香り。
凛は一口かじった。
『…………』
口の中に、馴染みのある味が広がった。
思わず笑みがこぼれる。
『……ああ。これだ』
子どものころ、駄菓子屋で買ったことがある。
学校帰りに友達と食べたこともあった。
空手の練習で疲れた日に、母が買ってくれたこともある。
大きさも、値段も、随分変わったように感じた。
けれど、味は懐かしかった。
『……美味しいな』
凛はもう一口かじった。
昼間、悠斗が話していたことを思い出す。
世界中で病気が流行ったこと。
学校が休みになったこと。
街で働く人々や、買い物の仕組みが変わっていたこと。
自分が知らない間に、この国はたくさんの出来事を経験していた。
そして、二十六年という時間は、自分にとってはほんの数日の隔たりでしかない。
そのことが、何より不思議だった。
『……父さんたちは、どうしているんだろうな』
凛は、窓の外へ目を向けた。
今の自分の両親は、二十六年前にいた。
姉の美咲も。
健吾も。
もし、この世界が自分のいた時代から続いているのなら、皆も年齢を重ねているはずだ。
どこかで、今も暮らしているのだろうか。
会うことはできるのだろうか。
だが、もし会えたとして。
この姿で、自分が凛だと名乗ったら、信じてもらえるのだろうか。
『…………』
凛は、カプリコを持つ手を下ろした。
帰りたい。
その気持ちは、少しも変わっていない。
できることなら、今すぐにでも。
けれど、今日初めて知ったことがある。
二十六年後の世界も、ただ便利になっただけではない。
ここに生きる人たちにも、経験してきた苦労がある。
大切な家族がいて、それぞれの毎日がある。
悠斗も、そうだ。
あの少年は、自分の姉が突然変わってしまったと思いながら、それでも助けようとしてくれている。
『……ありがとうな』
もう一度、小さく呟いた。
すると、廊下の向こうから声が聞こえた。
「姉ちゃん!」
『……ん?』
「母さんが、お風呂入っていいって!」
『……ああ、分かった!』
「……あと、俺の分のカプリコ残ってる?」
凛は手元を見た。
残っているのは、半分ほど。
『……しまった! 一つしか買わなかった!』
「……別にいいよ、そんな大声出さなくても!」
『……明日、もう一つ買ってくる!』
「……いや、そこまでしなくていいから!」
凛は思わず笑った。
廊下から、悠斗の呆れたような声が聞こえてくる。
その声は、どこか温かかった。
凛は残ったカプリコを見つめた。
知らない時代。
知らない常識。
そして、まだ帰る方法も分からない。
それでも、今日という一日は確かに過ぎていく。
『……明日、か』
凛は小さく呟いた。
帰れる日がいつになるのかは分からない。
けれど、明日も朝は来る。
自分が帰りたいと願っていても。
帰る方法を知らなくても。
この世界の時間は、止まってはくれないのだった。




