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第八話「この人、誰?」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月十一日、火曜日。


『……おはようございます』


 職員室へ入ったリンは、できるだけ目立たないように自分の席へ向かった。


 昨日、空手部の顧問である荒川剛と派手に言い合ってしまった。


 それだけでも気が重いのに、今日は朝から空手部の活動予定を確認しなければならない。


(……怒ってるよね、絶対)


 リンは鞄を机の脇へ置いた。


 そっと周囲を見渡す。


 荒川の姿はまだなかった。


(……よかった)


 小さく息を吐いたところで、背後から声が飛んできた。


「山元!」


『ひゃっ!?』


 振り返ると、荒川が立っていた。


「何だ、その返事は」


『……あ、おはようございます!』


「おう。昨日の件、忘れてねえだろうな」


『……はい。報告はちゃんとします』


「ならいい。今日は俺も最初から道場にいる。勝手なことすんなよ」


『……はい』


 荒川はそれだけ言うと、自分の席へ向かった。


 リンは肩を落とした。


(……朝からこれかぁ)


 昨日、足を痛めた部員を休ませたことについては、今でも間違っていたとは思わない。


 けれど、あの荒川と今後も毎日顔を合わせるのかと思うと、それはそれで憂鬱だった。


「山元先生、おはようございます」


 小野寺修一が声をかけてきた。


『……おはようございます』


「昨日は空手部、大変だったようですね」


『……えっ』


「荒川先生から少し聞きました」


『……あ、そうなんですか』


 リンは身構えた。


 また注意されるのだろうか。


 しかし、小野寺は穏やかな口調だった。


「怪我をした生徒に気づいたんですよね」


『……はい』


「それはよく見ていましたね。ただ、ほかの先生と一緒に仕事をするときは、連絡も大切ですから」


『……はい。気をつけます』


「お願いします」


 小野寺は頷いた。


 リンは自分の席に腰を下ろした。


 少なくとも、小野寺まで怒っているわけではなさそうだった。


(……大人って、先生になっても怒られるんだなぁ)


 そんなことを考えながら、リンは今日の連絡事項を確認し始めた。


     ◇


 午前中。


 三年二組の授業へ向かう途中、廊下の向こうから元気な声が聞こえた。


「山元せんせー!」


 相原菜月だった。


 道着ではなく制服姿で、友人らしい女子生徒と並んでいる。


『……あ、おはよう』


「押忍! おはようございます!」


 菜月は勢いよく頭を下げた。


 隣の女子生徒が笑う。


「菜月、声でかいって」


「だって山元先生だよ!」


 菜月はリンへ向き直った。


「先生、昨日めっちゃ格好よかったです!」


『……え?』


「荒川先生にあんな言い返す人、初めて見ました!」


『……ちょ、ちょっと!』


 リンは慌てて周囲を見回した。


 幸い、荒川の姿はない。


『……あんまり大きな声で言わないで……』


「えー、何でですか?」


『……いろいろあるの、大人には』


「そうなんですか?」


『……そうなの』


 菜月は不思議そうな顔をした。


 それから、にっと笑う。


「でも私、山元先生みたいな人、好きですよ!」


『……あ、ありがとう』


「じゃ、また部活で!」


 菜月は元気よく手を振って走っていった。


 リンはその背中を見送った。


(……あの子、ほんと元気だなぁ)


 昨日までは、空手部の生徒たちが自分へ向ける期待が怖かった。


 今もそれは変わらない。


 ただ、菜月が自分を慕ってくれている理由は、どうやら全国準優勝という肩書きだけではないらしい。


 そのことは、少しだけ嬉しかった。


『……さて』


 リンは教室の時計を確認した。


『……仕事、仕事』


 次の授業に向かって歩き始めた。


     ◇


 放課後。


 リンは職員室で書類の整理をしていた。


 机の上には、授業に使うプリントや生徒の提出物が積まれている。


 少しずつ仕事には慣れてきたものの、紙の書類の多さにはまだ驚かされる。


(……これ全部、手で整理するの?)


 2026年なら、入力や保存はパソコンやタブレットで済むものも多かった。


 しかし、ここではファイルを探すにも、何かを確認するにも、紙の束をめくらなければならない。


『……疲れた……』


 小さく呟いたとき、鞄の中から電子音が鳴った。


『……ん?』


 リンは携帯電話を取り出した。


 小さな画面に、着信を知らせる表示が出ている。


 相手の名前は――高橋健吾。


『…………』


 リンは固まった。


(……出た)


 いや、出たのは電話なのだが。


 美咲から、この身体の持ち主に恋人がいることは聞いていた。


 高橋健吾。


 二十五歳。


 それ以上のことは、ほとんど知らない。


 着信音が鳴り続ける。


(……どうしよう)


 出ないという選択肢もある。


 しかし、いつまでも無視するわけにはいかない。


 リンは携帯電話を開き、通話ボタンを押した。


『……もしもし』


「凛?」


 男性の声だった。


『……はい』


「何だよ、そんなかしこまって」


『……あ、いや』


「仕事中だった?」


『……うん。ちょうど終わるところ』


「そっか。お疲れ」


『……ありがとう』


 健吾は少し間を置いた。


「今日、時間ある?」


『……え?』


「ちょっと顔見たいなと思ってさ。新しい仕事も始まったし」


『…………』


「忙しいなら別の日でもいいけど」


 リンは携帯電話を握り直した。


 会いたくない。


 正直な気持ちは、それだった。


 何を話せばいいのか分からない。


 恋人同士なら当たり前に知っているはずのことも、自分には分からない。


 それでも。


(……ずっと避けてたら、もっと変だよね)


『……少しだけなら』


「本当? じゃあ、駅前で待ってるよ」


『……うん』


「無理すんなよ。じゃ、あとで」


 通話が切れた。


 リンは携帯電話を見つめた。


『…………』


 それから机に突っ伏した。


『……どうしよう……』


 周囲の教員が振り返ったため、慌てて顔を上げた。


『……あ、何でもないです!』


 リンは書類を片づけ始めた。


     ◇


 夕方。


 駅前には、仕事帰りの人々が行き交っていた。


 リンは待ち合わせ場所の近くで、落ち着かない様子で立っていた。


 見慣れない看板。


 まだ少し肌寒い四月の風。


 そして、手の中の携帯電話。


(……顔、分かんないんだけど)


 待ち合わせの相手は、自分の顔を知っている。


 しかし、自分は相手を知らない。


 考えてみれば、おかしな状況だった。


「凛!」


 突然、名前を呼ばれた。


 リンが顔を上げる。


 少し離れたところから、一人の男性が歩いてきた。


 短く整えた髪。


 落ち着いた色の上着。


 背はリンより少し高い。


 男性はリンの前で足を止めた。


「お疲れ」


『……あ、どうも』


「……どうも?」


 健吾が首を傾げた。


 リンは慌てて言い直した。


『……お疲れさま』


「何だよ、それ」


 健吾が笑う。


「仕事で疲れすぎたか?」


『……まあ、ちょっと』


「そっか。新任だもんな」


 健吾は心配そうにリンを見た。


「飯、ちゃんと食ってる?」


『……うん』


「寝てる?」


『……一応』


「一応って何だよ」


 健吾は苦笑した。


 その態度は自然だった。


 特別なことを話しているわけでもない。


 けれど、リンにはその自然さが怖かった。


 この人は、自分を山元凛だと思っている。


 それも、ただの知り合いではない。


 大切な恋人だと。


「とりあえず、どっか入るか」


『……うん』


 二人は駅前の喫茶店へ入った。


     ◇


「それで、学校どう?」


 席につくなり、健吾が尋ねた。


 リンは注文した飲み物へ手を伸ばした。


『……まあ、いろいろ大変かな』


「だろうな。三年生の担任って聞いたとき、俺もちょっと驚いたし」


『……うん』


「でも、楽しみにしてただろ。ずっと」


『……そうだね』


 健吾は笑った。


「大学のころから、教師になるんだって張り切ってたもんな」


『……へえ』


「……へえ?」


『……あ、いや。うん、そうだったね』


 リンは慌てて頷いた。


 健吾は少し不思議そうな顔をしたが、話を続けた。


「空手部はどうだった?」


『…………』


 リンの手が止まった。


「副顧問、初日だったんだろ?」


『……あ、うん』


「どうだった? 佐伯って子、結構強いって言ってたじゃん」


『……強かったよ』


「やっぱり?」


『……うん』


「凛が指導するなら、その子も伸びるだろうな」


『……いや、それは……』


 リンは曖昧に笑った。


 昨日、佐伯の練習を見て思ったことは、ただ一つ。


 自分には絶対に真似できない。


 そんな相手へ何を教えればいいというのだろう。


「……凛?」


『……何?』


「どうした? 空手の話なのに、全然乗ってこないじゃん」


『……仕事で疲れてるから』


「……そっか」


 健吾は頷いた。


 しかし、どこか納得していない様子だった。


 しばらく、他愛のない話が続いた。


 健吾は仕事のことを話した。


 最近あった失敗。


 同僚とのやり取り。


 休日に行ってみたい場所。


 リンは相槌を打ちながら、必死に会話についていこうとした。


 ところが、健吾が突然笑い出した。


「そういや、覚えてる? この前のあれ」


『……え?』


「ほら、あの店でさ。凛が店員さんにまで空手の話し始めたやつ」


『…………』


「途中から俺、完全に置いてけぼりだったじゃん」


『……ああ』


「覚えてない?」


『……いや、覚えてるよ』


 リンは笑顔を作った。


『……ちょっと恥ずかしかったね』


 健吾の笑顔が止まった。


「……恥ずかしかった?」


『……え?』


「凛、あのとき全然恥ずかしがってなかっただろ」


『…………』


「むしろ俺に、空手の面白さを分かってもらえたって喜んでたじゃん」


 リンは何も言えなかった。


 健吾は少し黙った。


 それから、テーブルの上で手を組む。


「……なあ、凛」


『……うん』


「本当にどうしたんだ?」


『……何が?』


「何か、変だよ」


 リンは飲み物へ視線を落とした。


「喋り方も違うし、空手の話もしないし。俺の話にも、何か無理して合わせてる感じがする」


『……そんなことないよ』


「……そうか?」


『……うん』


 健吾はしばらくリンを見ていた。


「……何か隠してない?」


 リンの胸がどきりとした。


『……別に、何も』


「本当に?」


『……うん』


 短い沈黙が落ちた。


 健吾は困ったように笑った。


「……お前、本当に凛か?」


『…………』


 リンは顔を上げた。


 健吾の目には、疑いというよりも戸惑いが浮かんでいた。


 きっと、深い意味で言ったわけではない。


 いつもの恋人と違いすぎる。


 だから、思わずそんな言葉が出たのだろう。


 それでも。


 リンには答えられなかった。


(……違う)


 目の前の男性が会いたかったのは、山元凛だ。


 大学時代に空手へ打ち込み、教師になることを夢見て、彼と一緒に時間を過ごしてきた女性。


 自分ではない。


『……ごめん』


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 健吾が眉を寄せる。


「……いや、責めてるわけじゃないんだ」


『……うん』


「新しい仕事で、疲れてるんだよな」


『……そうだと思う』


「……そっか」


 健吾はそれ以上、問い詰めなかった。


 ただ、先ほどまでの自然な笑顔は戻らなかった。


     ◇


 店を出るころには、外が少し暗くなっていた。


 健吾はリンを駅の近くまで送った。


「……今日はもう帰って休めよ」


『……うん』


「何かあったら、ちゃんと言えよ」


『……ありがとう』


 健吾は少し笑った。


「俺、彼氏なんだからさ」


『…………』


 リンは顔を上げられなかった。


「……じゃあ、また連絡する」


『……うん』


 健吾は手を上げて歩き出した。


 リンはその背中を見送った。


 優しい人だった。


 そのことは、短い時間でも分かった。


 だからこそ、胸が痛んだ。


(……あたしじゃ、ないんだよね)


 彼が会いたかった人は、ここにはいない。


 自分が山元凛の身体にいる限り、健吾はこれからも自分を恋人として扱うのだろう。


 けれど、リンには同じ気持ちを返すことができない。


『……ごめんね』


 誰に向けた言葉なのか、リン自身にも分からなかった。


 健吾に対してなのか。


 それとも、本当の山元凛に対してなのか。


 リンは携帯電話を鞄へしまった。


 そして、家へ向かって歩き始めた。


     ◇


 二〇二六年(令和八年)四月十日、金曜日。


 山本家の朝食は、いつもより静かだった。


「リン、パンは?」


 真由美が尋ねた。


『……いただきます』


「……うん」


 凛は食卓についた。


 昨夜は、なかなか眠れなかった。


 目を閉じると、二十六年前の家族の顔が浮かんだ。


 父。


 母。


 姉の美咲。


 そして、健吾。


 会いたいと思うほど、今いる場所が遠く感じられた。


 向かいでは、悠斗が朝食を食べている。


 今日はスマートフォンを手に持っていなかった。


 昨日の凛の言葉を気にしたのか、それともたまたまなのか。


 凛には分からない。


「……姉ちゃん」


『……何だ?』


「……いや、何でもない」


『……そうか』


 悠斗はパンへ視線を戻した。


 凛も、それ以上は聞かなかった。


 真由美が少し心配そうに二人を見ている。


 凛はその視線に気づき、無理に笑顔を作ろうとした。


 しかし、上手くいかなかった。


『……ごちそうさまでした』


 食器を下げて、鞄を持つ。


「リン」


 真由美が声をかけた。


『……はい』


「無理しないでね」


 凛は頷いた。


『……ありがとうございます』


 その言葉に、真由美がほんの少し寂しそうな顔をした。


 凛は気づいていた。


 けれど、どう言い直せばよいのか分からなかった。


     ◇


 桜丘高校の職員室。


 凛は机の上のiPadを操作していた。


 昨日教えてもらった画面を開く。


 今日は、間違えずにたどり着けた。


『……よし』


 思わず小さく呟く。


 そのとき、隣から声がした。


「山本先生、おはようございます」


 瀬戸湊だった。


『……おはよう、瀬戸』


「……あれ?」


『……何だ?』


「今日は、ちょっと元気ないですね」


『……そうか』


「昨日のこと、まだ気にしてます?」


 凛は手を止めた。


『……ああ』


 瀬戸は少し困ったような顔をした。


「……神谷くんのことですか」


『……そうだ』


 凛は机の上の資料へ目を落とした。


『……昨日、帰ってから考えたんだ』


「……はい」


『私は、彼を励ましたつもりだった。だが、よく考えると、彼は何度も自分の事情を説明していた』


 瀬戸は黙って聞いていた。


『……それを、私は聞こうとしなかった』


「…………」


『自分の考えを伝えることばかり考えていたんだな』


 凛は小さく息を吐いた。


 瀬戸が頷く。


「……そうかもしれませんね」


『……ああ』


「でも、山本先生が神谷くんのことを考えていたのも本当だと思いますよ」


『……ありがとう』


 凛は顔を上げた。


『……ただ、それで彼に嫌な思いをさせたことは変わらない』


 瀬戸は少し驚いたように凛を見た。


 凛は続けた。


『今日、謝ろうと思う』


「……そうですか」


『……ああ』


 瀬戸は小さく笑った。


「……それがいいと思います」


     ◇


 三年四組。


 朝のホームルーム。


 凛は教室へ入ると、いつものように挨拶しようとした。


『……おはよう』


 声は、自分で思っていたより小さかった。


「……おはようございます」


 生徒たちが返事をする。


 凛は教卓へ資料を置いた。


 三十二人の顔を見渡す。


 神谷陸は、自分の席に座っていた。


 凛と目が合うと、軽く会釈する。


 それ以上は何もなかった。


 凛は出席を取り、必要な連絡を伝えた。


 昨日のように言葉に詰まることはなかった。


 ただ、何かを話す前に、少しだけ考えるようになっていた。


 自分の言葉が、相手にどう届くのか。


 それは、今まであまり考えたことのない問題だった。


     ◇


 放課後。


 凛は廊下で神谷陸を見つけた。


 陸は鞄を肩へかけ、教室を出ようとしていた。


『……神谷』


 陸が振り返る。


「……はい?」


『少しだけ、時間をもらえるか』


「……何ですか?」


『……昨日のことだ』


 陸の表情が少し硬くなった。


 凛は、その反応を見た。


 昨日、自分がどれほど嫌な思いをさせたのか。


 まだ、そのすべてが分かっているわけではない。


 けれど、少なくとも謝らなければならないことは分かっていた。


『……すまなかった』


 凛は頭を下げた。


「……え?」


 陸が戸惑った声を出す。


『きみは、部活動を辞めるとは言っていなかったな。最後の大会にも出ると話していた』


「……はい」


『受験を優先することも、自分で考えて決めたんだろう?』


「……そうです」


『それなのに私は、きみが途中で諦めようとしていると決めつけた』


 凛は顔を上げた。


『……すまない。あれは私が悪かった』


 陸は何も言わなかった。


『それに、きみは友人と話していたんだ。私に相談していたわけではなかった』


「…………」


『勝手に話へ入って、きみの考えを何度も否定した。本当に申し訳ない』


 凛はもう一度、頭を下げた。


 陸はしばらく黙っていた。


「……先生」


『……何だ?』


「……いや、そこまで謝られると思ってなかったんで」


『……そうか』


「……昨日、俺も言い方きつかったですし」


『いや』


 凛は首を振った。


『きみは最初から、ちゃんと説明していた。それを聞かなかったのは私だ』


「…………」


『……これからは、もっと話を聞くようにする』


 陸は少し考えた。


 それから、鞄を持ち直した。


「……分かってくれたんなら、いいです」


『……ありがとう』


「……でも」


『……ん?』


「先生、やっぱ暑苦しいっすよ」


『…………』


 凛は言葉を失った。


 陸は少し笑った。


「……昨日ほどじゃないですけど」


『……そうか』


「……まあ、ほどほどでお願いします」


 凛は頷いた。


『……努力する』


 陸は軽く頭を下げた。


「じゃ、失礼します」


『……ああ。気をつけて帰れ』


 陸は廊下の向こうへ歩いていった。


 凛はその背中を見送った。


 謝ったからといって、昨日のことがなかったことになるわけではない。


 陸が自分をどう思っているのかも、まだ分からない。


 それでも、伝えるべきことは伝えられた。


『……ふう』


 凛は息を吐いた。


 胸の奥に残っていた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


     ◇


 職員室へ戻る途中。


「山本先生」


 早川奈緒に呼び止められた。


『……はい』


「今日、放課後は時間ありますか?」


『……特に予定はありませんが』


「だったら、少し体育館に来ません?」


『……体育館、ですか?』


「女子バレー部の練習を見に行こうと思ってるんです」


『……バレーボールですか』


「はい。せっかく同じ体育科なんですし、学校の部活動も知っておいた方がいいでしょう?」


 凛は少し考えた。


 自分は空手を続けてきた。


 バレーボールについては、学校の授業で触れたことがある程度だ。


 それでも、生徒たちがどんな活動をしているのかには興味があった。


『……ぜひ、お願いします』


「じゃあ、行きましょう」


 早川は笑った。


 二人は体育館へ向かった。


     ◇


 体育館へ入ると、ボールの弾む音が響いていた。


「ナイス!」


「もう一本!」


「カバーお願い!」


 女子バレー部の生徒たちが、コートの中を走り回っている。


 凛は足を止めた。


 体育館の奥には、年配の男性教員が椅子に座っていた。


 早川が近づく。


「藤沢先生、お疲れさまです」


「おや、早川先生。お疲れさま」


 男性は穏やかに笑った。


「今日はどうしました?」


「新任の山本先生に、部活を見てもらおうと思いまして」


『……山本リンです。よろしくお願いいたします』


「はいはい。藤沢和彦です。こちらこそ、よろしくお願いしますねえ」


 六十三歳の再任用教員。


 女子バレー部の顧問を務めているという。


 白髪交じりの髪に、柔らかな口調。


 凛がこれまで出会った教師たちの中でも、特に穏やかな人物だった。


「いやあ、みんな本当によく頑張ってくれてねえ」


 藤沢がコートを見た。


「私はあまりバレーボールに詳しくないもので、練習のことは生徒たちに任せることが多いんですよ」


『……そうなのですか』


「ええ。特に、主将の朝倉さんがしっかりしていましてねえ」


 凛はコートへ目を向けた。


 そこには、見覚えのある生徒がいた。


『……紗奈』


「おや、お知り合いですか?」


『はい。私のクラスの生徒です』


「そうでしたか」


 藤沢は嬉しそうに頷いた。


「本当に頼りになる子ですよ」


 凛はしばらく、コートの様子を眺めることにした。


     ◇


「次、サーブレシーブ!」


 朝倉紗奈の声が体育館に響く。


 部員たちが一斉に移動する。


 紗奈は自分もコートに入りながら、次々と指示を出していた。


「千夏、そっちお願い!」


「う、うん!」


 宮野千夏が返事をする。


 三年生で、副主将らしい。


 紗奈より少し控えめな印象で、部員たちに声をかけようとしては、何度か言葉を飲み込んでいた。


「……紗奈」


「何?」


「次のメニュー、どうする?」


「予定どおりサーブレシーブでいこう」


「あ、うん。分かった」


 千夏は頷いた。


 しかし、すぐにもう一度紗奈を見る。


「……でも、ちょっと時間押してない?」


「五分くらいなら大丈夫。最後の練習を少し短くするから」


「……そっか」


 千夏は安心したように笑った。


「ありがと」


 その様子を見て、凛は少し首を傾げた。


 副主将なら、もう少し自分で判断してもよさそうなものだ。


 しかし千夏は、何かあるたびに紗奈へ確認している。


 一方、コートの外では水瀬結衣が記録用の用紙を持ち、練習の進行を確認していた。


「紗奈、あと十五分」


「ありがとう、結衣!」


 結衣は頷き、手元の記録を書き込む。


 その直後、別の部員が声をかけた。


「結衣先輩、ボールってあと何個使えますか?」


「……今、空いてるのは六個。足りなかったら倉庫から持ってくるね」


「ありがとうございます!」


 結衣はすぐに立ち上がり、用具の数を確認した。


 教室で見かけるときより、動きに迷いがない。


 部員たちも、当たり前のように結衣を頼っている。


(……結衣は、マネージャーなのか)


 凛は少し驚いた。


 教室では静かな生徒だと思っていたが、ここでは自分の仕事をきちんと把握し、必要なことを伝えている。


 その姿は頼もしかった。


 しかし、もう一人の生徒が気になった。


 紗奈だった。


 練習の進行。


 後輩への助言。


 時間の確認。


 千夏からの相談。


 それらのほとんどに、紗奈が答えている。


 しかも、紗奈自身も選手として練習を続けていた。


「紗奈先輩、さっきのレシーブ、どうしたらいいですか?」


「もう少し膝を使って。腕だけで上げようとしないで」


「はい!」


「じゃあ、もう一本やってみよう!」


 紗奈は自分でボールを持ち、後輩へ投げた。


 その間に、別の部員が声をかける。


「紗奈、次どうする?」


「ちょっと待って!」


 紗奈は後輩の動きを見ながら答えた。


 凛は腕を組んだ。


(……随分、忙しそうだな)


 競技は違う。


 しかし、部活動に打ち込んでいたころの記憶が蘇る。


 主将には主将の役割がある。


 仲間をまとめ、目標を示し、時には厳しいことも言わなければならない。


 だが、すべてを一人で背負う必要があるのだろうか。


 凛は藤沢へ目を向けた。


 藤沢は穏やかな表情で練習を眺めている。


「いやあ、紗奈さんは本当にしっかりしてますねえ」


『……そうですね』


 凛は答えた。


 しかし、その言葉に少し引っかかるものがあった。


     ◇


 練習が終わるころ。


 部員たちが片づけを始めた。


 紗奈は後輩たちへ指示を出しながら、用具を運んでいる。


 千夏が近づいた。


「紗奈、これ、どこにしまうんだっけ?」


「そっちの棚でいいよ」


「……あ、うん」


 千夏は頷き、用具を運んでいった。


 その後ろ姿を見てから、紗奈が一つ息を吐いた。


 すぐに、別の部員へ声をかける。


「そっちのボールもお願い!」


 凛は、少し迷った。


 声をかけたい。


 何か手伝えることはないかと聞きたかった。


 けれど、昨日の陸の言葉が頭をよぎった。


 自分が正しいと思っていても、相手がそれを求めているとは限らない。


 凛は、まず様子を見ることにした。


 しばらくして、紗奈がこちらに気づいた。


「……あれ、山本先生?」


『ああ。見学させてもらっていた』


「そうだったんですね!」


 紗奈は少し驚いたように笑った。


「全然気づきませんでした」


『……随分、集中していたからな』


「……まあ、最後の大会も近いので」


『……そうか』


 凛は頷いた。


『紗奈が主将だったんだな』


「はい。一応」


『一応、ではないだろう。皆、きみを頼っていたぞ』


 紗奈は少し照れくさそうに笑った。


「……ありがとうございます」


 凛は、もう一度コートを見た。


 片づけをしている部員たち。


 記録をまとめる結衣。


 ほかの生徒へ声をかけようとしている千夏。


『……練習の進行も、きみが考えているのか?』


「……あ、はい。だいたいは」


『……大変ではないか?』


 紗奈は少し考えた。


「……まあ、大変ですけど」


 それから笑う。


「主将なんで」


『……そうか』


「藤沢先生も、色々やってくれてますし」


 紗奈は顧問の方へ目を向けた。


「でも、バレーのことは私たちで考えた方がいいかなって」


 凛は頷いた。


 紗奈は決して、藤沢を責めているわけではない。


 ただ、自分がやらなければならないと思っているのだろう。


『……最後の大会、どこまで目指しているんだ?』


 紗奈の表情が変わった。


「都大会、ベスト八です」


『……ベスト八か』


「はい」


 紗奈はコートを見た。


「去年は届かなかったんです。だから今年こそって」


『……そうか』


「でも、まだ全然足りなくて」


 紗奈は少し笑った。


「もっと練習したいんですけど、後輩のことも考えなきゃいけないし……」


 そこで口を閉じた。


「……すみません。愚痴みたいになっちゃいました」


『……いや』


 凛は首を振った。


『話してくれて、ありがとう』


 紗奈が顔を上げる。


「……え?」


『きみの考えを知れて、よかった』


 凛はそう答えた。


 紗奈は少し不思議そうな顔をした。


「……先生、何か言いたそうですね」


『……そう見えるか?』


「はい。何か、すごい励ましの言葉とか来るのかなって」


 凛は思わず苦笑した。


『……それは、昨日少し失敗してな』


「……え?」


『いや、こちらの話だ』


 紗奈は首を傾げた。


 凛は、もう一度尋ねた。


『……紗奈は、今のチームをどう思っている?』


「……チーム、ですか?」


『ああ』


 紗奈は少し考えた。


「……好きですよ」


 即答だった。


「みんな頑張ってるし、結衣もすごく助けてくれるし、千夏だって真面目だし」


『……そうか』


「だから、勝ちたいんです」


 紗奈は凛を見た。


「最後の大会、みんなで笑って終わりたいので」


『…………』


 凛は、その言葉を聞いた。


 かつて、自分も同じようなことを考えていた。


 大会へ向けて稽古を続けた日々。


 仲間と励まし合い、ときには意見をぶつけながら、同じ目標を目指した。


 その記憶が、胸の奥に残っている。


『……そうか』


 凛は静かに頷いた。


『……応援している』


 紗奈は笑った。


「ありがとうございます!」


 そして、片づけを終えた部員たちの方へ走っていった。


     ◇


 体育館を出ると、夕方の風が頬に触れた。


「どうでした?」


 早川が尋ねた。


『……皆、真剣でした』


「そうですね。朝倉さんがよくまとめてくれてますし」


『……はい』


 凛は少し考えた。


『……ただ、主将の負担が大きいようにも見えました』


 早川は頷いた。


「……確かに、そういうところはありますね」


『……そうですか』


「藤沢先生も気にかけてくださってるんですけど、技術面はどうしても生徒任せになりますから」


 凛は振り返った。


 体育館の中から、まだ部員たちの声が聞こえている。


『……紗奈は、ずいぶん頑張っていました』


「ええ。責任感の強い子です」


『……そうですね』


 凛は小さく頷いた。


 もっと何か話したかった。


 しかし、今の自分には、まだ十分なことが分からない。


 バレーボールの技術も。


 この学校の部活動の仕組みも。


 何より、今の自分自身のことさえ。


 早川は時計を見た。


「じゃあ、そろそろ戻りましょうか」


『……はい。今日はありがとうございました』


「いえいえ。また見に来てくださいね」


『……ぜひ』


 二人は校舎へ向かって歩き出した。


 凛は一度だけ体育館を振り返った。


 紗奈の笑顔が、まだ頭に残っていた。


 最後の大会で、みんなと笑って終わりたい。


 そのために、一人で懸命に動いている少女。


 手伝えることがあるのなら、手伝いたかった。


 けれど、今の自分に何ができるのだろう。


 学校の仕事にも慣れていない。


 バレーボールにも詳しくない。


 昨日の夜は、元の時代へ帰りたいと泣いたばかりだ。


 その気持ちは、今も変わっていなかった。


『……私に、何ができるんだろうな』


 凛は小さく呟いた。


 答えは、まだ分からない。


 ただ、紗奈が語った目標を、聞かなかったことにはしたくなかった。


 体育館の方から、最後の挨拶が聞こえてきた。


「みんな、お疲れさま! また来週!」


 紗奈の声だった。


 凛はしばらく、その声に耳を傾けた。


 そして、ゆっくりと歩き出した。

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