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第七話「全国準優勝の先生」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月十日、月曜日。


 午前七時二十分。


『……こっち、で合ってるよね?』


 リンは自転車を止め、鞄から折り畳んだ地図を取り出した。


 山元家を出てから、すでに二十分ほど経っている。


 金曜日は父親の正志に車で送ってもらったが、今日は自力で登校しなければならない。


 昨夜、美咲に道順を教えてもらい、目印になる交差点まで地図に書き込んでおいた。


 にもかかわらず、現在地が分からなくなっていた。


『……コンビニ、あったっけ』


 地図に書かれた交差点の名前を確認する。


 少し先には、見覚えのある道路標識。


『……あ、こっちか』


 リンは地図を畳んだ。


(……スマホがあれば一発なのに)


 この四日間で、何度そう思ったことだろう。


 音楽を聴くにも、道を調べるにも、誰かと連絡を取るにも、何かと手間がかかる。


 しかも、土曜日に美咲と出かけたときには、レンタルビデオ店で映画を借りるためだけに会員証が必要だと聞いて驚いた。


 二〇二六年なら、家で検索すれば済む話なのに。


『……まあ、文句言っても仕方ないか』


 リンは再びペダルを踏んだ。


 幸い、体力にはまったく問題がなかった。


 普段なら少し坂を上るだけで嫌になるところだが、山元凛の身体は驚くほど軽く動く。


 足に力を入れるたび、自転車がぐんぐん進んだ。


(……ほんと、身体だけはすごいんだよね)


 そう。


 身体だけは。


 リンは先週の金曜日を思い出した。


 配り忘れた学校だより。


 教室でのつけまつげ騒動。


 そして、武道場で目撃した佐伯大輔の組手。


『……行きたくな……』


 口にしかけたところで、青葉高校の校門が見えた。


『……着いちゃった』


 リンは自転車の速度を落とした。


 校門では、登校してくる生徒たちが次々と挨拶している。


「おはよー!」


「ちょっと待って、まだ髪直してない!」


「ねえ、今日の英語って小テストある?」


 笑い声が飛び交う。


 短くしたスカート。


 ルーズソックス。


 茶色く染めた髪。


 まだ見慣れない平成の女子高生たちが、当たり前のように行き交っていた。


 リンは自転車を駐輪場へ押していく。


『……よし』


 小さく息を吐いた。


『……とりあえず、今日を乗り切ろう』


     ◇


 職員室へ入ると、小野寺修一がすでに自分の席についていた。


「おはようございます、山元先生」


『お、おはようございます』


「先週の学校だより、全員に渡せましたか?」


『はい! ちゃんと配りました!』


「そうですか。今週もいろいろありますから、連絡事項はしっかり確認してくださいね」


『……はい』


 リンは自分の席へ向かった。


 机の上には、今日使う書類が重ねられている。


 その一番上に、一枚の紙が置かれていた。


 空手部活動予定表。


『…………』


 リンは紙を持ち上げた。


 月曜日から金曜日までの練習時間。


 土曜日の予定。


 大会に関する連絡事項。


 そして、顧問欄。


 顧問・荒川剛。


 副顧問・山元凛。


(……やっぱり、あたしなんだ)


 何度確認しても変わらなかった。


「おい、山元」


 背後から太い声がした。


『……はいっ!?』


 振り返ると、がっしりした体格の男性教員が立っていた。


 荒川剛。


 四十一歳。


 保健体育科の教員で、空手部の顧問を務めている。


 短く刈り込んだ髪に、よく通る低い声。


 リンが返事をすると、荒川は予定表を指さした。


「それ、見たか?」


『……はい』


「今日からちゃんと部活に顔出せよ。先週は初日だったから見学だけで済ませたが、いつまでもお客さんじゃ困るからな」


『……はい』


「出欠と体調確認、それから練習の記録。細かいことは現場で教える」


『……あの』


「あ?」


『……あたし、まだ慣れてなくて……』


「だから覚えろって言ってんだろ」


『……はい』


 荒川は腕を組んだ。


「お前、大学で全国準優勝したんだろ?」


『…………』


「だったら技術面は心配してねえよ。佐伯たちも楽しみにしてる」


(……心配してください!!)


 リンは心の中で叫んだ。


 荒川は構わず続ける。


「最近の部員は少し気が緩んでる。特に二年はな。お前からも気合い入れてやれ」


『……あ、はい……』


「返事ははっきり!」


『はいっ!』


「よし」


 荒川は満足そうに頷き、職員室の奥へ歩いていった。


 リンは予定表を見下ろした。


(……あの人、絶対怖いタイプじゃん)


 それに、全国準優勝。


 この言葉が出るたび、胃のあたりが重くなる。


 自分は空手のルールすら、ほとんど知らない。


 まして、全国大会の決勝まで進んだ人間に求められる指導など、できるはずがなかった。


『……最悪……』


「山元先生?」


 小野寺が振り返った。


『……あ、何でもないです!』


 リンは慌てて予定表を鞄へしまった。


     ◇


 三年二組。


 朝のホームルームが始まる少し前。


 リンが教室へ入ると、窓際に数人の生徒が集まっていた。


「おい小川、今日も頭すげえな!」


 森田翔平が笑っている。


 その前に座っているのは、小川真理だった。


 肩のあたりまで伸びた髪は、自然に細かく波打っている。


「朝から爆発したみたいじゃん」


「……うるさいな」


 真理が答える。


「いや、マジでさ。どうやったらそんなになるわけ?」


「……別に、何もしてないって」


「天然パーマってやつ?」


「そうだよ」


「へえ。便利じゃん、パーマ代タダで」


 周囲の数人が笑った。


 近くにいた片岡美奈も、つられるように笑う。


「ちょっと、翔平、ひどーい!」


「いや、褒めてんじゃん!」


「絶対褒めてないし!」


 美奈はそう言いながら、まだ笑っていた。


 真理も小さく笑った。


 けれど、すぐに自分の髪を耳へかけた。


『……はいはい、そろそろ席についてー』


 リンが手を叩いた。


「あ、山元せんせー!」


 美奈が振り返る。


「先生、今日は虫いないから安心して!」


 近くの生徒たちが笑い出した。


『……あれ、虫じゃなかったんだから!』


「分かってるって!」


「先生、あんときマジで飛んでたよね!」


『……もう、その話は終わり!』


 リンが教卓へ向かうと、生徒たちは笑いながら席へ戻っていった。


 出席簿を開こうとしたところで、真理が目に留まった。


『……小川さん』


「……はい?」


『さっき、何か言われてたみたいだけど。大丈夫?』


「あ……はい」


 真理は少し笑った。


「いつものことなんで。大丈夫です」


『……そっか』


 リンは頷いた。


 本人が大丈夫と言っている。


 それに、今はホームルームを始める時間だった。


『……じゃあ、出席取るよー』


 生徒たちが返事をする。


 リンは名前を読み上げ始めた。


 真理がもう一度だけ髪を押さえたことには、気づかなかった。


     ◇


 午前中の授業。


 リンは体育館で、生徒たちの準備運動を見ていた。


 先週から何度も思っていることだが、この学校の体育授業は、とにかく声が大きい。


「いち! に! さん! し!」


 生徒たちが声を揃えて身体を動かす。


 隣では荒川が腕を組んで見ていた。


「山元、もっと声出させろ!」


『……は、はい!』


 リンは慌てて生徒たちへ向き直った。


『……もっと元気よくお願いしまーす!』


 荒川が眉を寄せる。


「お願いじゃねえだろ! お前が指導するんだ!」


『……はいっ!』


 リンは思わず背筋を伸ばした。


(……何なの、もう……)


 幸い、準備運動の内容は難しくなかった。


 前屈。


 屈伸。


 軽いランニング。


 リン自身は運動が得意ではないが、この身体なら無理なく動ける。


 ただ、手本を見せるたびに、生徒たちが妙に感心した顔をする。


「先生、柔らかっ!」


「すげえ!」


 リンは苦笑した。


『……まあ、無理しない範囲でねー』


「山元!」


『……はいっ!』


「声!」


(……もう帰りたい……)


 午前の授業が終わるころには、体力ではなく気力がすっかり削られていた。


     ◇


 放課後。


 リンは重い足取りで武道場へ向かった。


 中からは、気合いの入った掛け声が響いている。


「押忍!」


「もう一本!」


「もっと腰落とせ!」


(……うわぁ……)


 扉を開けると、道着姿の部員たちが一斉にこちらを向いた。


「押忍! 山元先生!」


『……あ、こんにちは……』


 佐伯大輔が駆け寄ってくる。


「先生、お疲れさまです!」


『……お疲れさま』


「今日はよろしくお願いします!」


『……う、うん』


 佐伯は満面の笑みだった。


 その後ろから、一人の女子部員が勢いよく近づいてきた。


「押忍! 山元先生!」


『……は、はい』


「二年の相原菜月です!」


 菜月は元気よく頭を下げた。


 短くまとめた髪に、きりっとした目。


 小柄だが、身体の動きには勢いがある。


「先生、全国準優勝なんですよね!」


『……あ、うん……』


「先輩から聞きました! すごいですよね!」


『……いや、そんな……』


「私、先生に教えてもらえるの、すっごく楽しみにしてたんです!」


(……やめてぇ……)


 リンは心の中で頭を抱えた。


 菜月は目を輝かせたまま続ける。


「先生って、やっぱり突きが得意なんですか? それとも蹴りですか?」


『……えっと……』


「佐伯先輩は突きがすごいんですけど、私、もっと蹴りを上手くしたくて!」


『……そ、そうなんだ』


「今度ぜひ、先生の技を見せてください!」


『…………』


 リンは固まった。


 佐伯が笑う。


「菜月、いきなり質問攻めにするなよ」


「あ、すみません!」


 菜月は頭を下げた。


 それから、またリンを見る。


「でも、ほんと楽しみにしてます!」


(……逃げたい……)


 リンは必死に笑顔を作った。


『……まずは、みんなの普段の練習を見せてもらってもいいかな?』


「押忍!」


 菜月が大きく返事をした。


 佐伯も頷く。


「分かりました! それでは、通常の稽古を始めます!」


『……お願いします』


 リンは武道場の端へ移動した。


 佐伯の号令で、部員たちが整列する。


「正座!」


 全員が一斉に膝をついた。


「黙想!」


 武道場が静まり返る。


 リンはその光景を見つめた。


(……すごいなぁ)


 さっきまで賑やかだった部員たちが、まるで別人のように集中している。


 そして、稽古が始まった。


 突き。


 蹴り。


 受け。


 同じ動作を、何度も繰り返す。


 佐伯が後輩の動きを確認し、ときには自分で手本を見せる。


 菜月も真剣だった。


 上手くいかない動作があると、もう一度最初からやり直す。


 何度失敗しても、手を抜かない。


(……みんな、ちゃんと頑張ってるんだ)


 リンは少しだけ感心した。


 自分が空手を知らないこととは関係なく、彼らの努力が本物であることは分かった。


 しかし、それと同時に不安も増していく。


 こんな生徒たちに、自分は何を教えられるのだろう。


     ◇


 稽古が始まって、しばらく経ったころ。


 リンは一人の男子部員に目を留めた。


 二年生らしいその生徒は、列の後方で基本動作を繰り返していた。


 最初は、特に気にならなかった。


 しかし、方向を変えた瞬間。


「……っ」


 生徒がわずかに顔をしかめた。


 右足を踏み込むとき、体重を乗せきれていない。


 次の動作では、左足へ逃がすように身体を動かした。


(……あれ?)


 リンは少し近づいた。


 生徒は周囲に合わせて稽古を続けている。


 しかし、動くたびに足を庇っていた。


 方向転換のときには、はっきりと足を引きずっている。


『……ちょっと』


 リンが声をかけた。


 生徒が振り返る。


「……押忍!」


『……足、大丈夫?』


「……え?」


『さっきから、引きずってない?』


 生徒は一瞬、視線を落とした。


「……いえ、大丈夫です」


『いやいや、全然大丈夫そうに見えないんだけど』


「……少し捻っただけなんで」


『……いつ?』


「……昨日です」


『昨日!?』


 リンは驚いた。


『それで今日、こんな練習してるの?』


「……はい。でも、動けるんで」


『……いや、動けてないじゃん』


 生徒は返事をしなかった。


 リンは足元を見る。


 道着の裾から覗く足首が、反対側より少し腫れているように見えた。


『……今日はもう休憩。見学してて』


「……え?」


『あたしが言ったから、いいよ。座ってな』


「……でも、荒川先生が……」


『……え?』


「……練習、休むと怒られるんで」


 リンは眉を寄せた。


『……怪我してるのに?』


「……はい」


 生徒は申し訳なさそうに俯いた。


 リンは少し考えた。


 荒川の怖さなら、今日だけでも十分に分かっている。


 だが、だからといって、このまま練習させるわけにはいかなかった。


『……とにかく、今は休んで』


「……でも……」


『足、もっと悪くなったらどうすんの。大会どころじゃなくなるでしょ』


「…………」


『先生には、あたしから話すから』


 生徒は迷った末、小さく頷いた。


「……押忍」


 そして、武道場の隅へ移動した。


 リンはその背中を見送った。


(……あの足で練習させるの、普通に危ないでしょ)


 そう思いながら、他の部員たちへ視線を戻した。


     ◇


 数分後。


「……おい」


 低い声が武道場に響いた。


 荒川だった。


 先ほどまで別の場所で練習を見ていたらしい。


 武道場の隅に座っている二年生を見つけ、足を止めた。


「お前、そこで何やってる」


 生徒が慌てて立ち上がろうとする。


「……押忍!」


「休憩時間じゃねえぞ。やる気がないなら帰れ」


「……す、すみません!」


 生徒が頭を下げた。


 近くにいた部員たちが、練習の手を止める。


 誰も何も言わない。


 荒川がもう一歩近づいた。


「聞いてんのか。何で勝手に休んでんだ」


「……それは……」


『……あの』


 リンが声をかけた。


 荒川が振り返る。


「あ?」


『その子、足を痛めてるみたいなんで、あたしが休むように言ったんですけど』


 荒川の眉が動いた。


「……お前が?」


『はい』


「誰の許可で?」


『……え?』


「誰の許可で練習を止めさせたんだって聞いてんだよ」


『……いや、足を引きずってたので』


「だから何だ。勝手に判断していいと思ってんのか?」


 荒川の声が大きくなった。


 武道場の空気が変わる。


 菜月が動きを止めた。


 佐伯も、こちらを見ている。


『……でも、怪我してるんですよ?』


「山元!」


 荒川が怒鳴った。


「お前、俺の話を聞いてんのか!」


 近くにいた部員が、びくりと肩を震わせた。


 しかし、リンは動かなかった。


『……聞いてますけど』


「だったら勝手な真似すんな! ここは俺が預かってる部だ!」


『……それと、怪我してる子を休ませるのは別の話じゃないですか?』


「何だと?」


『足、痛めてるんですよ。そのまま練習続けさせるつもりだったんですか?』


「お前なあ……!」


 荒川が一歩踏み出した。


「新任のくせに、俺に指導でもする気か!」


『……指導じゃないです』


 リンは荒川を見返した。


『ただ、怪我してる子を練習させるのはおかしいって言ってるだけです』


「だから勝手に判断するなって言ってんだろうが!」


『じゃあ、先生に報告するまで、あの子を痛い足で立たせとけばよかったんですか?』


「……っ!」


『それとも、怪我してても我慢して練習するのが正しいんですか?』


 荒川の顔が赤くなった。


「……山元、お前……!」


 部員たちは息を呑んだ。


 誰も、荒川にここまで言い返したことがなかった。


 まして、赴任して間もない新任教師が。


 荒川はリンを睨みつけた。


「……いいか。今後、俺に一言もなく勝手に練習を止めるな。分かったな!」


『……報告しなかったことは、すみません』


 リンは答えた。


『でも、足を痛めてる子を休ませたことは、間違ってないと思います』


「……っ!」


 荒川はしばらくリンを睨んでいた。


 やがて、二年生へ顔を向ける。


「……お前、保健室行ってこい!」


「……お、押忍!」


「佐伯! 付き添ってやれ!」


「押忍!」


 佐伯がすぐに動いた。


 荒川はリンを振り返る。


「山元。お前は後で職員室に来い」


『……分かりました』


 リンは頷いた。


 荒川は舌打ちし、練習へ戻っていった。


 武道場には、しばらく妙な静けさが残っていた。


 リンは小さく息を吐いた。


(……終わった)


 背中に、じわりと嫌な汗が浮かぶ。


(……絶対あたし、目つけられた……)


 それでも、さっきの二年生を休ませたことについては、後悔していなかった。


 あの足で稽古を続けさせる方が、よほどおかしい。


 そう思った。


     ◇


 荒川が武道場の奥へ戻ると、部員たちは恐る恐る練習を再開した。


 菜月は、リンの背中を見つめていた。


「……ねえ、先輩」


 隣にいた三年生へ、小声で話しかける。


「山元先生って、いつもあんな感じなんですか?」


「……いや、俺も今日が初めてだから知らねえよ」


「ですよね」


 菜月は少し笑った。


「初日からあの先生、ぶっ飛ばしすぎてんね」


「……お前、声でかいって」


「だって、荒川先生にあんな言い返す人、初めて見ましたよ」


 菜月はもう一度、リンを見た。


「……私、好きかも。ああいう先生」


 その言葉を聞いていた別の部員が頷いた。


「……俺も、ちょっとびっくりした」


「でしょ?」


 菜月は嬉しそうに笑った。


 佐伯が戻ってきたのは、それから少し後だった。


「……お前ら、何話してんだ」


「あ、佐伯先輩!」


 菜月が振り返る。


「山元先生、すごいですね!」


「……まあな」


 佐伯はリンの方を見た。


「でも、荒川先生も相当怒ってるぞ。山元先生、大丈夫かな……」


「……あ」


 菜月は少し心配そうな顔をした。


 当のリンは、武道場の端で予定表を握りしめていた。


(……あたしの平穏な教師生活、完全に終わった……)


 もちろん、部員たちはそんなことを考えているとは知らなかった。


     ◇


 練習が終わったあと。


 リンは職員室へ呼ばれた。


 荒川は自分の席に座り、腕を組んでいた。


「……山元」


『……はい』


「さっきのことだがな」


『……はい』


「俺に何も言わずに練習を止めさせるな」


『……すみません』


「部活には部活の決まりがある。怪我をしてるなら、その場で俺に報告しろ」


『……はい』


「それから、部員の前であんな言い方をするな」


『……それは、すみませんでした』


 リンは頭を下げた。


 荒川は少し鼻を鳴らした。


「……お前、全国準優勝したって聞いてたから、もう少し分かってると思ったんだがな」


『…………』


「競技やってりゃ、多少の痛みくらいあるんだよ」


 リンは顔を上げた。


『……でも、足を引きずってましたよ』


「……何?」


『普通に歩くのも辛そうでした。あれで練習させるのは、やっぱり危ないと思います』


 荒川が眉を寄せる。


「……お前、まだ言うか」


『……報告しなかったのは、あたしが悪かったです』


 リンは言った。


『でも、休ませたことは間違ってないと思います』


「…………」


 荒川はしばらく黙っていた。


 やがて、大きく息を吐いた。


「……分かった。もういい」


『……はい』


「明日からは、必ず報告しろ」


『……分かりました』


「あと、勝手に判断する前に、俺に確認しろ。いいな」


『……はい』


 リンは頭を下げた。


 職員室を出ると、ようやく肩の力が抜けた。


『……はぁぁ……』


 長いため息が漏れる。


(……疲れた……)


 空手の指導なんて、結局一つもできなかった。


 それどころか、初日から顧問と衝突した。


 この先どうなるのか、考えるだけで気が重い。


『……もう、ほんと無理……』


 リンは鞄を持ち直し、廊下を歩き始めた。


     ◇


 昇降口へ向かう途中。


「……山元先生!」


 後ろから声がした。


 振り返ると、先ほどの二年生が立っていた。


 右足には、保健室で処置してもらったらしい包帯が巻かれている。


『……あ、さっきの!』


 リンは足元を見た。


『大丈夫だった?』


「……はい。保健室で診てもらいました」


『……そっか。何て言われた?』


「……しばらく、無理な練習はしない方がいいって」


『……やっぱり』


 リンは小さく頷いた。


『ちゃんと休みなよ。悪化したら困るでしょ』


「……押忍」


 生徒は少し迷ったあと、頭を下げた。


「……ありがとうございました」


『……え?』


「本当は、結構痛かったんです」


『…………』


「でも、大会も近いし、自分から休むって言いづらくて……」


 リンは黙って聞いていた。


「先生が止めてくれて、助かりました」


『……そっか』


 リンは少しだけ笑った。


『……それなら、よかった』


 生徒も小さく笑った。


「……押忍!」


『……うん。でも、次からはちゃんと自分でも言うんだよ?』


「……はい!」


『怪我してまで頑張って、動けなくなったら意味ないんだから』


「……押忍!」


 生徒はもう一度頭を下げ、廊下の向こうへ歩いていった。


 リンはその背中を見送った。


 空手の技術なんて分からない。


 全国準優勝の経歴に見合う指導もできない。


 今日だって、顧問に思いきり怒鳴られた。


 それでも。


 あの生徒の役には立てた。


『……まあ……』


 リンは小さく息を吐いた。


『……今日は、これでいいか……』


 鞄を肩へかけ直す。


 明日になれば、また空手部がある。


 荒川にも、きっと何か言われるだろう。


 それを考えると、やっぱり気が重かった。


 けれど、朝よりは少しだけ足取りが軽い。


 リンは昇降口を出た。


 夕方の校庭から、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 どこかで、菜月の元気な声も響いていた。


「押忍!」


 リンは思わず振り返った。


 そして、小さく笑った。


『……押忍、か』


 まだ、その言葉を自然に口にできる気はしない。


 けれど、少しだけ嫌いではなくなった。

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