↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/43

第六話「先生、熱量やば」

 二〇二六年(令和八年)四月九日、木曜日。


 午前六時半。


 けたたましい電子音が、部屋に響き渡った。


『……っ!?』


 凛は布団から跳ね起きた。


 何事かと思って周囲を見渡す。


 音の出どころは、枕元に置かれたスマートフォンだった。


 薄い画面に数字が表示されている。


 凛が恐る恐る触れると、表示が変わった。


 しかし、音は止まらない。


『……どうすればいいんだ、これは!』


 画面を押す。


 今度は音が消えた。


『……よし』


 そう思った途端、別の通知音が鳴った。


『……っ!』


 凛はスマートフォンを見つめた。


 画面には、知らない文字がいくつも並んでいる。


 昨日、瀬戸に教えてもらった操作を思い出そうとする。


 しかし、どうにも上手くいかない。


『……まったく……』


 凛はスマートフォンを机へ置いた。


 この時代に来て、三日目。


 知らないものばかりだった。


 駅では切符を使わずに改札を通る。


 学校では紙の名簿を使わない。


 連絡事項も、資料も、何もかも薄い画面の中にある。


 今朝は目覚まし時計すら満足に止められなかった。


(……それでも、慣れるしかない)


 凛は立ち上がった。


 その瞬間、太腿に痛みが走る。


『……いたっ』


 昨日の体育授業による筋肉痛だった。


 軽く走って、少し身体を動かしただけ。


 それだけで、脚が重い。


『……なかなか手強い身体だな』


 凛は苦笑し、ゆっくりと膝を曲げ伸ばしした。


 今の身体では、以前のような稽古はできそうにない。


 だが、身体を鍛えることなら、方法はいくらでもある。


 時間をかければ、きっと改善できるはずだ。


 凛はスーツではなく、山本リンの私服に着替えた。


 鏡の前に立つ。


 映っているのは、もう三日も見ている女性の顔だった。


 それでも、まだ自分の顔だとは思えない。


『……さて』


 凛は鏡の中の女性へ向かって頷いた。


『今日も頑張ろう』


     ◇


 一階へ降りると、台所では母親の真由美が朝食を準備していた。


「おはよう、リン」


『おはようございます!』


 真由美の手が止まった。


「……おはよう」


 凛は食卓についた。


 テーブルには、焼いたパンと卵料理が並んでいる。


 向かいの席では、制服姿の少年がスマートフォンを操作していた。


 山本悠斗。


 山本リンの弟で、十六歳。


 凛は昨日、家族写真と会話から名前を覚えたばかりだった。


『おはよう、悠斗!』


「……おはよ」


 悠斗は画面から目を上げずに答えた。


 凛は少し考えたあと、声をかけた。


『朝食中に、その機械を使うのか?』


「……は?」


『いや、食事のときくらい、手を休めた方がいいと思ってな』


 悠斗が顔を上げた。


「……姉ちゃん?」


『何だ?』


「いや、何でもない」


 悠斗はスマートフォンを伏せた。


 しかし、納得している様子ではなかった。


 凛はパンへ手を伸ばす。


 真由美が牛乳を置いた。


「リン、最近コーヒー飲まないのね」


『……コーヒーですか?』


「そう。いつも朝に飲んでたでしょ」


『……ああ、そうでしたか』


「……そうでしたかって」


 真由美は凛を見た。


『……今日は牛乳の気分なので!』


「……そう」


 真由美はそれ以上聞かなかった。


 凛はパンをかじった。


 食卓の隅に、見慣れない小さな機械が置かれていた。


 そこから突然、女性の声が流れる。


「今日の東京都心は――」


『……っ!?』


 凛は思わずそちらを見た。


 悠斗が眉を寄せた。


「……何、びっくりしてんの?」


『……いや、突然声がしたのでな』


「ニュース流しただけじゃん」


『……そうか』


 悠斗は凛の顔を見つめた。


「……姉ちゃん、最近ほんと変だよ」


『……そうか?』


「うん」


 短い返事だった。


 凛は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。


     ◇


 桜丘高校の職員室。


 凛は自分の席へ着くと、机の上のiPadを手に取った。


 昨日、早川に教わった方法を思い出しながら画面を操作する。


『……これを開いて……』


 違う画面が表示された。


『……いや、違うな』


 戻る。


 もう一度開く。


 今度は、何かを入力するよう求められた。


『…………』


 凛は画面を見つめた。


 昨日は、確かここから学校の連絡事項を確認できたはずだった。


 しかし、どこを押したのか思い出せない。


「山本先生?」


 隣から声がした。


 早川奈緒だった。


「どうしました?」


『……あの、昨日教えていただいた連絡事項なのですが』


「ああ、共有フォルダですね」


『はい! それが、どうにも見つからなくて……』


 早川は凛の画面を覗き込んだ。


「……そこじゃないですね」


 数回操作すると、目的の画面が現れた。


「ここです。昨日も説明しましたけど、このアイコンから入ってください」


『……ありがとうございます!』


「……山本先生」


『はい』


「分からないことを聞いてくれるのはいいんですけど、操作方法は少しずつ覚えてくださいね」


『……はい。申し訳ありません』


 早川は頷いた。


「慣れれば難しくないですから」


 そう言って、自分の席へ戻っていった。


 凛は画面を見下ろした。


 並んでいる文字は読める。


 だが、その場所へたどり着くまでが分からない。


 周囲の教員たちは、同じような機械を当たり前のように操作している。


 誰も、画面の一つひとつに驚いたりしない。


(……皆、これを使いこなしているのか)


 凛は指先を見つめた。


 この手では、思うように拳を振るうこともできない。


 それなのに、指一本で動く機械さえ満足に扱えない。


 小さなため息が漏れた。


『……覚えなければな』


 凛はもう一度、画面へ向き直った。


     ◇


 昼休み。


 三年四組の教室では、生徒たちがそれぞれの時間を過ごしていた。


 凛は午後の連絡事項を確認するため、教室へ立ち寄った。


 教卓へ資料を置く。


 そのとき、窓際から聞こえてきた会話に足が止まった。


「だからさ、今年は部活ちょっと減らそうと思ってんだよね」


 話していたのは神谷陸だった。


 近くには、男子生徒が二人座っている。


「え、マジ? 引退まであと少しじゃん」


「まあ、そうなんだけど。受験もあるし」


 陸は机に頬杖をついた。


「塾も増やす予定だから、今までどおりは無理かなって」


「でも、最後の大会は出るんだろ?」


「それは出るよ。全部やめるわけじゃないし」


 凛は陸の言葉を聞いた。


 最後の大会。


 その響きに、大学時代の記憶が蘇る。


 空手に打ち込んできた日々。


 何度も繰り返した稽古。


 全国大会の決勝で味わった悔しさ。


 もっとできたことがあったのではないか。


 あのとき、そう思った。


 今でも、その気持ちは忘れていない。


『陸!』


 突然名前を呼ばれ、陸が顔を上げた。


「……あ、先生。何ですか?」


『今、最後の大会と言っていたな!』


「……はい」


『それなら、悔いのないように取り組まなければな!』


「……ああ、まあ。そうっすね」


 陸は曖昧に頷いた。


 友人の一人が軽く笑う。


「先生、部活好きそうだもんな」


『もちろんだ! 学生時代にしかできない経験だからな!』


「……ですよね」


 陸は笑って応じた。


 凛はその反応に励まされ、言葉を続けた。


『最後の大会は一度しかないんだ! 今からでも、もっと練習に打ち込んでみたらどうだ?』


「いや、練習はちゃんと出ますよ。ただ、回数は少し減らそうかなって」


『しかし、練習を減らせば、それだけ感覚も鈍ってしまうだろう?』


「……まあ、そうかもしれないですけど」


『私も大学では空手に打ち込んでいてな! 最後の大会に向けては、毎日――』


 そこまで言いかけて、凛は口を閉じた。


 今の自分は山本リンだ。


 その経歴を不用意に話すわけにはいかない。


『……とにかく、最後まで諦めないことが大切だ!』


 陸が少しだけ眉を寄せた。


「……いや、諦めるわけじゃないんですけど」


『ああ、分かっている! だからこそ、もっと上を目指してほしいんだ!』


「……先生、俺、受験があるんで」


『受験も大切だ! もちろん勉強も頑張らなければならない!』


「……はい」


『だが、勉強も部活も、両方全力でやることだってできるはずだ!』


 陸は答えなかった。


 友人の一人が、間に入るように口を開いた。


「でも陸、最近ずっと忙しそうですよ。塾もあるし」


『そうなのか?』


「はい。帰るのも結構遅いみたいで」


 凛は陸へ目を向けた。


『ならば、時間の使い方を工夫してみたらどうだ? 短い時間でも、集中すればできることはある!』


「……いや、だから」


 陸の声が少し低くなった。


「俺、それも考えたんですよ」


『そうか!』


「それで、勉強優先にしようって決めたんです」


『うん! 自分で考えることは素晴らしい!』


 凛は頷いた。


『だが、せっかく続けてきた部活だろう? 今ここで練習を減らして、後悔しないか?』


「…………」


 陸は机から肘を下ろした。


「……先生」


『何だ?』


「俺、別に部活を辞めるって言ってませんよね?」


『ああ! それは分かっている!』


「大会にも出るって言いましたよね?」


『もちろんだ!』


「だったら、何でそんなに言われなきゃいけないんですか?」


 凛は言葉を止めた。


『……いや、私は、きみに悔いのない一年を――』


「だから!」


 陸の声が大きくなった。


 近くにいた生徒たちが振り返る。


「……どんだけ暑苦しいんだよ」


『…………』


「さっきから全力とか、諦めるなとか。そればっかじゃないですか」


 陸は凛を見た。


「俺、自分で考えて決めたんですよ。勉強も部活も、どっちも中途半端にしたくないから」


『……ああ』


「なのに、何で勝手に諦めたことにされてんの?」


『……それは……』


「先生が頑張るのは自由ですけど、それを俺に押しつけないでください」


 凛は返す言葉を失った。


 陸は椅子から立ち上がる。


「……そもそも、俺、先生に相談してたわけじゃないんで」


 友人の一人が陸を見た。


「……陸、行こうぜ」


「……うん」


 陸は凛の横を通り過ぎた。


 残された友人も、気まずそうに軽く頭を下げ、後を追った。


 凛はしばらく、その場に立っていた。


 教室では、少しずつ元の話し声が戻り始めている。


 ただ、陸が座っていた机だけが、妙に目についた。


『……私は……』


 励ましたかった。


 最後の大会を、悔いのないものにしてほしかった。


 それだけだった。


 けれど、陸は確かに怒っていた。


 凛は手にしていた連絡資料へ目を落とした。


 文字は読めるのに、内容が頭に入ってこなかった。


     ◇


 午後のホームルーム。


 凛は教卓の前に立っていた。


 三十二人の生徒が、席についている。


 いつもなら、ここで元気よく挨拶をするところだった。


 しかし、声が出なかった。


『……それでは、明日の連絡をする』


 教室は静かだった。


 凛は資料を見ながら、必要な事項を読み上げていく。


 提出物。


 予定。


 明日の授業に関する連絡。


 その途中、神谷陸の席へ目が向いた。


 陸は前を向いている。


 特に何かを言う様子はなかった。


 凛は視線を資料へ戻した。


(……また、余計なことを言ってしまうかもしれない)


 生徒たちへ何か一言かけようとして、やめた。


 励ますつもりで言った言葉が、相手を怒らせることもある。


 そのことが、まだ上手く飲み込めなかった。


『……以上だ。何か質問はあるか?』


 誰も手を上げない。


『……では、これで終わりにする』


 凛は資料を閉じた。


 生徒たちが席を立ち、友人同士で話し始める。


 凛は教卓の前で、少しだけその様子を見ていた。


 そして、静かに教室を出た。


     ◇


 放課後。


 職員室で書類を整理していると、瀬戸が声をかけてきた。


「リン先生、何かありました?」


『……何故だ?』


「いや、今日は少し元気がないように見えたので」


『……そうか』


 凛は手元の書類を揃えた。


 少し迷ったあと、昼休みの出来事を話した。


 瀬戸は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「……なるほど」


『……私は、彼を励ましたかっただけなんだ』


「それは、分かります」


『しかし、怒らせてしまった』


 凛は机へ目を落とした。


 瀬戸は少し考えた。


「……難しいですね」


『……そうだな』


「神谷くんにも事情があるでしょうし、リン先生にも伝えたかったことがあるでしょうし」


『……ああ』


「……僕も、そういう場面になったら、どうするのが正解なのか分からないです」


 瀬戸は正直に言った。


 凛は顔を上げた。


 瀬戸は少し困ったように笑った。


「僕も新任なので、偉そうなことは言えませんけど」


『……いや』


 凛は首を振った。


『話を聞いてくれて、ありがとう』


「……いえ」


 瀬戸は頷いた。


 凛は書類を鞄へしまった。


 結局、どうすればよかったのかは分からなかった。


     ◇


 夕方。


 凛が山本家へ戻ると、玄関の照明が自動で点いた。


『……っ』


 思わず足を止める。


 三日目になっても、まだ慣れない。


 壁のスイッチを押していないのに明かりがつく。


 冷蔵庫の扉には小さな画面があり、何かの予定が表示されている。


 居間のテレビは薄く、大きい。


 リモコンのボタンを押せば、見たこともない種類の番組が次々に現れる。


 この家では、何もかもが当たり前のように使われていた。


 しかし、凛にはまだ、その当たり前が分からない。


『……ただいま』


「おかえりー」


 台所から真由美の声がした。


 凛は鞄を置き、居間へ向かった。


 そこで、テーブルに置かれた小さな機械へ目が留まった。


 画面に、山本リンの名前が表示されている。


 どうやら、何かの通知らしい。


 凛は触れるのをためらった。


 勝手に操作して、またおかしなことになったら困る。


「……姉ちゃん」


 背後から声がした。


 悠斗だった。


「それ、鳴ってたよ」


『……ああ、そうなのか』


「見ないの?」


『……後で確認する』


「……何で?」


『……今は、少し忙しいのでな』


「……別に忙しそうじゃないけど」


 悠斗は凛を見た。


 それから、テーブルのスマートフォンへ目を向ける。


「……姉ちゃん、マジでどうしたの?」


『……何がだ?』


「最近、スマホ全然使わないじゃん」


『……そうか?』


「そうだよ。前はずっと見てたのに」


 凛は返事に困った。


 悠斗は眉を寄せた。


「……何か、ほんと別人みたい」


『…………』


 凛は視線を落とした。


 その言葉が、昼間の陸の声と重なった。


     ◇


 夕食の席には、山本家の四人が揃っていた。


 父親の浩二。


 母親の真由美。


 弟の悠斗。


 そして、凛。


 真由美が料理を並べながら言った。


「リン、今日はどうだった?」


『……はい。少し、大変なことがありました』


「……そう」


 真由美は凛の顔を見た。


「新しい仕事、やっぱり大変?」


『……はい。ですが、何とか頑張ろうと思っています』


 浩二が箸を置いた。


「……リン」


『はい』


「最近、少し無理してないか?」


『……無理、ですか?』


「そう。何だか、以前と様子が違うからな」


 凛は黙った。


 悠斗が口を開く。


「ていうか、姉ちゃん最近おかしすぎるんだよ」


「悠斗」


 真由美がたしなめる。


 しかし、悠斗は続けた。


「だってさ、スマホの使い方も忘れたみたいだし、喋り方も変だし」


『…………』


「朝だって、いきなり食事中にスマホ使うなとか言うし」


「……それは別に、悪いことじゃないだろう」


 浩二が言った。


「いや、そういう話じゃなくて」


 悠斗は父親へ向き直った。


「今までそんなこと言わなかったじゃん。急に全部変わったんだよ」


 真由美が凛を見た。


「……リン。何かあったなら、話してほしいの」


『……いえ、私は……』


「……私?」


 悠斗が顔を上げた。


「姉ちゃん、前からそんな喋り方だったっけ?」


『……あっ』


 凛は言葉を止めた。


 自分の一人称。


 自分の話し方。


 それは、二十二年間使い続けてきたものだった。


 だが、山本リンは違う。


 この家族が知っている娘は、こんな話し方をしないのだろう。


『……すまない』


 凛は小さく頭を下げた。


『……最近、色々と考えることがあってな』


 真由美は凛の顔を見た。


「……リン」


『……はい』


「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」


『…………』


 凛は顔を上げられなかった。


     ◇


 夕食後。


 真由美は家族を居間へ集めた。


 凛もソファへ座る。


 何の話をするのかは、聞かなくても分かった。


「……リン」


 真由美が切り出した。


「もう一度、ちゃんと聞かせて」


『……はい』


「最近、何かあった?」


 凛は返答に迷った。


 言えるはずがない。


 自分が二十六年前から来た人間だなんて。


 山本リンという女性の身体で目を覚ましたなんて。


 どう説明すればいいのかさえ分からなかった。


『……仕事が始まって、少し戸惑っているだけです』


 真由美はしばらく黙っていた。


「……本当に、それだけ?」


『……はい』


 悠斗が腕を組んだ。


「絶対それだけじゃないって」


「悠斗」


「だって、姉ちゃんじゃない人が喋ってるみたいなんだよ」


『…………』


 凛は言葉を失った。


 浩二が静かに口を開く。


「悠斗。言い方を考えなさい」


「……でもさ」


「分かってる。お父さんだって、リンの様子が違うことには気づいてる」


 浩二は凛へ目を向けた。


「ただ、今すぐ全部話せと言っても難しいことはあるだろう」


 凛は俯いた。


 真由美が続ける。


「リン。もし仕事がつらいなら、休んでもいいのよ」


『……いえ、それは……』


「無理しなくていいの。私たちは心配してるだけだから」


 その言葉が、胸に刺さった。


 この家族は、自分を心配している。


 しかし、心配している相手は山本リンだ。


 自分ではない。


 凛は膝の上で手を握った。


『……心配をかけて、申し訳ありません』


 真由美の表情が曇った。


「……リン」


 凛は顔を上げた。


「家族なんだから、そんなに謝らなくていいのよ」


『…………』


 何も答えられなかった。


 この人たちは、優しい。


 自分が困っていることを、本気で心配してくれている。


 それなのに、自分は何も話せない。


 山本リンではないことさえ、言えない。


 凛は小さく頭を下げた。


『……少し、休ませてください』


 真由美は頷いた。


「……うん。ゆっくり休みなさい」


 浩二も、無理に引き止めなかった。


 悠斗だけが、何か言いたそうに凛を見ていた。


 凛は居間を出た。


     ◇


 自室の扉を閉めた。


 凛はしばらく、その場に立っていた。


 昼間、陸に言われた言葉が頭を離れなかった。


 ――どんだけ暑苦しいんだよ。


 そして、先ほどの悠斗の言葉。


 ――姉ちゃんじゃない人が喋ってるみたいなんだよ。


 凛は机の上のスマートフォンへ目を向けた。


 画面には、山本リンが家族と撮った写真が残されている。


 皆、楽しそうに笑っていた。


 けれど、その中に自分はいない。


『……当たり前か』


 凛はスマートフォンを伏せ、床に座り込んだ。


 自分にも家族がいる。


 父がいて、母がいて、姉の美咲がいて、健吾がいる。


 昨日まで、会いたければ会えた人たちだった。


『……父さん……』


 名前を呼んでも、返事はない。


 皆、二十六年前にいるのだから。


 そもそも、なぜ自分は二十六年もの時を越えたのだろう。


 なぜ、山本リンという別の女性の身体で目を覚ましたのか。


 何がきっかけだったのかも、元に戻れるのかさえ分からない。


 空手なら、負けた理由を考え、稽古を重ねればよかった。


 けれど、今回は何をすればいいのだろう。


『……どうすれば、帰れるんだ……』


 凛は膝を抱えた。


 今朝まで、何とかなると思っていた。


 知らない機械も、動かない身体も、努力すれば乗り越えられると。


 でも、二十六年という時間だけは、どれほど頑張っても埋められる気がしなかった。


『……帰りたい……』


 声が震えた。


 目元が熱くなる。


 凛は慌てて袖で拭ったが、涙は止まらなかった。


『……母さんに、会いたい……』


 そのまま膝に顔を埋めた。


 しばらくして、小さな声が漏れた。


『……健吾にも……』


 誰にも聞かれない部屋で、凛は泣いた。


 強くなろうと決めて生きてきた。


 その自分が、今は帰り方さえ分からずにいる。


『……お願いだ……』


 握りしめた手に、涙が落ちた。


『……私を、帰してくれ……』


 返事はなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。