第六話「先生、熱量やば」
二〇二六年(令和八年)四月九日、木曜日。
午前六時半。
けたたましい電子音が、部屋に響き渡った。
『……っ!?』
凛は布団から跳ね起きた。
何事かと思って周囲を見渡す。
音の出どころは、枕元に置かれたスマートフォンだった。
薄い画面に数字が表示されている。
凛が恐る恐る触れると、表示が変わった。
しかし、音は止まらない。
『……どうすればいいんだ、これは!』
画面を押す。
今度は音が消えた。
『……よし』
そう思った途端、別の通知音が鳴った。
『……っ!』
凛はスマートフォンを見つめた。
画面には、知らない文字がいくつも並んでいる。
昨日、瀬戸に教えてもらった操作を思い出そうとする。
しかし、どうにも上手くいかない。
『……まったく……』
凛はスマートフォンを机へ置いた。
この時代に来て、三日目。
知らないものばかりだった。
駅では切符を使わずに改札を通る。
学校では紙の名簿を使わない。
連絡事項も、資料も、何もかも薄い画面の中にある。
今朝は目覚まし時計すら満足に止められなかった。
(……それでも、慣れるしかない)
凛は立ち上がった。
その瞬間、太腿に痛みが走る。
『……いたっ』
昨日の体育授業による筋肉痛だった。
軽く走って、少し身体を動かしただけ。
それだけで、脚が重い。
『……なかなか手強い身体だな』
凛は苦笑し、ゆっくりと膝を曲げ伸ばしした。
今の身体では、以前のような稽古はできそうにない。
だが、身体を鍛えることなら、方法はいくらでもある。
時間をかければ、きっと改善できるはずだ。
凛はスーツではなく、山本リンの私服に着替えた。
鏡の前に立つ。
映っているのは、もう三日も見ている女性の顔だった。
それでも、まだ自分の顔だとは思えない。
『……さて』
凛は鏡の中の女性へ向かって頷いた。
『今日も頑張ろう』
◇
一階へ降りると、台所では母親の真由美が朝食を準備していた。
「おはよう、リン」
『おはようございます!』
真由美の手が止まった。
「……おはよう」
凛は食卓についた。
テーブルには、焼いたパンと卵料理が並んでいる。
向かいの席では、制服姿の少年がスマートフォンを操作していた。
山本悠斗。
山本リンの弟で、十六歳。
凛は昨日、家族写真と会話から名前を覚えたばかりだった。
『おはよう、悠斗!』
「……おはよ」
悠斗は画面から目を上げずに答えた。
凛は少し考えたあと、声をかけた。
『朝食中に、その機械を使うのか?』
「……は?」
『いや、食事のときくらい、手を休めた方がいいと思ってな』
悠斗が顔を上げた。
「……姉ちゃん?」
『何だ?』
「いや、何でもない」
悠斗はスマートフォンを伏せた。
しかし、納得している様子ではなかった。
凛はパンへ手を伸ばす。
真由美が牛乳を置いた。
「リン、最近コーヒー飲まないのね」
『……コーヒーですか?』
「そう。いつも朝に飲んでたでしょ」
『……ああ、そうでしたか』
「……そうでしたかって」
真由美は凛を見た。
『……今日は牛乳の気分なので!』
「……そう」
真由美はそれ以上聞かなかった。
凛はパンをかじった。
食卓の隅に、見慣れない小さな機械が置かれていた。
そこから突然、女性の声が流れる。
「今日の東京都心は――」
『……っ!?』
凛は思わずそちらを見た。
悠斗が眉を寄せた。
「……何、びっくりしてんの?」
『……いや、突然声がしたのでな』
「ニュース流しただけじゃん」
『……そうか』
悠斗は凛の顔を見つめた。
「……姉ちゃん、最近ほんと変だよ」
『……そうか?』
「うん」
短い返事だった。
凛は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
◇
桜丘高校の職員室。
凛は自分の席へ着くと、机の上のiPadを手に取った。
昨日、早川に教わった方法を思い出しながら画面を操作する。
『……これを開いて……』
違う画面が表示された。
『……いや、違うな』
戻る。
もう一度開く。
今度は、何かを入力するよう求められた。
『…………』
凛は画面を見つめた。
昨日は、確かここから学校の連絡事項を確認できたはずだった。
しかし、どこを押したのか思い出せない。
「山本先生?」
隣から声がした。
早川奈緒だった。
「どうしました?」
『……あの、昨日教えていただいた連絡事項なのですが』
「ああ、共有フォルダですね」
『はい! それが、どうにも見つからなくて……』
早川は凛の画面を覗き込んだ。
「……そこじゃないですね」
数回操作すると、目的の画面が現れた。
「ここです。昨日も説明しましたけど、このアイコンから入ってください」
『……ありがとうございます!』
「……山本先生」
『はい』
「分からないことを聞いてくれるのはいいんですけど、操作方法は少しずつ覚えてくださいね」
『……はい。申し訳ありません』
早川は頷いた。
「慣れれば難しくないですから」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
凛は画面を見下ろした。
並んでいる文字は読める。
だが、その場所へたどり着くまでが分からない。
周囲の教員たちは、同じような機械を当たり前のように操作している。
誰も、画面の一つひとつに驚いたりしない。
(……皆、これを使いこなしているのか)
凛は指先を見つめた。
この手では、思うように拳を振るうこともできない。
それなのに、指一本で動く機械さえ満足に扱えない。
小さなため息が漏れた。
『……覚えなければな』
凛はもう一度、画面へ向き直った。
◇
昼休み。
三年四組の教室では、生徒たちがそれぞれの時間を過ごしていた。
凛は午後の連絡事項を確認するため、教室へ立ち寄った。
教卓へ資料を置く。
そのとき、窓際から聞こえてきた会話に足が止まった。
「だからさ、今年は部活ちょっと減らそうと思ってんだよね」
話していたのは神谷陸だった。
近くには、男子生徒が二人座っている。
「え、マジ? 引退まであと少しじゃん」
「まあ、そうなんだけど。受験もあるし」
陸は机に頬杖をついた。
「塾も増やす予定だから、今までどおりは無理かなって」
「でも、最後の大会は出るんだろ?」
「それは出るよ。全部やめるわけじゃないし」
凛は陸の言葉を聞いた。
最後の大会。
その響きに、大学時代の記憶が蘇る。
空手に打ち込んできた日々。
何度も繰り返した稽古。
全国大会の決勝で味わった悔しさ。
もっとできたことがあったのではないか。
あのとき、そう思った。
今でも、その気持ちは忘れていない。
『陸!』
突然名前を呼ばれ、陸が顔を上げた。
「……あ、先生。何ですか?」
『今、最後の大会と言っていたな!』
「……はい」
『それなら、悔いのないように取り組まなければな!』
「……ああ、まあ。そうっすね」
陸は曖昧に頷いた。
友人の一人が軽く笑う。
「先生、部活好きそうだもんな」
『もちろんだ! 学生時代にしかできない経験だからな!』
「……ですよね」
陸は笑って応じた。
凛はその反応に励まされ、言葉を続けた。
『最後の大会は一度しかないんだ! 今からでも、もっと練習に打ち込んでみたらどうだ?』
「いや、練習はちゃんと出ますよ。ただ、回数は少し減らそうかなって」
『しかし、練習を減らせば、それだけ感覚も鈍ってしまうだろう?』
「……まあ、そうかもしれないですけど」
『私も大学では空手に打ち込んでいてな! 最後の大会に向けては、毎日――』
そこまで言いかけて、凛は口を閉じた。
今の自分は山本リンだ。
その経歴を不用意に話すわけにはいかない。
『……とにかく、最後まで諦めないことが大切だ!』
陸が少しだけ眉を寄せた。
「……いや、諦めるわけじゃないんですけど」
『ああ、分かっている! だからこそ、もっと上を目指してほしいんだ!』
「……先生、俺、受験があるんで」
『受験も大切だ! もちろん勉強も頑張らなければならない!』
「……はい」
『だが、勉強も部活も、両方全力でやることだってできるはずだ!』
陸は答えなかった。
友人の一人が、間に入るように口を開いた。
「でも陸、最近ずっと忙しそうですよ。塾もあるし」
『そうなのか?』
「はい。帰るのも結構遅いみたいで」
凛は陸へ目を向けた。
『ならば、時間の使い方を工夫してみたらどうだ? 短い時間でも、集中すればできることはある!』
「……いや、だから」
陸の声が少し低くなった。
「俺、それも考えたんですよ」
『そうか!』
「それで、勉強優先にしようって決めたんです」
『うん! 自分で考えることは素晴らしい!』
凛は頷いた。
『だが、せっかく続けてきた部活だろう? 今ここで練習を減らして、後悔しないか?』
「…………」
陸は机から肘を下ろした。
「……先生」
『何だ?』
「俺、別に部活を辞めるって言ってませんよね?」
『ああ! それは分かっている!』
「大会にも出るって言いましたよね?」
『もちろんだ!』
「だったら、何でそんなに言われなきゃいけないんですか?」
凛は言葉を止めた。
『……いや、私は、きみに悔いのない一年を――』
「だから!」
陸の声が大きくなった。
近くにいた生徒たちが振り返る。
「……どんだけ暑苦しいんだよ」
『…………』
「さっきから全力とか、諦めるなとか。そればっかじゃないですか」
陸は凛を見た。
「俺、自分で考えて決めたんですよ。勉強も部活も、どっちも中途半端にしたくないから」
『……ああ』
「なのに、何で勝手に諦めたことにされてんの?」
『……それは……』
「先生が頑張るのは自由ですけど、それを俺に押しつけないでください」
凛は返す言葉を失った。
陸は椅子から立ち上がる。
「……そもそも、俺、先生に相談してたわけじゃないんで」
友人の一人が陸を見た。
「……陸、行こうぜ」
「……うん」
陸は凛の横を通り過ぎた。
残された友人も、気まずそうに軽く頭を下げ、後を追った。
凛はしばらく、その場に立っていた。
教室では、少しずつ元の話し声が戻り始めている。
ただ、陸が座っていた机だけが、妙に目についた。
『……私は……』
励ましたかった。
最後の大会を、悔いのないものにしてほしかった。
それだけだった。
けれど、陸は確かに怒っていた。
凛は手にしていた連絡資料へ目を落とした。
文字は読めるのに、内容が頭に入ってこなかった。
◇
午後のホームルーム。
凛は教卓の前に立っていた。
三十二人の生徒が、席についている。
いつもなら、ここで元気よく挨拶をするところだった。
しかし、声が出なかった。
『……それでは、明日の連絡をする』
教室は静かだった。
凛は資料を見ながら、必要な事項を読み上げていく。
提出物。
予定。
明日の授業に関する連絡。
その途中、神谷陸の席へ目が向いた。
陸は前を向いている。
特に何かを言う様子はなかった。
凛は視線を資料へ戻した。
(……また、余計なことを言ってしまうかもしれない)
生徒たちへ何か一言かけようとして、やめた。
励ますつもりで言った言葉が、相手を怒らせることもある。
そのことが、まだ上手く飲み込めなかった。
『……以上だ。何か質問はあるか?』
誰も手を上げない。
『……では、これで終わりにする』
凛は資料を閉じた。
生徒たちが席を立ち、友人同士で話し始める。
凛は教卓の前で、少しだけその様子を見ていた。
そして、静かに教室を出た。
◇
放課後。
職員室で書類を整理していると、瀬戸が声をかけてきた。
「リン先生、何かありました?」
『……何故だ?』
「いや、今日は少し元気がないように見えたので」
『……そうか』
凛は手元の書類を揃えた。
少し迷ったあと、昼休みの出来事を話した。
瀬戸は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「……なるほど」
『……私は、彼を励ましたかっただけなんだ』
「それは、分かります」
『しかし、怒らせてしまった』
凛は机へ目を落とした。
瀬戸は少し考えた。
「……難しいですね」
『……そうだな』
「神谷くんにも事情があるでしょうし、リン先生にも伝えたかったことがあるでしょうし」
『……ああ』
「……僕も、そういう場面になったら、どうするのが正解なのか分からないです」
瀬戸は正直に言った。
凛は顔を上げた。
瀬戸は少し困ったように笑った。
「僕も新任なので、偉そうなことは言えませんけど」
『……いや』
凛は首を振った。
『話を聞いてくれて、ありがとう』
「……いえ」
瀬戸は頷いた。
凛は書類を鞄へしまった。
結局、どうすればよかったのかは分からなかった。
◇
夕方。
凛が山本家へ戻ると、玄関の照明が自動で点いた。
『……っ』
思わず足を止める。
三日目になっても、まだ慣れない。
壁のスイッチを押していないのに明かりがつく。
冷蔵庫の扉には小さな画面があり、何かの予定が表示されている。
居間のテレビは薄く、大きい。
リモコンのボタンを押せば、見たこともない種類の番組が次々に現れる。
この家では、何もかもが当たり前のように使われていた。
しかし、凛にはまだ、その当たり前が分からない。
『……ただいま』
「おかえりー」
台所から真由美の声がした。
凛は鞄を置き、居間へ向かった。
そこで、テーブルに置かれた小さな機械へ目が留まった。
画面に、山本リンの名前が表示されている。
どうやら、何かの通知らしい。
凛は触れるのをためらった。
勝手に操作して、またおかしなことになったら困る。
「……姉ちゃん」
背後から声がした。
悠斗だった。
「それ、鳴ってたよ」
『……ああ、そうなのか』
「見ないの?」
『……後で確認する』
「……何で?」
『……今は、少し忙しいのでな』
「……別に忙しそうじゃないけど」
悠斗は凛を見た。
それから、テーブルのスマートフォンへ目を向ける。
「……姉ちゃん、マジでどうしたの?」
『……何がだ?』
「最近、スマホ全然使わないじゃん」
『……そうか?』
「そうだよ。前はずっと見てたのに」
凛は返事に困った。
悠斗は眉を寄せた。
「……何か、ほんと別人みたい」
『…………』
凛は視線を落とした。
その言葉が、昼間の陸の声と重なった。
◇
夕食の席には、山本家の四人が揃っていた。
父親の浩二。
母親の真由美。
弟の悠斗。
そして、凛。
真由美が料理を並べながら言った。
「リン、今日はどうだった?」
『……はい。少し、大変なことがありました』
「……そう」
真由美は凛の顔を見た。
「新しい仕事、やっぱり大変?」
『……はい。ですが、何とか頑張ろうと思っています』
浩二が箸を置いた。
「……リン」
『はい』
「最近、少し無理してないか?」
『……無理、ですか?』
「そう。何だか、以前と様子が違うからな」
凛は黙った。
悠斗が口を開く。
「ていうか、姉ちゃん最近おかしすぎるんだよ」
「悠斗」
真由美がたしなめる。
しかし、悠斗は続けた。
「だってさ、スマホの使い方も忘れたみたいだし、喋り方も変だし」
『…………』
「朝だって、いきなり食事中にスマホ使うなとか言うし」
「……それは別に、悪いことじゃないだろう」
浩二が言った。
「いや、そういう話じゃなくて」
悠斗は父親へ向き直った。
「今までそんなこと言わなかったじゃん。急に全部変わったんだよ」
真由美が凛を見た。
「……リン。何かあったなら、話してほしいの」
『……いえ、私は……』
「……私?」
悠斗が顔を上げた。
「姉ちゃん、前からそんな喋り方だったっけ?」
『……あっ』
凛は言葉を止めた。
自分の一人称。
自分の話し方。
それは、二十二年間使い続けてきたものだった。
だが、山本リンは違う。
この家族が知っている娘は、こんな話し方をしないのだろう。
『……すまない』
凛は小さく頭を下げた。
『……最近、色々と考えることがあってな』
真由美は凛の顔を見た。
「……リン」
『……はい』
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
『…………』
凛は顔を上げられなかった。
◇
夕食後。
真由美は家族を居間へ集めた。
凛もソファへ座る。
何の話をするのかは、聞かなくても分かった。
「……リン」
真由美が切り出した。
「もう一度、ちゃんと聞かせて」
『……はい』
「最近、何かあった?」
凛は返答に迷った。
言えるはずがない。
自分が二十六年前から来た人間だなんて。
山本リンという女性の身体で目を覚ましたなんて。
どう説明すればいいのかさえ分からなかった。
『……仕事が始まって、少し戸惑っているだけです』
真由美はしばらく黙っていた。
「……本当に、それだけ?」
『……はい』
悠斗が腕を組んだ。
「絶対それだけじゃないって」
「悠斗」
「だって、姉ちゃんじゃない人が喋ってるみたいなんだよ」
『…………』
凛は言葉を失った。
浩二が静かに口を開く。
「悠斗。言い方を考えなさい」
「……でもさ」
「分かってる。お父さんだって、リンの様子が違うことには気づいてる」
浩二は凛へ目を向けた。
「ただ、今すぐ全部話せと言っても難しいことはあるだろう」
凛は俯いた。
真由美が続ける。
「リン。もし仕事がつらいなら、休んでもいいのよ」
『……いえ、それは……』
「無理しなくていいの。私たちは心配してるだけだから」
その言葉が、胸に刺さった。
この家族は、自分を心配している。
しかし、心配している相手は山本リンだ。
自分ではない。
凛は膝の上で手を握った。
『……心配をかけて、申し訳ありません』
真由美の表情が曇った。
「……リン」
凛は顔を上げた。
「家族なんだから、そんなに謝らなくていいのよ」
『…………』
何も答えられなかった。
この人たちは、優しい。
自分が困っていることを、本気で心配してくれている。
それなのに、自分は何も話せない。
山本リンではないことさえ、言えない。
凛は小さく頭を下げた。
『……少し、休ませてください』
真由美は頷いた。
「……うん。ゆっくり休みなさい」
浩二も、無理に引き止めなかった。
悠斗だけが、何か言いたそうに凛を見ていた。
凛は居間を出た。
◇
自室の扉を閉めた。
凛はしばらく、その場に立っていた。
昼間、陸に言われた言葉が頭を離れなかった。
――どんだけ暑苦しいんだよ。
そして、先ほどの悠斗の言葉。
――姉ちゃんじゃない人が喋ってるみたいなんだよ。
凛は机の上のスマートフォンへ目を向けた。
画面には、山本リンが家族と撮った写真が残されている。
皆、楽しそうに笑っていた。
けれど、その中に自分はいない。
『……当たり前か』
凛はスマートフォンを伏せ、床に座り込んだ。
自分にも家族がいる。
父がいて、母がいて、姉の美咲がいて、健吾がいる。
昨日まで、会いたければ会えた人たちだった。
『……父さん……』
名前を呼んでも、返事はない。
皆、二十六年前にいるのだから。
そもそも、なぜ自分は二十六年もの時を越えたのだろう。
なぜ、山本リンという別の女性の身体で目を覚ましたのか。
何がきっかけだったのかも、元に戻れるのかさえ分からない。
空手なら、負けた理由を考え、稽古を重ねればよかった。
けれど、今回は何をすればいいのだろう。
『……どうすれば、帰れるんだ……』
凛は膝を抱えた。
今朝まで、何とかなると思っていた。
知らない機械も、動かない身体も、努力すれば乗り越えられると。
でも、二十六年という時間だけは、どれほど頑張っても埋められる気がしなかった。
『……帰りたい……』
声が震えた。
目元が熱くなる。
凛は慌てて袖で拭ったが、涙は止まらなかった。
『……母さんに、会いたい……』
そのまま膝に顔を埋めた。
しばらくして、小さな声が漏れた。
『……健吾にも……』
誰にも聞かれない部屋で、凛は泣いた。
強くなろうと決めて生きてきた。
その自分が、今は帰り方さえ分からずにいる。
『……お願いだ……』
握りしめた手に、涙が落ちた。
『……私を、帰してくれ……』
返事はなかった。




