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第五話「体育教師の憂鬱」

 二〇二六年(令和八年)四月八日、水曜日。


 東京都立桜丘高校。


『おはようございます!!』


 凛が職員室へ入ると、何人かの教員が顔を上げた。


「お、おはようございます」


「山本先生、今日も元気ですね」


『はい! 本日もよろしくお願いいたします!』


 凛は勢いよく頭を下げ、自分の席へ向かった。


 昨日は、初めて担任として三年四組の生徒たちと顔を合わせた。


 皆、礼儀正しく、話も静かに聞いてくれる。


 しかも、結衣という親切な生徒までいた。


 凛は、なかなか幸先のいい一日だったと思っている。


 そして今日は、いよいよ体育の授業がある。


『……よし!』


 凛は鞄を机へ置いた。


 今の身体には、まだ慣れていない。


 昨日も駅まで歩いただけで、思った以上に脚が重くなった。


 だが、長年空手に打ち込んできた自分には、身体の動かし方についての知識がある。


 動くのが難しいなら、少しずつ鍛え直せばいい。


 そう考えていた。


「山本先生、おはようございます」


 声をかけてきたのは、早川奈緒だった。


『おはようございます!』


「今日は体育の授業がありますけど、準備は大丈夫ですか?」


『はい! 楽しみにしておりました!』


「……楽しみに?」


『身体を動かすことなら得意ですから!』


 早川は一瞬、言葉に詰まった。


「……そうですか」


『はい!』


「まあ、初回ですし、いきなり本格的な運動はしませんからね」


 早川は手元の資料を開いた。


「今日は授業の進め方を説明して、準備運動と軽い運動から始めましょう。安全確認も忘れないでください」


『承知しました!』


「あと、昨日渡した授業計画のデータは……」


 早川が机の上のiPadへ目を向ける。


 凛もつられて、そちらを見た。


『…………』


「……山本先生?」


『……はい!』


「操作、まだ不安ですか?」


『……少々!』


 早川は小さく息を吐いた。


「分からないなら、先に確認しましょう。授業中に困ると大変ですから」


『ありがとうございます!』


 凛は椅子を引き、早川の隣へ移動した。


 画面には、今日の授業内容が表示されていた。


 指で触れると、文字が動く。


 別の場所を押すと、新しい画面が現れる。


 昨日から何度見ても、不思議な機械だった。


(……この時代の教師は、これを使いこなさなければならないのか)


 空手の稽古なら、何百回でも繰り返せる。


 しかし、この機械に関しては、どこから練習すればいいのかさえ分からない。


 凛は早川の説明を、一つも聞き漏らすまいと画面を覗き込んだ。


     ◇


 体育館には、運動着に着替えた生徒たちが集まっていた。


 凛はその前に立つ。


『おはよう!!』


「……おはようございます」


 まばらな返事が返ってきた。


 凛は気にせず続ける。


『今日から体育を担当する山本リンだ! よろしく頼む!』


 生徒たちがこちらを見る。


『まずは準備運動から始めよう! 怪我をしないよう、しっかり身体を動かすぞ!』


「……はい」


 凛は腕を大きく回した。


『こうして、肩を十分にほぐしてから――』


 腕が途中で止まった。


『……ん?』


 もう一度回してみる。


 肩が硬い。


 動かせないわけではないが、思ったほど滑らかに回らなかった。


(……なるほど。この身体は肩が硬いのか)


 凛はそのまま動きを続けた。


『無理に動かす必要はない! 自分のできる範囲で構わないからな!』


 生徒たちも腕を回し始める。


 続いて、屈伸。


 身体を前へ倒し、床へ手を伸ばす。


『……っ!』


 指先が、床へ届かない。


 凛は膝を曲げそうになり、慌てて踏みとどまった。


(……こんなに硬いのか!?)


 自分の身体なら、何の苦もなくできていた動作だ。


 しかし、今は太腿の裏側が引っ張られ、それ以上前へ倒せない。


 凛は顔を上げた。


 生徒たちの中には、軽々と床へ手をつけている者もいる。


『……素晴らしい柔軟性だな!』


 近くの女子生徒が、不思議そうに凛を見た。


「……先生?」


『どうした!』


「……先生の方が、きつそうですけど……」


『……ああ! 少し身体が硬くなっていてな!』


「……そうなんですか」


『だが、心配はいらない! 鍛え直せばいいだけだ!』


 凛は胸を張った。


 その直後、腰の辺りに鈍い痛みが走った。


『……っ!』


「……大丈夫ですか?」


『問題ない!』


 凛は姿勢を戻した。


 無理はいけない。


 そう教える立場なのだから、自分も気をつけなければならない。


 しかし、今まで当たり前にできていたことができないというのは、想像以上に悔しかった。


     ◇


 準備運動の次は、体育館内を軽く走ることになった。


『それでは、まず私が見本を見せよう!』


 凛は生徒たちの前に出た。


 床を蹴る。


 身体が前へ進む。


 だが、思ったほど速度が出ない。


(……遅い!)


 踏み込みが浅い。


 脚の回転も鈍い。


 もう少し強く床を蹴ろうとする。


 しかし、身体がついてこなかった。


 凛は体育館の端まで走り、折り返した。


 そこで、呼吸が乱れ始めた。


『……はっ……はっ……』


(……これしきで!?)


 走った距離は大したことがない。


 自分が学生時代に行っていた稽古と比べれば、準備運動にもならないはずだった。


 それなのに、肺が苦しい。


 脚が重い。


 凛は生徒たちの前へ戻ると、膝に手をつきそうになった。


 しかし、そこは何とかこらえた。


『……よし! このくらいの速さで十分だ!』


 生徒たちは静かに頷いた。


 そのうちの一人が、控えめに手を上げる。


「……先生、無理してません?」


『……無理?』


「……結構、息切れてますけど」


『ああ! 少し鈍っているだけだ!』


 凛は笑顔で答えた。


『皆は、自分の体力に合わせて走るように! 無理は禁物だぞ!』


 生徒たちが走り始める。


 凛はその様子を見守った。


(……まさか、ここまで違うとはな)


 今の身体が自分のものではないことは分かっている。


 それでも、二十二年間かけて覚えた感覚が、簡単に消えるわけではなかった。


 頭の中では、もっと速く動ける。


 もっと高く跳べる。


 もっと長く走れる。


 けれど、それを実行するための身体がない。


 凛は拳を握った。


『……よし』


 今は、できない。


 だが、それなら今できることを考えればいい。


 凛は走っている生徒たちへ目を向けた。


     ◇


 体育館の端で、一人の女子生徒が何度も足元を気にしていた。


 走るたびに、身体が左右へ大きく傾いている。


 凛はその生徒へ近づいた。


『きみ! 少しいいか!』


「……はい?」


『走るとき、足元ばかり見ていないか?』


「……あ、はい。何か、転びそうで……」


『なるほど!』


 凛は生徒の横へ立った。


『視線を少し前へ向けてみよう! それから、肩に力を入れすぎないことだ!』


「……肩、ですか?」


『ああ! 今、ずっと肩が上がっている。少し楽にしてみろ!』


 凛は自分の肩を軽く下げて見せた。


『無理に速く走る必要はない。まずは安定して動くことだ!』


「……分かりました」


 女子生徒はもう一度走り始めた。


 先ほどより、身体の揺れが小さい。


 足元を見る回数も減っていた。


 凛は満足して頷いた。


『そうだ! その調子!』


 女子生徒が振り返る。


「……あ、さっきより走りやすいです」


『だろう!』


 凛は笑った。


『慌てなくていい! 少しずつ慣れていけばいいからな!』


「はい」


 生徒は小さく頷き、再び走っていった。


 凛はその背中を見送った。


 自分が速く走れなくても、生徒の動きを見て助言することはできる。


 身体が変わっても、今まで学んできたことまで失われたわけではない。


 そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


     ◇


 授業が終わる頃には、凛の運動着は汗で湿っていた。


 体育館を出て、廊下の壁に背中を預ける。


『……ふう……』


 疲れた。


 身体をほとんど動かしていない時間もあったはずなのに、ずいぶん消耗している。


 そこへ、瀬戸湊が通りかかった。


「リン先生?」


『おお、瀬戸!』


「……大丈夫ですか?」


『ああ! 少々身体が鈍っているようでな!』


「……何か、すごく疲れてません?」


『問題ない! 鍛え直せばいいだけだ!』


 瀬戸は凛の顔を見た。


「……でも、先生が全部見本を見せなくてもいいと思いますよ」


『……そうなのか?』


「はい。もちろん実演できると分かりやすいですけど、それだけが体育の授業じゃないですし」


 瀬戸は体育館の方へ目を向けた。


「生徒の動きを見て、必要なところを教えるのも大事ですから」


『……確かにな』


 凛は先ほどの女子生徒を思い出した。


 少し姿勢を直しただけで、走りやすくなったと喜んでいた。


『その点は、今日少し実感した!』


「それならよかったです」


『だが!』


「……はい?」


『やはり、自分でできないというのは悔しい!』


 凛は拳を握った。


『教師たるもの、生徒の前に立つ以上、日々精進しなければならないからな!』


「……精進……」


『よし! 今日から鍛錬を始めよう!』


「……あの、あんまり急にやると怪我しますよ」


『分かっている! 無理はしない!』


 凛は大きく頷いた。


 瀬戸は少し考えたあと、言った。


「……まずは軽い運動からにしましょうね」


『もちろんだ!』


 凛は胸を張った。


 少なくとも、本人はそのつもりだった。


     ◇


 二〇〇〇年(平成十二年)四月八日、土曜日。


 東京都内、山元家。


『……やだ……』


 リンは布団の中で呟いた。


 頭の中では、昨日の出来事が繰り返されていた。


 四十人の生徒たち。


 次々に飛んでくる質問。


 机の上に置かれた、虫のようなつけまつげ。


 小野寺に叱られた学校だより。


 そして、空手部の佐伯。


(……あんな人たちに、あたしが指導とか……)


 想像しただけで胃が重くなる。


 リンは布団を頭まで引き上げた。


『……行きたくない……』


 そのとき、ふと気づいた。


 今日は何曜日だっただろう。


 昨日が金曜日。


 ということは。


『…………』


 リンは布団から顔を出した。


 机の上のカレンダーを見る。


 四月八日。


 土曜日。


『……休み……?』


 しばらく考える。


 そして、勢いよく起き上がった。


『……休みじゃん!!』


 今日は学校へ行かなくていい。


 あの教室へ行かなくていい。


 空手部の練習を見る必要もない。


『……やった……!』


 リンは再び布団へ倒れ込んだ。


 こんなに土曜日がありがたいと思ったことは、今までなかった。


     ◇


 朝食の席では、正志が新聞を読んでいた。


 和子は台所で味噌汁をよそっている。


「凛、おはよう」


『……おはよう……』


「随分遅かったな」


 正志が新聞から目を上げた。


『……今日は休みだから……』


「休みだからといって、いつまでも寝ていていいわけじゃないぞ」


『……はい……』


 リンは食卓についた。


 和子が味噌汁を置く。


「昨日、相当疲れてたみたいね」


『……うん……』


「初めての担任だもの。慣れるまでは大変よね」


 リンは小さく頷いた。


 正志が新聞を畳む。


「それで、昨日はどうだったんだ」


『……どうって……』


「生徒たちとは上手くやれたのか?」


 リンの箸が止まった。


 正志は返事を待っている。


『……全然……』


「何?」


『……ちょっと、失敗して……』


 リンは、学校だよりを配らなかったことを簡単に説明した。


 正志は黙って聞いていた。


 話し終えると、眉を寄せる。


「……勝手に配るものを減らしたのか」


『……うん……』


「そりゃ叱られるだろう」


『……はい……』


「仕事は一人でするものじゃない。自分が正しいと思っても、まず確認しなきゃ駄目だ」


 リンは返す言葉がなかった。


 自分でも、それは分かっている。


 昨日、小野寺から言われたばかりだった。


 正志は味噌汁を一口飲んだ。


「……まあ、失敗したものは仕方ない」


『……え?』


「次から気をつけろ。それだけだ」


 リンは顔を上げた。


 正志は、もう新聞へ手を伸ばしている。


「最初から何でもできる奴なんかいない。だが、同じ失敗を繰り返すのは駄目だぞ」


『……うん……』


 和子が小さく笑った。


「お父さんだって、若い頃は失敗ばかりだったくせに」


「……余計なことを言うな」


「この前も会社で書類を間違えたって言ってたじゃない」


「それは別の話だ!」


 和子が楽しそうに笑う。


 リンも、思わず少し笑った。


 正志は不満そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。


「おはよー!」


 明るい声とともに、一人の女性が居間へ入ってきた。


 長い髪を後ろでまとめた、二十代半ばくらいの女性。


 リンは箸を持ったまま、その人を見た。


「何、凛。そんな顔して」


『……え?』


「昨日、仕事大変だったんだって?」


 女性はリンの隣の椅子を引いた。


 和子が声をかける。


「美咲もご飯食べる?」


「食べるー!」


(……美咲……)


 リンは、その名前を頭の中で繰り返した。


 山元凛の姉。


 昨夜、部屋で見た家族写真にも写っていた人物だった。


「ねえ、凛」


『……はい?』


 美咲が眉を上げた。


「……はい?」


『……あっ、何?』


「何その返事」


『……いや、別に……』


 美咲は少しだけリンを見つめた。


 それから、いつもの調子に戻る。


「今日、暇でしょ?」


『……まあ……』


「だったら買い物行かない?」


『……買い物?』


「うん。駅前。携帯も見たいし、雑誌も買いたいし」


 リンは少し考えた。


 知らない時代。


 知らない街。


 それでも、家に閉じこもっているだけでは何も分からない。


 それに、山元凛の姉と一緒なら、道に迷う心配もなさそうだった。


『……じゃあ、ちょっとだけ……』


「え、いいの?」


『……うん』


「珍しい。いつもなら稽古がどうとか言うのに」


『…………』


 美咲は妹の顔を見た。


「……まあ、いいや。じゃあ準備してね」


 そう言って、和子から茶碗を受け取った。


 リンは箸を動かし始めた。


(……いつもなら、稽古……)


 休みの日まで空手。


 この身体の持ち主は、本当に空手が好きだったらしい。


     ◇


 昼前。


 リンは美咲と駅前の商店街を歩いていた。


 看板の色使い。


 店先に並んだ商品。


 行き交う人々の服装。


 どこを見ても、懐かしい写真の中へ入り込んだような景色だった。


 しかし、リン自身がこの時代を生きた記憶はない。


 見覚えがあるのは、テレビの特集やインターネットで見た映像の中だけだ。


「凛、何ぼーっとしてんの?」


『……あ、いや。ちょっと……』


「昨日、まだ引きずってる?」


『……まあ、少し……』


「ふーん」


 美咲はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、道の先を指さした。


「あ、あそこ寄っていい?」


 携帯電話ショップだった。


『……うん』


 リンは美咲について店内へ入った。


     ◇


 店の中には、携帯電話がずらりと並んでいた。


 折り畳み式のもの。


 小さな画面がついたもの。


 色違いの端末。


 リンは展示品を見つめた。


(……小さ……)


 今朝から見ている携帯電話も小さいと思っていたが、改めて店頭で並んでいるものを見ると驚く。


 美咲は、一台の端末を手に取った。


「これ、可愛くない?」


『……うん、可愛いね』


「色もいいし、今のより使いやすそうなんだよねー」


 美咲は値札を覗き込んだ。


「……うわ、二万!? 高っ!」


『安っ!!』


 美咲が振り返った。


「……は?」


『……あっ』


「凛、今、安いって言った?」


『……いや、その……』


「二万円だよ!?」


『……うん……』


「高いでしょ、普通!」


 リンは値札をもう一度見た。


 新規契約時の価格。


 二万円前後。


 画面も小さく、インターネットも今のようには使えない。


 カメラすらついていない機種が多い。


 もちろん、機能が違うことは分かる。


 それでも、普段十万円を超えるスマートフォンを見慣れているリンにとっては、数字だけならずいぶん安く感じられた。


『……いや、思ったより安いなって……』


「……あんた、金銭感覚どうしたの?」


『……ごめん……』


「いや、謝ることじゃないけど」


 美咲は端末を棚へ戻した。


「……何か、今日変だよね」


『……え?』


「昨日からかな」


 リンは口を閉じた。


 美咲はしばらく妹を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「ま、いいや。もう少し安いの探そ」


『……うん』


 リンは美咲の後を追った。


 背中に、少し嫌な汗が流れた。


(……やっぱり、変に見えるよね……)


     ◇


 次に入ったのは、駅前の書店だった。


 入口近くには、女性向けのファッション雑誌が並んでいる。


 美咲は慣れた様子で一冊を手に取った。


「ねえ、この服よくない?」


『……どれ?』


 リンが隣から覗き込む。


 そこで、思わず目を見開いた。


『……えっ!?』


「何?」


『……米倉涼子!?』


「……そうだけど?」


 誌面には、若い女性モデルの写真が掲載されていた。


 整った顔立ち。


 長い手足。


 凛とした表情。


 名前も、確かに米倉涼子と書かれている。


『……若っ!!』


「……は?」


『……あっ』


「何言ってんの? まだ二十四歳くらいでしょ?」


『……そ、そうだよね……』


 リンは慌てて頷いた。


 二〇二六年のテレビで見ていた姿とは、当然ながら違う。


 けれど、写真で見ると、改めて時間の隔たりを実感した。


 米倉涼子が、まだ二十四歳。


 自分と二歳しか違わない。


(……本当に二〇〇〇年なんだ……)


 美咲が雑誌を閉じた。


「……ねえ、凛」


『……何?』


「さっきから、何に驚いてんの?」


『……いや、別に……』


「別にって、全然別にじゃないでしょ」


 美咲の声が、少しだけ強くなった。


「携帯は安いって言うし、米倉涼子は若いって言うし。何なの?」


『……ごめん……』


「だから、何で謝るのよ」


 美咲は雑誌を棚へ戻した。


「……別に怒ってるわけじゃないけどさ」


 そう言いながらも、少し不機嫌そうだった。


 リンは何も言えなかった。


 美咲にとって当たり前のものが、自分には当たり前ではない。


 その違いを説明しようにも、説明すればするほど、おかしなことになる。


 しばらくして、美咲が別の雑誌を手に取った。


「……まあ、これ買って帰ろ」


『……うん』


 リンは隣で、小さく頷いた。


     ◇


 書店を出たあと、二人はCDショップへ向かった。


 入口の近くから、賑やかな音楽が聞こえてくる。


 店内に入ると、リンは足を止めた。


『……うわ……』


 大きなポスター。


 目立つ場所に積まれたCD。


 壁には、同じグループの写真が何枚も飾られている。


 モーニング娘。


 店内には『恋のダンスサイト』が流れていた。


(……すご……)


 もちろん、名前は知っている。


 曲も聞いたことがある。


 けれど、二〇二六年のリンにとって、それは過去の大ヒット曲だった。


 ところが今は違う。


 店のあちこちに、同じグループのポスターがある。


 新しいアルバム『3rd-LOVEパラダイス-』が平積みされ、手に取っている客も多い。


 近くでは女子高生らしい二人組が、メンバーの名前を挙げて盛り上がっていた。


「ねえ、やっぱゴマキ可愛くない?」


「分かる! 超可愛い!」


 美咲がその声を聞き、楽しそうに笑った。


「分かるけど、私はやっぱ矢口だなー」


『……矢口?』


「矢口真里!」


『……ああ……』


「ちっちゃくて可愛いじゃん!」


 リンはポスターへ目を向けた。


 そこには、若い矢口真里の姿があった。


(……クローゼットの人か)


 口には出さなかった。


 美咲は楽しそうにCDを眺めている。


「凛は誰が好き?」


『……あたし?』


「そう、あんた」


『……うーん……あんまり詳しくなくて……』


 美咲の手が止まった。


「……は?」


『……え?』


「あんた、前は一緒に歌ってたじゃん」


『…………』


「『LOVEマシーン』。覚えてないの?」


『……あ、うん……』


「……本当に?」


『……うん……』


 美咲はリンの顔を見た。


 少しの間、何も言わなかった。


 そして、手にしていたCDを棚へ戻した。


「……そっか」


『……うん……』


「……じゃあ、いいや」


 美咲は別の棚へ歩いていった。


 リンはその後ろ姿を見つめた。


 さっきまで、あんなに楽しそうだったのに。


(……また、変なこと言っちゃった……)


 けれど、自分にはどうしようもなかった。


 山元凛が姉と一緒に歌った記憶なんて、持っていないのだから。


     ◇


 買い物の途中、二人は喫茶店へ入った。


 美咲はアイスコーヒー。


 リンはオレンジジュースを頼んだ。


「……凛、ジュースなんだ」


『……うん』


「コーヒー飲まないの?」


『……あんまり好きじゃなくて……』


「……そう」


 美咲はストローの袋を破った。


 少しだけ、気まずい沈黙が流れる。


 リンは窓の外を見た。


 行き交う人々。


 店の前に停まる自転車。


 遠くから聞こえる車の音。


 ここは、確かに二〇〇〇年だった。


「……ねえ」


『……何?』


「昨日、そんなに大変だったの?」


 リンは美咲を見た。


『……うん……』


「何があったの?」


『……えっと……』


 リンは、学校での出来事を少しずつ話し始めた。


 生徒たちが賑やかすぎて、話が進まなかったこと。


 つけまつげを虫と間違えたこと。


 学校だよりを勝手に省いて、叱られたこと。


 美咲は最初、黙って聞いていた。


 しかし、つけまつげの話になると、思わず吹き出した。


「……ちょっと待って! つけまを虫と間違えたの!?」


『……うん……』


「嘘でしょ!?」


『……本当……』


「……あはははっ!」


 美咲は口元を押さえた。


 リンは少しむっとした。


『……笑わないでよ……』


「ごめん、ごめん! だって、あんたが虫で悲鳴って!」


『……だって、すごく大きかったんだもん……』


「そりゃ、美奈ちゃんもびっくりするわ!」


 美咲はしばらく笑っていた。


 リンも、つられて少し笑った。


 昨日は、恥ずかしくて仕方なかった。


 けれど、美咲に話してみると、ほんの少しだけ違って聞こえた。


 やがて、美咲は笑いを収めた。


「……でもさ、凛」


『……うん?』


「らしくないよね」


 リンの手が止まった。


「昔から、あんたって負けず嫌いだったじゃん」


『…………』


「空手で負けた日なんか、家帰ってもずっと悔しがってたし」


 美咲はアイスコーヒーを一口飲んだ。


「次の日には、また朝から稽古行ってさ」


『……そうなんだ……』


「……そうなんだ?」


『……あっ』


 美咲が眉を寄せた。


「自分のことでしょ?」


『……うん……』


 リンは目を伏せた。


 また、失敗した。


 美咲はしばらく黙っていた。


 そして、窓の外へ視線を向けた。


「……まあ、教師になって環境変わったんだもんね」


『……うん……』


「そりゃ、色々あるか」


 その声には、完全には納得していない響きがあった。


 リンは何も言えなかった。


 美咲は話題を変えるように続けた。


「でも、先生になるの、あんなに楽しみにしてたのにね」


『……え?』


「凛が」


 美咲は妹を見た。


「ずっと言ってたじゃん。生徒たちに何か教えられるような人になりたいって」


『…………』


「空手も好きだけど、人に教えるのも好きだって」


 リンは膝の上で手を握った。


 自分は、昨日の学校へ二度と行きたくないと思っている。


 けれど、山元凛は違った。


 この身体の持ち主は、ずっと教師になることを楽しみにしていた。


 その仕事を、今は自分が代わりにしている。


(……どうしよう……)


 リンは、ジュースのグラスを見つめた。


 美咲は小さく息を吐いた。


「……あ、そういえば」


『……何?』


「健吾くんとは最近どうなの?」


『……健吾くん?』


「……は?」


『……あっ、いや……』


「彼氏の名前まで忘れたの?」


『……ち、違う。ちょっと、ぼーっとしてて……』


 美咲はじっとリンを見た。


「……凛」


『……うん……』


「本当に大丈夫?」


 リンは、すぐには答えられなかった。


 美咲の表情は、さっきまでのように笑っていない。


 心配している。


 それと同時に、何かを確かめようとしているようにも見えた。


『……大丈夫、だと思う……』


「……そっか」


 美咲は椅子の背にもたれた。


「……まあ、今日は買い物に来たんだし。変な話はやめよっか」


『……うん……』


 リンは小さく頷いた。


 しばらくして、美咲がバッグから雑誌を取り出した。


「ねえ、さっきの服、やっぱ可愛くない?」


『……あ、うん。可愛い』


「でしょ? 凛もこういうの着てみたら?」


『……あたしが?』


「うん。いつもジャージばっかりなんだから」


 美咲は笑った。


 リンも、今度は自然に笑った。


 そして気づく。


 知らない時代でも、知らない人とでも。


 こうして話している時間は、少し楽しい。


 ただ、その相手が自分を別の人間だと思っていることだけが、胸に引っかかっていた。


     ◇


 夕方、二人は買い物を終えて帰宅した。


 和子が玄関で迎える。


「おかえり。楽しかった?」


「うん! 凛と買い物するの久しぶりだったし!」


『……ただいま……』


 和子は二人を見比べた。


「よかったわね、凛」


『……うん』


 リンは頷いた。


 昨日よりは、少しだけ気持ちが軽かった。


     ◇


 夕食後。


 居間では、正志がテレビを見ていた。


 和子は食器を片づけ、美咲は新聞のテレビ欄を眺めている。


 リンはソファの端に座り、ぼんやりと画面を見ていた。


 この家のテレビは、奥行きがある。


 画面の大きさも、二〇二六年のものと比べればずいぶん小さい。


 だが、映っている映像は思ったよりきれいだった。


 そのとき。


「あっ!!」


 美咲が声を上げた。


『……な、何?』


「今日から内Pじゃん! 録画しなきゃ!」


『……内P?』


「内村プロデュース! ウッチャンの新番組!」


『……へえ……』


 リンは首を傾けた。


 聞いたことのない番組名だった。


 美咲は新聞を持ち上げた。


「ほら、ここ! 深夜から!」


『……本当だ……』


「楽しみにしてたんだよねー!」


 美咲は嬉しそうに笑った。


 それから、ふと思いついたように言う。


「凛、ビデオの予約お願い!」


『……えっ、あたしが!?』


「うん! 私、ちょっとお風呂入ってくるから!」


 美咲は新聞をテーブルに置いた。


 リンはテレビの下を見た。


 黒い箱のような機械。


 ビデオデッキだった。


『…………』


(……録画予約って、どうやるの……?)


 リモコンはある。


 数字のボタンもある。


 けれど、何をどう押せばいいのか分からない。


 リンは恐る恐るリモコンを手に取った。


 その様子を見ていた美咲が、足を止めた。


「……凛?」


『……何?』


「……あんた、ビデオの予約くらいできるよね?」


『……えっと……』


「……ちょっと」


 美咲は戻ってきた。


 リンの手元を覗き込む。


「……まさか、忘れたの?」


『……ちょっと、やり方が……』


 美咲はしばらく何も言わなかった。


 それから、リンの隣に腰を下ろした。


「……貸して」


『……ごめん……』


「……謝らなくていいから」


 美咲はリモコンを操作した。


 テレビの画面が切り替わる。


「ほら、ここで日付と時間を入れるの」


『……うん……』


「で、チャンネル合わせて……」


 リンは真剣に見つめた。


 美咲の指が、慣れた様子でボタンを押していく。


「はい、これで予約完了」


『……すご……』


「……何が?」


『……あ、いや……』


 美咲はリンの顔を見た。


 少しの間、何も言わなかった。


 それから、リモコンをテーブルへ置いた。


「……ねえ、凛」


『……うん?』


「何かあった?」


 リンは息を止めた。


 美咲は、まっすぐこちらを見ている。


「昨日から、ずっと変だよ」


『…………』


「学校で疲れたとか、そういうのだけじゃなくてさ」


 リンは答えられなかった。


 美咲は言葉を続けようとして、やめた。


 そして、少しだけ視線を落とした。


「……まあ、いいや」


『……え?』


「今、言いたくないなら別にいい」


 美咲は立ち上がった。


「でも、何かあるなら、そのうち教えてよ」


『…………』


「姉妹なんだからさ」


 そう言って、美咲は居間を出ていった。


 リンはしばらく、その背中を見つめていた。


 姉妹。


 その言葉が、胸の中に残った。


 美咲は、自分を妹だと思っている。


 けれど、本当は違う。


 自分は、山元凛ではない。


 では、山元凛は今、どこにいるのだろう。


 その答えは、まだ何も分からなかった。


     ◇


 夜。


 リンは自分の部屋へ戻った。


 机の上には、昨日持ち帰った学校の資料が置かれている。


 その一番上に、名前が印字されていた。


 山元凛。


 同じ読み方で、違う文字。


 二十二歳。


 体育教師。


 空手の全国大会準優勝。


 負けず嫌いで、家族思い。


 そして、教師になることを楽しみにしていた人。


 リンは椅子に腰を下ろした。


『……全然、あたしと違うじゃん……』


 今日、美咲と過ごした時間を思い出す。


 携帯電話の値段に驚いたこと。


 若い米倉涼子を見つけたこと。


 モーニング娘。のCDが山積みになっていたこと。


 美咲が楽しそうに笑っていたこと。


 そして、自分の知らない思い出を語るたび、少しずつ表情を曇らせていたこと。


(……そりゃ、変だと思うよね……)


 リンは机の上の写真立てを手に取った。


 そこには、山元家の四人が写っている。


 正志。


 和子。


 美咲。


 そして、山元凛。


 皆、笑っていた。


 リンは写真を見つめた。


 今日一日で、この家のことを少し知ることができた。


 楽しかった時間もある。


 けれど、それで不安がなくなったわけではない。


 むしろ、知らない誰かの人生を代わりに生きていることが、昨日より重く感じられた。


『……どうしたらいいんだろ……』


 リンは写真立てを机へ戻した。


 その隣には、来週の時間割が置かれている。


 月曜日。


 体育。


『…………』


 武道場で見た佐伯の組手が頭をよぎった。


 鋭い踏み込み。


 速い拳。


 そして、期待に満ちた声。


 ――先生にご指導いただけるのを、楽しみにしています!


『……いや、ほんと無理なんだけど……』


 リンは時間割を伏せた。


 明日は日曜日。


 まだ一日、学校へ行かずに済む。


 そのことだけが、今はありがたかった。

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