第五話「体育教師の憂鬱」
二〇二六年(令和八年)四月八日、水曜日。
東京都立桜丘高校。
『おはようございます!!』
凛が職員室へ入ると、何人かの教員が顔を上げた。
「お、おはようございます」
「山本先生、今日も元気ですね」
『はい! 本日もよろしくお願いいたします!』
凛は勢いよく頭を下げ、自分の席へ向かった。
昨日は、初めて担任として三年四組の生徒たちと顔を合わせた。
皆、礼儀正しく、話も静かに聞いてくれる。
しかも、結衣という親切な生徒までいた。
凛は、なかなか幸先のいい一日だったと思っている。
そして今日は、いよいよ体育の授業がある。
『……よし!』
凛は鞄を机へ置いた。
今の身体には、まだ慣れていない。
昨日も駅まで歩いただけで、思った以上に脚が重くなった。
だが、長年空手に打ち込んできた自分には、身体の動かし方についての知識がある。
動くのが難しいなら、少しずつ鍛え直せばいい。
そう考えていた。
「山本先生、おはようございます」
声をかけてきたのは、早川奈緒だった。
『おはようございます!』
「今日は体育の授業がありますけど、準備は大丈夫ですか?」
『はい! 楽しみにしておりました!』
「……楽しみに?」
『身体を動かすことなら得意ですから!』
早川は一瞬、言葉に詰まった。
「……そうですか」
『はい!』
「まあ、初回ですし、いきなり本格的な運動はしませんからね」
早川は手元の資料を開いた。
「今日は授業の進め方を説明して、準備運動と軽い運動から始めましょう。安全確認も忘れないでください」
『承知しました!』
「あと、昨日渡した授業計画のデータは……」
早川が机の上のiPadへ目を向ける。
凛もつられて、そちらを見た。
『…………』
「……山本先生?」
『……はい!』
「操作、まだ不安ですか?」
『……少々!』
早川は小さく息を吐いた。
「分からないなら、先に確認しましょう。授業中に困ると大変ですから」
『ありがとうございます!』
凛は椅子を引き、早川の隣へ移動した。
画面には、今日の授業内容が表示されていた。
指で触れると、文字が動く。
別の場所を押すと、新しい画面が現れる。
昨日から何度見ても、不思議な機械だった。
(……この時代の教師は、これを使いこなさなければならないのか)
空手の稽古なら、何百回でも繰り返せる。
しかし、この機械に関しては、どこから練習すればいいのかさえ分からない。
凛は早川の説明を、一つも聞き漏らすまいと画面を覗き込んだ。
◇
体育館には、運動着に着替えた生徒たちが集まっていた。
凛はその前に立つ。
『おはよう!!』
「……おはようございます」
まばらな返事が返ってきた。
凛は気にせず続ける。
『今日から体育を担当する山本リンだ! よろしく頼む!』
生徒たちがこちらを見る。
『まずは準備運動から始めよう! 怪我をしないよう、しっかり身体を動かすぞ!』
「……はい」
凛は腕を大きく回した。
『こうして、肩を十分にほぐしてから――』
腕が途中で止まった。
『……ん?』
もう一度回してみる。
肩が硬い。
動かせないわけではないが、思ったほど滑らかに回らなかった。
(……なるほど。この身体は肩が硬いのか)
凛はそのまま動きを続けた。
『無理に動かす必要はない! 自分のできる範囲で構わないからな!』
生徒たちも腕を回し始める。
続いて、屈伸。
身体を前へ倒し、床へ手を伸ばす。
『……っ!』
指先が、床へ届かない。
凛は膝を曲げそうになり、慌てて踏みとどまった。
(……こんなに硬いのか!?)
自分の身体なら、何の苦もなくできていた動作だ。
しかし、今は太腿の裏側が引っ張られ、それ以上前へ倒せない。
凛は顔を上げた。
生徒たちの中には、軽々と床へ手をつけている者もいる。
『……素晴らしい柔軟性だな!』
近くの女子生徒が、不思議そうに凛を見た。
「……先生?」
『どうした!』
「……先生の方が、きつそうですけど……」
『……ああ! 少し身体が硬くなっていてな!』
「……そうなんですか」
『だが、心配はいらない! 鍛え直せばいいだけだ!』
凛は胸を張った。
その直後、腰の辺りに鈍い痛みが走った。
『……っ!』
「……大丈夫ですか?」
『問題ない!』
凛は姿勢を戻した。
無理はいけない。
そう教える立場なのだから、自分も気をつけなければならない。
しかし、今まで当たり前にできていたことができないというのは、想像以上に悔しかった。
◇
準備運動の次は、体育館内を軽く走ることになった。
『それでは、まず私が見本を見せよう!』
凛は生徒たちの前に出た。
床を蹴る。
身体が前へ進む。
だが、思ったほど速度が出ない。
(……遅い!)
踏み込みが浅い。
脚の回転も鈍い。
もう少し強く床を蹴ろうとする。
しかし、身体がついてこなかった。
凛は体育館の端まで走り、折り返した。
そこで、呼吸が乱れ始めた。
『……はっ……はっ……』
(……これしきで!?)
走った距離は大したことがない。
自分が学生時代に行っていた稽古と比べれば、準備運動にもならないはずだった。
それなのに、肺が苦しい。
脚が重い。
凛は生徒たちの前へ戻ると、膝に手をつきそうになった。
しかし、そこは何とかこらえた。
『……よし! このくらいの速さで十分だ!』
生徒たちは静かに頷いた。
そのうちの一人が、控えめに手を上げる。
「……先生、無理してません?」
『……無理?』
「……結構、息切れてますけど」
『ああ! 少し鈍っているだけだ!』
凛は笑顔で答えた。
『皆は、自分の体力に合わせて走るように! 無理は禁物だぞ!』
生徒たちが走り始める。
凛はその様子を見守った。
(……まさか、ここまで違うとはな)
今の身体が自分のものではないことは分かっている。
それでも、二十二年間かけて覚えた感覚が、簡単に消えるわけではなかった。
頭の中では、もっと速く動ける。
もっと高く跳べる。
もっと長く走れる。
けれど、それを実行するための身体がない。
凛は拳を握った。
『……よし』
今は、できない。
だが、それなら今できることを考えればいい。
凛は走っている生徒たちへ目を向けた。
◇
体育館の端で、一人の女子生徒が何度も足元を気にしていた。
走るたびに、身体が左右へ大きく傾いている。
凛はその生徒へ近づいた。
『きみ! 少しいいか!』
「……はい?」
『走るとき、足元ばかり見ていないか?』
「……あ、はい。何か、転びそうで……」
『なるほど!』
凛は生徒の横へ立った。
『視線を少し前へ向けてみよう! それから、肩に力を入れすぎないことだ!』
「……肩、ですか?」
『ああ! 今、ずっと肩が上がっている。少し楽にしてみろ!』
凛は自分の肩を軽く下げて見せた。
『無理に速く走る必要はない。まずは安定して動くことだ!』
「……分かりました」
女子生徒はもう一度走り始めた。
先ほどより、身体の揺れが小さい。
足元を見る回数も減っていた。
凛は満足して頷いた。
『そうだ! その調子!』
女子生徒が振り返る。
「……あ、さっきより走りやすいです」
『だろう!』
凛は笑った。
『慌てなくていい! 少しずつ慣れていけばいいからな!』
「はい」
生徒は小さく頷き、再び走っていった。
凛はその背中を見送った。
自分が速く走れなくても、生徒の動きを見て助言することはできる。
身体が変わっても、今まで学んできたことまで失われたわけではない。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
◇
授業が終わる頃には、凛の運動着は汗で湿っていた。
体育館を出て、廊下の壁に背中を預ける。
『……ふう……』
疲れた。
身体をほとんど動かしていない時間もあったはずなのに、ずいぶん消耗している。
そこへ、瀬戸湊が通りかかった。
「リン先生?」
『おお、瀬戸!』
「……大丈夫ですか?」
『ああ! 少々身体が鈍っているようでな!』
「……何か、すごく疲れてません?」
『問題ない! 鍛え直せばいいだけだ!』
瀬戸は凛の顔を見た。
「……でも、先生が全部見本を見せなくてもいいと思いますよ」
『……そうなのか?』
「はい。もちろん実演できると分かりやすいですけど、それだけが体育の授業じゃないですし」
瀬戸は体育館の方へ目を向けた。
「生徒の動きを見て、必要なところを教えるのも大事ですから」
『……確かにな』
凛は先ほどの女子生徒を思い出した。
少し姿勢を直しただけで、走りやすくなったと喜んでいた。
『その点は、今日少し実感した!』
「それならよかったです」
『だが!』
「……はい?」
『やはり、自分でできないというのは悔しい!』
凛は拳を握った。
『教師たるもの、生徒の前に立つ以上、日々精進しなければならないからな!』
「……精進……」
『よし! 今日から鍛錬を始めよう!』
「……あの、あんまり急にやると怪我しますよ」
『分かっている! 無理はしない!』
凛は大きく頷いた。
瀬戸は少し考えたあと、言った。
「……まずは軽い運動からにしましょうね」
『もちろんだ!』
凛は胸を張った。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
◇
二〇〇〇年(平成十二年)四月八日、土曜日。
東京都内、山元家。
『……やだ……』
リンは布団の中で呟いた。
頭の中では、昨日の出来事が繰り返されていた。
四十人の生徒たち。
次々に飛んでくる質問。
机の上に置かれた、虫のようなつけまつげ。
小野寺に叱られた学校だより。
そして、空手部の佐伯。
(……あんな人たちに、あたしが指導とか……)
想像しただけで胃が重くなる。
リンは布団を頭まで引き上げた。
『……行きたくない……』
そのとき、ふと気づいた。
今日は何曜日だっただろう。
昨日が金曜日。
ということは。
『…………』
リンは布団から顔を出した。
机の上のカレンダーを見る。
四月八日。
土曜日。
『……休み……?』
しばらく考える。
そして、勢いよく起き上がった。
『……休みじゃん!!』
今日は学校へ行かなくていい。
あの教室へ行かなくていい。
空手部の練習を見る必要もない。
『……やった……!』
リンは再び布団へ倒れ込んだ。
こんなに土曜日がありがたいと思ったことは、今までなかった。
◇
朝食の席では、正志が新聞を読んでいた。
和子は台所で味噌汁をよそっている。
「凛、おはよう」
『……おはよう……』
「随分遅かったな」
正志が新聞から目を上げた。
『……今日は休みだから……』
「休みだからといって、いつまでも寝ていていいわけじゃないぞ」
『……はい……』
リンは食卓についた。
和子が味噌汁を置く。
「昨日、相当疲れてたみたいね」
『……うん……』
「初めての担任だもの。慣れるまでは大変よね」
リンは小さく頷いた。
正志が新聞を畳む。
「それで、昨日はどうだったんだ」
『……どうって……』
「生徒たちとは上手くやれたのか?」
リンの箸が止まった。
正志は返事を待っている。
『……全然……』
「何?」
『……ちょっと、失敗して……』
リンは、学校だよりを配らなかったことを簡単に説明した。
正志は黙って聞いていた。
話し終えると、眉を寄せる。
「……勝手に配るものを減らしたのか」
『……うん……』
「そりゃ叱られるだろう」
『……はい……』
「仕事は一人でするものじゃない。自分が正しいと思っても、まず確認しなきゃ駄目だ」
リンは返す言葉がなかった。
自分でも、それは分かっている。
昨日、小野寺から言われたばかりだった。
正志は味噌汁を一口飲んだ。
「……まあ、失敗したものは仕方ない」
『……え?』
「次から気をつけろ。それだけだ」
リンは顔を上げた。
正志は、もう新聞へ手を伸ばしている。
「最初から何でもできる奴なんかいない。だが、同じ失敗を繰り返すのは駄目だぞ」
『……うん……』
和子が小さく笑った。
「お父さんだって、若い頃は失敗ばかりだったくせに」
「……余計なことを言うな」
「この前も会社で書類を間違えたって言ってたじゃない」
「それは別の話だ!」
和子が楽しそうに笑う。
リンも、思わず少し笑った。
正志は不満そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「おはよー!」
明るい声とともに、一人の女性が居間へ入ってきた。
長い髪を後ろでまとめた、二十代半ばくらいの女性。
リンは箸を持ったまま、その人を見た。
「何、凛。そんな顔して」
『……え?』
「昨日、仕事大変だったんだって?」
女性はリンの隣の椅子を引いた。
和子が声をかける。
「美咲もご飯食べる?」
「食べるー!」
(……美咲……)
リンは、その名前を頭の中で繰り返した。
山元凛の姉。
昨夜、部屋で見た家族写真にも写っていた人物だった。
「ねえ、凛」
『……はい?』
美咲が眉を上げた。
「……はい?」
『……あっ、何?』
「何その返事」
『……いや、別に……』
美咲は少しだけリンを見つめた。
それから、いつもの調子に戻る。
「今日、暇でしょ?」
『……まあ……』
「だったら買い物行かない?」
『……買い物?』
「うん。駅前。携帯も見たいし、雑誌も買いたいし」
リンは少し考えた。
知らない時代。
知らない街。
それでも、家に閉じこもっているだけでは何も分からない。
それに、山元凛の姉と一緒なら、道に迷う心配もなさそうだった。
『……じゃあ、ちょっとだけ……』
「え、いいの?」
『……うん』
「珍しい。いつもなら稽古がどうとか言うのに」
『…………』
美咲は妹の顔を見た。
「……まあ、いいや。じゃあ準備してね」
そう言って、和子から茶碗を受け取った。
リンは箸を動かし始めた。
(……いつもなら、稽古……)
休みの日まで空手。
この身体の持ち主は、本当に空手が好きだったらしい。
◇
昼前。
リンは美咲と駅前の商店街を歩いていた。
看板の色使い。
店先に並んだ商品。
行き交う人々の服装。
どこを見ても、懐かしい写真の中へ入り込んだような景色だった。
しかし、リン自身がこの時代を生きた記憶はない。
見覚えがあるのは、テレビの特集やインターネットで見た映像の中だけだ。
「凛、何ぼーっとしてんの?」
『……あ、いや。ちょっと……』
「昨日、まだ引きずってる?」
『……まあ、少し……』
「ふーん」
美咲はそれ以上聞かなかった。
代わりに、道の先を指さした。
「あ、あそこ寄っていい?」
携帯電話ショップだった。
『……うん』
リンは美咲について店内へ入った。
◇
店の中には、携帯電話がずらりと並んでいた。
折り畳み式のもの。
小さな画面がついたもの。
色違いの端末。
リンは展示品を見つめた。
(……小さ……)
今朝から見ている携帯電話も小さいと思っていたが、改めて店頭で並んでいるものを見ると驚く。
美咲は、一台の端末を手に取った。
「これ、可愛くない?」
『……うん、可愛いね』
「色もいいし、今のより使いやすそうなんだよねー」
美咲は値札を覗き込んだ。
「……うわ、二万!? 高っ!」
『安っ!!』
美咲が振り返った。
「……は?」
『……あっ』
「凛、今、安いって言った?」
『……いや、その……』
「二万円だよ!?」
『……うん……』
「高いでしょ、普通!」
リンは値札をもう一度見た。
新規契約時の価格。
二万円前後。
画面も小さく、インターネットも今のようには使えない。
カメラすらついていない機種が多い。
もちろん、機能が違うことは分かる。
それでも、普段十万円を超えるスマートフォンを見慣れているリンにとっては、数字だけならずいぶん安く感じられた。
『……いや、思ったより安いなって……』
「……あんた、金銭感覚どうしたの?」
『……ごめん……』
「いや、謝ることじゃないけど」
美咲は端末を棚へ戻した。
「……何か、今日変だよね」
『……え?』
「昨日からかな」
リンは口を閉じた。
美咲はしばらく妹を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「ま、いいや。もう少し安いの探そ」
『……うん』
リンは美咲の後を追った。
背中に、少し嫌な汗が流れた。
(……やっぱり、変に見えるよね……)
◇
次に入ったのは、駅前の書店だった。
入口近くには、女性向けのファッション雑誌が並んでいる。
美咲は慣れた様子で一冊を手に取った。
「ねえ、この服よくない?」
『……どれ?』
リンが隣から覗き込む。
そこで、思わず目を見開いた。
『……えっ!?』
「何?」
『……米倉涼子!?』
「……そうだけど?」
誌面には、若い女性モデルの写真が掲載されていた。
整った顔立ち。
長い手足。
凛とした表情。
名前も、確かに米倉涼子と書かれている。
『……若っ!!』
「……は?」
『……あっ』
「何言ってんの? まだ二十四歳くらいでしょ?」
『……そ、そうだよね……』
リンは慌てて頷いた。
二〇二六年のテレビで見ていた姿とは、当然ながら違う。
けれど、写真で見ると、改めて時間の隔たりを実感した。
米倉涼子が、まだ二十四歳。
自分と二歳しか違わない。
(……本当に二〇〇〇年なんだ……)
美咲が雑誌を閉じた。
「……ねえ、凛」
『……何?』
「さっきから、何に驚いてんの?」
『……いや、別に……』
「別にって、全然別にじゃないでしょ」
美咲の声が、少しだけ強くなった。
「携帯は安いって言うし、米倉涼子は若いって言うし。何なの?」
『……ごめん……』
「だから、何で謝るのよ」
美咲は雑誌を棚へ戻した。
「……別に怒ってるわけじゃないけどさ」
そう言いながらも、少し不機嫌そうだった。
リンは何も言えなかった。
美咲にとって当たり前のものが、自分には当たり前ではない。
その違いを説明しようにも、説明すればするほど、おかしなことになる。
しばらくして、美咲が別の雑誌を手に取った。
「……まあ、これ買って帰ろ」
『……うん』
リンは隣で、小さく頷いた。
◇
書店を出たあと、二人はCDショップへ向かった。
入口の近くから、賑やかな音楽が聞こえてくる。
店内に入ると、リンは足を止めた。
『……うわ……』
大きなポスター。
目立つ場所に積まれたCD。
壁には、同じグループの写真が何枚も飾られている。
モーニング娘。
店内には『恋のダンスサイト』が流れていた。
(……すご……)
もちろん、名前は知っている。
曲も聞いたことがある。
けれど、二〇二六年のリンにとって、それは過去の大ヒット曲だった。
ところが今は違う。
店のあちこちに、同じグループのポスターがある。
新しいアルバム『3rd-LOVEパラダイス-』が平積みされ、手に取っている客も多い。
近くでは女子高生らしい二人組が、メンバーの名前を挙げて盛り上がっていた。
「ねえ、やっぱゴマキ可愛くない?」
「分かる! 超可愛い!」
美咲がその声を聞き、楽しそうに笑った。
「分かるけど、私はやっぱ矢口だなー」
『……矢口?』
「矢口真里!」
『……ああ……』
「ちっちゃくて可愛いじゃん!」
リンはポスターへ目を向けた。
そこには、若い矢口真里の姿があった。
(……クローゼットの人か)
口には出さなかった。
美咲は楽しそうにCDを眺めている。
「凛は誰が好き?」
『……あたし?』
「そう、あんた」
『……うーん……あんまり詳しくなくて……』
美咲の手が止まった。
「……は?」
『……え?』
「あんた、前は一緒に歌ってたじゃん」
『…………』
「『LOVEマシーン』。覚えてないの?」
『……あ、うん……』
「……本当に?」
『……うん……』
美咲はリンの顔を見た。
少しの間、何も言わなかった。
そして、手にしていたCDを棚へ戻した。
「……そっか」
『……うん……』
「……じゃあ、いいや」
美咲は別の棚へ歩いていった。
リンはその後ろ姿を見つめた。
さっきまで、あんなに楽しそうだったのに。
(……また、変なこと言っちゃった……)
けれど、自分にはどうしようもなかった。
山元凛が姉と一緒に歌った記憶なんて、持っていないのだから。
◇
買い物の途中、二人は喫茶店へ入った。
美咲はアイスコーヒー。
リンはオレンジジュースを頼んだ。
「……凛、ジュースなんだ」
『……うん』
「コーヒー飲まないの?」
『……あんまり好きじゃなくて……』
「……そう」
美咲はストローの袋を破った。
少しだけ、気まずい沈黙が流れる。
リンは窓の外を見た。
行き交う人々。
店の前に停まる自転車。
遠くから聞こえる車の音。
ここは、確かに二〇〇〇年だった。
「……ねえ」
『……何?』
「昨日、そんなに大変だったの?」
リンは美咲を見た。
『……うん……』
「何があったの?」
『……えっと……』
リンは、学校での出来事を少しずつ話し始めた。
生徒たちが賑やかすぎて、話が進まなかったこと。
つけまつげを虫と間違えたこと。
学校だよりを勝手に省いて、叱られたこと。
美咲は最初、黙って聞いていた。
しかし、つけまつげの話になると、思わず吹き出した。
「……ちょっと待って! つけまを虫と間違えたの!?」
『……うん……』
「嘘でしょ!?」
『……本当……』
「……あはははっ!」
美咲は口元を押さえた。
リンは少しむっとした。
『……笑わないでよ……』
「ごめん、ごめん! だって、あんたが虫で悲鳴って!」
『……だって、すごく大きかったんだもん……』
「そりゃ、美奈ちゃんもびっくりするわ!」
美咲はしばらく笑っていた。
リンも、つられて少し笑った。
昨日は、恥ずかしくて仕方なかった。
けれど、美咲に話してみると、ほんの少しだけ違って聞こえた。
やがて、美咲は笑いを収めた。
「……でもさ、凛」
『……うん?』
「らしくないよね」
リンの手が止まった。
「昔から、あんたって負けず嫌いだったじゃん」
『…………』
「空手で負けた日なんか、家帰ってもずっと悔しがってたし」
美咲はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「次の日には、また朝から稽古行ってさ」
『……そうなんだ……』
「……そうなんだ?」
『……あっ』
美咲が眉を寄せた。
「自分のことでしょ?」
『……うん……』
リンは目を伏せた。
また、失敗した。
美咲はしばらく黙っていた。
そして、窓の外へ視線を向けた。
「……まあ、教師になって環境変わったんだもんね」
『……うん……』
「そりゃ、色々あるか」
その声には、完全には納得していない響きがあった。
リンは何も言えなかった。
美咲は話題を変えるように続けた。
「でも、先生になるの、あんなに楽しみにしてたのにね」
『……え?』
「凛が」
美咲は妹を見た。
「ずっと言ってたじゃん。生徒たちに何か教えられるような人になりたいって」
『…………』
「空手も好きだけど、人に教えるのも好きだって」
リンは膝の上で手を握った。
自分は、昨日の学校へ二度と行きたくないと思っている。
けれど、山元凛は違った。
この身体の持ち主は、ずっと教師になることを楽しみにしていた。
その仕事を、今は自分が代わりにしている。
(……どうしよう……)
リンは、ジュースのグラスを見つめた。
美咲は小さく息を吐いた。
「……あ、そういえば」
『……何?』
「健吾くんとは最近どうなの?」
『……健吾くん?』
「……は?」
『……あっ、いや……』
「彼氏の名前まで忘れたの?」
『……ち、違う。ちょっと、ぼーっとしてて……』
美咲はじっとリンを見た。
「……凛」
『……うん……』
「本当に大丈夫?」
リンは、すぐには答えられなかった。
美咲の表情は、さっきまでのように笑っていない。
心配している。
それと同時に、何かを確かめようとしているようにも見えた。
『……大丈夫、だと思う……』
「……そっか」
美咲は椅子の背にもたれた。
「……まあ、今日は買い物に来たんだし。変な話はやめよっか」
『……うん……』
リンは小さく頷いた。
しばらくして、美咲がバッグから雑誌を取り出した。
「ねえ、さっきの服、やっぱ可愛くない?」
『……あ、うん。可愛い』
「でしょ? 凛もこういうの着てみたら?」
『……あたしが?』
「うん。いつもジャージばっかりなんだから」
美咲は笑った。
リンも、今度は自然に笑った。
そして気づく。
知らない時代でも、知らない人とでも。
こうして話している時間は、少し楽しい。
ただ、その相手が自分を別の人間だと思っていることだけが、胸に引っかかっていた。
◇
夕方、二人は買い物を終えて帰宅した。
和子が玄関で迎える。
「おかえり。楽しかった?」
「うん! 凛と買い物するの久しぶりだったし!」
『……ただいま……』
和子は二人を見比べた。
「よかったわね、凛」
『……うん』
リンは頷いた。
昨日よりは、少しだけ気持ちが軽かった。
◇
夕食後。
居間では、正志がテレビを見ていた。
和子は食器を片づけ、美咲は新聞のテレビ欄を眺めている。
リンはソファの端に座り、ぼんやりと画面を見ていた。
この家のテレビは、奥行きがある。
画面の大きさも、二〇二六年のものと比べればずいぶん小さい。
だが、映っている映像は思ったよりきれいだった。
そのとき。
「あっ!!」
美咲が声を上げた。
『……な、何?』
「今日から内Pじゃん! 録画しなきゃ!」
『……内P?』
「内村プロデュース! ウッチャンの新番組!」
『……へえ……』
リンは首を傾けた。
聞いたことのない番組名だった。
美咲は新聞を持ち上げた。
「ほら、ここ! 深夜から!」
『……本当だ……』
「楽しみにしてたんだよねー!」
美咲は嬉しそうに笑った。
それから、ふと思いついたように言う。
「凛、ビデオの予約お願い!」
『……えっ、あたしが!?』
「うん! 私、ちょっとお風呂入ってくるから!」
美咲は新聞をテーブルに置いた。
リンはテレビの下を見た。
黒い箱のような機械。
ビデオデッキだった。
『…………』
(……録画予約って、どうやるの……?)
リモコンはある。
数字のボタンもある。
けれど、何をどう押せばいいのか分からない。
リンは恐る恐るリモコンを手に取った。
その様子を見ていた美咲が、足を止めた。
「……凛?」
『……何?』
「……あんた、ビデオの予約くらいできるよね?」
『……えっと……』
「……ちょっと」
美咲は戻ってきた。
リンの手元を覗き込む。
「……まさか、忘れたの?」
『……ちょっと、やり方が……』
美咲はしばらく何も言わなかった。
それから、リンの隣に腰を下ろした。
「……貸して」
『……ごめん……』
「……謝らなくていいから」
美咲はリモコンを操作した。
テレビの画面が切り替わる。
「ほら、ここで日付と時間を入れるの」
『……うん……』
「で、チャンネル合わせて……」
リンは真剣に見つめた。
美咲の指が、慣れた様子でボタンを押していく。
「はい、これで予約完了」
『……すご……』
「……何が?」
『……あ、いや……』
美咲はリンの顔を見た。
少しの間、何も言わなかった。
それから、リモコンをテーブルへ置いた。
「……ねえ、凛」
『……うん?』
「何かあった?」
リンは息を止めた。
美咲は、まっすぐこちらを見ている。
「昨日から、ずっと変だよ」
『…………』
「学校で疲れたとか、そういうのだけじゃなくてさ」
リンは答えられなかった。
美咲は言葉を続けようとして、やめた。
そして、少しだけ視線を落とした。
「……まあ、いいや」
『……え?』
「今、言いたくないなら別にいい」
美咲は立ち上がった。
「でも、何かあるなら、そのうち教えてよ」
『…………』
「姉妹なんだからさ」
そう言って、美咲は居間を出ていった。
リンはしばらく、その背中を見つめていた。
姉妹。
その言葉が、胸の中に残った。
美咲は、自分を妹だと思っている。
けれど、本当は違う。
自分は、山元凛ではない。
では、山元凛は今、どこにいるのだろう。
その答えは、まだ何も分からなかった。
◇
夜。
リンは自分の部屋へ戻った。
机の上には、昨日持ち帰った学校の資料が置かれている。
その一番上に、名前が印字されていた。
山元凛。
同じ読み方で、違う文字。
二十二歳。
体育教師。
空手の全国大会準優勝。
負けず嫌いで、家族思い。
そして、教師になることを楽しみにしていた人。
リンは椅子に腰を下ろした。
『……全然、あたしと違うじゃん……』
今日、美咲と過ごした時間を思い出す。
携帯電話の値段に驚いたこと。
若い米倉涼子を見つけたこと。
モーニング娘。のCDが山積みになっていたこと。
美咲が楽しそうに笑っていたこと。
そして、自分の知らない思い出を語るたび、少しずつ表情を曇らせていたこと。
(……そりゃ、変だと思うよね……)
リンは机の上の写真立てを手に取った。
そこには、山元家の四人が写っている。
正志。
和子。
美咲。
そして、山元凛。
皆、笑っていた。
リンは写真を見つめた。
今日一日で、この家のことを少し知ることができた。
楽しかった時間もある。
けれど、それで不安がなくなったわけではない。
むしろ、知らない誰かの人生を代わりに生きていることが、昨日より重く感じられた。
『……どうしたらいいんだろ……』
リンは写真立てを机へ戻した。
その隣には、来週の時間割が置かれている。
月曜日。
体育。
『…………』
武道場で見た佐伯の組手が頭をよぎった。
鋭い踏み込み。
速い拳。
そして、期待に満ちた声。
――先生にご指導いただけるのを、楽しみにしています!
『……いや、ほんと無理なんだけど……』
リンは時間割を伏せた。
明日は日曜日。
まだ一日、学校へ行かずに済む。
そのことだけが、今はありがたかった。




