第四話「担任って、コスパ悪くない?」
二〇〇〇年(平成十二年)四月七日、金曜日。
東京都立青葉高校、正門前。
父親の車が角を曲がり、見えなくなった。
リンは校門の前に立ち尽くしていた。
肩には、大きな鞄が掛かっている。
目の前には、これから働くことになるらしい学校があった。
『……はあ……』
帰りたい。
まだ校門すらくぐっていないのに、すでに帰りたかった。
昨日まで暮らしていた二〇二六年なら、今頃は別の高校へ向かっているはずだった。
新任教師として、初めて生徒たちと会う日。
緊張はしていたが、ここまで絶望的な気分ではなかった。
今は、知らない女性の身体で、知らない学校の前に立っている。
(……とりあえず、行くだけ)
どうしても無理なら、途中で休ませてもらえばいい。
そう考え、リンは校門をくぐった。
そこで、早速足が止まった。
『……え?』
登校してくる女子生徒たちの足元。
白い靴下が、靴の上に大きくたまっている。
しかも、ただの靴下ではない。
膝下から足首まで、何重にも重ねたような布が広がっていた。
(……ルーズソックス……?)
昔の写真で見たことはある。
だが、実物は想像以上のボリュームだった。
別の女子生徒は、明るい茶色の髪を高い位置でまとめている。
スカートは驚くほど短い。
男子生徒の中には、シャツを出し、腰の低い位置でズボンを履いている者もいた。
『……すご……』
もちろん、全員がそういう格好をしているわけではない。
きちんと制服を着た生徒もいる。
ただ、派手な生徒の存在感が強かった。
「おはよー!」
「ねえ聞いて! 昨日さあ!」
「マジで!? 超ウケるんだけど!」
校門付近には、あちこちから声が飛び交っていた。
スマートフォンを見ながら歩いている生徒はいない。
その代わり、誰かが話し始めれば、近くの友人たちが次々と言葉を返している。
(……朝から元気すぎない?)
リンは人の流れに合わせて歩き出した。
その途中、女子生徒の一人がこちらを見た。
「先生! おはようございまーす!」
『……あ、おはようございます……』
女子生徒は一瞬きょとんとしたあと、友人と顔を見合わせた。
「……先生、めっちゃ丁寧じゃない?」
「ねー!」
笑い声が遠ざかっていく。
リンは振り返らなかった。
(……普通に挨拶しただけなんだけど……)
まだ、何も始まっていない。
◇
職員室に入ったリンは、入口のそばで立ち止まった。
机が並び、書類が積まれ、教師たちが忙しそうに動き回っている。
それだけなら見慣れた光景だった。
ただ、机の上にあるものが違っていた。
分厚いファイル。
紙の予定表。
束になったプリント。
電話機の横には、付箋の貼られた連絡帳が置かれている。
パソコンもあるが、全員の机に一台ずつあるわけではなかった。
(……紙、多くない……?)
「山元先生?」
声をかけられ、リンは振り返った。
四十代後半くらいの男性が、書類を抱えて立っていた。
「おはよう。今日は少し早いね」
『……お、おはようございます』
「どうしたの? 緊張してる?」
『……まあ、ちょっと……』
「ははは。初めての担任だからね。仕方ないよ」
男性は穏やかに言った。
「小野寺です。……って、改めて名乗るのも変か」
『……あ、はい……』
(……小野寺先生)
リンは名前を頭の中で繰り返した。
「それじゃあ、今日の流れを確認しようか」
小野寺は自分の机へ戻り、書類を数枚取り出した。
「始業式のあと、三年二組でホームルーム。自己紹介と出席確認、それから配布物の説明だね」
『……はい』
「昨日も渡したけど、一応、もう一度確認しておこう」
リンの前へ、紙の束が置かれた。
『…………』
厚い。
思っていた以上に厚かった。
「まず、年間行事予定。それから学年通信、進路関係の案内、学校だより……」
小野寺が一枚ずつ指さしていく。
「あと、保護者の方に渡してもらうものもあるから、配り忘れないようにね」
『……これ、全部ですか?』
「そうだよ」
『……全部、四十人分……?』
「うん。各自に一部ずつ」
(……大変すぎ……)
「今日の分はクラス別にまとめてあるから。教室へ持っていってくれる?」
『……分かりました』
「説明する内容には印をつけてあるよ。分からないことがあったら、今のうちに聞いてね」
リンは頷き、紙の束を抱え直した。
そのとき、書類の一番上に印字された名前が目に入った。
山元凛。
『…………』
リンは指を止めた。
(……やまもと、りん?)
もう一度読む。
山元凛。
自分の名前は、山本リン。
音は同じ。
しかし、漢字が違う。
『……字が、違う……』
「どうしたの、山元先生?」
『……あっ、いえ。何でもありません』
リンは慌てて書類を揃えた。
山元凛。
それが、この身体の持ち主の名前なのだ。
年齢も同じ。
職業も同じ。
高校三年生の担任で、体育教師。
名前まで同じ読み方。
(……偶然にしては、できすぎじゃない……?)
ここで初めて、もう一人の女性の存在が、名前という形ではっきりした。
けれど、相手がどこにいるのかまでは分からない。
自分の身体はどうなったのだろう。
この山元凛という女性は、今、何をしているのだろう。
リンは書類に印字された三文字を、もう一度見た。
小野寺が別の教師に呼ばれる。
「じゃあ、山元先生。頼んだよ」
『……はい』
リンは小さく頷いた。
◇
小野寺が離れたあと、リンは机の上へ配布物を広げた。
年間行事予定。
学年通信。
青葉高校だより・四月号。
進路関係の案内。
保護者向けのお知らせ。
(……これ、内容かぶってない?)
年間行事予定には、四月の予定が細かく書かれている。
青葉高校だよりにも、四月の予定が載っていた。
始業式。
健康診断。
保護者会。
同じ日付が何度も出てくる。
『……うーん……』
リンは二つの書類を並べた。
見たところ、年間行事予定の方が情報量は多い。
青葉高校だよりは、学校全体のお知らせをまとめたものらしい。
毎月発行される定期的な案内なのだろう。
(……これ、年間予定の方があれば十分じゃない?)
何種類も配れば、生徒たちも管理が面倒になる。
家に持って帰っても、保護者が全部読むとは限らない。
必要な書類を絞った方が、むしろ分かりやすい気がした。
リンは青葉高校だよりの束を、配布物から外した。
机の端へ置き、ほかの書類だけを鞄に詰める。
(……これくらいなら、別に困らないでしょ)
鞄が少し軽くなった。
『……よし』
少なくとも、これで配る手間は減るはずだった。
◇
始業式が終わった。
リンは三年二組の教室へ向かった。
廊下の先から、すでに大きな話し声が聞こえている。
「だからマジだって!」
「絶対ウソじゃん!」
「おまえ昨日来なかっただろ!」
「ねえ、ちょっと! それ貸して!」
リンは教室の前で立ち止まった。
(……ここ、だよね……?)
扉の上には、三年二組と書かれている。
間違いない。
リンは息を吸った。
大丈夫。
生徒たちとは初対面だ。
最初から怖がる必要なんてない。
いつもどおり、落ち着いて話せばいい。
扉を開けた。
『……おはようございます』
教室の前方にいた数人が振り返った。
しかし、後方では会話が続いている。
『……あの、皆さん。席についてもらっていいですか?』
「先生来たー!」
「うわ、若っ!」
「え、担任この人!?」
「マジで!?」
声が一斉に広がった。
リンは教卓の前まで進んだ。
『……えっと、今日から皆さんの担任を務めます、やまもとりんです』
「先生、何歳!?」
『……二十二歳です』
「えーっ! 若っ!」
「うちらと四つしか違わないじゃん!」
「先生、彼氏いんのー!?」
『……え?』
「ちょっと美奈、いきなりそれ聞く!?」
「だって気になるじゃん!」
別の男子生徒が手を上げた。
「先生って空手の人でしょ!?」
『……空手……』
「全国二位って聞いたんだけど!」
「え、マジ!? すげーじゃん!」
「じゃあ先生、ケンカめっちゃ強いの!?」
『……いや、ケンカは……』
「ねー、先生! 彼氏いるってばー!」
『……あの、ちょっと待って……』
質問が止まらない。
一つ答えようとすると、別の質問が飛んでくる。
男子が騒げば、女子も負けずに声を上げた。
リンは教卓の前で、何度も口を開いては閉じた。
(……何これ……)
三十二人のクラスを想定していたはずなのに、目の前には四十人。
しかも、皆が好き勝手に話している。
どうすれば、この人数を一度に静かにさせられるのだろう。
『……皆さん、一旦……』
「先生、声ちっちゃーい!」
「もっとデカい声出してよ!」
『……いや、そうじゃなくて……』
「先生、空手の型やってー!」
『……それは、ちょっと……』
「えー! 何でー!?」
笑い声が広がる。
リンは教卓に置いた名簿を見下ろした。
早く出席を取らなければならない。
配布物も説明しなければならない。
しかし、話がまるで先へ進まなかった。
◇
『……では、出席を取ります』
何とか声を張り、リンは名簿を開いた。
『……小川さん』
「……はい」
前方から、小さな返事があった。
『佐伯さん』
「はい!」
『森田さん』
「はーい!」
後方から勢いのいい返事。
その直後、男子生徒が笑った。
「先生、俺らにもさん付けなの?」
『……え?』
「何か変じゃね?」
「先生、めっちゃ丁寧じゃん!」
『……普通じゃない?』
「えー、俺、森田くんでいいよ!」
「くん付け希望かよ!」
教室に笑い声が広がった。
リンは名簿を持ち直した。
『……あの、続けていいですか……』
「いいよー!」
「どうぞどうぞー!」
リンは一人ずつ名前を呼んでいった。
しかし、返事のたびに誰かが何かを言う。
別の生徒が茶化す。
また笑いが起こる。
出席確認だけで、想像以上の時間がかかった。
ようやく最後の一人まで呼び終えた頃には、リンの喉が少し痛くなっていた。
◇
次は配布物だった。
リンは教卓の上にプリントを並べた。
『……これから、今日の書類を配ります。後ろへ回してください』
前列の生徒へ、何種類かのプリントを渡していく。
最初の列。
二列目。
三列目。
人数が多いため、後ろへ送るのにも時間がかかった。
「ちょっと、こっち足りないんだけど!」
「え、これ何枚?」
「一枚ずつでしょ!」
「誰か二枚取ったんじゃね?」
リンは足りない分を数え直し、列を移動した。
『……すみません、ちょっと待って……』
ようやく足りない分を補充し、次の列へ向かった。
そこで、一人の女子生徒の机に目が留まった。
茶色い髪。
短いスカート。
目元には、はっきりしたアイメイク。
先ほどから彼氏の有無を聞いてきた女子生徒だった。
リンは机へプリントを置こうとした。
その瞬間。
『……ひっ!?』
手が止まった。
白い机の端に、黒々としたものが置かれている。
弓なりの形。
そこから、細い毛のようなものがびっしりと突き出していた。
しかも、二つ。
『……きゃああっ!!』
リンは飛び退いた。
「えっ!? 何!?」
『む、虫っ!!』
「虫!?」
『そこ! 机の上!!』
女子生徒が自分の机を見た。
そして、黒い物体を指先でつまみ上げる。
「……あー、これ?」
リンは身体を引いたまま頷いた。
『……それ、それ……』
「つけまだよ、つけま!」
『……へ?』
「つけまつげ!」
女子生徒が笑い出した。
「先生、これ虫に見えたの!?」
『……え、いや……』
「ちょっと、マジ!? 先生ウケるんだけど!!」
その声を聞きつけ、周囲の生徒が振り返った。
「何、何!?」
「先生が美奈のつけまを虫と間違えた!」
「えーっ!? マジで!?」
「ギャハハハハ!!」
笑い声が教室中へ広がった。
リンは机の上を見た。
確かに、よく見ればつけまつげだった。
ただ、二〇二六年で見慣れていたものより毛束が濃く、長い。
無造作に机へ置かれたそれは、一瞬、脚の多い虫のように見えたのだ。
『……ご、ごめんなさい……』
「全然いいって!」
美奈は笑いながら、つけまつげを小さなケースへ戻した。
「先生、虫苦手なんだ?」
『……まあ、ちょっと……』
「空手強いのに虫ダメって、超ウケる!」
「全国二位なのに!?」
「先生、ギャップすごすぎ!」
また笑いが起こった。
リンはプリントを抱えたまま立ち尽くした。
ただでさえ初対面なのに。
こんなことで、教室中から笑われるなんて。
(……最悪……)
しかも、驚いて飛び退いたとき、身体が思った以上に素早く動いていた。
自分では大きく跳んだつもりなどなかったのに、気づけば隣の机近くまで下がっていた。
この身体の持ち主が、空手の全国準優勝者であることを思い出す。
(……変なところだけ、すごい身体なんだから……)
リンは配布物を抱え直した。
『……あの、続き、配ってもいいですか……』
「いいよー!」
美奈が笑顔で答える。
周囲の生徒も、まだ笑っていた。
リンは次の列へ向かった。
◇
ホームルームの残り時間は、あっという間に過ぎた。
年間行事予定。
学年通信。
進路関係の案内。
配る順番を確認し、必要な説明をしようとする。
しかし、そのたびに質問が飛んできた。
「先生、これいつまで?」
『……えっと、来週の……』
「ねえ、こっちの提出日どこに書いてあるの?」
『……ちょっと待ってください……』
「先生、明日学校ある?」
『……明日は土曜日なので……』
「やったー!」
「いや、普通に休みだろ!」
リンは何度も紙をめくった。
今、自分が何を説明していたのか分からなくなる。
指示を出そうとしても、後方では別の話題で盛り上がっている。
静かにしてほしいと言えば、一度は声が小さくなる。
しかし、すぐにまた元へ戻った。
黒板の時計を見上げる。
もう、終了時刻が近い。
(……まだ終わってないのに……)
最後に説明しようと思っていた書類が残っている。
だが、このままでは時間が足りない。
リンは教卓の上を整理した。
『……あの、残りの説明は、各自プリントを確認しておいてください』
「はーい!」
「先生、もう終わり!?」
『……はい。とりあえず……』
「やったー!」
椅子を引く音が一斉に響いた。
生徒たちが立ち上がる。
リンは慌てて声をかけた。
『……あっ、待って。まだ帰りの連絡が……』
しかし、その声は教室のざわめきに紛れた。
誰かが笑い、誰かが友人を呼ぶ。
机の間を生徒たちが行き交い始める。
リンは教卓の前で立ち尽くした。
結局、最後まで教室の主導権を握れなかった。
◇
職員室へ戻ったリンは、自分の机に腰を下ろした。
『……疲れた……』
まだ昼過ぎだった。
それなのに、一日分どころか、数日分の仕事をしたような気がする。
声を張り上げたせいで、喉が痛い。
配布物を抱えて教室を歩き回ったせいか、肩も重かった。
もっとも、身体自体はほとんど疲れていないらしい。
空手で鍛えられた筋肉は、まだ余裕を残している。
問題は、頭の方だった。
「山元先生」
小野寺の声がした。
リンは顔を上げた。
『……はい』
「ホームルーム、どうだった?」
『……正直、かなり大変でした……』
「ははは。そうだろうね。あのクラスは賑やかだから」
小野寺は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「まあ、最初から全部上手くやろうとしなくていいよ。少しずつ慣れていけばいい」
『……はい……』
「ところで、配布物は全部渡せた?」
『……はい。たぶん……』
「たぶん?」
『……いえ、渡しました』
小野寺はリンの机へ目を向けた。
机の端には、朝のまま手つかずになっているプリントの束が置かれていた。
「……山元先生」
『……はい?』
小野寺が、その束を指さした。
「この青葉高校だよりは?」
『…………』
「まだ四十枚、残っているようだけど」
『……あの、それなんですけど……』
「うん?」
『年間行事予定と内容が重複していたので、配りませんでした』
小野寺は書類から顔を上げた。
「……配らなかった?」
『……はい』
「どうして?」
『同じ内容なら、わざわざ二枚配る必要はないかなって……』
リンは説明を続けた。
『配布物も多かったので、少し整理した方が分かりやすいと思ったんです』
小野寺は黙って聞いていた。
そして、静かに書類を置いた。
「……山元先生。それは駄目だよ」
『…………』
「配るように決まっているものを、自分の判断だけで省いてはいけない」
『……でも、内容が……』
「似ているところはあるよ。けれど、全部が同じわけじゃない」
小野寺は青葉高校だよりを一枚取り出した。
「ここを見て」
リンは指さされた箇所へ目を落とした。
四月の保護者会について書かれていた。
開催日。
時間。
場所。
そして、出欠確認のための回答方法と提出期限。
「年間行事予定には、保護者会の日付しか載っていないよね」
『……はい……』
「こちらには、出欠確認の案内まで入っている。保護者の方に必要な情報なんだ」
リンは書類を見つめた。
確かに、その部分は年間行事予定にはなかった。
「それに、学校だよりは毎月、全家庭へ配っているものだからね。今回は必要ないと判断するなら、少なくとも事前に相談してほしかった」
『……すみません……』
「効率を考えること自体は悪くないよ。でも、学校の仕事には、勝手に変えてはいけない手順もある」
小野寺の声は穏やかだった。
しかし、その言葉ははっきりしていた。
「今日は、まだ配り直せるからいい。だけど、次からは気をつけて」
『……はい……』
リンは小さく頷いた。
小野寺は立ち上がった。
「それじゃあ、青葉高校だよりを四十人全員に配って、保護者会の件も説明してきてくれる?」
『……今から、ですか?』
「うん。まだ校内にいる生徒も多いから、今のうちにできるところまでやろう」
リンは机の上の紙の束を見た。
四十枚。
朝、自分が不要だと判断したものだった。
『……分かりました……』
◇
リンは再び三年二組の教室へ向かった。
しかし、教室にはすでに半分ほどしか生徒が残っていなかった。
『……あの、皆さん……』
「え、先生また来た!」
「何ー? 忘れ物?」
『……ちょっと、追加で配るものがあって……』
「またプリント!?」
「今日何枚目だよ!」
笑い声が起こる。
リンは青葉高校だよりを抱えたまま、教室の前へ進んだ。
『……保護者の方に渡してほしいお知らせです。今日、配り忘れてしまって……』
「えー!」
「先生、うっかりしすぎじゃね?」
後ろの方から声が飛んだ。
リンは何も言い返せなかった。
確かに、自分が悪い。
今度は一人ずつ、確実に手渡していく。
しかし、すでに帰った生徒もいる。
部活動へ向かった生徒もいるらしい。
小野寺から教わったとおり、名簿へ配布済みの印をつけ、まだ渡せていない生徒を確認した。
その途中、片岡美奈が声をかけてきた。
「先生ー!」
『……はい……』
「さっきのつけま、まだ虫に見える?」
『……もう、それはいいから……』
「ごめんって! 超ウケたんだもん!」
美奈は笑いながら友人のところへ戻っていった。
リンは配布物を抱え直した。
(……もう、勘弁して……)
残っていた生徒へ配り終えると、まだ受け取っていない生徒の居場所を聞いて回ることになった。
教室。
廊下。
体育館。
校舎の別棟。
学校の構造もまだ分からないのに、あちこちを歩かなければならなかった。
途中で同じ廊下を二度通り、階段を間違えた。
名前を呼んでも、相手の顔が分からない。
そのたび、近くの生徒へ尋ねる。
『……すみません。佐伯さんって、どちらにいますか……?』
「佐伯? 空手部じゃない?」
『……空手部……』
「うん。今、練習してると思うよ」
リンは手元の名簿へ目を落とした。
佐伯大輔。
確か、朝のホームルームで空手の話をしていた生徒だった。
『……空手部って、どこで練習してるんですか……?』
「武道場だよ。体育館の奥の方」
『……ありがとうございます……』
リンは頭を下げ、教えられた方へ向かった。
◇
体育館の奥へ進むと、廊下の向こうから鋭い声が響いた。
「押忍ッ!!」
『……ひっ』
リンは足を止めた。
武道場の入口は開いていた。
中を覗くと、道着姿の生徒たちが稽古をしている。
床を踏み込む音。
道着が擦れる音。
短く鋭い気合い。
リンは入口の横へ身を寄せた。
(……え、何これ……)
中央では、二人の男子生徒が向かい合っていた。
一人は背が高く、引き締まった体格をしている。
もう一人は、少し小柄な後輩らしい生徒だった。
「始め!」
合図と同時に、背の高い生徒が踏み込んだ。
速い。
後輩が構え直そうとした瞬間、突きが鋭く伸びる。
寸前で制御された拳に、後輩が思わず身体を引いた。
しかし、相手はそこで止まらない。
距離を取り直した後輩へ、再び踏み込む。
今度は蹴りだった。
「一本!」
周囲から声が上がる。
後輩が息を切らしながら頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「押忍。もう一本いこう」
背の高い生徒は落ち着いた声で答え、再び構えた。
『…………』
リンは入口から動けなかった。
(……え、待って)
(……何、あの人。強すぎない……?)
競技としての空手に、ルールがあることくらいは知っている。
しかし、実際の組手を間近で見るのは初めてだった。
拳も蹴りも、思っていた以上に速い。
あんなものが自分へ向かってきたら、とても避けられる気がしない。
そのとき、近くにいた部員がリンに気づいた。
「あっ、山元先生!」
『……っ!』
組手をしていた男子生徒も振り返った。
すぐに構えを解き、リンの方へ歩いてくる。
「押忍! 山元先生!」
背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「佐伯大輔です!」
『……あ、佐伯さん……』
リンは名簿を確認した。
間違いない。
探していた本人だった。
しかも、先ほど後輩を圧倒していた男子生徒である。
(……この人が佐伯さん……!?)
リンは抱えていたプリントを差し出した。
『……あの、これ。今日配り忘れた学校のお知らせなんですけど……』
「ありがとうございます!」
佐伯は両手で受け取った。
リンは、さっさと帰ろうとした。
しかし。
「あの、先生!」
『……はい?』
佐伯が改めて背筋を伸ばした。
「先生が昨年、全国大会で準優勝されたと伺いました!」
『……あ、はい……』
「今年から空手部の副顧問をしていただけるんですよね!」
『……えっ』
「先生にご指導いただけるのを、楽しみにしています!」
佐伯は深く頭を下げた。
『…………』
リンの頭の中に、先ほどの組手が蘇った。
後輩を圧倒していた踏み込み。
目にも留まらなかった拳。
鋭い蹴り。
そして、今は期待に満ちた目でこちらを見ている佐伯。
(ムリムリムリ!!)
(こんな人に指導なんかできない!!)
(あたしが殺される!!)
リンは、その場に固まった。
佐伯はそんな胸中など知る由もない。
「これから一年間、よろしくお願いします! 押忍!」
『……よ、よろしくお願いします……』
リンは小さく頭を下げた。
その背後で、再び鋭い気合いが響く。
「押忍ッ!!」
『……っ!』
リンの肩が跳ねた。
佐伯は不思議そうに首を傾げた。
「……先生?」
『……な、何でもないです……』
「押忍!」
佐伯は元気よく返事をすると、稽古へ戻っていった。
リンはしばらく、その場から動けなかった。
武道場の中では、再び組手が始まっている。
佐伯が踏み込む。
後輩が後退する。
鋭い声が響く。
(……あんな人たちに、私が空手を教えるの……?)
リンは足元を見下ろした。
この身体は、空手の全国大会で準優勝した女性のものだ。
父親も、教師も、生徒も、その実力を当然のように知っている。
けれど、中にいる自分は違う。
身体を動かすことさえ、あまり好きではない。
ましてや、空手の指導なんて。
『……無理……』
リンは小さく呟き、武道場をあとにした。
◇
職員室へ戻ったリンは、小野寺へ報告した。
『……全員、配り終わりました……』
「ありがとう。大変だったね」
『……はい……』
「今日は初日から色々あっただろうけど、あまり落ち込まないように」
小野寺は穏やかに言った。
「分からないことがあれば、遠慮なく聞いていいんだからね」
『……はい。ありがとうございます……』
リンは頭を下げた。
小野寺が離れたあと、自分の机へ戻る。
朝、少しでも手間を減らそうとして省いたプリント。
結局、そのせいで校内を歩き回り、何倍もの時間を使うことになった。
(……何やってんだろ、私……)
今日は、生徒たちに初めて会う日だった。
本当なら、自分の言葉で自己紹介をして、少しずつ名前を覚えていくはずだった。
それなのに。
教室では質問攻め。
空手の話を振られても、まともに答えられない。
つけまつげを虫と間違え、教室中から笑われた。
配布物を勝手に省き、先輩教師に叱られた。
それを配り直すため、午後まで校内を歩き回った。
そして最後には、空手部の副顧問として指導を期待された。
リンは机の上へ額を近づけた。
『……最悪……』
声に出してみても、気持ちは少しも軽くならなかった。
◇
帰宅した頃には、すっかり夕方になっていた。
和子が玄関で迎えてくれた。
「おかえり、凛。どうだった? 初めての担任は」
『……ただいま……』
「……あら?」
和子はリンの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? すごく疲れてるみたいだけど」
『……ちょっと、色々あって……』
「そう。じゃあ、まずは休みなさい」
『……はい……』
リンは階段を上がった。
部屋の扉を開ける。
朝、あれほど恐ろしく感じた知らない部屋。
今は、学校よりずっとましに思えた。
鞄を畳の上へ置き、布団へ倒れ込む。
身体は、まだ十分に動けそうだった。
腕も脚も、少し歩き回った程度では疲れないらしい。
けれど、頭の中は限界だった。
生徒たちの笑い声。
小野寺の言葉。
つけまつげを持ち上げて笑う美奈の顔。
そして、佐伯の組手。
そのすべてが、何度も思い出された。
『……何なの、もう……』
リンは枕へ顔を埋めた。
自分なりに考えたつもりだった。
少しでも効率よく進めようとした。
生徒たちとも、なるべく丁寧に話そうとした。
それなのに、何一つ上手くいかなかった。
『……コスパ、悪すぎ……』
呟いてから、リンはしばらく動かなかった。
明日は土曜日。
少なくとも、明日の朝はあの教室へ行かなくていい。
そのことだけが、今は救いだった。
しかし、月曜日になれば、また学校がある。
またあの四十人の前に立たなければならない。
しかも、空手部の副顧問まで務めなければならないらしい。
リンは布団を頭まで引き上げた。
『……もう、行きたくない……』
返事はなかった。
知らない部屋の時計だけが、静かに時を刻んでいた。




