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第三話「押忍! 新任教師です!」

 二〇二六年(令和八年)四月七日、火曜日。


 都内の駅、ホーム。


 凛は頭上の電光掲示板を見上げた。


 次に来る電車の行き先と時刻が表示されている。


 文字が切り替わるたび、知らない駅名や案内が現れた。


『……便利なものだな』


 手元の路線図へ目を戻す。


 駅の名前は、自分の知っているものとほとんど変わらない。ただ、見慣れない路線や駅名も増えていた。


 先ほどは、切符を投入せずに改札を通過する人々に驚かされた。


 だが、電車に乗ること自体はできそうだった。


 やがて、ホームへ電車が滑り込んできた。


 凛は乗り込もうとして、足を止めた。


 扉の両脇に並んだ人々が、降りてくる乗客を待っている。


 全員が降り終わると、今度は順番に乗り込んでいった。


 凛もその列へ加わる。


 車内に入ったところで、また一つ、奇妙な光景に気づいた。


『…………』


 向かいの座席に並んだ人々が、揃って下を向いている。


 立っている乗客も同じだった。


 ほとんどの人が、片手に薄い板のような機械を持っている。


 指を動かす者。


 画面を眺める者。


 耳に小さな機械をつけ、何かを聞いている者。


 誰も新聞を広げていない。


 文庫本を読んでいる人も、見える範囲にはいなかった。


(……皆、あれを使っているのか)


 今朝、自分が部屋で見つけたものと同じだろう。


 触れるだけで文字や絵が動く、不思議な機械。


 凛は鞄を見下ろした。


 その中には、同じものが入っている。


 しかし、使い方はまだほとんど分からない。


 試しに取り出そうとして、やめた。


 もし変なところを触って、突然大きな音でも鳴り出したら困る。


 そう考え、凛は吊り革を握った。


 電車が動き出す。


 車内放送が流れ、次の駅が案内された。


 凛は窓の外へ目を向けた。


 見覚えのある建物もあれば、まったく知らない高層ビルもある。


 街並みは確かに東京だった。


 しかし、自分の知っている東京ではなかった。


 二十六年。


 それだけの時間が過ぎれば、街も人も変わるのだろう。


 凛は吊り革を握り直した。


(……まずは学校だ)


 考えなければならないことは山ほどある。


 だが、目の前の仕事を放り出すわけにはいかない。


 今日から自分は、高校三年生の担任なのだから。


     ◇


 東京都立桜丘高校。


 正門の前に立った凛は、校舎を見上げた。


『……おお』


 大きな建物だった。


 外壁は明るい色で、校門の近くには学校名を刻んだ標識が立っている。


 凛が知っている青葉高校とは、当然ながら何もかも違っていた。


 正門をくぐる生徒たちの姿が見える。


 凛は道を譲りながら、その一人ひとりへ目を向けた。


 そして、あることに気づいた。


『……ほう』


 女子生徒たちの制服が、思った以上に落ち着いている。


 スカートは極端に短くない。


 髪色も黒や暗い茶色が多い。


 男子生徒たちも、シャツを大きくはみ出させたり、ズボンを腰まで下げたりしていなかった。


 もちろん、よく見れば違いはある。


 前髪を丁寧に巻いた生徒。


 ほんのり色づいた唇。


 きれいに整えられた眉。


 カーディガンを合わせたり、ネクタイを少し緩めたりしている生徒もいた。


 だが、凛が学生時代に見慣れていた、ルーズソックスや大きく着崩した制服の姿は見当たらない。


(……二十六年後の高校生というのは、随分と落ち着いているんだな)


 凛は感心した。


 未来には未来の流行があるらしい。


 それも、悪くない。


 校舎へ歩き出すと、横を通り過ぎた生徒から小さく挨拶された。


「おはようございます」


『おはよう!』


 凛が元気よく返すと、その生徒は少し驚いたように振り返った。


 凛は気づかず、校舎へ向かった。


     ◇


 職員室の扉を開けると、凛は一瞬、その場で立ち止まった。


 机が並んでいる。


 書類もある。


 教員らしい人々が行き交っている。


 ここまでは、見慣れた職員室と変わらない。


 しかし。


『…………』


 机の上に置かれた機械の数が違った。


 薄い画面を開いて作業する教員。


 指先で板状の機械を操作する教員。


 壁には大きな画面が設置され、学校の予定らしい文字が映し出されている。


 凛は入口から職員室を見渡した。


(……随分と機械が多いな)


「山本先生?」


 背後から声をかけられた。


 振り返ると、三十代半ばくらいの女性が立っていた。


 肩までの髪をすっきりまとめ、動きやすそうな服装をしている。


「おはようございます。早いですね」


『あっ! おはようございます!』


 凛が勢いよく頭を下げると、女性は少し驚いたようだった。


「……元気ですね」


『はい! 本日もよろしくお願いいたします!』


「……はい。こちらこそ」


 女性は凛の顔を見たあと、職員室の奥へ目を向けた。


「山本先生、今日の予定は確認できていますか?」


『……予定、ですか?』


「始業式と、三年四組のホームルームです。昨日も説明しましたけど、念のため」


『ああ! はい!』


「……大丈夫そうですね」


 女性は頷いた。


「それなら、出席確認の方もお願いしますね」


『出席確認! 承知しました!』


「昨日共有した資料、見られました?」


『……共有……』


「iPadの方です」


 女性が指さした先に、薄い板状の機械が置かれていた。


 凛はそれを見た。


 今朝、自分の部屋にあったものとよく似ている。


『……ああ、これですか』


「そうです。今日から使う名簿も入っていますから」


 女性はiPadを持ち上げ、画面を操作した。


 凛は隣から覗き込む。


「このアプリを開いて、三年四組を選択してください。欠席や遅刻があれば、ここで登録できます」


『……なるほど』


「紙の出席簿は使わないので、こちらでお願いします」


『……紙は、使わないのですか?』


「はい。出欠の記録はシステムで管理していますから」


『……そうなのですね』


 凛は画面を見つめた。


 名簿がずらりと並んでいる。


 指先で動かすと、表示が上下へ移動した。


「操作は大丈夫ですか?」


 凛は一瞬、黙った。


 分からない。


 何一つ、分からない。


 しかし、初めての担任として迎える日だ。


 ここで最初から弱音を吐くわけにはいかない。


『……気合いで何とかします!』


「…………」


 女性は凛を見た。


「……いえ、気合いの問題ではないんですけど」


『……っ!』


「分からなければ、ちゃんと聞いてくださいね」


『はい!』


 女性はiPadを机へ戻した。


「それから、ホームルームで配る資料も共有フォルダに入っています。必要なら教室のモニターに映せますので」


『……モニター……』


「はい?」


『いえ、何でもありません!』


 凛は職員室の壁にある画面へ目を向けた。


 モニターというもの自体は知っている。


 だが、あれほど薄くて大きなものが、壁に掛けられているとは思わなかった。


(……あれだけ大きいのに、随分と薄いな)


 技術の進歩というものは、想像以上らしい。


 そのとき、別の男性教員が近づいてきた。


「おはようございます、早川先生。山本先生も」


「あ、おはようございます、瀬戸先生」


 凛は男性へ向き直った。


 二十代前半くらい。


 柔らかい雰囲気の青年だった。


『おはようございます! 本日はよろしくお願いいたします!』


「……おっ」


 男性が目を瞬いた。


「何か、今日めちゃくちゃ気合い入ってません?」


『はい! 初めての担任ですので!』


「……そ、そうですね」


 男性は軽く笑った。


「僕も同じです。今日から初めて担任を持つので」


『……そうなのですか?』


「はい。僕も今年採用されたばかりの新任なんです」


 凛は男性を見た。


『では、同期ということですか!』


「そうなりますね。瀬戸湊です。改めてよろしくお願いします」


『山本リンです! こちらこそよろしくお願いいたします!』


「いや、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」


 瀬戸は笑った。


「同い年ですし、僕も山本先生と同じ立場なので」


『……同い年!』


「はい。二十二歳です」


 凛の顔が明るくなった。


『そうか! ならば遠慮はいらないな!』


「……え?」


『これからよろしく頼む、瀬戸!』


「……あ、もう呼び捨てなんですね」


『……っ!』


 凛は一瞬、動きを止めた。


『すまない! 嫌だったか!?』


「いえ、大丈夫ですよ」


 瀬戸は笑った。


「じゃあ、僕もリン先生って呼んでもいいですか?」


『もちろんだ!』


「分かりました。よろしく、リン先生」


『ああ! よろしく頼む!』


 凛は満足して頷いた。


 知らない時代に来てしまったとはいえ、同じ立場の仲間がいる。


 それだけで、少し心強かった。


「ところで、リン先生」


 瀬戸が声をかける。


「さっきから、ずっと立ってるけど……席、そこだよ」


『……あっ!』


 示された机には、山本リンという名前があった。


 凛は慌てて椅子に座った。


 早川と瀬戸が、顔を見合わせた。


     ◇


 始業式が終わり、三年生の教室へ向かう時間になった。


 凛は職員室を出た。


 手にはiPad。


 鞄には必要そうな資料を入れてある。


 廊下を進む途中、生徒たちと何度もすれ違った。


「おはようございます」


『おはよう!』


「……おはようございます」


 生徒たちは、凛の声の大きさに少し驚きながらも挨拶を返していく。


 凛はその様子に感心した。


 誰も大声で騒いでいない。


 廊下を走り回る生徒も見当たらない。


 教室の前には、制服姿の生徒たちが落ち着いて並んでいる。


(……立派だ)


 そんな中、一人の女子生徒とすれ違う。


 長い髪の毛先が、きれいに巻かれていた。


 眉も整っている。


 凛は思わず振り返った。


(……あの髪は、どうやっているんだ?)


 自分の時代にも、髪を巻く生徒はいた。


 しかし、あれほど自然に形を整えるには、かなり手間がかかるのではないだろうか。


 別の生徒の頬には、ほんのり色が乗っている。


 化粧をしているのだろう。


 ただ、当時見慣れていた濃いメイクとは違い、遠目にはほとんど分からなかった。


 凛は感心しながら歩いた。


 未来には未来の流行があるらしい。


 それも、悪くない。


 やがて、三年四組の教室が見えてきた。


 凛は扉の前で足を止めた。


 教室の中からは、話し声が聞こえている。


 三十二人。


 今日から、自分が担任を務める生徒たち。


 凛は一度、手元の資料を確かめた。


 それから、背筋を伸ばす。


(……よし)


 扉に手を掛けた。


     ◇


 教室の扉が開いた。


 生徒たちの視線が、一斉に入口へ向く。


 凛は教卓の前まで歩いた。


 そして、元気よく声を張り上げた。


『おっはー!!』


 教室が静まり返った。


『…………』


 凛は生徒たちを見渡した。


 誰も返事をしない。


 後ろの席に座っていた男子生徒が、隣の生徒へ目を向けた。


 その隣の生徒も、何も言わなかった。


 女子生徒の一人が、机の上に置いた筆箱へ視線を落とす。


 凛は少し首を傾けた。


(……聞こえなかったのか?)


 しかし、かなり大きな声を出したつもりだった。


 凛はもう一度、生徒たちへ目を向ける。


 三十二人が、こちらを見ている。


 皆、静かだった。


(……緊張しているのか)


 初対面なのだから、無理もない。


 そう考え、凛は笑顔になった。


『よし! それでは改めて自己紹介をする!』


 黒板の前に立つ。


『今日から三年四組の担任になった、やまもとりんだ! よろしく頼む!』


 凛は勢いよく頭を下げた。


『押忍!!』


 教室は静かだった。


 窓際の生徒が、わずかに身体を起こす。


 後方では、誰かが椅子を引き直した。


 凛は顔を上げた。


(……随分と礼儀正しいクラスだな)


 自分が高校生だった頃は、教室にこれだけの人数が集まれば、誰かが冗談を言ったり、隣の席と話し始めたりしていた。


 ところが、目の前の生徒たちは、誰も私語をしない。


 凛は感心した。


 そして、改めて教室を見渡した。


 落ち着いた髪色。


 極端に短くないスカート。


 きれいに整えられたシャツやネクタイ。


 男子生徒たちも、制服を大きく着崩してはいない。


『……素晴らしい!』


 突然の一言に、数人が顔を上げた。


『なんて真面目なクラスなんだ!』


 もちろん、生徒たちは何も答えなかった。


 凛は気にせず続ける。


『まず、その身だしなみがいい! 皆、きちんと制服を着ている! 素晴らしいことだ!』


 教室の後方で、男子生徒が小さく口を開いた。


「……え?」


 隣の生徒が、その顔を見る。


 しかし、会話にはならなかった。


 凛は満足して頷いた。


『うん! これなら、きっといい一年になる!』


 生徒たちは、まだ黙っていた。


     ◇


『さて! それでは出席を取ろう!』


 凛は教卓の上にiPadを置いた。


 画面に触れる。


『…………』


 何も起こらない。


 もう一度。


『…………』


 今度は画面が明るくなった。


 しかし、さっき職員室で見た名簿は表示されなかった。


 凛は指を動かした。


 見知らぬ絵が並んだ画面が現れる。


 そこから適当な場所へ触れると、今度は数字やグラフのようなものが表示された。


『…………』


 凛は画面を見つめた。


 教室は静かだった。


 生徒たちは、何も言わず待っている。


 凛はもう一度触れた。


 別の画面が現れた。


(……違うな)


 職員室では確かに、三年四組の名簿が表示されていたはずだ。


 どこを触ったのだろう。


 凛は画面の端を何度か押してみた。


 しかし、元の画面へ戻らない。


 少し離れた席から、何人かが教卓の方を見ていた。


 凛は顔を上げた。


『……すまない!』


 何人かの生徒が、わずかに姿勢を正した。


『これの使い方が、少し分からなくなってしまった!』


 教室の空気が、ほんの少し動いた。


 凛は教卓に一番近い席へ目を向けた。


 そこには、長い髪を肩の後ろへ流した女子生徒が座っていた。


 机の上には筆記用具が整然と並んでいる。


『きみ! ちょっと教えてくれないか!』


 少女は自分を指さした。


「……私、ですか?」


『ああ! きみだ!』


 少女は周囲を見た。


 誰も何も言わない。


 それから、ゆっくり立ち上がった。


「……はい」


 教卓へ近づいてくる。


 凛はiPadを差し出した。


『これで出席を取るらしいのだが、どうにも上手くいかなくてな!』


「……えっと」


 少女は画面を覗き込んだ。


「……先生、違うアプリ開いてます」


『……あぷり?』


「はい」


『……そうなのか』


「こっちを押して……」


 少女が画面を操作した。


 表示が切り替わる。


 さらに二、三回触れると、見覚えのある名簿が現れた。


「……これ、ですか?」


『おおっ!!』


 凛は思わず声を上げた。


 少女が小さく肩を動かす。


『そうだ! これだ! すごいな、きみ!』


「……いえ」


『どうやったんだ!?』


「……ここから、学校のアプリを開いて……」


 少女はもう一度、ゆっくり操作して見せた。


 凛は真剣に画面を見つめた。


 その後、少女に教わったとおりに指を動かしてみる。


 名簿が表示された。


『……できた!』


「……はい」


『ありがとう! 本当に助かった!』


 少女は小さく頷いた。


 凛は名簿へ目を向けた。


『そうだ! 名前を教えてくれ!』


「……水瀬結衣です」


『結衣か! ありがとう! 助かったぞ!』


 少女の動きが止まった。


「…………」


 教卓に近い席から、小さな声が漏れた。


「……呼び捨て……」


 隣の生徒が、ちらりと教卓を見る。


 後ろの方でも、数人が目を合わせた。


 しかし、誰も大きな声では何も言わなかった。


 結衣は少し困ったように会釈し、自分の席へ戻ろうとした。


『結衣!』


 再び呼ばれ、少女が足を止める。


「……はい?」


『本当にありがとう!』


「……いえ……」


 結衣はもう一度会釈して、席へ戻った。


 凛は名簿へ向き直った。


(……礼儀正しい子だな)


 最初に名前を覚えた生徒が、あんなに親切な子でよかった。


 凛は満足して頷いた。


『よし! それでは出席を取るぞ!』


     ◇


 名簿には、三十二人の名前が並んでいた。


 凛は一番上から読み上げていく。


『陸!』


 男子生徒が顔を上げた。


「……はい」


『元気か!』


「……はい」


『よし!』


 凛は画面を触った。


 出席の印がつく。


『紗奈!』


「はい」


 今度は、少しはっきりした返事があった。


『いい返事だ!』


 凛は頷き、次の名前を呼んだ。


『莉子!』


「……はい」


『うん!』


 再び画面を操作する。


 教室の後方で、男子生徒が小さく首を傾げた。


 隣の生徒が、目だけで応える。


 しかし、口には出さない。


 凛は次々と名前を呼んだ。


 そのたび、短い返事が返ってくる。


 最初の数人は、少し戸惑っていた。


 だが、凛が全員を下の名前で呼ぶことが分かると、生徒たちはそれ以上反応しなくなった。


 ただ、誰かが呼ばれるたびに、一瞬だけ教室の空気が止まることがあった。


 凛は、それを緊張のせいだと思っていた。


 ようやく最後の一人まで確認し終える。


『よし! 全員確認できたな!』


 凛はiPadを教卓へ置いた。


『それじゃあ、少し話をしよう!』


 生徒たちの視線が集まる。


『私は、今日からきみたちの担任になった! 体育を担当する!』


 凛は胸を張った。


『私が一番大切にしているのは、何事にも全力で取り組むことだ!』


 誰も口を挟まない。


『勉強でも、部活動でも、学校行事でもいい! 自分がやると決めたことには、最後まで本気で向き合ってほしい!』


 教室の時計が、静かに針を進めていた。


『もちろん、失敗したって構わない! 失敗することを恐れて、何もしない方がもったいないからな!』


 凛は生徒たちを見渡した。


 皆、こちらを見ている。


 真剣な表情の生徒もいる。


 少し困惑しているように見える生徒もいる。


 しかし、誰一人として騒がない。


 凛は嬉しくなった。


『……うん! いい目をしている!』


 後方の男子生徒が、わずかに視線を逸らした。


 凛は続ける。


『一年間、よろしく頼む!』


 勢いよく頭を下げた。


 教室には、まばらな拍手が起こった。


 凛は顔を上げた。


『ありがとう!』


 拍手は、すぐに収まった。


     ◇


『さて、今度はきみたちのことを教えてもらおう!』


 凛は黒板へ向かった。


『一人ずつ、名前と今年頑張りたいことを話してもらいたい!』


 教室のあちこちで、わずかな動きがあった。


 筆記用具を触っていた生徒が手を止める。


 窓際の女子生徒が、隣の席を見た。


 後方では、男子生徒が小さく息を吐いた。


 凛はその反応を見て、首を傾けた。


 誰から始めるか決めようとしたところで、前の方から小さな声が聞こえた。


「……全員ですか?」


 凛は声のした方を向いた。


『ああ! 全員だ!』


「……今、ここで?」


『そうだ!』


 少女は少し考えたあと、視線を落とした。


「……あんまり、人前で話すの得意じゃなくて……」


 凛は少女を見た。


 緊張しているらしい。


 自分も学生時代、人前で話すのが苦手な友人を何人か見てきた。


 ただ、そういう生徒にこそ、少しずつ慣れてもらいたいと思っていた。


『大丈夫だ! 上手く話そうとしなくていい!』


 凛は明るく言った。


『名前と、一言だけでも構わないぞ!』


 少女は頷かなかった。


 凛は少し考えた。


 三十二人全員に、初日から発表させる必要はないかもしれない。


 そもそも、自分もまだ生徒たちのことをよく知らない。


『……よし!』


 凛は方針を変えた。


『それなら、今日は無理に全員の前で話さなくてもいい!』


 教室の空気が、少し和らいだ。


『代わりに、紙に書いて提出してくれ! 名前と、今年頑張りたいことを一つ! 何でも構わない!』


 凛は黒板へ向かった。


 チョークを手に取る。


 そこへ、大きな文字で書いた。


 名前


 今年頑張りたいこと


『これならどうだ!』


 何人かが頷いた。


 凛は満足そうにチョークを置いた。


『よし! 決まりだ!』


 ただし、すぐに別の問題に気づいた。


 紙がない。


 配るための用紙を持ってきていなかった。


『…………』


 凛は教卓を見た。


 そこにはiPadがある。


 生徒たちの机にも、同じような機械が置かれていた。


 凛はもう一度、教室を見渡した。


『……きみたちも、それを持っているのか?』


 数人が、自分の机に置かれたiPadを見る。


「……はい」


『……全員?』


「……はい」


 凛は驚いた。


 教師だけではない。


 生徒たちまで、この小さな機械を使っているらしい。


『……すごいな……』


 思わず口にすると、生徒たちがこちらを見た。


『……いや、何でもない!』


 凛は咳払いをした。


『では、各自ノートに書いて、あとで私に提出してくれ!』


 その言葉に、何人かが鞄へ手を伸ばした。


 凛は、生徒たちが動き始めたことに安堵した。


 だが、後になって考えれば、ノートを切り取って提出させるのか、用紙を配るのか、そもそも電子提出にするのか、何も決めていなかった。


 それでも、今の凛には、これ以上の方法が思いつかなかった。


     ◇


 ホームルームが終わった。


 生徒たちは静かに荷物をまとめ、教室を出ていく。


 何人かは友人同士で小さく話していたが、凛の前で大声を出す者はいなかった。


 凛は教卓の上の資料を揃えた。


『……ふう』


 初めてのホームルーム。


 思った以上に落ち着いて進められた。


 生徒たちは礼儀正しい。


 身だしなみも整っている。


 話を始めれば、皆きちんと聞いてくれる。


 しかも、分からないことがあれば、結衣のように助けてくれる生徒もいる。


(……いいクラスだ)


 凛は教室を見渡した。


 三十二人分の机。


 窓から差し込む朝の光。


 その景色を目に焼きつける。


『……よし』


 これなら、きっといい一年になる。


 凛はiPadを抱え、教室を出た。


     ◇


 職員室へ戻る途中、瀬戸と出会った。


「あ、リン先生。ホームルーム、どうだった?」


『ああ! 素晴らしいクラスだったぞ!』


「……おお」


 瀬戸は少し驚いた顔をした。


「そんなに?」


『皆、礼儀正しくてな! 私の話も真剣に聞いてくれた!』


「……なるほど」


『制服もきちんと着ているし、静かに話を聞く姿勢もいい!』


「……そうなんだ」


 瀬戸は何か言いかけたが、やめた。


 代わりに、凛の手元を見た。


「出席確認も大丈夫だった?」


『ああ! 生徒に教えてもらった!』


「……え?」


『結衣という子だ! 実に親切だったぞ!』


「……結衣?」


『水瀬結衣だ!』


 瀬戸は凛を見た。


「……リン先生、もう下の名前で呼んでるの?」


『ん? ああ!』


「……早いね」


『そうか?』


「いや、まあ……先生のやり方だけど」


 瀬戸は軽く笑った。


「それにしても、今日は本当に元気だね」


『そうか?』


「うん。職員室でもすごかったけど、教室でもそんな感じだった?」


『もちろんだ!』


「……なるほど」


 瀬戸は頷いた。


 それから、少しだけ声を落とした。


「……生徒たち、びっくりしたんじゃない?」


 凛は考えた。


 確かに、最初は反応が薄かった。


 しかし、あれは緊張していたからだろう。


『……初対面だからな! 多少は緊張していたようだ!』


「……そうだね」


 瀬戸はそれ以上何も言わなかった。


 凛は満足して歩き出した。


 職員室の扉へ向かいながら、ふと思い出す。


『……あっ!』


「どうした?」


『そういえば、出席確認のあと、提出物をどうするか決めていなかった!』


「……提出物?」


『生徒たちに、今年頑張りたいことを書いてもらうことにしたんだ!』


「……へえ」


『紙で集めようと思ったのだが、まだ用紙を渡していなかった!』


 瀬戸は少し考えた。


「それなら、クラスの共有フォルダで提出してもらったらどう?」


『……共有ふぉるだ……』


「うん。iPadからできるよ」


『……そうなのか!?』


「……リン先生?」


 瀬戸は足を止めた。


「……もしかして、操作ちょっと苦手?」


 凛は口を開いた。


 そして、少しだけ考えた。


 今朝から、何度も困っている。


 知らない機械。


 知らない仕組み。


 知らない言葉。


 このまま分からないふりをしていても、いずれ困るのは自分だ。


『……ああ! 実は、まだ慣れていなくてな!』


「……あ、そうなんだ」


『よかったら、教えてくれないか!』


 瀬戸は頷いた。


「もちろん。職員室で一緒に確認しよう」


『助かる! ありがとう!』


 凛は頭を下げた。


 瀬戸は、少し照れくさそうに笑った。


「……そんなにお礼言われるほどのことじゃないよ」


『いや! 知らないことを教えてもらえるのは、本当にありがたい!』


 凛は顔を上げた。


『頼りにしているぞ!』


「……うん」


 瀬戸は頷いた。


 その横顔を見ながら、凛は改めて思った。


 この時代には、自分の知らないことが山ほどある。


 それでも、少しずつ覚えていけばいい。


 分からないことは、聞けばいい。


 できないことは、練習すればいい。


 空手だって、最初から何でもできたわけではないのだから。


 凛は職員室の扉を開けた。


『よし! では、早速教えてくれ!』


「うん。まずはiPadを開いて」


『押忍!!』


 瀬戸が一瞬、動きを止めた。


「……押忍?」


『……どうした?』


「……いや、何でもない」


 瀬戸は首を振った。


 凛は不思議そうに彼を見たあと、iPadへ目を落とした。


 画面には、まだ知らない絵がいくつも並んでいる。


 だが、今度は一人ではない。


『……さあ、始めよう!』


 凛は指を伸ばした。


 山元凛、二十二歳。


 二十六年後の教室で迎えた、初めての担任生活。


 その一日は、まだ始まったばかりだった。

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