第三話「押忍! 新任教師です!」
二〇二六年(令和八年)四月七日、火曜日。
都内の駅、ホーム。
凛は頭上の電光掲示板を見上げた。
次に来る電車の行き先と時刻が表示されている。
文字が切り替わるたび、知らない駅名や案内が現れた。
『……便利なものだな』
手元の路線図へ目を戻す。
駅の名前は、自分の知っているものとほとんど変わらない。ただ、見慣れない路線や駅名も増えていた。
先ほどは、切符を投入せずに改札を通過する人々に驚かされた。
だが、電車に乗ること自体はできそうだった。
やがて、ホームへ電車が滑り込んできた。
凛は乗り込もうとして、足を止めた。
扉の両脇に並んだ人々が、降りてくる乗客を待っている。
全員が降り終わると、今度は順番に乗り込んでいった。
凛もその列へ加わる。
車内に入ったところで、また一つ、奇妙な光景に気づいた。
『…………』
向かいの座席に並んだ人々が、揃って下を向いている。
立っている乗客も同じだった。
ほとんどの人が、片手に薄い板のような機械を持っている。
指を動かす者。
画面を眺める者。
耳に小さな機械をつけ、何かを聞いている者。
誰も新聞を広げていない。
文庫本を読んでいる人も、見える範囲にはいなかった。
(……皆、あれを使っているのか)
今朝、自分が部屋で見つけたものと同じだろう。
触れるだけで文字や絵が動く、不思議な機械。
凛は鞄を見下ろした。
その中には、同じものが入っている。
しかし、使い方はまだほとんど分からない。
試しに取り出そうとして、やめた。
もし変なところを触って、突然大きな音でも鳴り出したら困る。
そう考え、凛は吊り革を握った。
電車が動き出す。
車内放送が流れ、次の駅が案内された。
凛は窓の外へ目を向けた。
見覚えのある建物もあれば、まったく知らない高層ビルもある。
街並みは確かに東京だった。
しかし、自分の知っている東京ではなかった。
二十六年。
それだけの時間が過ぎれば、街も人も変わるのだろう。
凛は吊り革を握り直した。
(……まずは学校だ)
考えなければならないことは山ほどある。
だが、目の前の仕事を放り出すわけにはいかない。
今日から自分は、高校三年生の担任なのだから。
◇
東京都立桜丘高校。
正門の前に立った凛は、校舎を見上げた。
『……おお』
大きな建物だった。
外壁は明るい色で、校門の近くには学校名を刻んだ標識が立っている。
凛が知っている青葉高校とは、当然ながら何もかも違っていた。
正門をくぐる生徒たちの姿が見える。
凛は道を譲りながら、その一人ひとりへ目を向けた。
そして、あることに気づいた。
『……ほう』
女子生徒たちの制服が、思った以上に落ち着いている。
スカートは極端に短くない。
髪色も黒や暗い茶色が多い。
男子生徒たちも、シャツを大きくはみ出させたり、ズボンを腰まで下げたりしていなかった。
もちろん、よく見れば違いはある。
前髪を丁寧に巻いた生徒。
ほんのり色づいた唇。
きれいに整えられた眉。
カーディガンを合わせたり、ネクタイを少し緩めたりしている生徒もいた。
だが、凛が学生時代に見慣れていた、ルーズソックスや大きく着崩した制服の姿は見当たらない。
(……二十六年後の高校生というのは、随分と落ち着いているんだな)
凛は感心した。
未来には未来の流行があるらしい。
それも、悪くない。
校舎へ歩き出すと、横を通り過ぎた生徒から小さく挨拶された。
「おはようございます」
『おはよう!』
凛が元気よく返すと、その生徒は少し驚いたように振り返った。
凛は気づかず、校舎へ向かった。
◇
職員室の扉を開けると、凛は一瞬、その場で立ち止まった。
机が並んでいる。
書類もある。
教員らしい人々が行き交っている。
ここまでは、見慣れた職員室と変わらない。
しかし。
『…………』
机の上に置かれた機械の数が違った。
薄い画面を開いて作業する教員。
指先で板状の機械を操作する教員。
壁には大きな画面が設置され、学校の予定らしい文字が映し出されている。
凛は入口から職員室を見渡した。
(……随分と機械が多いな)
「山本先生?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、三十代半ばくらいの女性が立っていた。
肩までの髪をすっきりまとめ、動きやすそうな服装をしている。
「おはようございます。早いですね」
『あっ! おはようございます!』
凛が勢いよく頭を下げると、女性は少し驚いたようだった。
「……元気ですね」
『はい! 本日もよろしくお願いいたします!』
「……はい。こちらこそ」
女性は凛の顔を見たあと、職員室の奥へ目を向けた。
「山本先生、今日の予定は確認できていますか?」
『……予定、ですか?』
「始業式と、三年四組のホームルームです。昨日も説明しましたけど、念のため」
『ああ! はい!』
「……大丈夫そうですね」
女性は頷いた。
「それなら、出席確認の方もお願いしますね」
『出席確認! 承知しました!』
「昨日共有した資料、見られました?」
『……共有……』
「iPadの方です」
女性が指さした先に、薄い板状の機械が置かれていた。
凛はそれを見た。
今朝、自分の部屋にあったものとよく似ている。
『……ああ、これですか』
「そうです。今日から使う名簿も入っていますから」
女性はiPadを持ち上げ、画面を操作した。
凛は隣から覗き込む。
「このアプリを開いて、三年四組を選択してください。欠席や遅刻があれば、ここで登録できます」
『……なるほど』
「紙の出席簿は使わないので、こちらでお願いします」
『……紙は、使わないのですか?』
「はい。出欠の記録はシステムで管理していますから」
『……そうなのですね』
凛は画面を見つめた。
名簿がずらりと並んでいる。
指先で動かすと、表示が上下へ移動した。
「操作は大丈夫ですか?」
凛は一瞬、黙った。
分からない。
何一つ、分からない。
しかし、初めての担任として迎える日だ。
ここで最初から弱音を吐くわけにはいかない。
『……気合いで何とかします!』
「…………」
女性は凛を見た。
「……いえ、気合いの問題ではないんですけど」
『……っ!』
「分からなければ、ちゃんと聞いてくださいね」
『はい!』
女性はiPadを机へ戻した。
「それから、ホームルームで配る資料も共有フォルダに入っています。必要なら教室のモニターに映せますので」
『……モニター……』
「はい?」
『いえ、何でもありません!』
凛は職員室の壁にある画面へ目を向けた。
モニターというもの自体は知っている。
だが、あれほど薄くて大きなものが、壁に掛けられているとは思わなかった。
(……あれだけ大きいのに、随分と薄いな)
技術の進歩というものは、想像以上らしい。
そのとき、別の男性教員が近づいてきた。
「おはようございます、早川先生。山本先生も」
「あ、おはようございます、瀬戸先生」
凛は男性へ向き直った。
二十代前半くらい。
柔らかい雰囲気の青年だった。
『おはようございます! 本日はよろしくお願いいたします!』
「……おっ」
男性が目を瞬いた。
「何か、今日めちゃくちゃ気合い入ってません?」
『はい! 初めての担任ですので!』
「……そ、そうですね」
男性は軽く笑った。
「僕も同じです。今日から初めて担任を持つので」
『……そうなのですか?』
「はい。僕も今年採用されたばかりの新任なんです」
凛は男性を見た。
『では、同期ということですか!』
「そうなりますね。瀬戸湊です。改めてよろしくお願いします」
『山本リンです! こちらこそよろしくお願いいたします!』
「いや、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」
瀬戸は笑った。
「同い年ですし、僕も山本先生と同じ立場なので」
『……同い年!』
「はい。二十二歳です」
凛の顔が明るくなった。
『そうか! ならば遠慮はいらないな!』
「……え?」
『これからよろしく頼む、瀬戸!』
「……あ、もう呼び捨てなんですね」
『……っ!』
凛は一瞬、動きを止めた。
『すまない! 嫌だったか!?』
「いえ、大丈夫ですよ」
瀬戸は笑った。
「じゃあ、僕もリン先生って呼んでもいいですか?」
『もちろんだ!』
「分かりました。よろしく、リン先生」
『ああ! よろしく頼む!』
凛は満足して頷いた。
知らない時代に来てしまったとはいえ、同じ立場の仲間がいる。
それだけで、少し心強かった。
「ところで、リン先生」
瀬戸が声をかける。
「さっきから、ずっと立ってるけど……席、そこだよ」
『……あっ!』
示された机には、山本リンという名前があった。
凛は慌てて椅子に座った。
早川と瀬戸が、顔を見合わせた。
◇
始業式が終わり、三年生の教室へ向かう時間になった。
凛は職員室を出た。
手にはiPad。
鞄には必要そうな資料を入れてある。
廊下を進む途中、生徒たちと何度もすれ違った。
「おはようございます」
『おはよう!』
「……おはようございます」
生徒たちは、凛の声の大きさに少し驚きながらも挨拶を返していく。
凛はその様子に感心した。
誰も大声で騒いでいない。
廊下を走り回る生徒も見当たらない。
教室の前には、制服姿の生徒たちが落ち着いて並んでいる。
(……立派だ)
そんな中、一人の女子生徒とすれ違う。
長い髪の毛先が、きれいに巻かれていた。
眉も整っている。
凛は思わず振り返った。
(……あの髪は、どうやっているんだ?)
自分の時代にも、髪を巻く生徒はいた。
しかし、あれほど自然に形を整えるには、かなり手間がかかるのではないだろうか。
別の生徒の頬には、ほんのり色が乗っている。
化粧をしているのだろう。
ただ、当時見慣れていた濃いメイクとは違い、遠目にはほとんど分からなかった。
凛は感心しながら歩いた。
未来には未来の流行があるらしい。
それも、悪くない。
やがて、三年四組の教室が見えてきた。
凛は扉の前で足を止めた。
教室の中からは、話し声が聞こえている。
三十二人。
今日から、自分が担任を務める生徒たち。
凛は一度、手元の資料を確かめた。
それから、背筋を伸ばす。
(……よし)
扉に手を掛けた。
◇
教室の扉が開いた。
生徒たちの視線が、一斉に入口へ向く。
凛は教卓の前まで歩いた。
そして、元気よく声を張り上げた。
『おっはー!!』
教室が静まり返った。
『…………』
凛は生徒たちを見渡した。
誰も返事をしない。
後ろの席に座っていた男子生徒が、隣の生徒へ目を向けた。
その隣の生徒も、何も言わなかった。
女子生徒の一人が、机の上に置いた筆箱へ視線を落とす。
凛は少し首を傾けた。
(……聞こえなかったのか?)
しかし、かなり大きな声を出したつもりだった。
凛はもう一度、生徒たちへ目を向ける。
三十二人が、こちらを見ている。
皆、静かだった。
(……緊張しているのか)
初対面なのだから、無理もない。
そう考え、凛は笑顔になった。
『よし! それでは改めて自己紹介をする!』
黒板の前に立つ。
『今日から三年四組の担任になった、やまもとりんだ! よろしく頼む!』
凛は勢いよく頭を下げた。
『押忍!!』
教室は静かだった。
窓際の生徒が、わずかに身体を起こす。
後方では、誰かが椅子を引き直した。
凛は顔を上げた。
(……随分と礼儀正しいクラスだな)
自分が高校生だった頃は、教室にこれだけの人数が集まれば、誰かが冗談を言ったり、隣の席と話し始めたりしていた。
ところが、目の前の生徒たちは、誰も私語をしない。
凛は感心した。
そして、改めて教室を見渡した。
落ち着いた髪色。
極端に短くないスカート。
きれいに整えられたシャツやネクタイ。
男子生徒たちも、制服を大きく着崩してはいない。
『……素晴らしい!』
突然の一言に、数人が顔を上げた。
『なんて真面目なクラスなんだ!』
もちろん、生徒たちは何も答えなかった。
凛は気にせず続ける。
『まず、その身だしなみがいい! 皆、きちんと制服を着ている! 素晴らしいことだ!』
教室の後方で、男子生徒が小さく口を開いた。
「……え?」
隣の生徒が、その顔を見る。
しかし、会話にはならなかった。
凛は満足して頷いた。
『うん! これなら、きっといい一年になる!』
生徒たちは、まだ黙っていた。
◇
『さて! それでは出席を取ろう!』
凛は教卓の上にiPadを置いた。
画面に触れる。
『…………』
何も起こらない。
もう一度。
『…………』
今度は画面が明るくなった。
しかし、さっき職員室で見た名簿は表示されなかった。
凛は指を動かした。
見知らぬ絵が並んだ画面が現れる。
そこから適当な場所へ触れると、今度は数字やグラフのようなものが表示された。
『…………』
凛は画面を見つめた。
教室は静かだった。
生徒たちは、何も言わず待っている。
凛はもう一度触れた。
別の画面が現れた。
(……違うな)
職員室では確かに、三年四組の名簿が表示されていたはずだ。
どこを触ったのだろう。
凛は画面の端を何度か押してみた。
しかし、元の画面へ戻らない。
少し離れた席から、何人かが教卓の方を見ていた。
凛は顔を上げた。
『……すまない!』
何人かの生徒が、わずかに姿勢を正した。
『これの使い方が、少し分からなくなってしまった!』
教室の空気が、ほんの少し動いた。
凛は教卓に一番近い席へ目を向けた。
そこには、長い髪を肩の後ろへ流した女子生徒が座っていた。
机の上には筆記用具が整然と並んでいる。
『きみ! ちょっと教えてくれないか!』
少女は自分を指さした。
「……私、ですか?」
『ああ! きみだ!』
少女は周囲を見た。
誰も何も言わない。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「……はい」
教卓へ近づいてくる。
凛はiPadを差し出した。
『これで出席を取るらしいのだが、どうにも上手くいかなくてな!』
「……えっと」
少女は画面を覗き込んだ。
「……先生、違うアプリ開いてます」
『……あぷり?』
「はい」
『……そうなのか』
「こっちを押して……」
少女が画面を操作した。
表示が切り替わる。
さらに二、三回触れると、見覚えのある名簿が現れた。
「……これ、ですか?」
『おおっ!!』
凛は思わず声を上げた。
少女が小さく肩を動かす。
『そうだ! これだ! すごいな、きみ!』
「……いえ」
『どうやったんだ!?』
「……ここから、学校のアプリを開いて……」
少女はもう一度、ゆっくり操作して見せた。
凛は真剣に画面を見つめた。
その後、少女に教わったとおりに指を動かしてみる。
名簿が表示された。
『……できた!』
「……はい」
『ありがとう! 本当に助かった!』
少女は小さく頷いた。
凛は名簿へ目を向けた。
『そうだ! 名前を教えてくれ!』
「……水瀬結衣です」
『結衣か! ありがとう! 助かったぞ!』
少女の動きが止まった。
「…………」
教卓に近い席から、小さな声が漏れた。
「……呼び捨て……」
隣の生徒が、ちらりと教卓を見る。
後ろの方でも、数人が目を合わせた。
しかし、誰も大きな声では何も言わなかった。
結衣は少し困ったように会釈し、自分の席へ戻ろうとした。
『結衣!』
再び呼ばれ、少女が足を止める。
「……はい?」
『本当にありがとう!』
「……いえ……」
結衣はもう一度会釈して、席へ戻った。
凛は名簿へ向き直った。
(……礼儀正しい子だな)
最初に名前を覚えた生徒が、あんなに親切な子でよかった。
凛は満足して頷いた。
『よし! それでは出席を取るぞ!』
◇
名簿には、三十二人の名前が並んでいた。
凛は一番上から読み上げていく。
『陸!』
男子生徒が顔を上げた。
「……はい」
『元気か!』
「……はい」
『よし!』
凛は画面を触った。
出席の印がつく。
『紗奈!』
「はい」
今度は、少しはっきりした返事があった。
『いい返事だ!』
凛は頷き、次の名前を呼んだ。
『莉子!』
「……はい」
『うん!』
再び画面を操作する。
教室の後方で、男子生徒が小さく首を傾げた。
隣の生徒が、目だけで応える。
しかし、口には出さない。
凛は次々と名前を呼んだ。
そのたび、短い返事が返ってくる。
最初の数人は、少し戸惑っていた。
だが、凛が全員を下の名前で呼ぶことが分かると、生徒たちはそれ以上反応しなくなった。
ただ、誰かが呼ばれるたびに、一瞬だけ教室の空気が止まることがあった。
凛は、それを緊張のせいだと思っていた。
ようやく最後の一人まで確認し終える。
『よし! 全員確認できたな!』
凛はiPadを教卓へ置いた。
『それじゃあ、少し話をしよう!』
生徒たちの視線が集まる。
『私は、今日からきみたちの担任になった! 体育を担当する!』
凛は胸を張った。
『私が一番大切にしているのは、何事にも全力で取り組むことだ!』
誰も口を挟まない。
『勉強でも、部活動でも、学校行事でもいい! 自分がやると決めたことには、最後まで本気で向き合ってほしい!』
教室の時計が、静かに針を進めていた。
『もちろん、失敗したって構わない! 失敗することを恐れて、何もしない方がもったいないからな!』
凛は生徒たちを見渡した。
皆、こちらを見ている。
真剣な表情の生徒もいる。
少し困惑しているように見える生徒もいる。
しかし、誰一人として騒がない。
凛は嬉しくなった。
『……うん! いい目をしている!』
後方の男子生徒が、わずかに視線を逸らした。
凛は続ける。
『一年間、よろしく頼む!』
勢いよく頭を下げた。
教室には、まばらな拍手が起こった。
凛は顔を上げた。
『ありがとう!』
拍手は、すぐに収まった。
◇
『さて、今度はきみたちのことを教えてもらおう!』
凛は黒板へ向かった。
『一人ずつ、名前と今年頑張りたいことを話してもらいたい!』
教室のあちこちで、わずかな動きがあった。
筆記用具を触っていた生徒が手を止める。
窓際の女子生徒が、隣の席を見た。
後方では、男子生徒が小さく息を吐いた。
凛はその反応を見て、首を傾けた。
誰から始めるか決めようとしたところで、前の方から小さな声が聞こえた。
「……全員ですか?」
凛は声のした方を向いた。
『ああ! 全員だ!』
「……今、ここで?」
『そうだ!』
少女は少し考えたあと、視線を落とした。
「……あんまり、人前で話すの得意じゃなくて……」
凛は少女を見た。
緊張しているらしい。
自分も学生時代、人前で話すのが苦手な友人を何人か見てきた。
ただ、そういう生徒にこそ、少しずつ慣れてもらいたいと思っていた。
『大丈夫だ! 上手く話そうとしなくていい!』
凛は明るく言った。
『名前と、一言だけでも構わないぞ!』
少女は頷かなかった。
凛は少し考えた。
三十二人全員に、初日から発表させる必要はないかもしれない。
そもそも、自分もまだ生徒たちのことをよく知らない。
『……よし!』
凛は方針を変えた。
『それなら、今日は無理に全員の前で話さなくてもいい!』
教室の空気が、少し和らいだ。
『代わりに、紙に書いて提出してくれ! 名前と、今年頑張りたいことを一つ! 何でも構わない!』
凛は黒板へ向かった。
チョークを手に取る。
そこへ、大きな文字で書いた。
名前
今年頑張りたいこと
『これならどうだ!』
何人かが頷いた。
凛は満足そうにチョークを置いた。
『よし! 決まりだ!』
ただし、すぐに別の問題に気づいた。
紙がない。
配るための用紙を持ってきていなかった。
『…………』
凛は教卓を見た。
そこにはiPadがある。
生徒たちの机にも、同じような機械が置かれていた。
凛はもう一度、教室を見渡した。
『……きみたちも、それを持っているのか?』
数人が、自分の机に置かれたiPadを見る。
「……はい」
『……全員?』
「……はい」
凛は驚いた。
教師だけではない。
生徒たちまで、この小さな機械を使っているらしい。
『……すごいな……』
思わず口にすると、生徒たちがこちらを見た。
『……いや、何でもない!』
凛は咳払いをした。
『では、各自ノートに書いて、あとで私に提出してくれ!』
その言葉に、何人かが鞄へ手を伸ばした。
凛は、生徒たちが動き始めたことに安堵した。
だが、後になって考えれば、ノートを切り取って提出させるのか、用紙を配るのか、そもそも電子提出にするのか、何も決めていなかった。
それでも、今の凛には、これ以上の方法が思いつかなかった。
◇
ホームルームが終わった。
生徒たちは静かに荷物をまとめ、教室を出ていく。
何人かは友人同士で小さく話していたが、凛の前で大声を出す者はいなかった。
凛は教卓の上の資料を揃えた。
『……ふう』
初めてのホームルーム。
思った以上に落ち着いて進められた。
生徒たちは礼儀正しい。
身だしなみも整っている。
話を始めれば、皆きちんと聞いてくれる。
しかも、分からないことがあれば、結衣のように助けてくれる生徒もいる。
(……いいクラスだ)
凛は教室を見渡した。
三十二人分の机。
窓から差し込む朝の光。
その景色を目に焼きつける。
『……よし』
これなら、きっといい一年になる。
凛はiPadを抱え、教室を出た。
◇
職員室へ戻る途中、瀬戸と出会った。
「あ、リン先生。ホームルーム、どうだった?」
『ああ! 素晴らしいクラスだったぞ!』
「……おお」
瀬戸は少し驚いた顔をした。
「そんなに?」
『皆、礼儀正しくてな! 私の話も真剣に聞いてくれた!』
「……なるほど」
『制服もきちんと着ているし、静かに話を聞く姿勢もいい!』
「……そうなんだ」
瀬戸は何か言いかけたが、やめた。
代わりに、凛の手元を見た。
「出席確認も大丈夫だった?」
『ああ! 生徒に教えてもらった!』
「……え?」
『結衣という子だ! 実に親切だったぞ!』
「……結衣?」
『水瀬結衣だ!』
瀬戸は凛を見た。
「……リン先生、もう下の名前で呼んでるの?」
『ん? ああ!』
「……早いね」
『そうか?』
「いや、まあ……先生のやり方だけど」
瀬戸は軽く笑った。
「それにしても、今日は本当に元気だね」
『そうか?』
「うん。職員室でもすごかったけど、教室でもそんな感じだった?」
『もちろんだ!』
「……なるほど」
瀬戸は頷いた。
それから、少しだけ声を落とした。
「……生徒たち、びっくりしたんじゃない?」
凛は考えた。
確かに、最初は反応が薄かった。
しかし、あれは緊張していたからだろう。
『……初対面だからな! 多少は緊張していたようだ!』
「……そうだね」
瀬戸はそれ以上何も言わなかった。
凛は満足して歩き出した。
職員室の扉へ向かいながら、ふと思い出す。
『……あっ!』
「どうした?」
『そういえば、出席確認のあと、提出物をどうするか決めていなかった!』
「……提出物?」
『生徒たちに、今年頑張りたいことを書いてもらうことにしたんだ!』
「……へえ」
『紙で集めようと思ったのだが、まだ用紙を渡していなかった!』
瀬戸は少し考えた。
「それなら、クラスの共有フォルダで提出してもらったらどう?」
『……共有ふぉるだ……』
「うん。iPadからできるよ」
『……そうなのか!?』
「……リン先生?」
瀬戸は足を止めた。
「……もしかして、操作ちょっと苦手?」
凛は口を開いた。
そして、少しだけ考えた。
今朝から、何度も困っている。
知らない機械。
知らない仕組み。
知らない言葉。
このまま分からないふりをしていても、いずれ困るのは自分だ。
『……ああ! 実は、まだ慣れていなくてな!』
「……あ、そうなんだ」
『よかったら、教えてくれないか!』
瀬戸は頷いた。
「もちろん。職員室で一緒に確認しよう」
『助かる! ありがとう!』
凛は頭を下げた。
瀬戸は、少し照れくさそうに笑った。
「……そんなにお礼言われるほどのことじゃないよ」
『いや! 知らないことを教えてもらえるのは、本当にありがたい!』
凛は顔を上げた。
『頼りにしているぞ!』
「……うん」
瀬戸は頷いた。
その横顔を見ながら、凛は改めて思った。
この時代には、自分の知らないことが山ほどある。
それでも、少しずつ覚えていけばいい。
分からないことは、聞けばいい。
できないことは、練習すればいい。
空手だって、最初から何でもできたわけではないのだから。
凛は職員室の扉を開けた。
『よし! では、早速教えてくれ!』
「うん。まずはiPadを開いて」
『押忍!!』
瀬戸が一瞬、動きを止めた。
「……押忍?」
『……どうした?』
「……いや、何でもない」
瀬戸は首を振った。
凛は不思議そうに彼を見たあと、iPadへ目を落とした。
画面には、まだ知らない絵がいくつも並んでいる。
だが、今度は一人ではない。
『……さあ、始めよう!』
凛は指を伸ばした。
山元凛、二十二歳。
二十六年後の教室で迎えた、初めての担任生活。
その一日は、まだ始まったばかりだった。




