第二話「時代が違います!」
二〇〇〇年(平成十二年)四月七日、金曜日。
東京都内、山元家。
リンは枕元へ伸ばした手を、もう一度動かした。
右へ。
左へ。
指先に触れるのは、柔らかな布だけだった。
(……あれ?)
仕方なく目を開ける。
見上げた先にあったのは、木目の見える天井だった。
『……んん?』
リンは身体を起こした。
見覚えのない照明。
窓際に置かれた木製の机。
その隣には本棚と、小さな整理棚がある。
自分が眠っていたのは、ベッドではなく畳の上に敷かれた布団だった。
『……え?』
もう一度、天井を見る。
やっぱり知らない。
カーテンも、家具も、壁の色も。
昨日まで暮らしていた自分の部屋とは、何もかも違っていた。
(……夢?)
リンは布団を頭まで引き上げた。
目を閉じ、十秒数える。
それから、そっと顔を出した。
木目の天井が見えた。
『…………』
もう一度。
今度は二十秒。
目を開ける。
結果は同じだった。
『……へ?』
リンは頬をつねった。
痛い。
念のため、もう一度つねった。
『……いた……』
夢でも痛みを感じることがあると、どこかで聞いた気がする。
ならば、これだけで現実だと決めつけることはできない。
そう考え、畳へ手を伸ばした。
指先に細かな凹凸が伝わってくる。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえ、少し離れた道路を車が走っていた。
どれも、当たり前の朝の音だった。
リンは布団の上で膝を抱えた。
昨日は確かに、学校から帰った。
途中で小さな神社に立ち寄った。
家で夕食を食べて、明日の支度をして、スマートフォンを見ながら眠った。
そこまでは覚えている。
誰かの家に泊まった記憶なんてない。
ましてや、こんな和室に来た覚えもなかった。
『……何ここ……』
聡美に連絡しよう。
そう思って、再び枕元を探した。
スマートフォンはない。
充電器も、いつもの鞄も見当たらなかった。
(……聡美)
昨日まで普通にやり取りしていた親友の顔が浮かぶ。
せめて声だけでも聞きたい。
けれど、その方法すら分からない。
そのときだった。
「凛ー! 起きてるー?」
廊下の向こうから、女性の声が聞こえた。
リンは動きを止めた。
知らない声だった。
「凛ー? もう朝よー!」
(……りん?)
自分と同じ名前。
だが、この家に同じ名前の人が住んでいるだけかもしれない。
リンは返事をしなかった。
「凛! 聞こえてる?」
足音が近づいてくる。
どう考えても、この部屋へ向かっていた。
(……なんで?)
(なんであたしの名前、知ってるの……?)
『……え?』
思わず漏れた声に、リンは自分の口を押さえた。
今の声。
何かがおかしい。
『……あ』
もう一度。
『……あ、あ……』
知らない女性の声だった。
普段の自分より少し低く、響き方も違う。
寝起きだからだろうか。
しかし、風邪をひいたときとも、喉がかれたときとも違っていた。
『……んん?』
喉に当てた手が、目に入った。
リンは指を広げた。
見覚えのない手だった。
指の付け根には硬い豆がある。
手の甲には細かな傷。
爪の形も、手首の太さも違っていた。
『……何、これ……』
指を曲げる。
握る。
開く。
すべて自分の意思どおりに動く。
けれど、形はまったく違う。
リンは寝間着の袖をまくった。
前腕に筋肉の線が浮かんでいる。
反対側の腕も確かめる。
肩も、脚も、昨日までとは感触が違っていた。
長さの違う髪が頬に触れた。
『……うそ……』
リンは自分の身体を抱えた。
(……あたしの身体、どこいったの……?)
部屋の隅に鏡台がある。
そこへ目を向けかけて、やめた。
もし、顔まで違っていたら。
そんなこと、確かめたくない。
「凛? どうしたの?」
女性の声が、扉のすぐ向こうから聞こえた。
「入るわよ?」
『……ま、待っ……』
言い終わる前に、扉が開いた。
四十代後半くらいの女性が顔を覗かせた。
エプロン姿で、片手には畳んだタオルを持っている。
「……何してるの、そんなところで」
『…………』
「凛?」
女性が近づいてくる。
「具合でも悪いの?」
リンは反射的に身体を引いた。
「えっ、何?」
『あ、あの……』
「どうしたのよ。怖い夢でも見た?」
女性は腰を下ろし、リンの額へ手を伸ばした。
リンはその手を避けた。
「……凛?」
女性の手が宙で止まる。
リンは布団の端をつかんだ。
何か言わなければ。
この人は自分を知っているらしい。
けれど、こちらにはまったく見覚えがない。
だったら、まずは名乗ろう。
『あの……ごめんなさい。あたし、やまもとりんって言います……』
「…………」
女性は、きょとんとした。
「……知ってるわよ」
『……え?』
「誰がつけた名前だと思ってるの?」
『……へ?』
「お母さんでしょ!」
リンは口を開いたまま固まった。
(……お母さん?)
違う。
自分の母親は、この女性ではない。
「もう。朝から何なのよ。自分の名前なんか名乗って」
『いや、その……』
「寝ぼけるにしたって、限度があるわよ」
女性はもう一度、リンの顔を覗き込んだ。
「……本当に大丈夫?」
『……あなたが、あたしのお母さん……?』
「…………凛?」
タオルを持った手が止まった。
「ちょっと、どうしたの? 本当におかしいわよ」
『……あたしも、よく分からなくて……』
「頭、痛い?」
『……いえ……』
女性は今度こそ、リンの額に触れた。
「熱はなさそうね……」
しばらく考えてから立ち上がる。
「とりあえず、お水持ってくるから。少し待ってなさい」
扉を閉める前に、もう一度振り返った。
「無理に起きなくていいからね、凛」
足音が遠ざかっていった。
リンは閉じた扉を見つめた。
どうやら、あの女性は本気で自分を娘だと思っているらしい。
そして今、自分はその娘の部屋にいる。
知らない身体で。
知らない声で。
『……何なの……』
◇
リンは、ようやく布団から出た。
立ち上がると、身体の重心が違っていた。
脚には思った以上に力が入り、少し勢いをつけただけで簡単に立ち上がれてしまう。
歩き出すことに問題はない。
ただ、自分の身体を動かしているという実感が妙に薄かった。
リンは鏡台へ向かった。
正面に立っても、顔を上げられない。
両手を見る。
硬い豆。
知らない指。
自分のものではない声。
『……やだ……』
鏡の縁に触れた。
しばらくして、ようやく顔を上げる。
『…………』
見知らぬ女性が映っていた。
はっきりした目元。
健康的な顔立ち。
自分とそう変わらない年齢に見える女性。
リンは右手を上げた。
鏡の女性も上げる。
首を傾ける。
向こうも同じように傾く。
『……誰……?』
鏡の中の女性が、その言葉を口にした。
リンは後ずさった。
ふくらはぎが布団に当たり、そのまま腰を落とした。
昨日までの自分の顔を思い出す。
目の形。
髪型。
笑ったときの表情。
ちゃんと覚えているのに。
目の前には、その顔がない。
リンは自分の頬に触れた。
鏡の中の女性も同じことをした。
『……うそでしょ……』
しばらく、立ち上がれなかった。
◇
やがてリンは、机の上を調べ始めた。
何か、手がかりがあるかもしれない。
教科書。
ノート。
書類。
見覚えのないものが並んでいる。
壁にはカレンダーが掛かっていた。
何気なく見たリンは、その数字に引っかかった。
二〇〇〇年。
『……んん?』
古いカレンダーを掛けっぱなしにしているのだろうか。
そう考えて、机の上の雑誌を手に取った。
発行年にも、二〇〇〇年とある。
別の雑誌には、平成十二年の文字。
『……え?』
棚の上には、折り畳み式の携帯電話が置かれていた。
小さな画面と、ずらりと並んだボタン。
『……ガラケー……?』
昔の映像で見たことはある。
ただ、実物を操作したことはなかった。
本体を開き、画面を指でなぞる。
何も起こらない。
『……あ、そっか……』
ボタンを押すと、ようやく表示が変わった。
電話帳。
メール。
何度か間違った項目を開いたあと、受信メールの一覧が現れた。
差出人の一つには、健吾とあった。
「明日からいよいよだな。無理しすぎるなよ。応援してる」
リンは首を傾げた。
(……健吾って、誰?)
ほかにも知らない名前が並んでいた。
短い文章ばかりで、何が何だか分からない。
リンは携帯電話を閉じた。
そして、壁のカレンダーへ目を戻す。
二〇〇〇年。
昨夜は二〇二六年だったはずだ。
『……二十六年前……?』
口にした途端、頭の中が真っ白になった。
知らない女性の身体。
二十六年前の日付。
何一つ、説明がつかない。
リンは机の前に座り込んだ。
(……誰か、説明してよ……)
返事はなかった。
◇
「凛ー! お父さんもいるから、朝ごはん食べられるなら下りておいでー!」
先ほどの女性の声が聞こえた。
リンはしばらく動かなかった。
下へ行けば、また知らない人がいる。
それでも、このまま部屋にいても何も分からない。
扉を開け、慎重に階段を下りた。
居間では、新聞を広げた男性が座っていた。
五十代くらいだろうか。
姿勢がよく、眉の濃い男性だった。
リンを見るなり、新聞を少し下げる。
「やっと起きたか」
『……あ、おはようございます……』
「……何だ、その挨拶は」
『……へ?』
「朝から元気がないな」
男性は新聞を畳んだ。
「和子。凛はどうしたんだ」
「それがね、さっきから少し様子がおかしいのよ」
和子。
どうやら、それが先ほどの女性の名前らしい。
「熱はないみたいなんだけど」
「寝不足じゃないのか」
男性はリンへ視線を戻した。
「今日は大事な日なんだろう。しっかりしないといかんぞ」
『……大事な日、ですか?』
「何だ、忘れたのか」
『……あの……』
「教師になって、初めて生徒たちと顔を合わせる日じゃないか」
リンは男性の顔を見た。
(……教師?)
もう一度、その言葉を頭の中で繰り返す。
教師。
この身体の持ち主は、教師なのか。
『……あたしが、教師……?』
「おまえ、何を言ってるんだ」
男性は眉間に皺を寄せた。
「昨日まであれほど楽しみにしていただろう。三年生の担任になったって」
『……三年生……』
「そうだ。初めての担任なんだから、気を引き締めていけ」
リンはテーブルの上へ視線を落とした。
自分も、今日から高校三年生の担任として生徒と顔を合わせる予定だった。
同じ仕事。
同じ学年。
そして、同じ名前。
リンは指先を重ねた。
偶然にしては、共通点が多すぎる。
男性が時計を見た。
「そろそろ支度をしないと遅れるぞ」
『……あの……』
「何だ」
『今日、仕事を休みたいんですけど……』
男性は新聞を置いた。
「……何?」
『……その、ちょっと……今日は無理かもって……』
「何をだらしのないことを言っている!」
リンの肩が跳ねた。
「昨日まであんなに張り切っていたじゃないか! それが、初めて生徒と会う日に休みたいだと?」
「あなた、ちょっと……」
和子が口を挟んだ。
「凛、朝から様子がおかしいのよ。少し落ち着いて話してあげて」
男性はリンへ向き直った。
「具合が悪いのか」
『……いえ……』
「熱は?」
『……たぶん、ないです……』
「だったら、なぜ休みたい」
リンは答えられなかった。
知らない女性の身体で目覚めました。
二十六年前に来てしまったみたいです。
そんな説明をしたところで、この人が信じてくれるとは思えない。
『……ちょっと、怖くて……』
「怖い?」
『……はい……』
男性の眉が動いた。
「何が怖いんだ」
『……分からないんです……』
リンは膝の上で手を重ねた。
『……何も、分からなくて……』
男性はしばらく黙っていた。
そして、ため息をついた。
「……凛。おまえ、空手の稽古だって一度も休んだことがなかったじゃないか」
『……へ?』
「小さい頃から、あれだけ厳しい練習を続けてきたんだぞ。少々の熱があっても稽古へ行こうとして、母さんに止められたことだってあっただろう」
『……空手……?』
「去年は大学の全国大会で準優勝までしたんだ。そんなおまえが、今さら何を怖がっている」
リンは自分の手を見下ろした。
硬くなった皮膚。
指の付け根に残る豆。
(……これ、空手の……)
男性は言葉を続けようとしたが、和子が先に口を開いた。
「空手と教師の仕事は違うでしょう。初めての担任で不安になることだってあるわよ」
「それは分かっている」
「だったら、頭ごなしに怒らないで」
男性は口を閉じた。
そのあと、リンへ向かって言った。
「……本当に具合が悪いなら、学校へ連絡しなさい。無理をして倒れられても困る」
『……はい……』
「ただ、仕事へ行くのが怖いというだけなら、もう一度考えてみなさい」
リンは頷いた。
和子が湯飲みを差し出す。
「とりあえず、お水を飲んで。食べられそうなら朝ごはんも食べなさい」
『……ありがとうございます……』
男性は、まだ何か言いたそうだった。
しかし、それ以上は口を出さなかった。
◇
自室へ戻ったリンは、机の前に座った。
教師。
三年生の担任。
そして、空手の全国準優勝者。
少なくとも、この身体の持ち主がどんな人物なのか、少しだけ分かった。
リンは机の書類を調べ始めた。
東京都立青葉高校。
三年二組。
生徒四十名。
『……四十人……』
自分が受け持つ予定だったクラスは三十二人だ。
人数からして違っている。
資料には学校行事の日程や、教員向けの連絡事項がまとめられていた。
その一枚に目が留まる。
教科担当一覧。
リンは指で名前を追った。
そして、一つの欄で止まった。
『……体育……?』
もう一度読む。
保健体育。
『……そこまで一緒なの……?』
偶然なのだろうか。
教師であること。
三年生の担任であること。
体育を教えること。
しかも、呼ばれている名前まで同じ。
リンは書類を机へ戻した。
『……ちょっと、意味分かんない……』
何が起こったのかは分からない。
けれど、この身体の持ち主にも、自分と同じように今日を楽しみにしていた理由があるのだろう。
机には丁寧に書き込まれた授業の準備資料がある。
昨日まで、この人はこれを作っていたのかもしれない。
今、休んでしまったらどうなるのだろう。
もちろん、自分の身の安全も大切だ。
知らない学校へ行くなんて、正気とは思えない。
それでも。
(……学校なら、この人のことを知ってる人がいるかも)
何か手がかりが見つかる可能性もある。
行ってみて、どうしても無理なら休めばいい。
初めから一日全部を乗り切ると決める必要はない。
『……とりあえず、行くだけ行ってみるか……』
リンは鞄を開けた。
中には財布や手帳、筆記用具などが入っていた。
必要そうなものを選び、資料を詰める。
しかし、一つ問題が残っていた。
学校までの行き方が分からない。
地図アプリも使えない。
スマートフォンで検索することもできない。
リンはしばらく考え、再び居間へ向かった。
男性はちょうど上着を着ているところだった。
『……あの……』
「何だ」
『今日、学校まで送っていただけませんか……?』
「……学校まで?」
『……はい』
「どうしてだ。いつも自転車で行くだろう」
『……その、今日はちょっと……』
リンは言葉に詰まった。
学校までの道を知らないから。
そう答えたら、また何かを疑われるだろう。
『……朝から調子が悪くて、自転車は不安なので……』
男性はリンの顔を見た。
そして、上着の袖を通す手を止めた。
「……それなら、無理して行かなくてもいいんじゃないのか」
『……行ってみたいんです』
「……さっきは休みたいと言っていただろう」
『……少し、考え直しました』
男性はしばらくリンを見ていた。
「……分かった。車を出してやる」
『……ありがとうございます!』
「ただし、帰りはどうするつもりだ」
『……あ』
そこまで考えていなかった。
リンが黙ると、男性は小さく息を吐いた。
「帰りは学校から連絡しなさい。迎えに行けるかどうかは、そのときの仕事次第だが」
『……はい!』
和子が台所から顔を出した。
「本当に行くの?」
『……はい。とりあえず』
「無理しないのよ。具合が悪くなったら、ちゃんと先生たちに言うのよ」
『……分かりました』
その言葉に頷いてから、リンは少し不思議な気分になった。
自分も教師なのに、先生たちに頼るように言われている。
もっとも、今の自分には、それが必要なのかもしれなかった。
◇
父親の車は、住宅街を抜けて大通りへ出た。
リンは助手席から外を眺めた。
古い形の車。
見慣れない看板。
道を行く人々の服装や髪型も、どことなく違っている。
しかし、決して街全体が別世界になっているわけではなかった。
コンビニもあれば、信号機もある。
自動販売機だって並んでいる。
それなのに、細かいところが少しずつ違っていた。
(……本当に、二〇〇〇年なのかな……)
リンは道順を覚えようと、交差点や目印になる建物を確かめた。
途中で曲がる道。
大きな商店。
学校へ続く坂。
知らない場所に来たばかりなのに、明日以降の通勤まで考えなければならない。
もっとも、明日は土曜日だ。
次に学校へ来るのは月曜日になるのだろう。
その頃までに、元へ戻れている可能性だってある。
リンは窓の外へ目を戻した。
「……凛」
『……はい?』
父親が前を向いたまま声をかけてきた。
「今朝は少し言いすぎたな」
『……え?』
「初めての仕事で不安になる気持ちは分かるつもりだ。だが、おまえならできると思っている」
リンは答えられなかった。
この人が励ましているのは、自分ではない。
この身体の、本当の持ち主だ。
「どうしても困ったら、一人で抱え込むな。学校には先輩の先生だっているんだろう」
『……はい』
「それでいい」
父親はハンドルを切った。
やがて、大きな校舎が見えてきた。
東京都立青葉高校。
リンは膝の上で鞄を抱え直した。
ここにいる人たちは、自分を知らない。
けれど、自分の姿をした女性のことは知っている。
『……あの……』
「何だ」
『……送ってくれて、ありがとうございました』
「……何を今さら」
父親は少し意外そうに笑った。
「頑張ってこい、凛」
車が校門の手前で止まった。
リンはドアへ手を掛けた。
外には、登校してくる生徒たちの姿が見える。
今日、この学校で何が待っているのか。
考えるだけで足がすくみそうだった。
それでも。
『……行ってきます』
リンは車を降りた。
◇
二〇二六年(令和八年)四月七日、火曜日。
東京都内、山本家。
聞き慣れない電子音が鳴っていた。
一定の間隔で繰り返される、高い音。
凛は目を閉じたまま、枕元へ手を伸ばした。
しかし、何も触れない。
『……む?』
目を開けた。
白い天井。
見覚えのない照明。
壁紙も、家具も、窓の位置も違っている。
『……なっ!?』
凛は勢いよく身体を起こした。
しかし、その動作にも違和感があった。
いつものように腹に力が入らない。
背筋を伸ばしただけで、重心が妙に定まらなかった。
凛は布団をめくり、足を床へ下ろした。
『……何だ、これは……』
腕を見る。
細い。
昨日までの自分より、明らかに筋肉が少ない。
拳を握る。
手のひらが柔らかかった。
『……なっ!?』
豆がない。
指の付け根も、拳の表面も滑らかだった。
何年もかけて作ってきた稽古の痕が、きれいになくなっている。
凛は足を開いた。
拳を腰へ引き、重心を落とす。
慣れ親しんだ空手の構え。
だが、踏ん張った瞬間、腰が浮いた。
『……っ!!』
机に手をつく。
置かれていた小物が、かたかたと音を立てた。
凛は腕を見下ろした。
技の動きは覚えている。
身体の使い方だって忘れていない。
それなのに、いつものように動けない。
凛は膝を軽く曲げ、丹田へ力を込めようとした。
呼吸を整え、身体の中心を意識する。
稽古の前にも、緊張したときにも、何度となく繰り返してきた習慣だった。
しかし、今の身体では力の集まる位置がつかめない。
『……くっ』
凛は足を戻した。
そして、自分の声に気づいた。
『……あ』
もう一度。
『……あ、あ……』
声まで違う。
凛は部屋の中を見渡した。
鏡があった。
そこに近づき、正面に立つ。
『…………』
知らない女性が映っていた。
自分と同じくらいの年齢に見える。
だが、顔立ちも、髪型も、何もかもが違っていた。
凛は右手を上げる。
鏡の女性も右手を上げた。
首を傾ける。
同じように傾く。
『……私、なのか……?』
鏡へ近づき、顔を確かめる。
どこにも山元凛の面影はなかった。
凛は鏡から離れた。
昨夜は確かに、自分の家で眠った。
神社へ立ち寄ったことも覚えている。
家族と話し、明日の準備をして、布団へ入った。
それなのに、今は知らない女性の身体で、知らない部屋にいる。
凛は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
(……考えろ)
まだ何が起こったのかは分からない。
だが、ここで取り乱しても状況は変わらない。
まずは情報を集めなければならない。
◇
階下から食器の触れ合う音が聞こえた。
誰かがいるらしい。
凛は部屋の扉を開けた。
知らない廊下が続いている。
階段の位置も、自分の家とは違っていた。
手すりに触れながら、一段ずつ下りていく。
いつもなら何も考えずに駆け下りられる階段が、妙に歩きにくい。
最後の一段を下りると、朝食の匂いが漂ってきた。
台所では、四十代後半くらいの女性が食器を並べていた。
女性はこちらに気づくと、自然な調子で声をかけてきた。
「リン、おはよう。今日は早いじゃない」
『…………』
「……リン?」
『……お、おはようございます』
女性の手が止まった。
「……ございます?」
凛は姿勢を正した。
『はい』
「何よ、朝から。他人行儀ねえ」
『……失礼ですが……』
「ん?」
『ここは……』
「ここは?」
凛は言葉を探した。
どちらのお宅なのか。
なぜ自分がここにいるのか。
聞きたいことはいくらでもある。
しかし、相手があまりにも自然に話しかけてくるため、何から尋ねればいいのか判断できなかった。
『……いえ、何でもありません』
「……?」
女性は凛の顔を見た。
「ちゃんと眠れた?」
『……は、はい』
「昨日、準備がまだ終わってないって言ってたじゃない。あれ、片づいたの?」
『……準備、ですか?』
「学校のよ」
『……学校?』
「そうよ。今日から生徒たちと顔合わせでしょ?」
凛は女性を見た。
学校。
生徒。
その二つの言葉が、昨夜までの自分の予定と重なった。
「ねえ、リン」
『はい』
「……本当にどうしたの?」
女性は食器を置いた。
「さっきから、なんか変よ」
『……申し訳ありません』
「謝らなくていいけど……」
『少々、混乱しておりまして……』
「……混乱?」
『はい』
「……何に?」
『……それが、私にも……』
女性は言いかけた言葉を飲み込んだ。
そして、凛の顔をじっと見た。
「……あなた、誰?」
冗談めかした言い方だった。
けれど、眉がわずかに寄っている。
凛は背筋を伸ばした。
誰かと問われれば、答えは決まっている。
『やまもとりん。二十二歳の教師です』
「…………」
女性は何度か瞬きをした。
「……なんだ」
『……む?』
「ちゃんと分かってるじゃない」
女性は息を吐いた。
「もう、朝からびっくりさせないでよ。急に別人みたいな話し方するんだもの」
『……別人……』
「名前も年齢も仕事も分かってるなら、少しは安心したわ」
女性は凛の額へ手を伸ばした。
「でも、熱でもあるんじゃないの?」
『い、いえ! 熱はありません!』
「そんな大きな声出さなくても聞こえるわよ」
『し、失礼しました!』
「……ほら、やっぱり変」
女性は困ったように首を傾けた。
「とにかく座って。朝ごはん食べられる?」
凛は勧められるまま椅子に座った。
女性が茶碗を置く。
温かいご飯。
湯気の立つ味噌汁。
ごく普通の朝食だった。
「……リン、食べないの?」
『……いただきます』
「はい、どうぞ」
凛は箸を取った。
見慣れない手が、ご飯を口へ運ぶ。
味は、きちんと分かった。
そのことが、今の状況をますます理解しがたくしていた。
◇
朝食のあと、凛は再び二階へ戻った。
学校へ行かなければならないらしい。
しかし、どこの学校なのかも分からない。
凛は机の上を調べ始めた。
最初に目に入ったのは、薄い黒い板のような機械だった。
『……何だ、これは』
手に取ろうとした、その瞬間。
機械が振動した。
『……なっ!?』
凛は思わず手を離した。
画面が明るくなり、文字が浮かび上がる。
「おはよー! 今日からいよいよだね!」
凛は慎重に機械を持ち直した。
薄い。
軽い。
それなのに、画面には文字だけでなく絵まで表示されていた。
二〇〇〇年にも携帯電話はある。
だが、こんな形のものは見たことがない。
凛は画面へ指を触れた。
表示が変わる。
『……っ!?』
もう一度触れる。
別の画面が現れた。
『……なるほど……』
どうやら、指先で操作する機械らしい。
凛は何度か試したが、思った画面へ戻る方法すら分からなかった。
『……くっ。なかなか手強いな……』
ようやく先ほどの文章に戻ったところで、過去のやり取りが目に入った。
「明日からついに生徒と対面だね!」
「お互い頑張ろうね!」
その下には、別の文章。
『そっちも頑張ってねー』
『あたしはとりあえず無事に初日終わらせるwww』
凛は最後の三文字を見つめた。
『……ダブリュー……ダブリュー……ダブリュー……?』
何かの略語だろうか。
それとも、打ち間違いか。
考えても分からなかったので、いったん画面を閉じた。
机には学校関係の資料が重ねられていた。
東京都立桜丘高校。
三年四組。
担任。
凛は書類をめくる。
その中の名前欄で、指が止まった。
『…………』
山本リン。
『……なっ!?』
もう一度、読み直す。
山本リン。
やまもとりん。
自分と同じ名前だった。
しかし、漢字が違う。
自分は山元凛。
こちらは山本リン。
『……同じ名前……?』
凛は書類へ顔を近づけた。
読み間違いではない。
さらに資料を調べると、体育の担当教員であることも分かった。
三年生の担任。
体育教師。
年齢も二十二歳。
あまりにも共通点が多い。
今朝、台所での会話を思い出す。
あの女性は、自分の名前も年齢も職業も答えられたことに安心していた。
(……そういうことか)
あの女性は、自分をこの山本リンという人間だと思っている。
だから、会話が成立していたのだ。
しかし、同じ名前だからといって、身体まで変わってしまう理由にはならない。
凛は資料を置いた。
そのとき、学校の年間予定表に印刷された数字が目に入った。
二〇二六年度。
『……二〇二六……?』
別の書類には、令和八年度と書かれている。
『……令和?』
知らない元号だった。
今は平成十二年のはずだ。
凛は手元の機械を確認した。
画面にも、二〇二六年四月七日と表示されていた。
『……なっ!?』
二〇二六年。
二〇〇〇年ではない。
二〇〇一年でもない。
二十六年後。
『……二十六年後、だと……!?』
凛は椅子に座り直した。
見知らぬ身体。
知らない家。
知らない機械。
そして、二十六年後という日付。
まるで、未来へ放り出されたようだった。
そのとき、ふと一つのことが頭をよぎった。
『……待て』
凛は窓へ向かった。
カーテンを開ける。
外には家々が並び、道路を車が走っている。
空は青い。
歩道には人の姿もあった。
『……二〇一二年……』
以前、雑誌で読んだことがある。
マヤ文明の暦に関係して、二〇一二年に世界が終わるという説。
周囲の友人たちは笑っていたが、凛は密かに気にしていた。
もし今が二〇二六年なら。
『……二〇一二年に世界は滅びなかったのか……!』
凛は窓の外を見渡した。
『……よかった……』
思わず安堵した。
しかし、すぐに顔を上げる。
『……いや、よくない!!』
世界が無事だったとしても、自分の問題は何一つ解決していない。
身体は知らない女性のものになっている。
しかも、二十六年後だ。
凛は机へ戻った。
学校の予定表を開く。
始業式。
ホームルーム。
新任教員の紹介。
その文字を追ううちに、昨夜の自分の姿が頭に浮かんだ。
初めて担任を受け持つ教室。
四十人の生徒たち。
そして、今日という日への期待。
それは、この身体の持ち主も同じなのかもしれない。
凛は三年四組の名簿を見た。
三十二人。
誰一人として、知らない名前だった。
それでも、生徒たちは担任が来るのを待っているのだろう。
『……よし』
凛は資料を閉じた。
『まずは、できることからだ!』
◇
身支度を整えるだけでも、予想以上に時間がかかった。
クローゼットには、見慣れない服が並んでいる。
どれが仕事用なのか分からない。
なるべく落ち着いた服装を選び、鞄を探す。
中には用途の分からない小物がいくつも入っていた。
小さな白い箱。
薄いカード。
何に使うのか分からないケーブル。
確認するたびに時間が過ぎていく。
『……何だ、これは……』
凛は一つずつ机へ並べた。
しかし、すべてを理解している余裕はない。
必要そうな資料だけを鞄に戻した。
その途中、財布の中から一枚のカードが出てきた。
定期券らしい。
ただし、見慣れた磁気式の定期券とは違う。
小さな文字と絵が印刷されているだけだった。
『……これが定期券か……?』
凛は裏表を確かめた。
自分の知っている定期券なら、改札へ通せるはずだ。
しかし、このカードはどう使うのだろう。
学校関係の資料と定期券を鞄へ入れ、凛は一階へ下りた。
「リン、もう出るの?」
『はい!』
「……本当に大丈夫? 朝から変だったけど」
『ご心配をおかけしました!』
「だから、何でそんなにかしこまってるのよ」
『……あっ』
凛は口を閉じた。
そういえば、さっきも同じことを指摘された。
この身体の持ち主は、普段どんな話し方をしているのだろう。
今は分からない。
「忘れ物ない?」
『……恐らく、大丈夫です!』
「恐らくって……」
女性は呆れたように言った。
「まあ、いいわ。学校まで気をつけてね」
『はい! 行ってきます!』
「はい、行ってらっしゃい」
凛は玄関の扉を開けた。
◇
家を出て、しばらく歩いた。
住宅街そのものは、凛の知っている東京と大きく違わない。
しかし、少しずつ奇妙なものが目に入ってきた。
大きな画面を持った人。
耳に小さな機械をつけ、独り言のように話している人。
見慣れない形の自動車。
凛は何度も振り返りながら歩いた。
『……何なのだ、あれは……』
道の途中には、薄い板のような機械を眺めながら歩く人もいた。
先ほど部屋で見つけたものと同じだろう。
どうやら、相当普及しているらしい。
凛は鞄へ目を落とした。
自分も持っている。
けれど、使い方は分からない。
まずは学校へ行かなければならない。
凛は駅へ向かった。
駅舎は思ったより見慣れた形をしていた。
電車の案内表示も、路線図もある。
ここなら何とかなる。
そう考えて改札口へ向かったところで、凛は足を止めた。
『…………』
目の前を、次々と人が通り抜けていく。
しかし、誰も切符を改札へ投入していない。
前を歩く男性が、小さなカードを機械に触れさせた。
ピッ。
そのまま通過した。
続いて、女性が薄い機械をかざす。
ピッ。
やはり、何事もなく通過していく。
『……なっ!?』
凛は改札口を見た。
切符は。
切符はどこに入れるのだ。
改札機の上を観察する。
見慣れた投入口もある。
しかし、周囲の人々は誰もそこを使っていない。
『……どういうことだ……?』
凛は人の流れから少し離れた。
改札を通る人たちの動きを観察する。
カードをかざす。
音が鳴る。
通過する。
その繰り返しだった。
凛は鞄から定期券を取り出した。
先ほど見つけた薄いカード。
『……まさか、これか……?』
周囲を確かめる。
改札機の上には、四角い印がある。
皆、そこにカードを触れさせていた。
凛は意を決して近づいた。
恐る恐る、カードをかざす。
ピッ。
『……っ!?』
改札の扉が開いた。
『……おおっ!!』
思わず声が出た。
後ろにいた男性が、ちらりとこちらを見る。
凛は慌てて前へ進んだ。
通過したあと、振り返る。
改札は何事もなかったように次の人を迎えていた。
凛は定期券を見つめた。
『……便利なものだな……』
紙の切符を買う必要もない。
改札機へ通す必要さえない。
ただ触れるだけでいい。
まるで魔法のようだった。
しかし、周囲の人々は誰も驚いていない。
これが二〇二六年では、当たり前なのだろう。
凛は定期券を財布へ戻した。
小さなことだが、一つだけ新しい時代の仕組みを覚えた。
『……よし』
電光掲示板を見上げる。
次に来る電車の時刻が表示されていた。
凛はホームへ向かった。
見知らぬ二十六年後の東京で。
山元凛の、初めての出勤が始まろうとしていた。




