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第二話「時代が違います!」

 二〇〇〇年(平成十二年)四月七日、金曜日。


 東京都内、山元家。


 リンは枕元へ伸ばした手を、もう一度動かした。


 右へ。


 左へ。


 指先に触れるのは、柔らかな布だけだった。


(……あれ?)


 仕方なく目を開ける。


 見上げた先にあったのは、木目の見える天井だった。


『……んん?』


 リンは身体を起こした。


 見覚えのない照明。


 窓際に置かれた木製の机。


 その隣には本棚と、小さな整理棚がある。


 自分が眠っていたのは、ベッドではなく畳の上に敷かれた布団だった。


『……え?』


 もう一度、天井を見る。


 やっぱり知らない。


 カーテンも、家具も、壁の色も。


 昨日まで暮らしていた自分の部屋とは、何もかも違っていた。


(……夢?)


 リンは布団を頭まで引き上げた。


 目を閉じ、十秒数える。


 それから、そっと顔を出した。


 木目の天井が見えた。


『…………』


 もう一度。


 今度は二十秒。


 目を開ける。


 結果は同じだった。


『……へ?』


 リンは頬をつねった。


 痛い。


 念のため、もう一度つねった。


『……いた……』


 夢でも痛みを感じることがあると、どこかで聞いた気がする。


 ならば、これだけで現実だと決めつけることはできない。


 そう考え、畳へ手を伸ばした。


 指先に細かな凹凸が伝わってくる。


 窓の外から鳥の鳴き声が聞こえ、少し離れた道路を車が走っていた。


 どれも、当たり前の朝の音だった。


 リンは布団の上で膝を抱えた。


 昨日は確かに、学校から帰った。


 途中で小さな神社に立ち寄った。


 家で夕食を食べて、明日の支度をして、スマートフォンを見ながら眠った。


 そこまでは覚えている。


 誰かの家に泊まった記憶なんてない。


 ましてや、こんな和室に来た覚えもなかった。


『……何ここ……』


 聡美に連絡しよう。


 そう思って、再び枕元を探した。


 スマートフォンはない。


 充電器も、いつもの鞄も見当たらなかった。


(……聡美)


 昨日まで普通にやり取りしていた親友の顔が浮かぶ。


 せめて声だけでも聞きたい。


 けれど、その方法すら分からない。


 そのときだった。


「凛ー! 起きてるー?」


 廊下の向こうから、女性の声が聞こえた。


 リンは動きを止めた。


 知らない声だった。


「凛ー? もう朝よー!」


(……りん?)


 自分と同じ名前。


 だが、この家に同じ名前の人が住んでいるだけかもしれない。


 リンは返事をしなかった。


「凛! 聞こえてる?」


 足音が近づいてくる。


 どう考えても、この部屋へ向かっていた。


(……なんで?)


(なんであたしの名前、知ってるの……?)


『……え?』


 思わず漏れた声に、リンは自分の口を押さえた。


 今の声。


 何かがおかしい。


『……あ』


 もう一度。


『……あ、あ……』


 知らない女性の声だった。


 普段の自分より少し低く、響き方も違う。


 寝起きだからだろうか。


 しかし、風邪をひいたときとも、喉がかれたときとも違っていた。


『……んん?』


 喉に当てた手が、目に入った。


 リンは指を広げた。


 見覚えのない手だった。


 指の付け根には硬い豆がある。


 手の甲には細かな傷。


 爪の形も、手首の太さも違っていた。


『……何、これ……』


 指を曲げる。


 握る。


 開く。


 すべて自分の意思どおりに動く。


 けれど、形はまったく違う。


 リンは寝間着の袖をまくった。


 前腕に筋肉の線が浮かんでいる。


 反対側の腕も確かめる。


 肩も、脚も、昨日までとは感触が違っていた。


 長さの違う髪が頬に触れた。


『……うそ……』


 リンは自分の身体を抱えた。


(……あたしの身体、どこいったの……?)


 部屋の隅に鏡台がある。


 そこへ目を向けかけて、やめた。


 もし、顔まで違っていたら。


 そんなこと、確かめたくない。


「凛? どうしたの?」


 女性の声が、扉のすぐ向こうから聞こえた。


「入るわよ?」


『……ま、待っ……』


 言い終わる前に、扉が開いた。


 四十代後半くらいの女性が顔を覗かせた。


 エプロン姿で、片手には畳んだタオルを持っている。


「……何してるの、そんなところで」


『…………』


「凛?」


 女性が近づいてくる。


「具合でも悪いの?」


 リンは反射的に身体を引いた。


「えっ、何?」


『あ、あの……』


「どうしたのよ。怖い夢でも見た?」


 女性は腰を下ろし、リンの額へ手を伸ばした。


 リンはその手を避けた。


「……凛?」


 女性の手が宙で止まる。


 リンは布団の端をつかんだ。


 何か言わなければ。


 この人は自分を知っているらしい。


 けれど、こちらにはまったく見覚えがない。


 だったら、まずは名乗ろう。


『あの……ごめんなさい。あたし、やまもとりんって言います……』


「…………」


 女性は、きょとんとした。


「……知ってるわよ」


『……え?』


「誰がつけた名前だと思ってるの?」


『……へ?』


「お母さんでしょ!」


 リンは口を開いたまま固まった。


(……お母さん?)


 違う。


 自分の母親は、この女性ではない。


「もう。朝から何なのよ。自分の名前なんか名乗って」


『いや、その……』


「寝ぼけるにしたって、限度があるわよ」


 女性はもう一度、リンの顔を覗き込んだ。


「……本当に大丈夫?」


『……あなたが、あたしのお母さん……?』


「…………凛?」


 タオルを持った手が止まった。


「ちょっと、どうしたの? 本当におかしいわよ」


『……あたしも、よく分からなくて……』


「頭、痛い?」


『……いえ……』


 女性は今度こそ、リンの額に触れた。


「熱はなさそうね……」


 しばらく考えてから立ち上がる。


「とりあえず、お水持ってくるから。少し待ってなさい」


 扉を閉める前に、もう一度振り返った。


「無理に起きなくていいからね、凛」


 足音が遠ざかっていった。


 リンは閉じた扉を見つめた。


 どうやら、あの女性は本気で自分を娘だと思っているらしい。


 そして今、自分はその娘の部屋にいる。


 知らない身体で。


 知らない声で。


『……何なの……』


     ◇


 リンは、ようやく布団から出た。


 立ち上がると、身体の重心が違っていた。


 脚には思った以上に力が入り、少し勢いをつけただけで簡単に立ち上がれてしまう。


 歩き出すことに問題はない。


 ただ、自分の身体を動かしているという実感が妙に薄かった。


 リンは鏡台へ向かった。


 正面に立っても、顔を上げられない。


 両手を見る。


 硬い豆。


 知らない指。


 自分のものではない声。


『……やだ……』


 鏡の縁に触れた。


 しばらくして、ようやく顔を上げる。


『…………』


 見知らぬ女性が映っていた。


 はっきりした目元。


 健康的な顔立ち。


 自分とそう変わらない年齢に見える女性。


 リンは右手を上げた。


 鏡の女性も上げる。


 首を傾ける。


 向こうも同じように傾く。


『……誰……?』


 鏡の中の女性が、その言葉を口にした。


 リンは後ずさった。


 ふくらはぎが布団に当たり、そのまま腰を落とした。


 昨日までの自分の顔を思い出す。


 目の形。


 髪型。


 笑ったときの表情。


 ちゃんと覚えているのに。


 目の前には、その顔がない。


 リンは自分の頬に触れた。


 鏡の中の女性も同じことをした。


『……うそでしょ……』


 しばらく、立ち上がれなかった。


     ◇


 やがてリンは、机の上を調べ始めた。


 何か、手がかりがあるかもしれない。


 教科書。


 ノート。


 書類。


 見覚えのないものが並んでいる。


 壁にはカレンダーが掛かっていた。


 何気なく見たリンは、その数字に引っかかった。


 二〇〇〇年。


『……んん?』


 古いカレンダーを掛けっぱなしにしているのだろうか。


 そう考えて、机の上の雑誌を手に取った。


 発行年にも、二〇〇〇年とある。


 別の雑誌には、平成十二年の文字。


『……え?』


 棚の上には、折り畳み式の携帯電話が置かれていた。


 小さな画面と、ずらりと並んだボタン。


『……ガラケー……?』


 昔の映像で見たことはある。


 ただ、実物を操作したことはなかった。


 本体を開き、画面を指でなぞる。


 何も起こらない。


『……あ、そっか……』


 ボタンを押すと、ようやく表示が変わった。


 電話帳。


 メール。


 何度か間違った項目を開いたあと、受信メールの一覧が現れた。


 差出人の一つには、健吾とあった。


「明日からいよいよだな。無理しすぎるなよ。応援してる」


 リンは首を傾げた。


(……健吾って、誰?)


 ほかにも知らない名前が並んでいた。


 短い文章ばかりで、何が何だか分からない。


 リンは携帯電話を閉じた。


 そして、壁のカレンダーへ目を戻す。


 二〇〇〇年。


 昨夜は二〇二六年だったはずだ。


『……二十六年前……?』


 口にした途端、頭の中が真っ白になった。


 知らない女性の身体。


 二十六年前の日付。


 何一つ、説明がつかない。


 リンは机の前に座り込んだ。


(……誰か、説明してよ……)


 返事はなかった。


     ◇


「凛ー! お父さんもいるから、朝ごはん食べられるなら下りておいでー!」


 先ほどの女性の声が聞こえた。


 リンはしばらく動かなかった。


 下へ行けば、また知らない人がいる。


 それでも、このまま部屋にいても何も分からない。


 扉を開け、慎重に階段を下りた。


 居間では、新聞を広げた男性が座っていた。


 五十代くらいだろうか。


 姿勢がよく、眉の濃い男性だった。


 リンを見るなり、新聞を少し下げる。


「やっと起きたか」


『……あ、おはようございます……』


「……何だ、その挨拶は」


『……へ?』


「朝から元気がないな」


 男性は新聞を畳んだ。


「和子。凛はどうしたんだ」


「それがね、さっきから少し様子がおかしいのよ」


 和子。


 どうやら、それが先ほどの女性の名前らしい。


「熱はないみたいなんだけど」


「寝不足じゃないのか」


 男性はリンへ視線を戻した。


「今日は大事な日なんだろう。しっかりしないといかんぞ」


『……大事な日、ですか?』


「何だ、忘れたのか」


『……あの……』


「教師になって、初めて生徒たちと顔を合わせる日じゃないか」


 リンは男性の顔を見た。


(……教師?)


 もう一度、その言葉を頭の中で繰り返す。


 教師。


 この身体の持ち主は、教師なのか。


『……あたしが、教師……?』


「おまえ、何を言ってるんだ」


 男性は眉間に皺を寄せた。


「昨日まであれほど楽しみにしていただろう。三年生の担任になったって」


『……三年生……』


「そうだ。初めての担任なんだから、気を引き締めていけ」


 リンはテーブルの上へ視線を落とした。


 自分も、今日から高校三年生の担任として生徒と顔を合わせる予定だった。


 同じ仕事。


 同じ学年。


 そして、同じ名前。


 リンは指先を重ねた。


 偶然にしては、共通点が多すぎる。


 男性が時計を見た。


「そろそろ支度をしないと遅れるぞ」


『……あの……』


「何だ」


『今日、仕事を休みたいんですけど……』


 男性は新聞を置いた。


「……何?」


『……その、ちょっと……今日は無理かもって……』


「何をだらしのないことを言っている!」


 リンの肩が跳ねた。


「昨日まであんなに張り切っていたじゃないか! それが、初めて生徒と会う日に休みたいだと?」


「あなた、ちょっと……」


 和子が口を挟んだ。


「凛、朝から様子がおかしいのよ。少し落ち着いて話してあげて」


 男性はリンへ向き直った。


「具合が悪いのか」


『……いえ……』


「熱は?」


『……たぶん、ないです……』


「だったら、なぜ休みたい」


 リンは答えられなかった。


 知らない女性の身体で目覚めました。


 二十六年前に来てしまったみたいです。


 そんな説明をしたところで、この人が信じてくれるとは思えない。


『……ちょっと、怖くて……』


「怖い?」


『……はい……』


 男性の眉が動いた。


「何が怖いんだ」


『……分からないんです……』


 リンは膝の上で手を重ねた。


『……何も、分からなくて……』


 男性はしばらく黙っていた。


 そして、ため息をついた。


「……凛。おまえ、空手の稽古だって一度も休んだことがなかったじゃないか」


『……へ?』


「小さい頃から、あれだけ厳しい練習を続けてきたんだぞ。少々の熱があっても稽古へ行こうとして、母さんに止められたことだってあっただろう」


『……空手……?』


「去年は大学の全国大会で準優勝までしたんだ。そんなおまえが、今さら何を怖がっている」


 リンは自分の手を見下ろした。


 硬くなった皮膚。


 指の付け根に残る豆。


(……これ、空手の……)


 男性は言葉を続けようとしたが、和子が先に口を開いた。


「空手と教師の仕事は違うでしょう。初めての担任で不安になることだってあるわよ」


「それは分かっている」


「だったら、頭ごなしに怒らないで」


 男性は口を閉じた。


 そのあと、リンへ向かって言った。


「……本当に具合が悪いなら、学校へ連絡しなさい。無理をして倒れられても困る」


『……はい……』


「ただ、仕事へ行くのが怖いというだけなら、もう一度考えてみなさい」


 リンは頷いた。


 和子が湯飲みを差し出す。


「とりあえず、お水を飲んで。食べられそうなら朝ごはんも食べなさい」


『……ありがとうございます……』


 男性は、まだ何か言いたそうだった。


 しかし、それ以上は口を出さなかった。


     ◇


 自室へ戻ったリンは、机の前に座った。


 教師。


 三年生の担任。


 そして、空手の全国準優勝者。


 少なくとも、この身体の持ち主がどんな人物なのか、少しだけ分かった。


 リンは机の書類を調べ始めた。


 東京都立青葉高校。


 三年二組。


 生徒四十名。


『……四十人……』


 自分が受け持つ予定だったクラスは三十二人だ。


 人数からして違っている。


 資料には学校行事の日程や、教員向けの連絡事項がまとめられていた。


 その一枚に目が留まる。


 教科担当一覧。


 リンは指で名前を追った。


 そして、一つの欄で止まった。


『……体育……?』


 もう一度読む。


 保健体育。


『……そこまで一緒なの……?』


 偶然なのだろうか。


 教師であること。


 三年生の担任であること。


 体育を教えること。


 しかも、呼ばれている名前まで同じ。


 リンは書類を机へ戻した。


『……ちょっと、意味分かんない……』


 何が起こったのかは分からない。


 けれど、この身体の持ち主にも、自分と同じように今日を楽しみにしていた理由があるのだろう。


 机には丁寧に書き込まれた授業の準備資料がある。


 昨日まで、この人はこれを作っていたのかもしれない。


 今、休んでしまったらどうなるのだろう。


 もちろん、自分の身の安全も大切だ。


 知らない学校へ行くなんて、正気とは思えない。


 それでも。


(……学校なら、この人のことを知ってる人がいるかも)


 何か手がかりが見つかる可能性もある。


 行ってみて、どうしても無理なら休めばいい。


 初めから一日全部を乗り切ると決める必要はない。


『……とりあえず、行くだけ行ってみるか……』


 リンは鞄を開けた。


 中には財布や手帳、筆記用具などが入っていた。


 必要そうなものを選び、資料を詰める。


 しかし、一つ問題が残っていた。


 学校までの行き方が分からない。


 地図アプリも使えない。


 スマートフォンで検索することもできない。


 リンはしばらく考え、再び居間へ向かった。


 男性はちょうど上着を着ているところだった。


『……あの……』


「何だ」


『今日、学校まで送っていただけませんか……?』


「……学校まで?」


『……はい』


「どうしてだ。いつも自転車で行くだろう」


『……その、今日はちょっと……』


 リンは言葉に詰まった。


 学校までの道を知らないから。


 そう答えたら、また何かを疑われるだろう。


『……朝から調子が悪くて、自転車は不安なので……』


 男性はリンの顔を見た。


 そして、上着の袖を通す手を止めた。


「……それなら、無理して行かなくてもいいんじゃないのか」


『……行ってみたいんです』


「……さっきは休みたいと言っていただろう」


『……少し、考え直しました』


 男性はしばらくリンを見ていた。


「……分かった。車を出してやる」


『……ありがとうございます!』


「ただし、帰りはどうするつもりだ」


『……あ』


 そこまで考えていなかった。


 リンが黙ると、男性は小さく息を吐いた。


「帰りは学校から連絡しなさい。迎えに行けるかどうかは、そのときの仕事次第だが」


『……はい!』


 和子が台所から顔を出した。


「本当に行くの?」


『……はい。とりあえず』


「無理しないのよ。具合が悪くなったら、ちゃんと先生たちに言うのよ」


『……分かりました』


 その言葉に頷いてから、リンは少し不思議な気分になった。


 自分も教師なのに、先生たちに頼るように言われている。


 もっとも、今の自分には、それが必要なのかもしれなかった。


     ◇


 父親の車は、住宅街を抜けて大通りへ出た。


 リンは助手席から外を眺めた。


 古い形の車。


 見慣れない看板。


 道を行く人々の服装や髪型も、どことなく違っている。


 しかし、決して街全体が別世界になっているわけではなかった。


 コンビニもあれば、信号機もある。


 自動販売機だって並んでいる。


 それなのに、細かいところが少しずつ違っていた。


(……本当に、二〇〇〇年なのかな……)


 リンは道順を覚えようと、交差点や目印になる建物を確かめた。


 途中で曲がる道。


 大きな商店。


 学校へ続く坂。


 知らない場所に来たばかりなのに、明日以降の通勤まで考えなければならない。


 もっとも、明日は土曜日だ。


 次に学校へ来るのは月曜日になるのだろう。


 その頃までに、元へ戻れている可能性だってある。


 リンは窓の外へ目を戻した。


「……凛」


『……はい?』


 父親が前を向いたまま声をかけてきた。


「今朝は少し言いすぎたな」


『……え?』


「初めての仕事で不安になる気持ちは分かるつもりだ。だが、おまえならできると思っている」


 リンは答えられなかった。


 この人が励ましているのは、自分ではない。


 この身体の、本当の持ち主だ。


「どうしても困ったら、一人で抱え込むな。学校には先輩の先生だっているんだろう」


『……はい』


「それでいい」


 父親はハンドルを切った。


 やがて、大きな校舎が見えてきた。


 東京都立青葉高校。


 リンは膝の上で鞄を抱え直した。


 ここにいる人たちは、自分を知らない。


 けれど、自分の姿をした女性のことは知っている。


『……あの……』


「何だ」


『……送ってくれて、ありがとうございました』


「……何を今さら」


 父親は少し意外そうに笑った。


「頑張ってこい、凛」


 車が校門の手前で止まった。


 リンはドアへ手を掛けた。


 外には、登校してくる生徒たちの姿が見える。


 今日、この学校で何が待っているのか。


 考えるだけで足がすくみそうだった。


 それでも。


『……行ってきます』


 リンは車を降りた。


     ◇


 二〇二六年(令和八年)四月七日、火曜日。


 東京都内、山本家。


 聞き慣れない電子音が鳴っていた。


 一定の間隔で繰り返される、高い音。


 凛は目を閉じたまま、枕元へ手を伸ばした。


 しかし、何も触れない。


『……む?』


 目を開けた。


 白い天井。


 見覚えのない照明。


 壁紙も、家具も、窓の位置も違っている。


『……なっ!?』


 凛は勢いよく身体を起こした。


 しかし、その動作にも違和感があった。


 いつものように腹に力が入らない。


 背筋を伸ばしただけで、重心が妙に定まらなかった。


 凛は布団をめくり、足を床へ下ろした。


『……何だ、これは……』


 腕を見る。


 細い。


 昨日までの自分より、明らかに筋肉が少ない。


 拳を握る。


 手のひらが柔らかかった。


『……なっ!?』


 豆がない。


 指の付け根も、拳の表面も滑らかだった。


 何年もかけて作ってきた稽古の痕が、きれいになくなっている。


 凛は足を開いた。


 拳を腰へ引き、重心を落とす。


 慣れ親しんだ空手の構え。


 だが、踏ん張った瞬間、腰が浮いた。


『……っ!!』


 机に手をつく。


 置かれていた小物が、かたかたと音を立てた。


 凛は腕を見下ろした。


 技の動きは覚えている。


 身体の使い方だって忘れていない。


 それなのに、いつものように動けない。


 凛は膝を軽く曲げ、丹田へ力を込めようとした。


 呼吸を整え、身体の中心を意識する。


 稽古の前にも、緊張したときにも、何度となく繰り返してきた習慣だった。


 しかし、今の身体では力の集まる位置がつかめない。


『……くっ』


 凛は足を戻した。


 そして、自分の声に気づいた。


『……あ』


 もう一度。


『……あ、あ……』


 声まで違う。


 凛は部屋の中を見渡した。


 鏡があった。


 そこに近づき、正面に立つ。


『…………』


 知らない女性が映っていた。


 自分と同じくらいの年齢に見える。


 だが、顔立ちも、髪型も、何もかもが違っていた。


 凛は右手を上げる。


 鏡の女性も右手を上げた。


 首を傾ける。


 同じように傾く。


『……私、なのか……?』


 鏡へ近づき、顔を確かめる。


 どこにも山元凛の面影はなかった。


 凛は鏡から離れた。


 昨夜は確かに、自分の家で眠った。


 神社へ立ち寄ったことも覚えている。


 家族と話し、明日の準備をして、布団へ入った。


 それなのに、今は知らない女性の身体で、知らない部屋にいる。


 凛は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


(……考えろ)


 まだ何が起こったのかは分からない。


 だが、ここで取り乱しても状況は変わらない。


 まずは情報を集めなければならない。


     ◇


 階下から食器の触れ合う音が聞こえた。


 誰かがいるらしい。


 凛は部屋の扉を開けた。


 知らない廊下が続いている。


 階段の位置も、自分の家とは違っていた。


 手すりに触れながら、一段ずつ下りていく。


 いつもなら何も考えずに駆け下りられる階段が、妙に歩きにくい。


 最後の一段を下りると、朝食の匂いが漂ってきた。


 台所では、四十代後半くらいの女性が食器を並べていた。


 女性はこちらに気づくと、自然な調子で声をかけてきた。


「リン、おはよう。今日は早いじゃない」


『…………』


「……リン?」


『……お、おはようございます』


 女性の手が止まった。


「……ございます?」


 凛は姿勢を正した。


『はい』


「何よ、朝から。他人行儀ねえ」


『……失礼ですが……』


「ん?」


『ここは……』


「ここは?」


 凛は言葉を探した。


 どちらのお宅なのか。


 なぜ自分がここにいるのか。


 聞きたいことはいくらでもある。


 しかし、相手があまりにも自然に話しかけてくるため、何から尋ねればいいのか判断できなかった。


『……いえ、何でもありません』


「……?」


 女性は凛の顔を見た。


「ちゃんと眠れた?」


『……は、はい』


「昨日、準備がまだ終わってないって言ってたじゃない。あれ、片づいたの?」


『……準備、ですか?』


「学校のよ」


『……学校?』


「そうよ。今日から生徒たちと顔合わせでしょ?」


 凛は女性を見た。


 学校。


 生徒。


 その二つの言葉が、昨夜までの自分の予定と重なった。


「ねえ、リン」


『はい』


「……本当にどうしたの?」


 女性は食器を置いた。


「さっきから、なんか変よ」


『……申し訳ありません』


「謝らなくていいけど……」


『少々、混乱しておりまして……』


「……混乱?」


『はい』


「……何に?」


『……それが、私にも……』


 女性は言いかけた言葉を飲み込んだ。


 そして、凛の顔をじっと見た。


「……あなた、誰?」


 冗談めかした言い方だった。


 けれど、眉がわずかに寄っている。


 凛は背筋を伸ばした。


 誰かと問われれば、答えは決まっている。


『やまもとりん。二十二歳の教師です』


「…………」


 女性は何度か瞬きをした。


「……なんだ」


『……む?』


「ちゃんと分かってるじゃない」


 女性は息を吐いた。


「もう、朝からびっくりさせないでよ。急に別人みたいな話し方するんだもの」


『……別人……』


「名前も年齢も仕事も分かってるなら、少しは安心したわ」


 女性は凛の額へ手を伸ばした。


「でも、熱でもあるんじゃないの?」


『い、いえ! 熱はありません!』


「そんな大きな声出さなくても聞こえるわよ」


『し、失礼しました!』


「……ほら、やっぱり変」


 女性は困ったように首を傾けた。


「とにかく座って。朝ごはん食べられる?」


 凛は勧められるまま椅子に座った。


 女性が茶碗を置く。


 温かいご飯。


 湯気の立つ味噌汁。


 ごく普通の朝食だった。


「……リン、食べないの?」


『……いただきます』


「はい、どうぞ」


 凛は箸を取った。


 見慣れない手が、ご飯を口へ運ぶ。


 味は、きちんと分かった。


 そのことが、今の状況をますます理解しがたくしていた。


     ◇


 朝食のあと、凛は再び二階へ戻った。


 学校へ行かなければならないらしい。


 しかし、どこの学校なのかも分からない。


 凛は机の上を調べ始めた。


 最初に目に入ったのは、薄い黒い板のような機械だった。


『……何だ、これは』


 手に取ろうとした、その瞬間。


 機械が振動した。


『……なっ!?』


 凛は思わず手を離した。


 画面が明るくなり、文字が浮かび上がる。


「おはよー! 今日からいよいよだね!」


 凛は慎重に機械を持ち直した。


 薄い。


 軽い。


 それなのに、画面には文字だけでなく絵まで表示されていた。


 二〇〇〇年にも携帯電話はある。


 だが、こんな形のものは見たことがない。


 凛は画面へ指を触れた。


 表示が変わる。


『……っ!?』


 もう一度触れる。


 別の画面が現れた。


『……なるほど……』


 どうやら、指先で操作する機械らしい。


 凛は何度か試したが、思った画面へ戻る方法すら分からなかった。


『……くっ。なかなか手強いな……』


 ようやく先ほどの文章に戻ったところで、過去のやり取りが目に入った。


「明日からついに生徒と対面だね!」


「お互い頑張ろうね!」


 その下には、別の文章。


『そっちも頑張ってねー』


『あたしはとりあえず無事に初日終わらせるwww』


 凛は最後の三文字を見つめた。


『……ダブリュー……ダブリュー……ダブリュー……?』


 何かの略語だろうか。


 それとも、打ち間違いか。


 考えても分からなかったので、いったん画面を閉じた。


 机には学校関係の資料が重ねられていた。


 東京都立桜丘高校。


 三年四組。


 担任。


 凛は書類をめくる。


 その中の名前欄で、指が止まった。


『…………』


 山本リン。


『……なっ!?』


 もう一度、読み直す。


 山本リン。


 やまもとりん。


 自分と同じ名前だった。


 しかし、漢字が違う。


 自分は山元凛。


 こちらは山本リン。


『……同じ名前……?』


 凛は書類へ顔を近づけた。


 読み間違いではない。


 さらに資料を調べると、体育の担当教員であることも分かった。


 三年生の担任。


 体育教師。


 年齢も二十二歳。


 あまりにも共通点が多い。


 今朝、台所での会話を思い出す。


 あの女性は、自分の名前も年齢も職業も答えられたことに安心していた。


(……そういうことか)


 あの女性は、自分をこの山本リンという人間だと思っている。


 だから、会話が成立していたのだ。


 しかし、同じ名前だからといって、身体まで変わってしまう理由にはならない。


 凛は資料を置いた。


 そのとき、学校の年間予定表に印刷された数字が目に入った。


 二〇二六年度。


『……二〇二六……?』


 別の書類には、令和八年度と書かれている。


『……令和?』


 知らない元号だった。


 今は平成十二年のはずだ。


 凛は手元の機械を確認した。


 画面にも、二〇二六年四月七日と表示されていた。


『……なっ!?』


 二〇二六年。


 二〇〇〇年ではない。


 二〇〇一年でもない。


 二十六年後。


『……二十六年後、だと……!?』


 凛は椅子に座り直した。


 見知らぬ身体。


 知らない家。


 知らない機械。


 そして、二十六年後という日付。


 まるで、未来へ放り出されたようだった。


 そのとき、ふと一つのことが頭をよぎった。


『……待て』


 凛は窓へ向かった。


 カーテンを開ける。


 外には家々が並び、道路を車が走っている。


 空は青い。


 歩道には人の姿もあった。


『……二〇一二年……』


 以前、雑誌で読んだことがある。


 マヤ文明の暦に関係して、二〇一二年に世界が終わるという説。


 周囲の友人たちは笑っていたが、凛は密かに気にしていた。


 もし今が二〇二六年なら。


『……二〇一二年に世界は滅びなかったのか……!』


 凛は窓の外を見渡した。


『……よかった……』


 思わず安堵した。


 しかし、すぐに顔を上げる。


『……いや、よくない!!』


 世界が無事だったとしても、自分の問題は何一つ解決していない。


 身体は知らない女性のものになっている。


 しかも、二十六年後だ。


 凛は机へ戻った。


 学校の予定表を開く。


 始業式。


 ホームルーム。


 新任教員の紹介。


 その文字を追ううちに、昨夜の自分の姿が頭に浮かんだ。


 初めて担任を受け持つ教室。


 四十人の生徒たち。


 そして、今日という日への期待。


 それは、この身体の持ち主も同じなのかもしれない。


 凛は三年四組の名簿を見た。


 三十二人。


 誰一人として、知らない名前だった。


 それでも、生徒たちは担任が来るのを待っているのだろう。


『……よし』


 凛は資料を閉じた。


『まずは、できることからだ!』


     ◇


 身支度を整えるだけでも、予想以上に時間がかかった。


 クローゼットには、見慣れない服が並んでいる。


 どれが仕事用なのか分からない。


 なるべく落ち着いた服装を選び、鞄を探す。


 中には用途の分からない小物がいくつも入っていた。


 小さな白い箱。


 薄いカード。


 何に使うのか分からないケーブル。


 確認するたびに時間が過ぎていく。


『……何だ、これは……』


 凛は一つずつ机へ並べた。


 しかし、すべてを理解している余裕はない。


 必要そうな資料だけを鞄に戻した。


 その途中、財布の中から一枚のカードが出てきた。


 定期券らしい。


 ただし、見慣れた磁気式の定期券とは違う。


 小さな文字と絵が印刷されているだけだった。


『……これが定期券か……?』


 凛は裏表を確かめた。


 自分の知っている定期券なら、改札へ通せるはずだ。


 しかし、このカードはどう使うのだろう。


 学校関係の資料と定期券を鞄へ入れ、凛は一階へ下りた。


「リン、もう出るの?」


『はい!』


「……本当に大丈夫? 朝から変だったけど」


『ご心配をおかけしました!』


「だから、何でそんなにかしこまってるのよ」


『……あっ』


 凛は口を閉じた。


 そういえば、さっきも同じことを指摘された。


 この身体の持ち主は、普段どんな話し方をしているのだろう。


 今は分からない。


「忘れ物ない?」


『……恐らく、大丈夫です!』


「恐らくって……」


 女性は呆れたように言った。


「まあ、いいわ。学校まで気をつけてね」


『はい! 行ってきます!』


「はい、行ってらっしゃい」


 凛は玄関の扉を開けた。


     ◇


 家を出て、しばらく歩いた。


 住宅街そのものは、凛の知っている東京と大きく違わない。


 しかし、少しずつ奇妙なものが目に入ってきた。


 大きな画面を持った人。


 耳に小さな機械をつけ、独り言のように話している人。


 見慣れない形の自動車。


 凛は何度も振り返りながら歩いた。


『……何なのだ、あれは……』


 道の途中には、薄い板のような機械を眺めながら歩く人もいた。


 先ほど部屋で見つけたものと同じだろう。


 どうやら、相当普及しているらしい。


 凛は鞄へ目を落とした。


 自分も持っている。


 けれど、使い方は分からない。


 まずは学校へ行かなければならない。


 凛は駅へ向かった。


 駅舎は思ったより見慣れた形をしていた。


 電車の案内表示も、路線図もある。


 ここなら何とかなる。


 そう考えて改札口へ向かったところで、凛は足を止めた。


『…………』


 目の前を、次々と人が通り抜けていく。


 しかし、誰も切符を改札へ投入していない。


 前を歩く男性が、小さなカードを機械に触れさせた。


 ピッ。


 そのまま通過した。


 続いて、女性が薄い機械をかざす。


 ピッ。


 やはり、何事もなく通過していく。


『……なっ!?』


 凛は改札口を見た。


 切符は。


 切符はどこに入れるのだ。


 改札機の上を観察する。


 見慣れた投入口もある。


 しかし、周囲の人々は誰もそこを使っていない。


『……どういうことだ……?』


 凛は人の流れから少し離れた。


 改札を通る人たちの動きを観察する。


 カードをかざす。


 音が鳴る。


 通過する。


 その繰り返しだった。


 凛は鞄から定期券を取り出した。


 先ほど見つけた薄いカード。


『……まさか、これか……?』


 周囲を確かめる。


 改札機の上には、四角い印がある。


 皆、そこにカードを触れさせていた。


 凛は意を決して近づいた。


 恐る恐る、カードをかざす。


 ピッ。


『……っ!?』


 改札の扉が開いた。


『……おおっ!!』


 思わず声が出た。


 後ろにいた男性が、ちらりとこちらを見る。


 凛は慌てて前へ進んだ。


 通過したあと、振り返る。


 改札は何事もなかったように次の人を迎えていた。


 凛は定期券を見つめた。


『……便利なものだな……』


 紙の切符を買う必要もない。


 改札機へ通す必要さえない。


 ただ触れるだけでいい。


 まるで魔法のようだった。


 しかし、周囲の人々は誰も驚いていない。


 これが二〇二六年では、当たり前なのだろう。


 凛は定期券を財布へ戻した。


 小さなことだが、一つだけ新しい時代の仕組みを覚えた。


『……よし』


 電光掲示板を見上げる。


 次に来る電車の時刻が表示されていた。


 凛はホームへ向かった。


 見知らぬ二十六年後の東京で。


 山元凛の、初めての出勤が始まろうとしていた。

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